蜃気楼が見えたら、君と

 もやがかかったような風景の中、麻美は立っていた。
 かろうじてわかるのは、室内ということくらいだった。どこも色が混じりあって、触れようとすると崩れていってしまう。
 まるで砂で作った家の中にいるみたい。麻美はそう思った。
 声が聞こえた気がして、麻美は顔を上げる。
 数歩先の椅子に誰かが座っている。その椅子がずいぶん高いところに見えて、麻美は自分の身長がいつもの半分ほどもないことに気づいた。
 椅子に近づいて、麻美はその人の膝に顔を埋める。
「おかあさん」
 言葉が形になるように、懐かしい匂いが麻美を包み込んだ。



 麻美は頬に触れるぬくもりにまどろむ。
 綿のTシャツとその下にある硬い肌の感触が、いつの間にか馴染み深くなっている。
 見上げると、眠そうに目をまたたかせている透の顔があった。
 外はすっかり太陽が昇っている。麻美は寝過ごしてしまったと思ったが、今日は休日だということに思い当る。
 季節は夏の終わり。夕べは少し暑さが緩んで、そのありがたみを噛みしめるように二人は早々に床についたのだった。
 やがてどちらともなく起き上がって身支度を始める。
「麻美さんが布団に入って来てること、起きるまで気づかなかった」
 朝食の席で、透はまだ目を擦りながら言い出す。
 その言葉に、麻美は苦笑して謝った。
「ごめんなさい。暑かった?」
「いいよ。最近はこれが普通だから」
 二人が一緒に暮らし始めて、一つの季節が過ぎようとしていた。二人の話し方も砕けた調子になってきている。透の口数も、少し増えた気がする。
 いくつかお互いのことも知るようになっていた。麻美はしょうゆ味が好きで透は辛いものが好き、麻美は夜更かしが苦手で透は朝が弱い、そういうことが生活している内にお互いに伝わるようになった。
「透さんって、オイルの匂いがする」
 何気なくつぶやいた麻美に、透は自分の腕を持ち上げて鼻を近づけた。
「車ばかり触ってるからかな。気になる?」
「ううん。その匂い、好き」
 透は黙って、その腕をどうしようかと迷うように動かしてからテーブルの上に戻した。
 それから麻美がコーヒーを淹れてきて二人でそれを飲む。
 湯気の中に沈黙が漂う。
 数だけ数えるなら、お互い知らないことの方がたぶんずっと多い。それでも毎日は淡々と過ぎていく。
 休日の午前中は、二人で掃除をする。午後はそれぞれ自由に過ごすと決めていた。
 午後、麻美は喫茶店に行って本を読む。その日の気分で注文した飲み物を片手に、古書店で買ってきた本のページをめくる。
 透が休日の午後にどうしているのか、麻美は知らなかった。透は家にいる時もあるし、出かけている時もある。
 ただ麻美は三時を過ぎる頃には喫茶店を出て、町を散策することにしていた。そして狭い町だからか、家に帰るまでにどこかで透と合流する。
 その日も麻美は喫茶店で本を読んで、移動スーパーで買い物をした。それで帰宅する途中、公営プールの前で透とばったり出会った。
 透が肩に引っかけた袋からはバスタオルが覗いていた。短い黒髪が濡れていて、今さっきまで泳いでいたらしかった。
 自然と二人で並んで歩き始めながら、麻美は問いかける。
「透さんは水泳が好きなの?」
「うん。黙々と体を動かすことが好きなんだ。人といるのは苦手だから、一人でできるスポーツばかりしてるけど」
 駅前で道路が整備されているから、コンクリートの照り返しがきつかった。麻美は帽子を深く被り直す。
 透は大丈夫だろうかと見上げた。だがすっかり日焼けした透は、夏の終わり程度の残光はそれほど辛くないようだった。
 透は麻美の視線に気づいて問いかける。
「麻美さん、暑い?」
「そうね」
 楼ヶ町は起伏の大きな土地だ。だから家同士の距離がずいぶんと離れていて、満足な道もないことが多い。
 素直に答えた麻美に、透は言葉を続ける。
「持とうか」
 透は麻美が下げていた買い物袋を手に取ろうとする。
「……大丈夫。これくらい自分で持てなくちゃ」
 でも麻美はそう言って断った。
 透は少し考え込んだようで、ちらと麻美を見てから前に向き直った。



 家に着いたら透は洗濯物を取り込んで、麻美は夕食の支度を始めた。
 冷しゃぶとオクラのサラダ、中華スープの晩御飯を、二人向き合って食べる。
「さっぱりしてておいしい」
 透の言葉に、麻美はうなずく。
 決まりを作ったわけではないが、夕食を作ってもらった方は一言感想を告げるようになっている。
「今晩は神社で縁日があるけど、行ってみる?」
「うん」
 皿洗いをしながら透が投げかけた誘いに、麻美はうなずいた。
 七時過ぎに神社に着いた時には、縁日は始まっていた。境内を下りた坂道には屋台が並んで、その前を人が行き交う。
 水槽の中を熱帯魚が泳いでいくのを覗いているようだった。
 薄闇の中を提灯が照らし出す淡い景色は幻想的だが、人のざわめきや食べ物の香りを感じると、ここが現実だと思い出す。
 麻美と透は食事をするでもなく、屋台の出し物に参加するでもなく、ただ二人ぶらぶらと歩いていた。
 ふいに雨が降り始めて、麻美は立ちすくむ。
「こっち」
 透に呼ばれて、麻美と透は神社の大木の下に入る。そこには既に何人かが雨宿りをしていた。
「透?」
 そうしたら透と同年代ほどの青年に声をかけられて、透が顔を上げる。
 透は麻美に振り向いて、「高校の同級生」とつぶやくように教える。麻美は反射的に会釈をした。
 青年は麻美を見やって、ちょっと動揺したように言った。
「あ、彼女?」
「妻だよ。一月くらい前に結婚した」
「えっ?」
 彼は透の言葉に、身を引くようにして驚く。
「いつの間に? ていうか、そんな話全然聞いてないし」
「職場の上司にしか伝えてないから」
「おい、結婚ってそんな簡単なもんじゃないだろ。もっと周りにお披露目するとか」
 何かに気づいたように彼は声をひそめる。
「まさかとは思うけど、お前、彼女の両親にも挨拶してない?」
「ああ」
「そりゃ駄目だろ!」
 その辺りで、麻美は言葉を挟もうと決めた。
「いいんです。お互いよく話はしてます」
 少し強引に拒絶した麻美を、透はちらと見る。
 青年はまた驚いて目を見開いた。
「な、何か事情でも? あ、話したくないことなら訊かないけど」
「大丈夫です。そんな深刻なことじゃありません」
 麻美は微笑んで、けれどそれ以上話そうとはしなかった。
 線引きされたことに気づいたらしく、青年は気まずそうな顔になる。
「まあ最後は二人で決めることなんだろうけど。周りにお祝いする機会くらいは作ってくれてもいいんじゃないかなぁ」
 彼はぽつりとつぶやいて、じゃあと言って去って行く。
 雨はもう上がっていたが、二人だけはまだ木の下に立っていた。
 二人は黙って境内の下で再開された縁日の様子を見ていた。
 光があるところ、賑やかなところに人は集まる。だけど、麻美は木の下を動く気にならない。
「透さんは行ってきていいよ」
 麻美は言外に自分はここに残ると伝える。
「ここがいいんだ」
 透はそっけないほどにあっさりと答えて、また黙りこくる。
 人がいなくなっても、ずいぶん長いこと、二人はそこに立っていた。
 やがて人目を避けるように神社の裏手を回って、二人は帰って行った。



 和室に布団を二つ並べて、透と麻美は床につく。
「実は今朝、夢を見たの」
 麻美の声を聞いて、透は麻美の方に体を向ける。
「お母さんの膝に顔を埋めたの。ただそれだけ」
「いい夢だった?」
 暗闇の中にため息をつくようにして、麻美は息を細く吐き出す。
「それができたのは幼い頃だけだから。今は見られない光景を見たのは、いいことなのか悪いことなのか」
「麻美さんはどう思ったの?」
 麻美は天井を眺めながら黙ると、口元を綻ばせる。
「……嬉しかった」
 言ってから実感が迫ってきて、麻美の口から言葉が次々と溢れる。
「お母さんに持ってる感情は一つじゃない。弟が生まれてからは弟に掛かりきりで、寂しい思いをしたこともたくさんある。でも懐かしいって気持ちは、切ないけど温かい」
 透は暗闇の中で麻美を探すように目を細めて言う。
「それならきっといい夢だね」
「うん。透さんがおまじないをしてくれたおかげだね。ありがとう」
 麻美と透は手探りでお互いの手をみつけた。
 また沈黙が立ち込める中で、透は切り出す。
「最近思う。麻美さんは、独り立ちがしたかったんだなって」
 それを聞いて麻美は苦笑いを浮かべる。
「意地を張ってるって、よく言われた。可愛げがない、とも」
「いいんじゃないかな。僕はよく、面白味がないって言われたし」
 透は生真面目な口調で続ける。
「でも一人ではいたくなかった。麻美さんもそう見える」
 きっと透でない他の誰かが同じことを言ったなら、麻美は苛立っただろうと思った。
 独り立ちはしたい。でも、一人ではいたくない。
 甘えたくない。けれど寄り添いたい。
「それでいいんだよ」
 矛盾するような二つの願い事なのに、透と一緒にいるとどちらも満たされた。
 麻美は手を伸ばして、透の頭にそっと触れる。
「そうだね。……透さんも、いい夢が見られますように」
 自然と麻美も透におまじないをかけていた。
「ありがとう」
 透は目を閉じて息を漏らす。
 透が笑ったことに気づいて、麻美も安らいだ気持ちで眠りについた。
 白い壁に囲まれた部屋に麻美が足を踏み入れると、部屋の主が振り向いた。
 麻美はそのひとを見て驚く。そのひとは麻美の知っている姿ではなかった。頑なにスカートばかり穿いていた彼女の格好は地味なズボン姿に、いつもきちんと黒に染めていた髪は真っ白になっていた。
 顔はよく見えないが、息遣いで彼女が笑った気配がする。
「どちらさんだったかね?」
 そう優しく問われて、麻美は泣いているように笑い返した。
 麻美は夜勤の間にうたたねをしていたらしかった。目を覚まして慌てたが、辺りは静まり返っていてうたたねの前と変わりはなかった。
 麻美の勤めるグループホームは、平日は終日お年寄りを預かって世話をして、休日は日中だけ預かる。今のところ寝たきりのお年寄りはいないが、足が弱ったり記憶が曖昧だったりするので気は抜けない。
 麻美がこの仕事に就いたのは、お年寄りが好きだからという理由と、どこでも仕事ができるからという現実的な理由がある。
 実際に仕事を始めて、外から見たらわからなかった苦労も知ることになったが、自分はこれでいいと思えた。
 時間になったので建物内の見回りをして、麻美はまた机に戻る。
 事務仕事は、あまりはかどらなかった。窓の外に広がる畑を見やって、麻美は頬杖をつく。
 闇の中、鈴虫の音が合奏のように響いていた。



 日曜日の午後、麻美と透は高台を目指して川沿いに歩いていた。
 さやさやと清流が鳴る。歩いているのは二人だけではない。壮年の夫婦や老人会の団体が、川沿いの遊歩道を登って行く。
 木々が色づいている様を見上げていた透が、つと木立の上を指差した。
「ヒヨドリがいる」
 目じりが赤い灰色の鳥が二羽、枝の上で遊んでいる。
「よく知ってるね、透さん」
「家の庭によく来てたから」
 そんな話をしている内に、二羽の鳥たちは飛び立っていく。
 秋の木立は色使いも鮮やかで、生き物の声もにぎやかだ。良い季節柄が手伝って、普段より人通りも多い。
 麻美は何度か高台に行ったことがあるが、今日は一番の人出だった。余所の町から来ている人もいるのだろう。
 木々の合間から光が差し込む。午後の明るい陽射しは川面を照らし出して淡く輝かせていた。
 一時間ほどで高台に辿りついて、二人は山の斜面を彩る紅葉を見下ろす。
 水色の空の下、緑の下地に紅葉の赤とイチョウの黄色がよく映える。澄んだ空気を吸い込んで、麻美と透はしばらくそこに立っていた。
「麻美ちゃん。そちらは旦那さん?」
 呼ばれて振り向くと、麻美の職場の院長がいた。麻美のグループホームは病院が建てたもので、壮年の女性院長が経営している。
「はい。夫の透です。麻美がお世話になっております」
 透が会釈をすると、院長は微笑む。
「こちらこそ。麻美ちゃんはしっかりした子で助かってるの」
 院長は老人会の集まりで来ているようだった。岩を椅子代わりにして何人かが休憩をしている。
「おう、そっちは透の坊主じゃないかね」
 一人が立ち上がって、ストックをつきながら歩み寄ってくる。柔和に頬を綻ばせてからかい口調で言う。
「工場の息子から聞いてるよ。愛妻弁当を持ってくるようになったとね。いい奥さんをもらったね」
 透の表情は変わらなかったが、目をむずかゆそうに逸らす。麻美は最近気づいたが、それが透の照れた顔らしい。
 透と麻美はお茶を分けてもらって、お年寄りたちと話をしていた。登ってくる最中に見た鳥のこと、紅葉の種類、遠くに見える山のことなどを、景色を眺めながら言葉を交わす。
「麻美さんはもう蜃気楼は見たかね?」
 老人会のメンバーが帰り支度を始めた時、その内の一人が何気なく問いかけた。
「いえ、まだ」
「見たくなったら透の坊に言うといいよ。いつも真っ先にみつけてきたもんだからね」
 彼らが帰って行った後、透と麻美も山を下り始めた。
 踏みしめるのがもったいないような、まだ綺麗な落ち葉の散らばる遊歩道を歩く。
「麻美さんはお年寄り相手だとよく話すんだね」
「うん。職業柄というのもあるけど、お年寄りと話すのは好きなの。漂う空気がゆっくりだから、ずっと話していられる」
 舞い落ちた枯葉が、麻美の頬を掠める。
 ふっと心が緩んで、次の瞬間麻美は言葉を続けていた。
「でも一度、どうにもお年寄りの前で言葉が出なくなったことがある」
 麻美は長い髪に絡まった枯葉を手に取る。
「今朝そのことを夢に見たの。久しぶりに会った私のおばあちゃんが私を見て、「どちらさんかね」って訊いてきた」
 麻美がそう言うと、透の視線が気づかわしげに変わった。麻美はそれに気づいて振り向く。
「ううん。家族は悲しんだけど、私はどんな感情を返していいのかわからなかっただけ」
「どうして?」
「おばあちゃんは笑ってたの」
 木々に囲まれた遊歩道の風を受けると、胸の内から透き通っていくような気がする。
「戦争とか、育児とか、夫との死別とか、いろんな苦労をしてきた人だから。そういうことを忘れてまっさらな自分に戻っていくのは、何も悪いことじゃないような気がしたの。だから私も笑った」
 風に煽られて葉が落ちていく様は、子どもが遊んでいるようにも見えた。葉がこすれ合う音は笑い声に聞こえて、風がやむとその遊びも終わる。
「でも言葉は出なかったんだね」
 麻美は透の言葉にうなずく。
 空を仰いで、麻美は宙に言葉を浮かべる。
「そのときはわからなかったけど、夢を見てやっと気づけた。私はおばあちゃんに忘れられてしまって、寂しかったんだって」
 麻美は目線を落とす。手に乗せたままだった枯葉を、ひらりと手放す。
「寂しがりなんだ、私」
 首を横に振る麻美を、透は黙って見やる。
「行こう、透さん」
 麻美がそう告げて、二人はまた歩き始めた。



 翌週の夜勤の日、麻美はいつものように事務室で仕事をしていた。
 一人きりの事務室で、パソコンのタイプの音だけが響く。それは楼ヶ町に来てからもう数か月続けてきたことで、何の感情もなく手が動いてくれる。
 夜勤は毎週のことだから、疲れて眠くなることもある。それでも仕事だと思えば我慢もできるし、自分なりに対策もいくつか持っている。
 だけど七時が過ぎる頃になると、お腹が空くような心許なさに襲われた。
 先ほど夕食を食べたばかりで空腹のはずがない。それなのに一瞬掠めた感情は確かに空腹感に似た何かの感情だった。
 外では秋の夜長を飾るように鈴虫の合奏が響いている。透き通るような音色に耳を傾けていると、麻美の瞼は重くなってきた。
 そんな時、インターホンが鳴る。
 慌てて立ち上がって玄関に向かう。ろくに相手も確かめないまま、麻美は扉を開いた。
 宵闇の中に、見慣れた大柄な男性が立っていた。
「ごめん。寄っただけなんだ」
 どうしたのと問おうとした麻美に、透は眉を寄せて告げる。
 透は作業着姿で、仕事から直接来たようだった。けれど透が麻美の仕事中に訪ねてきたことはなく、麻美はどう言葉をかけていいのかわからない。
「用事はないんだけど、来てしまって」
 透も目を逸らしてうつむく。
 二人の間に沈黙が下りる。それはよくあることだったが、麻美は何か話さなければいけないと思った。
 けれどどう言葉にしていいのか考えつかなくて、麻美はその場に立ち竦む。
 ふいに透が身じろぎをする。麻美がその表情を仰ぎ見ると、透は苦い顔をしていた。
「寂しがりっていうなら、きっと僕もそうなんだと思う。だからかな」
 いつもより不機嫌そうなしかめ面なのに、麻美はそこに普段の透を見ていた。透のことがもっとわかりそうで、麻美は食い入るようにみつめる。
「仕事中にごめん。それだけ。じゃ」
 透は揺れる瞳でそう言って、踵を返そうとする。
「透さん」
 麻美はとっさにその腕を掴んだ。透は驚いたように目を見開く。
 麻美はぎこちなく笑ってうなずく。
「ありがとう。来てくれて」
 透のしかめ面が、氷解するように緩んだ。
 透と正面から向き合って、麻美は透の両手を取る。
「さっきまで、寂しかった。でももう大丈夫。透さんは?」
 手の先から伝わるぬくもりに、麻美は微笑む。
 透もうなずき返して、ふわりと笑った。
「……僕も大丈夫」
 それは照れくさそうな、初めて見る顔いっぱいの笑顔だった。
 それから透は帰って行って、麻美は一人に戻った。
 他に誰もいない事務室も、静けさも、鈴虫の合奏も変わりない。でも一人ではない気がして、麻美はほっと安堵した。
 朝早くに帰宅すると、透はまだ眠っていた。
 麻美は透の隣にもぐりこんで目を閉じる。
 いつも一緒にいられるわけじゃない。だけど、一日の最後は隣で眠る。
 それが宝物のような時間に思えて、麻美は眠りに落ちて行った。
 楼ヶ町に冬がやって来た。
 雪はめったに降らないが、畑に真っ白な霜が降りるようになった。枯葉は細かく散って風にまぎれて、木々は枝だけになっていく。
 朝夕と冷えるようになったから、日中の限られた時間しか町の人は外に出てこない。麻美と透も、自然と家にこもりがちになった。
 楼ヶ町には会社といえるほど大きなものはないから、年末は決算に急ぐことがなく静かなものだ。休みの前半で年越しの準備をして、後はそれぞれの家でのんびりと過ごす。
 年末休みの初日、麻美と透は駅前に出て年越しの買い物をした。掃除道具や締め飾り、おせち料理やお雑煮の材料、二人で買っても両手にいっぱいだった。
 家に帰ったら大掃除を始める。麻美はいつもより念入りに水回りの手入れをして、透はすす払いや窓ふきをして、二人で布団やカーテンを干した。
「もうここで半年以上暮らしてきたんだね」
 昼下がり、休憩の合間に二人で熱いお茶を飲む。
 透の言葉に、麻美はうなずいて言う。
「お互い病気もなく過ごしてこられてよかった」
「うん」
 掃除に汗をかいたから、お茶が体に染み渡るようだった。
 窓の外の山を見上げながら、透がぽつりとつぶやく。
「……たぶんお正月くらいに、高台で蜃気楼が見られるよ」
 麻美は瞬きも忘れて透を見上げる。
 それから目を伏せて、麻美は迷うように言った。
「そうなの。でも……もしかしたら見に行かないかも」
 透は黙って横目で麻美を見る。
「夢は見られたから、これ以上探さなくてもいいかなって思うの」
 透は考える素振りを見せたが、やがてうなずく。
「麻美さんがそう言うなら」
「うん。ありがとう」
 麻美は立ち上がってマグカップを片付けに行った。
 二人のマグカップは、いつの間にか互いの家から持ってきたものではなく、こちらに来てから麻美がフリーマーケットで買ったものになっている。
 透の淡いブルーのマグカップと、麻美の淡いピンクのカップはおそろいだ。
「こっちはそろそろ捨てようかな」
 麻美がそう言って分別回収の袋を持ってくる。その袋の中に、麻美の前のマグカップがあった。
 マグカップだけではない。服や靴、本も袋に入っている。半年間生活すれば、余分なものも出てくる。
「大丈夫?」
 けれど透の口から心配の言葉が零れ落ちた。彼は言ってから、気まずそうに目を逸らす。
 透がもう一度目を戻したとき、麻美は困ったように微笑んでいた。
「全部残しておくわけにはいかないから」
「そう、だね」
 透は掃除に戻ったが、麻美は彼が部屋の隅に置いた処分用の袋を気にしているのを感じていた。
 麻美が以前から持ってきたものを手放す時、透は心配そうな目をする。結婚した初日にダイヤモンドのペンダントを透に渡した時からそうだった。
 麻美が楼ヶ町に来る前の生活を捨てたがっていることを、きっと透は気づいている。
 透は優しい人だと思う。そんな人に、麻美自身まだ整理がついていないことを話すことはできなかった。
「今晩高校の部活仲間と食事に行ってくる。遅くなるから、夕食は一人で食べてくれる?」
 考え事をしていて、麻美は透の言葉に反応が遅れた。
 透が誰かと食事に行くのは珍しい。酒が飲めない透はこの年頃の青年にしては珍しく、飲み会といったものに参加することはめったになかった。
「うん。楽しんできて」
 麻美が振り向いて告げると、透はうなずく。
 二人の距離の取り方は、もう学んだはずだったのに……麻美は少しだけ寂しく感じた。



 闇の中で、騒々しい声が聞こえる。
 怒鳴るような激しい声もあれば、甲高い笑い声もある。
 まただ。麻美は体を小さくして布団を被った。
 朝になれば大丈夫。そう思って、早く寝付くために麻美は心の中から余計な考えを振り払う。
 でも足音が近づいてきて、麻美は布団の中で肩を跳ねさせた。
 扉が開かれる。誰かが部屋に入ってくる。
 揺さぶられて、呂律の回らない声で呼ばれる。
 鼻をついた匂いに、麻美の中の体温がすべて抜けていく気がした。
 体温をなくした空っぽの体を引きずって、麻美は部屋の外に飛び出す。
 どこもかしこも同じ匂いがする。嗅ぐたび吐き気がする、麻美にとって大嫌いな匂いが家中に満ちている。
 めまいがして、麻美は数歩よろめいた。
 どこで、どうやって夜を明かしたのかは覚えていない。
「……麻美、怒っているか」
 振り向くと、ぼやけた視界の中で父が立っていた。
「お父さん。酔って帰るのはやめて」
 麻美が掠れた声で告げると、父は困ったように返した。
「仕方ない。付き合いだから」
 麻美はうつむいて、仕方ないと口の中でつぶやいた。
 その言葉を何度となく心で反芻しているうち、麻美の意識は黒く濁っていった。



 扉が叩かれる音がして、麻美は真夜中に目を覚ました。
 時計を見ると深夜の一時で、眠りについてからまだ二時間も経っていない。
 麻美は透が帰ってきたのだろうかと玄関に急ぐ。
 扉を開け放った時、覚えのある嫌な匂いがした。
 玄関の向こうには、透と彼を支える同級生らしい男性がいた。
「すみません。透に酒飲ましちゃって」
 ぐったりして言葉もない透に肩を貸しながら、青年は苦笑交じりに言う。
「奥さん?」
 麻美は立ちすくむ。体温が失われて、足元から力が抜けていくようだった。
 透たちを中に通そうともしない麻美に、青年は苦笑を深めた。
「怒るのはわかりますけど、付き合いだからしょうがないでしょ」
 重いのか、彼は早く中に通してほしそうに促す。
 それでも麻美は動かなかった。動けないというのが正しかった。
 赤くなった透の顔、濁った目、漂うアルコールの匂い、そういうものすべてが、麻美の意識を濁らせていく。
「浮気したわけでもないし、ちょっと酒飲んだくらいでそう……」
 意識が完全に沈む前に、麻美の防衛本能が動いた。
「ちょ、奥さん!」
 透と青年を押しやるようにして、麻美は外に飛び出した。
 深夜の暗黒に温度はなく、道は氷を踏むようにいびつな音がする。一歩踏み出すたびに違う世界に入って行きそうで、それが怖くて、同時にそれでいいと思った。
 あの匂いに満ちた世界には、もう戻りたくない。
 ただその一心で、麻美は真冬の最中を駆け続けた。
 数刻の後に辿りついたのは、麻美の職場の隣にある院長の家だった。年末でどこも店は閉じていて、頼りにできるのは彼女だけだった。
 年末の夜分に突然押しかけたことを詫びる麻美に、院長は気にしないでと言って迎え入れてくれた。
「寒かったでしょう。これでも飲んで」
 一人暮らしの院長は、広々としたリビングに麻美を通してお茶を出してくれる。
「旦那さんと喧嘩でもした?」
 そっとかけられた問いかけに、麻美はうつむいて話し始めた。
 院長は相槌を打ちながら、麻美の話を聞いてくれる。
 床暖房で部屋は暖かく、お茶が麻美の内側から熱を取り戻してくれる。
「透さんが酔って帰ってきただけで、その場にいられなくなって」
 冷静に考えればそれだけのことだったと、麻美は院長の前で恥ずかしくなる。
 院長は頬に手を当てて思案すると、ううん、と口を開く。
「許せないことはあるわ。良い悪いじゃないの」
 麻美は顔を上げる。院長は穏やかな眼差しで麻美をみつめていた。
「妥協するかしないかはあなたたちで決めることよ。誰にも、仕方ないだなんて言えないの」
 麻美の頭をぽんぽんと叩いて、院長は微笑む。
「今日は泊まっていっていいけど。明日になったら、透さんの話を聞いてあげなさいね」
 麻美はうなずいて、その日は院長の家に泊まった。
 夜の間に、院長に透から電話があったらしい。麻美は朝食の席でそれを聞いた。
 翌日の昼前、透が院長宅を訪れた。
 酔いは抜けているようだったが、気分が悪そうで顔に血の気がなかった。まだ時折ふらついていて、麻美は慌てて駆け寄る。
「透さん。家で休んでて」
「まず謝らせてほしいんだ」
「家で聞くから」
「ごめん」
 謝罪を繰り返す透に、麻美は言う。
「一緒に帰りましょう」
 そう告げた麻美に、透は安堵したように肩から力を抜いた。
 帰宅の道中、透は苦々しい口調で話してくれた。
「高校の部活は唯一、人と一緒にスポーツをした時だったから。ついその仲間と久しぶりに会って嬉しくて、勧められるままに飲んでしまった」
 透は帰るなり倒れるように横になった。まだ何も食べていなかったらしく、麻美がおかゆを作って枕元に持っていく。
「本当にごめん。麻美さんは酔っぱらいが大嫌いなのはわかってたのに」
 麻美が貼った冷却シートを押さえて、透は顔を苦しそうに歪める。
 麻美ははっと息を呑んで問いかける。
「どうしてわかったの?」
「お見合いの時に僕がお酒を飲まないって聞いて、すごくほっとした顔をしてた」
 麻美は思わず苦笑いをする。そんなにわかりやすい反応をしていたなんて、初めて知った。
「私こそごめんなさい。酔って苦しかった透さんを残して飛び出すなんて」
「ん……うん。あれは確かに効いたな」
 透は自分の頭を押さえて髪をくしゃくしゃと混ぜると、言葉を重ねる。
「だからもう二度としないって約束する」
 透はおかゆのお椀をテーブルに置いて言う。
「……許してほしい」
 深く頭を下げた透に、麻美は黙った。
 空になったマグカップに水を入れて持ってくると、麻美はそれを透に差し出す。
「透さんが謝るほど、そんな深刻なことじゃないの」
 透はマグカップを受け取って、水を喉に通す音が聞こえた。
「私、お父さんがよく酔って帰ってくる人で」
 透は黙って言葉の先を待つ。それに促されて、麻美は続けた。
「何度頼んでもそれを直してくれないから、私の言葉は永遠に届かないような気がして、人と暮らすのが嫌になった。……それが家を出たきっかけ」
 麻美はうつむいて自嘲気味に言う。
「人は自分の望むようにしてくれるわけじゃないから、仕方ないのにね」
「でも麻美さんは許せなかった」
 顔を上げると、透はまっすぐな目で麻美を見ていた。
「そうなったら一緒には暮らせないよ。当たり前のことだ」
 透はまた頭を下げる。
「僕は麻美さんと暮らしていきたい。だから謝るし、直す」
 麻美は泣き笑いのような顔で、透の肩に頬を寄せた。
 まだお酒の匂いがした。でも麻美は、もうそれを感じても視界が暗くなるような絶望感を抱かずに済んだ。
 透の食事を手伝って、一日看病に付き合った。
 麻美は母のことを思い出していた。酔って帰る父を、母だって不愉快そうに見ていた。それでも父を許して看病したのは、母は自分より父と一緒にいたい気持ちが強かったからなのだろう。
 愛情というのは、どこまで相手のことを許せるかなのかもしれない。
 夕方には透の具合もだいぶよくなった。麻美たちは一緒におせち料理の準備を始める。
 こんぶ巻を作りながら、透は話を始める。
「家を出たきっかけがお父さんのことだっていうのはわかった。でも麻美さんが実家に帰りたがらないのは、他に理由があると思う」
 麻美は向かいの席で栗を剥きながら苦笑した。
「そうだね。もう話さなきゃ……」
 麻美が答えようとしたとき、ふいにインターホンが鳴る。
 麻美は慌てて立ち上がって言った。
「座ってて。たぶんお向かいの足立さん。煮豆をくれるって言ってくださったから」
 反射的に立ち上がろうとした透を制して、麻美は玄関に向かう。
 扉を開いた途端に差し込む逆光がまぶしすぎて、麻美は目を閉じてしまった。
「……麻美」
 その声を聞いて、麻美は真夏の日差しの中に引きずり出されたような気分がした。
 目を開けばカッターシャツ姿の、背の高い男性が立っていた。黒い目が射抜くように麻美を見ている。
 硬直した麻美の前で、涼やかな面立ちがくしゃりと歪む。
 次の瞬間、麻美は彼の腕の中にいた。
「帰るぞ」
 泣く直前のような声で言われて、麻美は立ちすくんだ。
 懐かしさと愛情に挟まれた時間が、麻美の中に戻って来ていた。
 透はしばらく居間で待っていたが、玄関で押し問答している麻美が気になって腰を上げた。
 冷気を遮断する引き戸を開けると、見知らぬ男と麻美が向き合っていた。近所にはいない顔だと透が訝しみながら見やると、その男は透を一瞥する。
 目が合った瞬間、男は凍てつくような眼差しを透に向けた。
「こんにちは」
 次の瞬間にはにっこりと笑って、気さくに挨拶をしてくる。
「日高宗太です。あなたが片桐透さん?」
 男の年は透と同じくらいで、モデルのような長身痩躯をしていた。涼やかな目鼻立ちを優しげな微笑みで彩って軽く首を傾げる様は、なかなか絵になる。
 ただ目だけは全く笑っていない。それに気づいて、透は警戒心を抱いた。
「ええ。日高ということは、麻美さんの親戚の方ですか」
「夫です」
 つと透が眉をひそめると、麻美が振り向いて言う。
「その冗談はやめてって言ってる、兄さん」
「ああ、ごめんごめん」
 彼は悪びれずにくすくすと笑って、笑みを収めて透を見る。
「でも彼がお前の夫だというのも、全然笑えない冗談だよ」
「それは冗談じゃないの。籍もちゃんと入ってる」
「麻美」
 彼の声は優しい呼びかけだったのに、麻美はびくりと肩を震わせる。
「兄さんが嫌いになった?」
「そういう意味じゃ、ないの」
 宗太は後ずさった麻美の腕に手を伸ばす。
「じゃあ言うことを聞きなさい。帰るんだ」
「……待ってください」
 宗太の手を押しやって、透は麻美の前に出た。
「嫌いじゃないなら言うことを聞けというのは、ちょっと乱暴ではないですか」
 割り込んだ透を見やって、宗太は冷えた声を出す。
「あなたはこの子のことをよく知らないでしょう。麻美は昔から、時々現実逃避をする。そういう時は引き戻してやらないといけないんです」
「昔はそうだったかもしれませんが、今の麻美さんは大人です」
 透は部屋の中を示して告げる。
「どうぞお入りになって、座って話してください」
 透の言葉に、麻美が切羽詰まった声で遮った。
「だめ。兄さん、今すぐ帰って」
「麻美さん?」
 気遣わしげに呼んだ透にも気づかず、麻美は早口で言葉を吐き出す。
「兄さんは嫌い。家族にも二度と会いたくない。ほっといて」
 透はそこに頑なな麻美の感情をみつけて口をつぐむ。
 透が宗太を振り向くと、宗太は青ざめて立っていた。
「……麻美?」
 宗太は信じられないものを見る目で麻美を見下ろす。
「兄さんにそんなこと言ったことないじゃないか。麻美、どうした? 話して」
「帰って!」
 麻美は叩きつけるように叫んで、両手で宗太の胸を押しやる。
 後は宗太が何を言っても、麻美は「帰って」以外に一言も話さなかった。ただ宗太を扉の外に押し出そうとする麻美に、透は見かねて言った。
「日高さん、携帯番号と宿泊先を教えて頂けますか。ひとまず今日はお互い頭を冷やすことにして、明日こちらから伺わせて頂きます」
 宗太もこれ以上は麻美が何も話さないと理解したのか、仕方なさそうに手帳を取り出す。
 宗太は手帳を破いてペンを走らせると、透にメモを渡す。
 宗太は扉の外に出ると、途方に暮れた顔で麻美を見やる。
「麻美。兄さんは心配だから来ただけだ」
 目を逸らしたままの麻美に、宗太はそっと告げる。
「本当だよ。だから帰ってきて」
 踵を返して、宗太は自分から扉を閉めた。
 透はうつむいたまま立ちすくむ麻美に振り向いて、中を示す。
「中に入って座ろう。……話をゆっくり聞くから」
 透が肩に触れても、麻美は全身を強張らせて口を引き結んでいた。
 麻美が話し出すには、ずいぶんと時間がかかった。
 おせち料理の準備のために代わる代わる台所に立ちながら、いつもとは逆で透から話しかける。
 二日ほどかけてゆっくり準備しようと話していたのだが、作業ばかりしていたらその日の夕方の内におせち料理は完成した。
「……話してもいいのかな」
 麻美がようやく小声で切り出したのは夜になってからで、透は振り向く。
「麻美さんが話したいなら聞くよ」
 透はお茶を淹れて持ってくる。
 二人で向き合ってテーブルの前に座った頃、ようやく麻美は息をついて話し出した。
「年が離れてたからか、兄さんはずっと子どもみたいに私を扱ってた」
 麻美がテーブルの木目をみつめる眼差しは、頼りなさげだった。
「泣けば抱っこしてくれて、傷つきそうになったらそういうものから私を遠ざけてくれた。優しい兄さん」
 透はそんな麻美の表情を眺めながら問う。
「それならどうして、麻美さんはそんなに悲しそうなの」
 麻美は喉につっかえたようにごくりと息を呑む。
 そのまま麻美は押し黙った。透は話し出す気配も失われたのを感じる。
 透は立ち上がって麻美の隣に座る。その背中を抱くと、強張った麻美の背をさすった。
 それに促されるように麻美はゆっくりと力を抜いて、喉を動かした。
「……一度だけ、叩かれた」
 ようやく麻美から零れ落ちた言葉に、透はぴくりと反応した。
「兄さんの仕事が忙しくなって、顔も合わせない日々が数か月続いたある時、一回だけ。兄さんはすぐ我に返って、いっぱい謝ってくれた」
 自分の手をじっと見下ろして、麻美はつぶやく。
「でもなんだかとても……兄さんが遠くに感じて」
 目を歪めて、麻美は言葉を落とした。
「周りを見回したら、お父さんもお母さんもおばあちゃんもそう見えた。兄さんも家族もそこにいるのに、それは海の向こうの風景を見てるみたいだった」
 頭を片手で押さえて、麻美は苦しそうにつぶやく。
「家族だって変わっていく。ずっと同じなんて、ない」
 それでねと麻美は告げる。
「夢を見たくなったの。家族とつながっていた頃の思い出が見られたらと思って」
 そう言ったきり、麻美は黙りこくった。
 透は彼女の言葉が尽きたのを感じて問いかけた。
「今は、お兄さんと向かい合うことができない?」
 透の言葉に、麻美は申し訳なさそうにうなずいた。
 透は考え込んで、やがて静かにうなずき返した。
「わかった。明日は、僕だけで話をしに行くよ」
 そう言って、透は目を伏せた。




 翌日、透は早朝にゴミを出しに外に出た。
 アパートの階段を下りて、そこで壁にもたれて立っている人影に気づく。
 人影の正体は宗太だった。射るような目で透を眺めて、それから不自然なほどにこやかに笑う。
 透は息を吸って問いかける。
「いつからいらっしゃったんですか?」
「一度は宿に戻りましたよ」
 宗太はあまり答えにならない答えを返して、透に歩み寄る。
「麻美は?」
「まだお兄さんとは話せないと。ひとまず僕だけで話をさせてください。喫茶店にでも行きましょう」
「ふん……」
 宗太は透を睨むように見たが、ぷいと踵を返して透に続いた。
 透の職場近くの喫茶店に入ると、二人はコーヒーを一つずつ注文する。
 宗太は透を見据えたまま、コーヒーに手もつけずに切り出す。
「麻美に何をしたんですか」
 焦るように机を指先で叩いて、宗太は早口に言う。
「あの子は大人しい子なんです。何かのきっかけで家を出たのはともかく、家族にも黙って結婚するなんて考えられない。あの子の弱さにつけ込むのはよしてください」
 透はその言葉を一通り聞いて、彼の感情に呑まれないように答える。
「この結婚は麻美さんと二人で決めたことです。僕は何も強制していません」
「信じられない。麻美は緊張して外食もできないような繊細な子ですよ」
「僕の知る麻美さんは、人と一緒に時間を過ごすのが好きなひとです。結構頑固なところもあります。日高さんが思われるほど、麻美さんは大人しくも弱くもないと思いますが」
「私たち家族は何十年もあの子と一緒にいたんですよ」
「何十年もすれば子どもは大人になります」
 宗太の眼差しが一段と尖ったのを感じて、透は口調をゆっくりに変える。
「僕は喧嘩がしたいわけじゃありません。ただ知って頂きたいんです」
「知る?」
「麻美さんは今は戻れないと言っていました。叩かれたときの衝撃が消えてないんです」
 宗太はそれを聞いて、頭をくしゃくしゃとかきまぜる。
 焦燥に駆られたように宗太は声を荒らげる。
「叩いたのは本当に悪かった。それはあの子に言った通りです。でも麻美は今でも私たちの大切な家族ですし、帰ってきてほしいんです」
 必死の眼差しを向ける宗太の前で、透は黙った。
 透は深く息をついて口を開く。
「……いつでも、どんなときでも一緒にいることが家族ではないと思います」
 宗太は怪訝な顔をして透を見る。
「孤独の陸に上りたいときもある。一人でいたいときがある」
「あの子を一人にはさせておけません」
「無理に連れ戻しても、麻美さんはまた出て行ってしまうでしょう」
 断言した透に、宗太は息を呑んだ。
 言葉に詰まった宗太の前で、透は頭を下げた。
「でも麻美さんを一人にはしません。僕が側にいます。それを知ってください」
 透は黙って頭を下げ続ける。
 宗太はしばらく透をみつめて、やがて砕けた調子でつぶやいた。
「君は麻美に同情してるのか」
 その言葉に、透は顔を上げて困ったように眉を寄せた。
「同情では、こんなに長く一緒に暮らせないと思います」
 透は視線を動かして、また宗太を見る。
 透はくすぐったそうに笑って言った。
「僕も最初はただ、一人が嫌だったんです。でもその相手が麻美さんだったから、こんな優しい時間を重ねられた」
 透は表情を和らげてゆっくりと告げる。
「麻美さんが好きです」
 宗太は今にも掴みかかろうとするように透を睨んだが、それを自分で制するように深く息をついた。
 宗太はテーブルの上で拳を強く握りしめる。
「俺が麻美を一人前だと認めてやらなかったから、認めてくれる君のところに行ったんだろうか」
 宗太はようやくコーヒーに口をつける。
「……あんなに小さかったのにな」
 宗太は悔しそうに、どこか安堵するようにつぶやいた。
「お聞きした通り、いいお兄さんですね」
「君が知るもんか。今もあの子は変わらず、俺たちの家族だ」
 宗太はため息をついて、少しやけになったようにコーヒーを飲み干した。
 透と麻美は二人で年末を過ごした。
 こたつでみかんを食べながら、ぽつりぽつりと言葉を交わす。訪ねてくる人も少ないこの家はいつも静かだ。
 麻美は結局宗太に会わず、実家に帰る約束もしなかった。宗太はそれを惜しみながら、待ってると告げて大晦日に帰って行った。
 透はそれについて、以後何も触れなかった。それが麻美には少し不思議で、こたつの向こうの透をみつめる。
 透は静かに見つめ返してくれる。麻美にはそれがありがたかった。
 透と毎日を淡々と過ごしていると、自分の中にある傷は優しい膜に包まれて、わからなくなっていくような気がした。
 元旦の早朝、麻美は肩を揺さぶられて瞼を開いた。
 麻美さんと透が低い声で呼ぶ。
「今日なら見られるよ。行く?」
 それが何のことかはすぐにわかったが、麻美はすぐに決められなかった。
 麻美は窺うように透を見やる。麻美の惑いを察したのか、透は麻美の肩をそっと叩く。
「一度見てみるといいと思う」
 透にしては珍しく、強く勧めた。
「……行く」
 麻美は迷いながらうなずいて、支度を始めた。
 外に出て二人で高台を目指す。空気は張りつめるように冷えて、白い息が朝の薄闇に溶けていく。
 朝日が昇る前の痛いほどに澄んだ空気の中なのに、辺りは霧が立ち込めてよく見えなかった。
 探るように透は手を伸ばして、麻美の手に触れる。
「僕のこと、少し話してもいい?」
 麻美は、晴れない視界でも怖くはなかった。側に透がいる。安心させるために触れてくれたことに気づいて、麻美は微笑んだ。
「うん」
 麻美がうなずくと、透は話し始める。
「僕は普通の、仲のいい家族の中にいた。喧嘩もして、仲直りもして」
 透は霜の降りた土の道を踏みしめて足を進める。
「でも、麻美さんの年くらいに寂しさに捕まったんだ。どうしようもなく、自分は家族の中で一人なんだと思った。楼ヶ町を出て、外で働く場所を探した」
「私みたい」
「そうだね」
 高台には何度か二人で上ったが、いつも透についていくのが精いっぱいだった。けれど今日の麻美はあまり疲れを感じない。透に引っ張られて、心も前に押し出されているようだった。
 透は白い空気に息を吐き出して言う。
「思ったんだ。大人になると人は寂しさに捕まりやすくなるんじゃないかな。自立したいって思うと、自立できていない自分が嫌になる。一人になりたくなって、でも一人になれない自分にも気づく」
 麻美を振り返って、透は目を伏せた。
「僕は外で働いている内に両親が亡くなって、本当に一人になってしまった」
 麻美は息を呑んで、透は安心させるように首を横に振った。
「でも、それでも、外に出る時間は必要だったと今思ってる」
 透はきっぱりと告げてから続ける。
「そうじゃなかったら僕は、居心地のいい家族の世界の中ですべてを終えて、誰ともかかわりを持とうとしなかっただろうから」
 透は前に目を戻して息を吸う。
「家族の中にいても、いつかは一人になる。その前に一人だけで孤独の陸に上って外の世界を探してみるのも、何も悪いことじゃないと思えた」
 麻美は側を歩く透の気配に、勇気づけられる気がした。
「だから麻美さんも、今の時間を大事にしてほしいと思う」
 気づけば、高台を目指す人たちは少しずつ増えてきていた。透は少し考えて、途中で方向転換をする。
「こっちの方が静かに見られる」
 そうして透が導いたのは、山の裏側から見下ろせる山間の休憩所だった。
 始めは辺りがけむっていて、よく見えなかった。
 そこに一筋の光が差し込む。朝日が昇る時間が来たようだ。
 空気にぬくもりが混じる。徐々に白い空気が晴れていく。
 そして浮かび上がった光景に、麻美は目を見開く。
「……浮いてる」
 金色の朝日の中にたなびく霧の海、その中に楼ヶ町が浮いている。
 周りの山々が手を伸ばして天高くに町を掲げたように、小さな工房や畑の建物が縦に長く伸びていた。
 蜃気楼だ。
 麻美は初めて見る光景にただ見惚れる。光の錯覚で起きる現象だと知っていても、楼ヶ町は天空に浮かぶ幻想の楼閣に見えた。
 時間も忘れてみつめている内に、霧の海はどんどん晴れていく。
 潮が引くように霧が流れると、楼ヶ町はちゃんと地面についていた。
「実際は浮いてはいないんだ」
 当たり前のような透の言葉を聞いた途端、麻美は目の奥が熱くなった。
 蜃気楼のことを言われたはずなのに、麻美の胸が共鳴する。
「うん……浮いてないって、私も知ってる」
 目頭を押さえて声を押し殺す。
「本当は陸続きなの。自分だけが浮いてるわけじゃない」
 どうにか泣くのを我慢しようと、麻美は目を逸らす。
 透は麻美をみつめて、意を決したように手を伸ばした。
 そっとその頬に触れて、麻美の瞳を覗き込む。
「僕が孤独から降りてこられたのは、どうしてだと思う?」
「わからない。訊いてもいい?」
 顔も上げられないまま、麻美は震える声で問いかける。
 麻美を抱き寄せて、透は目を閉じた。大きな手で麻美の頭をぽんと叩く。
「寂しいって、おもいきり泣いたんだ。何度も何度も」
 透は麻美の髪を梳くように手を動かした。
 麻美は堰を切ったように泣き始める。
 透はわんわんと泣く麻美の頭を撫でた。
「それで気が済んだらちょっとだけ、下を見てほしい。そうしたら麻美さんを待ってる人がみつかるから」
 うん、うん、と麻美はうなずく。
 心に貯めた重みが、少しずつ解けていくようだった。白い空気に解放されて、自由に空へ飛んでいく。
 泣くことも諦めていた自分が、昨日へ通り過ぎていく。
「ここの景色、家族にも見せてあげたい」
 気づけばその言葉は麻美の中から生まれ落ちた。
「うん。いいと思う」
「……でも」
 透はうなずく。
「私はこの街で、透さんと住んでいたい。いいかな」
 麻美は蜃気楼を見たくてここに来た。けれどいつからか、見るのが怖いとも思っていた。もし見終わったら、自分はここを出て行かなければいけないように思えた。
 だけどもう大丈夫だと思えた。麻美は、自分で居場所を決められる。
「うん。僕も麻美さんにいてほしい」
 そして、その選択を認めてくれる人がここにいる。
 初めて透に出会った時は、不思議な一体感があった。透と自分はどこかで溶け合っているような印象さえ持った。
 今は違う思いを持っている。透と麻美は別々だ。だけどそのおかげで、麻美と透は二人でいられる。
 それはとても稀有で、幸福なことだと思った。
 数刻もそのまま立っていて、やがて麻美は口をへの字にした。
「ごめんなさい」
「うん?」
 ぐす、としゃくりあげながら、麻美はつぶやく。
「透さん、うるさいのは嫌いでしょう?」
 透は戸惑ったように頬を緩めて、首を横に振った。
「そんなことないよ。僕は話すのが苦手なだけ」
 麻美はむずかゆそうにうつむく。透はそれを見て首を傾げた。
「どうしたの?」
「言っていいのかな」
 決心したように、麻美は透に一歩近づく。
「今は、にぎやかなものが欲しいのだけど……」
 透の耳に口を寄せて、麻美は何か囁いた。
 透はそれを聞いてちょっと赤面して、ついで頬をかいた。
「……うん。そうだね、僕も欲しい」
 麻美は頬を綻ばせて、透の胸に額を当てた。
 やがて空中楼閣は完全に地面に下りて、いつもの光景が戻ってくる。
 のどかで静かな田舎町が朝日の中でひっそりと色づく。
 そして、一年が始まる。

作品を評価しよう!

ひとこと感想を投票しよう!

あなたはこの作品を・・・

と評価しました。
すべての感想数:3

この作品の感想を3つまで選択できます。

この作家の他の作品

君を王座に送り届ける夏の旅

総文字数/8,574

異世界ファンタジー1ページ

本棚に入れる
表紙を見る
まぶしい闇に落ちるまで

総文字数/22,632

ヒューマンドラマ10ページ

本棚に入れる
表紙を見る
月の後宮~華の帝と筒井筒の約束~

総文字数/29,797

あやかし・和風ファンタジー11ページ

本棚に入れる
表紙を見る

この作品を見ている人にオススメ

読み込み中…

この作品をシェア