和国。それは大陸の東に位置している。和国五代名山と呼ばれる五つの高い山に囲まれた国だ。この国は名山に由来する五つの神宮に守られている。

 学問の天桜宮(てんおうぐう)、交易の美蓮宮(みはすぐう)、実りの宇苑宮(うえんぐう)、武の蘭島宮(かとうぐう)、星学の丹井宮で(にゅういぐう)ある。五つの神宮を守るそれぞれの一族は、国のまとめ役である皇家に忠誠を誓い、古代よりその任を担っている。一族は総じて神宮につけられた名を名乗ることが許されているが、一部例外もあった。

 それは一族の中の祓い屋を生業とする者たちである。祓い屋とは神宮や神社では対処しきれなくなった珍事を解決する仕事を担っている。珍事とは常人には目視することができない、霊による出来事のことだ。霊は人の心の闇を吸収し、肥大化していく。ほとんどは形をなさないものだが、一定の割合で具現化し悪影響をもたらしてしまうものが出てくる。

 祓い屋はそれらが人間に害を及ぼした場合に神より賜った力を行使して解決するのだ。それができる人物は限られており、祓い屋の中でも力には差がある。それでも大方の者は霊を目視することができた。

 よって神宮を守る一族とはまた別の特別な任を得たとして、祓い屋は別の姓を名乗ることになっている。

 一方で祓い屋のなかに稀に霊さえ見えない子どもが生まれてくることがあった。祓い屋たちはその子どもを神からの恩寵を受けていない呪いの子であると蔑んでいた。


***

 絃音(いと)はバシッと音が聞こえるほど強く頬を叩かれた。皮膚の下が熱を持ちジクジクと波打だす。反射的に叩かれた箇所を押さえた。


「本当にお前は役立たずだな。これではあの女と結婚した意味がない!」


 怒鳴り散らしているのは、絃音の父親である。祓い屋として有名な平川家の現当主だ。平川家は美蓮家の家門に入っている。

 絃音に祓う能力がないどころか霊さえ見えないと分かった時から日常的な虐待が始まった。


「おまけに変な音が聞こえるとほざき出す。きみが悪い!お前が生まれてきたせいで私まで同業者たちから馬鹿にされている!」


 そう言ってまた頬を叩いた。平川家当主は絃音の母親と政略結婚を行なった。祓い屋としてより強い力を求めるためにはよくあることだった。

 だが当時平川家当主には想い人がいた。将来は結婚しようと約束していたのだ。しかし絃音の母との結婚のためその願いは絶たれてしまった。

 絃音の母親は絃音が生まれた後、体調を崩して他界。想い人は他の家に嫁いでしまい、現在平川家には当主と絃音の他には数名の使用人しか残っていなかった。使用人たちは当主が絃音に手をあげていることを黙認している。


「生まれてきたのが女だったのがいけなかった。女は自分一人では何もできないくせに、口だけは達者だ。もちろんお前の死んだ母親もな!」


 次は足で絃音を蹴り上げる。胃を圧迫され胃液が飛び出た。朝から何も口にしていない。口の中には酸っぱい感覚だけが残った。


「……旦那様、お時間でございます」

「ああ、もう時間か。……おい穀潰し、私が帰ってくるまでにその汚いのを片付けておけよ」


 使用人が当主を呼びにきたことで、暴力が終わった。使用人は絃音の様子に見てみぬふりをしてその場を後にする。

 絃音は重い体を起こした。身体中から血が滲み、あざができていた。けれど何も感じなかった。小さい頃は必死に抵抗していた。それが次第に懺悔の言葉へと変わる。そして今はもう何も感じなかった。

 殴られるも蹴られるはいつものこと。人が朝起きて顔を洗うように、自然なことになっていた。

 近くにあった掃除道具を持ってきて、吐瀉物を拭う。あと死ぬまでにこれを何度続けるのだろう。きっと多くはないはずだ。

 絃音は昔から耳がよかった。部屋にやってくる人を足音だけで気づくことができたし、これから雨が降るなどの気候の変化もわかった。

 それを父親である平川家当主に言うと、呪われた子どものくせに嘘までつくのかと罵倒された。それからは何が聞こえても言わないようにした。今考えれば少しでも自分に他の人とは違う何かがあれば父親の愛情を受けることができると思っていたのかもしれない。

 絃音は当主が帰ってくるまでは自室にこもっている。自室といっても名ばかりで、簡易的な布団さえない独房のような場所だった。幼い頃使用人が捨てた毛布が寒さをしのげる唯一のものだ。冷たい床に横たわり、時間が過ぎていくのを待つ。それだけしかできなかった。

数日後、久しぶりに帰ってきた当主は絃音を呼び出した。口角が上に上がっている。今まで向けられたことのない笑顔に混乱した。

「絃音、お前にいい話があるんだ」


 絃音。初めて名前で呼ばれた。俯いていたが少し顔を上げて当主を見た。


「お前と結婚したいという方がいらっしゃる」


 一生関わりがないだろうと思っていた単語が飛び出してきた。結婚?何かの聞き間違いだろうか。


「この土地を守る美蓮宮に一族会議のために行っていたのだ。そこで美蓮家当主様直々に結婚の話を持ちかけてこられた」


 目の前に座る当主はこれ以上ないほど嬉しそうだった。


「こんないいご縁はない。もちろん承諾するよな」


 投手の顔は笑っている。だが、瞳は冷め切っていることに絃音は初めて気がついた。ある種の命令だ。許される答えは一つしかなかった。


「……結婚をお受けいたします」


かぼそく、蚊の鳴くような声だった。その答えに当主は満足げに頷いた。