二人は黙ってテレビを見ていた。ローテーブルを間に挟んで、特に何を話すこともなく、映像が流れるのをじっと見つめるばかりだ。
 有名な芸人が、スタッフを引き連れて海外ロケに向かう番組。オリジナルカレンダーを作るために、世界の絶景スポットを撮影しにいく、という企画だ。チャンネルを決めたのは、どちらだったか。それさえもハッキリしないほど、二人には内容自体は興味がなかった。笑いを誘う状況になったところで、少しも表情を崩さないし、もしここに他の誰かがいれば、どちらとも心が壊死しているのではないかと疑っただろう。
 バラエティ番組というのは、二人にとっては最も虚しく、それでいて最も有難いものだった。頭を使わないで済む分、気を楽にして見ることが出来る。重くのしかかることについて気を揉む必要もなくなるけれど、事態をそのままにしているというぼんやりとした不安を高める行為だった。それでも、二人はそれを選んでしまう性格だった。何かを変えるために、全力で向き合うということを、二人はこれまで一度もしたことがなかった。
 CMになって、ようやくカイが身体を動かした。その仕草からは、とても部屋にもう一人がいるということを意識していない様子が窺えた。おもむろに立ち上がって、キッチンの方へ歩いていく。冷蔵庫を開けたかと思うと、炭酸水を取り出して、近くに置いてあったコップに注いだ。それから二、三個氷を入れると、またテレビの前に戻ってきた。
〝俺の平穏な生活を脅かさないこと〟というのが、どこまでを指すのか。それが分からなくて彼女は口を開けないでいた。いや、本来の彼女なら、カイの気など何一切気にすることなく、自分のわがままを押し通していただろう。事実、ここに再び転がり込むことが決まったのは、彼女が我を通したからなのだ。それが、いざ部屋の中にまで入ってしまうと、途端に緊張のような感覚が芽生えて、どうすることも出来ないでいた。
 正直に言えば、彼女は拒まれるか、身体を求められると思っていた。まるで彼女に手を出そうとしなかった彼は、本当に彼女のことを厄介者だと思っているか、理性と闘うことの出来る稀有な例だったか。前者でなくなった以上、今度はそういうことをしたいとどこかで考えているに違いない、そう思ったのに。本当に彼女を保護するだけのような感じになっていて――彼女は、もっと彼のことを知りたいと願うようになっていた。
 けれど、そのためには彼の機嫌を損ねるわけにはいかなかった。軽口を叩かないで普通に人と接する、という方法を彼女は知らなかった。
 父親が出ていって、母親がどこかの誰かを連れ込むようになってからは、母親との不和を顔に出さないための虚勢の張り方を身に付けていったから。
 自分の気持ちを、誇張せずに伝える術を、持たない。
 だから、気付いて、気付いて、と視線を送ったりもぞもぞ動いたりしてみるのだが、カイはまたテレビに一心に意識を向けるばかりで、彼女の涙ぐましい努力にはとても気付いてくれない。
 みんな、構ってくれる男ばかりだったから。我慢が長く続くわけはなかった。
「私もそれ、もらって良い?」
「ああ」
 でも、ただのそれだけ。なんで自分をもう一回家に上がらせてくれたのかとかえって聞きたくなるくらい、彼は彼女に何の視線も送ってくれない。気を惹くためにスカートを折って、クラスの男子がヒソヒソ話していることからも定評があるのが窺える生足を見せつけて、胸元もその気になれば大した努力なしに覗けるようにしているというのに、彼はこれまで他の男がしてきたような、男らしい本能的所作をまるで見せない。わざと前を通って意識させようかと思ったけれど、怒らせるだけでしかないだろうな、と思い直して、後ろを通って冷蔵庫の前まで一直線。
 求められないことをどこかでずっと望んでいたのに、都合の良い逃げ場を見つけられたはずなのに、彼女の心を占めていたのは喜びなんかではなく、飢えに近い渇きだった。
(あ、私、正しく愛してほしかったんだ)
 食器棚から彼のより一回り小さい――きっといつかの誰かが置いていったものなのだろう、彼の選ばなそうな小洒落た装飾があった――グラスを取った時、彼女は初めて自分の思いに気が付いた。
 家出少女が心の底で求めていたもの。それはあたたかい寝床だった。でもそれは、これまでのようなあたためる寝床でもなければ、あたたかいだけのものでもなかった。ぬくもりを感じることであたたかいと思える、ずっと精神的なものだった。
 一口、喉に通した炭酸はただただ痛かった。ボトルをよく見れば、強炭酸とだけ書かれていた。
 今まで味わってきたのは、甘い、でも邪な思い。どれも長くは続かなかったのは、結局、そういうこと。本当に必要なのは、この無味な炭酸を、美味しいと思えるような彼を振り向かせて、心から愛してもらうということ。
 彼女は振り向いて、カイの背中を見た。
 この人と本当の恋をしよう、決めた喉は、まだヒリついていた。