あれは夢だ、酷い悪夢だ、そう思えばカイの心の平穏は保つことが出来た。彼女を泊めてやったあの日から、早くも二週間が経とうとしていた。
 忘れ去るため、彼はいつも以上に仕事に精を出した。仕事をしている間は、他の事に対しての様々な感情を考えずに済むからか、もとより仕事熱心だった彼は、課長が思わず声をかけるほどの働きぶりだった。
 そうして過去を忘れ、現実に戻ろうとしかけていた彼は、久々に図書館に立ち寄った。近頃は会社帰りの社会人にも利用してもらえるようにと、ある曜日には開館時間を延ばしているらしい。そういうサービス精神旺盛なのが、結局日本人の労働問題を悪化させているのにな、と思いながらも、カイは不謹慎な有り難みを感じて本棚の間を縫う。それでも、図書館側が来てほしいのだろう壮年の姿が概して見られないのだから、せめて自身はその気苦労に報おう、などとぼんやり思った。それから、そう考える自分が急に浅ましく感じられて、大きく溜め息を吐いた。
 ずらりと並んだ本、本、本。本屋に寄っても思うことだったが、この世にはもう本が飽和していると、カイは題名も作家名も知らない本の列を眺めて感じた。きっと、これらを全て燃やし尽くしたところで、作家と一部のファン以外は気付きもしないだろう、そう考えたりして、彼は僅かに首を横に振った。
 結局足は、名の知れた文豪の名前が見える本棚に移る。どれだけ著名だろうと、現代作家の本は読む気になれなかった。扱うテーマが身近なものになるからだろうか、どうしても最後まで読み進めることが出来ない。文豪のそれは、どこか他人事のような気がして、それでいて心の働きみたいなものは現代人の感覚よりしっくり来るように思われて、読んでも良いという気になれるのだった。
 ふと、彼は目を止めた。そこにあったのは、堀辰雄の「風立ちぬ」だった。長らく気になっていたが、手を出せずじまいだったそれが、今という瞬間を運命めいたものにしろ、と告げているように思われて、彼は随分とぎゅうぎゅうに詰まった本棚から引き出した。ラミネートはまだ真新しい。ぱらぱらとページをめくってみても、その肌は生娘のようだった。
 彼はそれ以上本棚の間を彷徨うのはやめて、座れる場所を探した。二ブロック先を行ったところに、読書スペースを見つけて、彼はそこへ一直線に進んだ。新聞紙を広げた老人が一人と、何やら一心に文庫本を読み進める少女が一人、向かい合って座っていた。カイは少女の二つ隣に腰を落ち着けた。
 表紙には目もくれず、本文の見えるページを開いた。もともと気になっていたといっても、堀辰雄のことを知っていたわけでもないし、物語のあらすじもまるで把握していなかった。ただ漠然と、心の奥深いところに、このタイトルがいるような気がしていた。
 最初の数行を読んで嫌になったら、さっさと戻して帰ってしまおう、そう思っていた。けれど、やはり文豪の文章というものは、その数行で彼の心を掴んだ。文豪という称号のせいかもしれない、そう思う気持ちはありつつも、彼はページをめくることが出来た。それで、彼は借りることに決めた。
 こんなすぐに席を立つことを、周囲にはどう思われるのだろう、なんてことを考えながら、カイは今日何度目かの溜め息を吐いた。
 それをかき消すような、バン、という音。
 自然と身体がその方を向いた。胸元に十冊ほど抱えた女性の足元に、音の原因だろうハードカバーの本があった。
 それからはもう、彼自身でもどうしてなのか分からなかったが、本を拾っていた。見れば、美羽がこよなく愛していた作家の本だった。彼は何かを感じる前に本を手渡した。
 どこも似ていない。身なりに気を遣うこともなく、一気に何冊も抱えるくらい無計画で、拾ってもらったお礼ももごもごして聞こえにくい。惹かれる部分は何一切ないはずなのに、なぜかカイは目の前の彼女のためを思って行動したことに、どこか充足感を抱いていた。
 きっと、本を愛しているというたった一点が、でも何より大きいことに思えて、放っておけなかったのだろう。
 この振る舞いは、彼の内側に優しさが残っていることを示すものではなかった。ただ過去に囚われ、失った愛に操られているだけに過ぎなかった。少なくとも、カイはそうだと感じていた。
 あたふたしながら彼女が立ち去ると、彼はもう一度席につくことにした。年のせいかすぐ疲れるな、と彼は嘘を吐いた。
「やっぱり優しいんだ」
 声の主は誇らしげな笑みを浮かべながら彼を見ていた。指を文庫本に挟んだ少女は、夢で逢った彼女だった。