「って……」
 首が痒いからと引っ掻くと、鋭い痛みが走った。中指には明るい赤がついていた。
 それを見て、どうということでもないけれど、カイは大きく溜め息を吐いた。ずっとテレビに意識を吸われていただけに、現実に引き戻されたような感覚があった。
 血はあっという間に乾いて、少し彩度を落とした。だというのに、彼はそれを拭き取ろうともせず、ただしんどそうに瞳を閉じた。今になって、鈍い後悔が下腹を襲う。彼の選択は、彼女にここを使う口実を与えた。それが、一つ目の後悔。これまで、面倒な女も何人かいたが、それでも鬱陶しいと感じたのは、それなりに時間を過ごしてからのことだった。
 二つ目は、彼自身が(何もないのであれば)この歪な関係が続いていくことに一定の価値を見出していたことだ。美羽に似ていたから、そんな浅い理由で、彼は心のフタを緩めてしまった。
 本当は、彼女の年齢や立場なんてものは、自制のための都合の良い建前でしかなかった。
「血、出てる」
 気が付けば、彼女はカイの手に触れて、心配そうな目をしていた。どうやら指先を怪我したものだと思っているらしい。
 その瞳に、彼の心は吸いこまれそうになった。
 怖くて仕方がなかった。そう、恐れていたのだ。全てを台無しにしてしまった自分に、もう一度戻ってしまうのが。
「ちょっと首を引っ掻いただけだ」
 彼はさっと彼女の手を振り払った。だというのに、彼女はほんの少しだって嫌そうな顔はしなかった。むしろ、大したことはなかったと安堵するように口元を和らげた。
 気に食わなかった。ファーストコンタクトの時のように、ただの自己愛の強い女子高生を貫いてくれたなら、早くどこか別の場所へ行ってしまえと思えたろうに、いつかの美羽のように、僅かに目を細めて心の底から思ってくれているような顔をしたら――
 感情が溢れ出す前に、とカイは立ち上がった。視界から彼女の顔が外れて、やっと一呼吸置くことが出来た。
「夕飯、まだ食べてないだろ」
 極めて日常的な話をすると、もう一段階気持ちは落ち着いた。
「え、うん、まだ」
「どっか食いに行くか」
「いいの?」
「二人分の食材、ないからな」
 それは事実だったものの、本当の理由はこのまま彼女と狭い空間にいて、平気でいられる気がしないからだった。少しでも意識の外に置いておきたいからと無視同然の振る舞いを続けてきたけれど、かえって彼女を意識しつづけるようなものだった。僅かな衣擦れの音や、本人も自覚していないだろう「ふーん、そうなんだ」だなんて独り言が生々しく彼女の存在を強調してやまなかったのだ。
「けど、良いか、今から男子の格好しろ。くれぐれも俺がお前を連れ込んでるなんて噂が流れないようにな」
「はーい」
 あっさりした返事は、予想外だった。
「適当に用意するから、髪とか縛っとけ」
 そう言うと、カイはクローゼットの所まで行って、物色を始めた。もらったもの、忘れていったものが綺麗に寝かされている一角から、彼女に着れそうなものを探す。
 一通り決め終えて彼女の前に戻ると、髪はすっかり短くなっていた――どうやら、三つ編みを作って、それを交差させてそれぞれ端で止めているらしい。彼は服をドサッと放ろうとしたが、思い直してきちんと手渡した。
「面倒くさいから、ここで着替えても良い?」
 ウブな男性なら、ここで慌てふためきもするのだろうが、そこは赤間カイ。付き合った女は数知れず。「好きにしろよ」と真顔で言い放った。いくら美羽に似ていようが、ふいな仕草に胸を締めつけられるような想いを抱かされようが、無頓着なルーズさを見せられた際には、あっさり冷めるだけの心の余裕は十分にあった。
 ただ、デリカシーに欠けているわけではなかったから、自分の支度をしようとその場を離れた。彼女も彼女で、いそいそと服を脱ぎ始める。異性慣れした二人には、一事が万事ときめくものではない、という観念がすっかり出来上がっていた。
「どう?」
 白地のパーカーに、黒いスキニーデニム。上はカイのものだったから、かなりだぼっとした感じになった。はっきり見ればもちろん女子だとあっさり分かるのだが、夜にさっと見かける程度なら、線の細い男子に見えなくもない。付け焼き刃なアイデアだったが、カイは及第点をつけた。
「悪くはないな」
 そう答えてから、俺はこういう格好をさせたかったのだろうか、という問いが思い浮かんだ。当時の美羽は、可愛らしい格好をすることが多かった。でも、美人という言葉が相応しい彼女は、もう少しシンプルに美しさを魅せる格好をしてみても良い、と思ったことが何度かあった。それを今彼女に押し付けているのではないだろうか、考えたら、自分の女々しさがまた強く思われて、心に影が落ちかかっていくのを感じた。
 けれど、目の前の彼女が「えへへ」と素直に声に出して喜ぶものだから、そんな陰った心はどこかへ消えてしまった。
「センスいいね」
 はっ、と彼女はわざとらしく口元に手を当てた。
「私、まだ名前聞いてない! 何て言うの?」
 そういえば、と彼も思った。二度目はないと思っていたから、彼女に関する簡単な情報にさえ全くアクセスしていなかった。
「カイ」
 彼は触れたくないものに触れるときのような声色で言った。
 お前は? と聞きかけて、自分の名前を答えたことも含めて、関係をこれ以上進めていくことへの躊躇が忍び寄った。もう、ただの家出人を泊めただけでは済まない、明らかな直感がカイにはあった。それでも、心は求めてしまった。純粋な欲求に逆らえなかった。
「お前は?」
「カンナ」
 答えるまでにほんの僅かに間があったように感じられた。
 そこに、彼は二人に相通ずる何かを見出してしまった。自分を自分だと示す最大のものに、抵抗を覚える。それは最も悲しく、最も愚かで、最も救いがたいことだと、普段なら自分を痛ましく思うだけなのに、同じようにする彼女――カンナを見て、彼はどこか心が安らぐのを感じていた。