砕けた心に愛の香を

 アパートのドアを開けると、カイは苦々しい顔をした。
 迎えてくれた数々がよみがえったから。
 誰もが彼と愛を誓ってくれた。誰も誓いを守ってくれなかった。
「良いか、俺が許可したもの以外に触れるなよ、絶対」
 パチ、と電灯のスイッチを入れると、よく整頓された部屋が浮かび上がった。
「男の部屋なのに……キレイ」
 カイは彼女の反応を気にも止めなかった。
「風呂張るから。入るかは任せる」
 そう言って風呂場へ向かう途中、最後に付き合った彼女が置いていった化粧品が洗面台で寂しそうにしているのを目にした。そこは次の彼女が出来た一瞬だけ手を触れる場所で、それ以外の時は放置されていた。
 彼は儚げに目を伏せて、風呂場のスイッチを入れた。
 リビングに戻ると、彼女はローテーブルの前にちょこんと座っていた。
「今からでも帰って良いぞ」
 それは冗談なんかではなく、本気だった。仕事で疲れたところにこんな厄介事を背負い込むのは願い下げだった。
「帰っても良いなら、帰らない」
 彼女はカイの方を向かずに答えた。
「テレビ、見て良い?」
 言いつけを守ろうとする姿勢に、彼は少しばかり権利を認めてやる気になった。
「ああ」
 テレビには夜遅くに一般人の自宅に訪問する番組が映っていた。あれってギャラはいくらなんだろうか、とか思いながら、カイはスーツを脱いだ。彼女がいることなんて気にせず、楽な格好に着替えていく。
 綺麗にスーツを吊すと、彼はまた風呂場に向かって、カッターシャツをバスケットに放り込んだ。
 彼女にどう向き合えば良いか分からなかった。友人でもなければ、そういう(、、、、)相手でもない。渋々泊まるのを許可したくらいだが、それでも受け容れた以上、それ相応の責任が伴うようにも感じて困る。
 女物の服はさすがに持ち合わせていないし、かといって自分の服を貸してやるのもそこそこ抵抗があった。
 だが、外を出歩いた姿のままでずっといられるのも見るに耐えなくて、彼は仕方なくクローゼットから当分着ていなかったスウェットを出した。
 そうこうしている内に風呂が沸いたとメロディが鳴って、カイは
「入るのか?」
 と尋ねた。
「うん」
 うなずいた彼女にバスタオルの位置を教えてスウェットを手渡すと、風呂場へと消えていく姿を見ることも無く、カイはテレビに視線を向けた。
 よく見てみれば、訪問を受けた一般人女性はいつかの元カノに似ていた。髪型とか、化粧の感じとか、そこそこ。
 でも、彼女ほどではなかった。
 溜め息を漏らして腰を下ろすと、自分の行いの虚しさが目についた。
 過ちの始まりに目を向けるような振る舞い。一番好きだった女性によく似た少女に情けをかけるなんて、それこそしみったれた男の典型だと思ってしまった。
 それでも、あの場ではどうすることも出来なかったと必死に言い訳を探した。美羽に似た彼女が危険を冒して変な男の家に転がり込むなんて――
「たまたま俺だっただけなのにな」
 口にして、カイは自分が運命めいた何かを彼女に見出そうとしていたことに気付いた。
 彼は自分が男の中でも一番男らしい存在なんだと感じた。
 未練がましくて、いつまでも大人になれない。
 そんな自分をいつだったか否定した教師は、酷く正しかったように思えた。
 彼はぼーっと天井を見上げた。
 早く枯れてしまいたかった。誰もいなくても諦められるほど潤いがなくなってしまえば、そう考えた。
 でも、悩むという行為にたんでき(たんでき)出来るような年でもなくなってしまった彼は、そんな思考の虚しさにすぐに嫌気が差した。
 じっと座っていることもままならず、彼は立ち上がってベランダへ出た。
 けれど、片隅でぽつりと(たたず)むサボテン、そこにも昔の恋人の面影が見えて。
 幾度も同じような痛みを覚えたはずのに、未だに処分しない自分の心弱さに思い至って部屋に戻るしかなかった。
(いったいここで、俺は何人を不幸せにしてきたんだろう)
 繰り返す度に、悲しみは募る。
 愛は忘れられて、愛し方だけが残った。
 それが大人の恋だ、なんて言い訳をして。
 彼はこの部屋で愛を溢し続けてきた。
(なんでだ。何なんだ、これは)
 誰とも愛を誓ったのに、誰にも誓いを守れなかった。
 部屋の至る所に、忘れたい面影が見える。
 過ちを繰り返さないための恋だったのに。過ちを繰り返すだけの恋にしかならなかった。
 目の前にいる誰かは、美羽を見るためのレンズでしかなかった。でも、普通に見る分にはまるで美羽に似ていなかった彼女らは、薄ぼんやりと罪悪感を感じさせるに留まった。
 だから、彼女の存在は、真実の塊としてカイの目には映った。
(どうしろって言うんだよ、俺に)
 ただ今日限りの災難、そう思えば済む話だ、と言い聞かせても、効くはずが無かった。
 過ちを繰り返していただけだったとしても、今日までカイを突き動かしてきたのは、紛れもなく美羽への気持ちだったから。
 カイは目を瞑った。
 彼女が出てくるのが、恐ろしくて仕方なかった。
 彼女は初めカイに声をかけれなかった。
 自分の心が拙いと初めて思った。
 彼にかけるべき言葉を、彼女は持っていなかった。
〝誰でも良かった〟はずなのに。
 彼を見た時、世界から他の候補が消えた。
 もう、彼で終わりにしたくなった。
 そんな彼に、彼女がかけれる言葉は無かった。
「お風呂……ありがとう」
 こぼすように口にした言葉に、彼はちらりと視線を向けると、「ドライヤーは洗面台の上から二番目」とだけ答えた。彼女の目には、彼がはめ込み合成のテレビの前に座っているように見えた。そこに映っているものが何なのか、それは彼には関係無いようだった。
 一度仕切り直そうと思い、彼女は洗面所に戻った。ドライヤーは確かにそこにあった。一人暮らしに憧れた。目詰まり一つ起こしていないドライヤーを見つめながら、彼女はますます彼を選びたくなった。
 髪が乾いてしまうと、いよいよ手持ち無沙汰になって、仕方なく彼女は彼の様子を伺いに行った。
 相変わらず、彼ははめ込み合成されたテレビの前にいて、放っておいたら銅像になってしまいそうに見えた。ピクリとも動かず、じっとテレビを見つめている。
「入らないの?」
 そう尋ねると、彼はまたちらりと彼女の方を見た。それから立ち上がって、
「ベッドが良いか、ソファが良いか」
 無愛想に質問してきた。
 彼女は不思議に思った。それからすぐに、彼がそういう人なんだと分かった。女を惚れさせないでいられない人。
「ベッドが良い」
「そうか。じゃあもう寝てろ」
 彼女が言い終えた瞬間にそう口にして、彼は何も持たずに風呂場へ消えていった。
 一人残された彼女は、一人暮らしに見えない部屋を見渡して、彼に愛おしさを感じた。この部屋には、男の美しさが溢れていると思った。ここに暮らす男はとても男らしくて、女の腐った感じがまるでしない。
 だから彼は彼でいるんだと確信した。
 彼女はこれまで幾度となく、使えそうな男を見繕ってきた。けれど、女を知らない男には決して声をかけなかった。そういった男は自分のことしか考えない。男を知らない人は、女を知っている男こそがそうだと思っている。でも、実際はその逆だと彼女は知っていた。深く女を知る男は、必ず線引きをする。踏み越えてはならない線は、超えたりしない。
 それは、()が彼女に何もしないこの事態によく表れていた。彼からは女性の残り香がする。いくつもの匂いが合わさって、彼の哀しみを作っている。
 そういった男は、女を抱く度に一つ失うのだ。彼はとりわけその度合いが大きいように感じられた。もう何も無い、そんなふうにも。
 バスルームのドアが閉まる音がして、彼女は大きな溜め息を吐いた。この心の揺れを素直に信じられない気持ちが徐々に湧いてきた。目線を落とすと、無造作に置かれたリモコンが目に入った。彼女はチャンネルを適当に変えた。4番、6番、8番、7番、10番……。そうする度に光が瞳から薄れていく。
 テレビはこの世で最も残酷な道具の一つだと思った。勝ち組の姿を垂れ流し続ける機械。幸せからあまりにもかけ離れた彼女に、幸せにどっぷりと浸かっている人たちの姿を見せる。
 彼女は2番でようやく手を止めた。オランダの画家の特番だった。名前は知らない。ただ、彼の聖母マリアが映った時、全てのチャンネルがそうあれば良いのに、なんて感じた。本当なら消したかったけれど、彼がどう望んでいるか分からなくて、彼女はリモコンを元あった辺りに置きなおしてからベッドに横たわった。
 ごろんと仰向けになると、自分の部屋と同じように白い天井が目に入って、哀しくなった。額に左手を乗せると、心の揺れへの不信はますます募った。
 彼女は初めてこうした日のことを思い出した。心には愛があった。だから処女も捧げた。その痛みは今も微かにだが思い出せる。ただ漠然とした未来だけを愛おしみ、快楽の海に身を投げた。その時の彼女には、それが世界の全てだった。生きる意味も、今日という日も、全て愛の中にしまいこめた。
 けれど心がカラダから乖離して、気が付けば打ち上げられていた。
 それからは、愛への失望を重ねていく日々。捨て切れないから、希望の端を千切って残した。幾度となく繰り返す内、元の形なんてものはまるで分からなくなっていた。
 彼で終わりにしたい。その思いは、果たして明日の自分も持ち続けることが出来るだろうか。
 寝返りを打って壁の近くに顔を寄せた。壁との距離が近ければ近いほど、苦しさが大きい。
 涙は涸れてしまった。流すほどの心の働きが消えてしまった。
 目を瞑って、目を開ければ、何もかも捨て去れた気がして、適当な感謝の言葉を口にしたら、また何でもない朝が来る。本当に終わりが来るとしたら、それはきっと。
 彼女は眼を閉じた。他人の家で眠るのは得意だった。何を言われるか分からない家よりはずっとマシだった。たとえそれが、寝込みを襲いかねない誰かと一緒でも。そこに幾らかの愛情が含まれているなら、彼女には耐えられた。
 彼女は目をこすりながら腰を立てた。ぺたりと女座りをして、ぼやけた視界を見回す。寝起きの悪い彼女には、ここがどこだかいまいち分からなかった。二度寝しようかと考えながら、二、三度頭を揺らす。
 視線を下げると、彼がフローリングに直に寝ていた。枕代わりのクッションが頭上にのけられ、彼は自分の腕に頭を乗せていた。
 声をかけようとしたが、何と言えば良いか分からなくて、彼女は寂しげな吐息を漏らすことしか出来なかった。
 そうしている内に尿意を感じて、彼女はベッドから降りてトイレに向かった。戸口に立つと、ちらりと彼の方を見た。彼は眉間に小さくシワを寄せながら眼を閉じていた。まるで生きること全てに苦しんでいるように思えた。その姿に、彼女は自分の何かを重ねたくなった。
 トイレを済ませて戻ると、彼は元いた所にいなかった。探してみれば、彼は冷蔵庫の前で水を飲んでいた。飲み終わったコップをシンクに置くと、何の気なしに振り向いたせいで、彼女とばったり目が合った。
「お、おはよう」
 何も言わないと逆に気まずい気がして、彼女はへらっとした笑みを浮かべた。
「言われた通りに泊めてやったぞ。さっさと出ていってくれ」
 だが彼はそう言って彼女の脇を通った。昨晩のようにテレビを点けると、チャンネルを変えてニュースにした。キャスターは爽やかな声で原稿を読み上げていた。虐待を受けていた若者の支援についてだった。
 拒むように向けられた背中に、彼女はどんな言葉をかけるか戸惑う。ここにいたい、と言ってみたかった。でも、彼の様子はどこまでも冷たげで、人を遠ざける空気を生み出していた。
「分かった。泊めてくれてありがとう。凄く感謝してる」
 彼女は昨晩着ていた服を抱えて脱衣所に向かった。引き戸は重々しく感じられてならなかった。苦心して中に入ると、彼女は静かに腰を落とした。ドアに背中を付けて、唇を結んだ。どういうわけか、ここはとても落ち着くところだった。長居したいとさえ思うような空間だった。ただ一夜を明かすだけの、まるで思い出したくならないような場所たちとは違った。ただの脱衣所の匂いさえ、今はどうしてか愛おしく感じる。けれど、そうやってプラスの感情を抱く度、心にはマイナスの感情が立ち現れてしまう。これは単なる気持ちの昂ぶりに過ぎない、冷め切った声の自分が言う。
 彼女は誰にするわけでもなく頷くと、立ち上がって昨日の格好に戻った。
 出ようとしてドアに手をかけると、肩に髪の毛がついているのを目にした。
 それは、まじないのように。ささやかな願いのように。あるいは、微かな希望のように。
 はらり、その長い髪を一筋落とした。もう一度ここに帰ってこられるように、そう願いながら。
 脱衣所から出た彼女は、ベッドの近くに置いていた鞄を肩にかけると、ちらと彼を見た。彼は彼女なんていないふうに振る舞っている。またテレビははめ込み合成と変わらない。湯気を立てるコーヒーだけが彼の本当のようだった。
 彼女は何も言わずに玄関へ歩いていった。靴に足を押し込むと、そこから先へ進みたくなかった。ただの思いつきでやってきたはずのここは、彼女にとっての安全地帯になっていた。また外に出れば、陰鬱な時間が待っている。
 彼女は鼻を啜って唾を呑んだ。瞬きを一つして、ドアノブに手をかける。唇がわなわなと震えたけれど、力を込めた。これはきっと、これまでのどれかと同じようだ、そう言い聞かせて。
 差し込んできた光が眩しい。彼女はもう一方の手で目元を覆った。日の光は苦手だった。そんなことでさえ、自分が生きるに値しない人間であるように感じさせてならなかった。
 離したくない手も、体が完全に出てしまえばそうするしかなくて、ドアの閉まる音が別れの挨拶のように聞こえた。
 彼女はしばらくその前から動けなかった。動きたくなかった。そうしていたところで、何かがあるはずはないのに、そうしていたかった。いったいこの世界に、ドアをじっと見つめている人間がどれほどいるだろう。開けることは許されず、遠ざかることもままならず、ただ見つめるだけの人間がどれほどいるだろう。枯れてしまったはずの川に、もう一度潤いが戻るような気がした。
 それでも、秋の冷たさが徐々に彼女の身体を蝕んでいくと、そこに留まっていたいという気持ちはさらわれてしまった。
 アパートの敷地を出て、大通りにまで出てしまうと、小さな胸の痛みはどうにでも出来てしまいそうな気がした。彼女は改めて自分が女子であることを悟った。全てを受け入れ、全てを飲み込み、全てを捨て去る。悲しみも哀れさも、どうせ過去だなんて割り切ることの出来る、女子なのだと。
 彼女は家に母のいないことを切に願いながら、冷え込んでゆく世界を独り歩いていった。
 あれは夢だ、酷い悪夢だ、そう思えばカイの心の平穏は保つことが出来た。彼女を泊めてやったあの日から、早くも二週間が経とうとしていた。
 忘れ去るため、彼はいつも以上に仕事に精を出した。仕事をしている間は、他の事に対しての様々な感情を考えずに済むからか、もとより仕事熱心だった彼は、課長が思わず声をかけるほどの働きぶりだった。
 そうして過去を忘れ、現実に戻ろうとしかけていた彼は、久々に図書館に立ち寄った。近頃は会社帰りの社会人にも利用してもらえるようにと、ある曜日には開館時間を延ばしているらしい。そういうサービス精神旺盛なのが、結局日本人の労働問題を悪化させているのにな、と思いながらも、カイは不謹慎な有り難みを感じて本棚の間を縫う。それでも、図書館側が来てほしいのだろう壮年の姿が概して見られないのだから、せめて自身はその気苦労に報おう、などとぼんやり思った。それから、そう考える自分が急に浅ましく感じられて、大きく溜め息を吐いた。
 ずらりと並んだ本、本、本。本屋に寄っても思うことだったが、この世にはもう本が飽和していると、カイは題名も作家名も知らない本の列を眺めて感じた。きっと、これらを全て燃やし尽くしたところで、作家と一部のファン以外は気付きもしないだろう、そう考えたりして、彼は僅かに首を横に振った。
 結局足は、名の知れた文豪の名前が見える本棚に移る。どれだけ著名だろうと、現代作家の本は読む気になれなかった。扱うテーマが身近なものになるからだろうか、どうしても最後まで読み進めることが出来ない。文豪のそれは、どこか他人事のような気がして、それでいて心の働きみたいなものは現代人の感覚よりしっくり来るように思われて、読んでも良いという気になれるのだった。
 ふと、彼は目を止めた。そこにあったのは、堀辰雄の「風立ちぬ」だった。長らく気になっていたが、手を出せずじまいだったそれが、今という瞬間を運命めいたものにしろ、と告げているように思われて、彼は随分とぎゅうぎゅうに詰まった本棚から引き出した。ラミネートはまだ真新しい。ぱらぱらとページをめくってみても、その肌は生娘のようだった。
 彼はそれ以上本棚の間を彷徨うのはやめて、座れる場所を探した。二ブロック先を行ったところに、読書スペースを見つけて、彼はそこへ一直線に進んだ。新聞紙を広げた老人が一人と、何やら一心に文庫本を読み進める少女が一人、向かい合って座っていた。カイは少女の二つ隣に腰を落ち着けた。
 表紙には目もくれず、本文の見えるページを開いた。もともと気になっていたといっても、堀辰雄のことを知っていたわけでもないし、物語のあらすじもまるで把握していなかった。ただ漠然と、心の奥深いところに、このタイトルがいるような気がしていた。
 最初の数行を読んで嫌になったら、さっさと戻して帰ってしまおう、そう思っていた。けれど、やはり文豪の文章というものは、その数行で彼の心を掴んだ。文豪という称号のせいかもしれない、そう思う気持ちはありつつも、彼はページをめくることが出来た。それで、彼は借りることに決めた。
 こんなすぐに席を立つことを、周囲にはどう思われるのだろう、なんてことを考えながら、カイは今日何度目かの溜め息を吐いた。
 それをかき消すような、バン、という音。
 自然と身体がその方を向いた。胸元に十冊ほど抱えた女性の足元に、音の原因だろうハードカバーの本があった。
 それからはもう、彼自身でもどうしてなのか分からなかったが、本を拾っていた。見れば、美羽がこよなく愛していた作家の本だった。彼は何かを感じる前に本を手渡した。
 どこも似ていない。身なりに気を遣うこともなく、一気に何冊も抱えるくらい無計画で、拾ってもらったお礼ももごもごして聞こえにくい。惹かれる部分は何一切ないはずなのに、なぜかカイは目の前の彼女のためを思って行動したことに、どこか充足感を抱いていた。
 きっと、本を愛しているというたった一点が、でも何より大きいことに思えて、放っておけなかったのだろう。
 この振る舞いは、彼の内側に優しさが残っていることを示すものではなかった。ただ過去に囚われ、失った愛に操られているだけに過ぎなかった。少なくとも、カイはそうだと感じていた。
 あたふたしながら彼女が立ち去ると、彼はもう一度席につくことにした。年のせいかすぐ疲れるな、と彼は嘘を吐いた。
「やっぱり優しいんだ」
 声の主は誇らしげな笑みを浮かべながら彼を見ていた。指を文庫本に挟んだ少女は、夢で逢った彼女だった。
「ついてくるな」
 銀杏の並木道を歩いていたカイは、我慢の限界が訪れて振り向いた。
 図書館で彼女に話しかけられてすぐ、彼は人違いだと言いたげに背を向け、「風立ちぬ」を借り出して外に出た。無視していればその内諦めるだろう、と高をくくっていたのだが、どうにも意思は強いらしく、彼女はいつまでもついてきつづけるのだった。
「言っただろ、一晩限りだって」
「違うよ、今日は泊めてほしいって言いにきたんじゃなくて、ただ、あなたと話がしたかったの」
 カイは〝ハトに餌をあげないで!〟と書かれた看板を看板をまじまじと見つめた。なるほど、そういうことか、と。
「金輪際関わるつもりはない、って意思表示したんだ、俺は」
 言葉自体は尖って聞こえたが、中身は実に柔らかいことは、彼女にはすぐに分かってしまった。彼は、本質的にそういう人物なのだ、と彼女は見抜いていた。
「それは私が、女子高生だから?」
「ああ、そうだ。俺は自分が一番大事だからな。分かったらもうついてくんなよ」
 言い切って、歩速をさらに速める。
「嫌。あなたみたいに優しい人、初めてだし。せっかく再会出来たんだから、もっと一緒にいたい」
 それに彼女は応える。
「お前、俺のこの顔見えてるか? 願い下げだ、って顔が」
 カイは眉間にシワを寄せて、疎ましそうな顔をしてみせた。
「じゃあ、一個質問させて?」
「断る」
 彼は彼女から視線を逸らした。心が微かに痛む理由を、必死に考えまいとしながら。
「さっき、なんで本拾ってあげたの?」
 ピタリ、と足が止まる。瞬きを一つして、大きく溜め息を吐く。少しでも質問の答えを考えようとした自分が嫌で仕方なかった。
「自分が一番大事だなんて、嘘。そういうのは、まるで動こうとも思わなかった私みたいな人のことを指すんだもん」
 彼女がどんな顔をしてそんなことを口にしているのか、知りたくない彼は消失点だけを見ていた。だが、その前に彼女はぴょこん、と跳ね出てきた。
「お前さ、もう帰れよ。日も暮れてんだろ。変なのが出てくる前にさっさと帰れ」
 手で払うジェスチャーをしたって、彼女は嫌そうな素振り一つ見せない。見透かされたような気がして苛立ちを感じるのに、その一方でどこか安らぎを感じて、思わず拳を固めて自分を諫めた。
「だから言ったじゃん。帰りたくないの。機嫌が悪かったら暴力振られるんだから」
 カイはわざとらしく右斜め上に目玉を動かした。まったく厄介な奴にターゲットにされてしまったと思って、大きめに息を吐く。心の底から聞こえる気がする声は無視しながら。
「お前、結局泊めてもらいたいんだろ?」
 立場の弱さを盾に取られたら、結局のところカイに太刀打ちする術はない。他人に無関心な現代では、いくらカイの方が被害を受けている側だと主張したところで、いたいけな女子高生を誑かしているだけだとしか思ってもらえないのは明白だった。
「え? 泊めてくれるの?」
 そして、カイは自分の発言がドツボにハマったことを理解した。少女は別に、今日の宿が無いとは一言も言っていないのに、彼が自分から流れを提供してしまったのだ。
「これでいっぱいお話出来るね」
 カイからすれば、女子高生なんてもう、異性として見るには年の差がありすぎる。世の中にはそれでも愛情は生まれ得るのかもしれないが、少なくとも彼にとっては、彼女はいつ爆発するか分からない爆弾でしかない。
「人の迷惑ってものは、考えられないのか」
 彼は眉間を指で押さえた。彼はこれまで、多くの女性と関係を持ってきたが、どこかで規範めいたものはあった。健全な男女の過ちは犯しても、社会的な何某にもとる行いは慎んできた。だがそれを、彼女の前では出来る自信がなかった。
 似ている。見れば見るほど、どこまでも。最初に会った時には、微妙に違うところがあると感じたはずなのに、今はもう、生き写しのようだとしか思えない。
「迷惑だってことは、分かってるけど……でも、私に何の色目も使ってこなかったのは、あなたが初めてだから。あれからずっと、もう一度あなたに逢ってみたいって、思ってたの」
 カイは悲しくなった。どれだけ男を知っていても、それでもなお、重ねた年には勝てないのだと思ったから。少女は知らない。内に秘めた衝動を、全く表に出さないでいられるようになる、ということを。
 彼女の言葉は、巧みだった。もっとも、意識して言ったわけではないが、彼に否定を許さなかった。否定しようものなら、彼は彼女に色目を使っていたことになる。もちろん、彼女は自分がなぜカイにとって特別な存在かなど分かるわけもないのだから、単に対等に接してくれる人、としか考えないわけで。
「どうしても、ダメ……?」
 夢が夢で終われば良いのに、とカイは思う。美羽によく似た少女と出逢って、泡沫のような瞬間を過ごした。そんな摩訶不思議なお話。そんなふうに終わってほしかった。
(ああ……似てる……。頼み事をする時に両手の指先を合わせる仕草まで……)
 ずっと追い求めてきた。美羽によく似た誰かを。美羽を思い出させない誰かを。その誰もが、美羽とはまるで違う部分を持っていたし、美羽のような部分を持っていた。みんな不完全で、彼はやり直すことが出来なかった。
 瞬間、ある思いが彼の脳裏をよぎる。
(やり直せるんじゃないか、今度こそ……)
 身も心も、美羽と同等か、それ以上の人と、本当の愛を築きたい。彼の根底には、そんな思いがずっと存在していた。叶うはずのない願いを抱いてしまったからこそ、ここまで彼は歪み、苦しむハメになった。
 でももし、それが叶う願いだったとしたら……?
「好きにしてくれ。その代わり、面倒事だけは持ち込むな。俺の平穏な生活を脅かさないこと、それが条件だ」
 情けないと思った。それでも彼は、未だに美羽に縛られていた。彼女のことを、愛していた。
 二人は黙ってテレビを見ていた。ローテーブルを間に挟んで、特に何を話すこともなく、映像が流れるのをじっと見つめるばかりだ。
 有名な芸人が、スタッフを引き連れて海外ロケに向かう番組。オリジナルカレンダーを作るために、世界の絶景スポットを撮影しにいく、という企画だ。チャンネルを決めたのは、どちらだったか。それさえもハッキリしないほど、二人には内容自体は興味がなかった。笑いを誘う状況になったところで、少しも表情を崩さないし、もしここに他の誰かがいれば、どちらとも心が壊死しているのではないかと疑っただろう。
 バラエティ番組というのは、二人にとっては最も虚しく、それでいて最も有難いものだった。頭を使わないで済む分、気を楽にして見ることが出来る。重くのしかかることについて気を揉む必要もなくなるけれど、事態をそのままにしているというぼんやりとした不安を高める行為だった。それでも、二人はそれを選んでしまう性格だった。何かを変えるために、全力で向き合うということを、二人はこれまで一度もしたことがなかった。
 CMになって、ようやくカイが身体を動かした。その仕草からは、とても部屋にもう一人がいるということを意識していない様子が窺えた。おもむろに立ち上がって、キッチンの方へ歩いていく。冷蔵庫を開けたかと思うと、炭酸水を取り出して、近くに置いてあったコップに注いだ。それから二、三個氷を入れると、またテレビの前に戻ってきた。
〝俺の平穏な生活を脅かさないこと〟というのが、どこまでを指すのか。それが分からなくて彼女は口を開けないでいた。いや、本来の彼女なら、カイの気など何一切気にすることなく、自分のわがままを押し通していただろう。事実、ここに再び転がり込むことが決まったのは、彼女が我を通したからなのだ。それが、いざ部屋の中にまで入ってしまうと、途端に緊張のような感覚が芽生えて、どうすることも出来ないでいた。
 正直に言えば、彼女は拒まれるか、身体を求められると思っていた。まるで彼女に手を出そうとしなかった彼は、本当に彼女のことを厄介者だと思っているか、理性と闘うことの出来る稀有な例だったか。前者でなくなった以上、今度はそういうことをしたいとどこかで考えているに違いない、そう思ったのに。本当に彼女を保護するだけのような感じになっていて――彼女は、もっと彼のことを知りたいと願うようになっていた。
 けれど、そのためには彼の機嫌を損ねるわけにはいかなかった。軽口を叩かないで普通に人と接する、という方法を彼女は知らなかった。
 父親が出ていって、母親がどこかの誰かを連れ込むようになってからは、母親との不和を顔に出さないための虚勢の張り方を身に付けていったから。
 自分の気持ちを、誇張せずに伝える術を、持たない。
 だから、気付いて、気付いて、と視線を送ったりもぞもぞ動いたりしてみるのだが、カイはまたテレビに一心に意識を向けるばかりで、彼女の涙ぐましい努力にはとても気付いてくれない。
 みんな、構ってくれる男ばかりだったから。我慢が長く続くわけはなかった。
「私もそれ、もらって良い?」
「ああ」
 でも、ただのそれだけ。なんで自分をもう一回家に上がらせてくれたのかとかえって聞きたくなるくらい、彼は彼女に何の視線も送ってくれない。気を惹くためにスカートを折って、クラスの男子がヒソヒソ話していることからも定評があるのが窺える生足を見せつけて、胸元もその気になれば大した努力なしに覗けるようにしているというのに、彼はこれまで他の男がしてきたような、男らしい本能的所作をまるで見せない。わざと前を通って意識させようかと思ったけれど、怒らせるだけでしかないだろうな、と思い直して、後ろを通って冷蔵庫の前まで一直線。
 求められないことをどこかでずっと望んでいたのに、都合の良い逃げ場を見つけられたはずなのに、彼女の心を占めていたのは喜びなんかではなく、飢えに近い渇きだった。
(あ、私、正しく愛してほしかったんだ)
 食器棚から彼のより一回り小さい――きっといつかの誰かが置いていったものなのだろう、彼の選ばなそうな小洒落た装飾があった――グラスを取った時、彼女は初めて自分の思いに気が付いた。
 家出少女が心の底で求めていたもの。それはあたたかい寝床だった。でもそれは、これまでのようなあたためる寝床でもなければ、あたたかいだけのものでもなかった。ぬくもりを感じることであたたかいと思える、ずっと精神的なものだった。
 一口、喉に通した炭酸はただただ痛かった。ボトルをよく見れば、強炭酸とだけ書かれていた。
 今まで味わってきたのは、甘い、でも邪な思い。どれも長くは続かなかったのは、結局、そういうこと。本当に必要なのは、この無味な炭酸を、美味しいと思えるような彼を振り向かせて、心から愛してもらうということ。
 彼女は振り向いて、カイの背中を見た。
 この人と本当の恋をしよう、決めた喉は、まだヒリついていた。
「って……」
 首が痒いからと引っ掻くと、鋭い痛みが走った。中指には明るい赤がついていた。
 それを見て、どうということでもないけれど、カイは大きく溜め息を吐いた。ずっとテレビに意識を吸われていただけに、現実に引き戻されたような感覚があった。
 血はあっという間に乾いて、少し彩度を落とした。だというのに、彼はそれを拭き取ろうともせず、ただしんどそうに瞳を閉じた。今になって、鈍い後悔が下腹を襲う。彼の選択は、彼女にここを使う口実を与えた。それが、一つ目の後悔。これまで、面倒な女も何人かいたが、それでも鬱陶しいと感じたのは、それなりに時間を過ごしてからのことだった。
 二つ目は、彼自身が(何もないのであれば)この歪な関係が続いていくことに一定の価値を見出していたことだ。美羽に似ていたから、そんな浅い理由で、彼は心のフタを緩めてしまった。
 本当は、彼女の年齢や立場なんてものは、自制のための都合の良い建前でしかなかった。
「血、出てる」
 気が付けば、彼女はカイの手に触れて、心配そうな目をしていた。どうやら指先を怪我したものだと思っているらしい。
 その瞳に、彼の心は吸いこまれそうになった。
 怖くて仕方がなかった。そう、恐れていたのだ。全てを台無しにしてしまった自分に、もう一度戻ってしまうのが。
「ちょっと首を引っ掻いただけだ」
 彼はさっと彼女の手を振り払った。だというのに、彼女はほんの少しだって嫌そうな顔はしなかった。むしろ、大したことはなかったと安堵するように口元を和らげた。
 気に食わなかった。ファーストコンタクトの時のように、ただの自己愛の強い女子高生を貫いてくれたなら、早くどこか別の場所へ行ってしまえと思えたろうに、いつかの美羽のように、僅かに目を細めて心の底から思ってくれているような顔をしたら――
 感情が溢れ出す前に、とカイは立ち上がった。視界から彼女の顔が外れて、やっと一呼吸置くことが出来た。
「夕飯、まだ食べてないだろ」
 極めて日常的な話をすると、もう一段階気持ちは落ち着いた。
「え、うん、まだ」
「どっか食いに行くか」
「いいの?」
「二人分の食材、ないからな」
 それは事実だったものの、本当の理由はこのまま彼女と狭い空間にいて、平気でいられる気がしないからだった。少しでも意識の外に置いておきたいからと無視同然の振る舞いを続けてきたけれど、かえって彼女を意識しつづけるようなものだった。僅かな衣擦れの音や、本人も自覚していないだろう「ふーん、そうなんだ」だなんて独り言が生々しく彼女の存在を強調してやまなかったのだ。
「けど、良いか、今から男子の格好しろ。くれぐれも俺がお前を連れ込んでるなんて噂が流れないようにな」
「はーい」
 あっさりした返事は、予想外だった。
「適当に用意するから、髪とか縛っとけ」
 そう言うと、カイはクローゼットの所まで行って、物色を始めた。もらったもの、忘れていったものが綺麗に寝かされている一角から、彼女に着れそうなものを探す。
 一通り決め終えて彼女の前に戻ると、髪はすっかり短くなっていた――どうやら、三つ編みを作って、それを交差させてそれぞれ端で止めているらしい。彼は服をドサッと放ろうとしたが、思い直してきちんと手渡した。
「面倒くさいから、ここで着替えても良い?」
 ウブな男性なら、ここで慌てふためきもするのだろうが、そこは赤間カイ。付き合った女は数知れず。「好きにしろよ」と真顔で言い放った。いくら美羽に似ていようが、ふいな仕草に胸を締めつけられるような想いを抱かされようが、無頓着なルーズさを見せられた際には、あっさり冷めるだけの心の余裕は十分にあった。
 ただ、デリカシーに欠けているわけではなかったから、自分の支度をしようとその場を離れた。彼女も彼女で、いそいそと服を脱ぎ始める。異性慣れした二人には、一事が万事ときめくものではない、という観念がすっかり出来上がっていた。
「どう?」
 白地のパーカーに、黒いスキニーデニム。上はカイのものだったから、かなりだぼっとした感じになった。はっきり見ればもちろん女子だとあっさり分かるのだが、夜にさっと見かける程度なら、線の細い男子に見えなくもない。付け焼き刃なアイデアだったが、カイは及第点をつけた。
「悪くはないな」
 そう答えてから、俺はこういう格好をさせたかったのだろうか、という問いが思い浮かんだ。当時の美羽は、可愛らしい格好をすることが多かった。でも、美人という言葉が相応しい彼女は、もう少しシンプルに美しさを魅せる格好をしてみても良い、と思ったことが何度かあった。それを今彼女に押し付けているのではないだろうか、考えたら、自分の女々しさがまた強く思われて、心に影が落ちかかっていくのを感じた。
 けれど、目の前の彼女が「えへへ」と素直に声に出して喜ぶものだから、そんな陰った心はどこかへ消えてしまった。
「センスいいね」
 はっ、と彼女はわざとらしく口元に手を当てた。
「私、まだ名前聞いてない! 何て言うの?」
 そういえば、と彼も思った。二度目はないと思っていたから、彼女に関する簡単な情報にさえ全くアクセスしていなかった。
「カイ」
 彼は触れたくないものに触れるときのような声色で言った。
 お前は? と聞きかけて、自分の名前を答えたことも含めて、関係をこれ以上進めていくことへの躊躇が忍び寄った。もう、ただの家出人を泊めただけでは済まない、明らかな直感がカイにはあった。それでも、心は求めてしまった。純粋な欲求に逆らえなかった。
「お前は?」
「カンナ」
 答えるまでにほんの僅かに間があったように感じられた。
 そこに、彼は二人に相通ずる何かを見出してしまった。自分を自分だと示す最大のものに、抵抗を覚える。それは最も悲しく、最も愚かで、最も救いがたいことだと、普段なら自分を痛ましく思うだけなのに、同じようにする彼女――カンナを見て、彼はどこか心が安らぐのを感じていた。
「ご注文の品は以上でお揃いでしょうか?」
「ええ」
 ウェイトレスは軽く頭を下げると、そそくさと離れていった。傍目には分からないようにしているのだろうが、カイには彼女が何かに不満を抱いているのが分かった。歩き方が物語っているのだ。振り下ろす足には怒りが込められている。踏みつけてやりたい男でもいるのだろうか。
「綺麗な人だったね」
 カンナはストローから口を離して言った。その視線はまだウェイトレスの背中に向いている。
「そうか?」
「そこは男なんだ、カイって」
「どういう意味だ?」
「男女で綺麗だと思う子って、基準違うってこと」
 心当たりはある、と思った。一緒にドラマを見ていても、元カノたちが綺麗だと口にした女優と、カイが美人だと考えていた女優とはほぼ合わなかった。
「単に個々人の違いなのかと思ってたな」
「男子が綺麗だって言うのは、男にウケる顔してる人で、女子が綺麗だって言うのは、自分がムカつかない人なの」
「ムカつく顔って何だよ」
「男に媚び売ってる顔」
 カンナは少しドスの効いた声で言った。個人の見解です、という注意書きが必要そうだな、とカイはぼんやり考えた。取るに足らない会話を交わしたことで、彼は自分の中から粗熱が取れていくのが分かった。会った瞬間にも思いはしたことだが、やはり、中身はまるで違う。美羽はもっと、スレていなかった。純粋で、そんな彼女を女にしたのが自分だと思えば――
「女の思う、かっこいい顔はどうなんだ。あ、食えよ、冷めるから」
 カンナは僅かに頷いてからフォークを手に取った。鉄板に乗ったコーンをいくつかすくって口に運ぶ。咀嚼しながら、思案顔をした。飲み込むと、「裏切ってほしい顔」と言った。カイには彼女の瞳のハイライトが一瞬曇ったように見えた。
「でも、裏切ったらダメなの。分かる? 酷いことしてほしいけど、実際されたいわけじゃない」
「全く分かんねえな」
 そう答えて、カイはグリルチキンを一切れ口に放り込んだ。昔は美味しいと感じていたはずの外食も、大人になって数年経った今は、ただの濃い味付けだとしか思えなくなっていた。
「私は、カイにそういうことされてみたいって思ってるってこと」
「バカ言え」
 自分の言葉がすぐに出たか自信がなくて、カイは必死にカンナの表情を探った。
 彼女が本心でどう思っているか、そんなことはどうでもよかった。ただ彼女に、彼が抱えているシミに似た感情を知られたくなかった。
 あの日から続いている彼は美羽の亡霊を手にしたくて、あの日を境に生まれた彼は美羽の生き写しを大切に思いたかった。どちらもやり直したいと思っている点では同じだけれど、カイは自分がとても優しくはなれないと思っていた。もし自分がもう少しでも自制の利く人間だったなら、こんなにも長い間苦しむことはなかったのだから。
 このまま苦しみ続けること、それだけが自分に残されたたった一つの道だと言い聞かせていた彼には、カンナはあまりにも残酷な神様からの贈り物だった。
 彼は微かに左のこめかみが痛んでくるような感覚を覚えた。おそらく、そう遠くない内に本格的に痛んでくるだろう、と予想した。何気ない動作として、彼はこめかみに人差し指の腹を押し付けて動かした。少しだが、マシになるような気がした。
 カンナはほとんど食べなかった。鉄板の上にはハンバーグが優に半分は残っている。綺麗に平らげられていたのは最初に手を付けたコーンだけだった。
「食わないのか」
「食べたじゃん」
 どうやら、それがカンナのデフォルトらしい。
「ならもらうぞ」
 言うやいなや、カイはカンナの皿から丸ごとかっさらった。無言で食べ進める様を、カンナは目を円くしながら見つめた。
「えっ、えっ、なんで食べちゃったの、私の食べさしだよ」
「残せないだろ、そんなに」
「残せないって……カイってもしかして、育ち良いの?」
 カイは眉をひそめた。
「育ちが良い奴は、そもそもこういうことしないだろ」
 柄にもなく自分の苛立ちを言葉に乗せてしまったことを彼は酷く後悔した。けれど、家庭の話はダメだった。
「俺はどこにでもある普通の家庭の生まれだよ」
 普通の家庭、という言葉を彼はとても強調した。
 それ以上カンナは話を広げなかった。彼女と話している内に、カイは彼女が人との距離感を常に測っていることに気が付いた。何を言えば相手の機嫌を損ねず、何を言えば喜んで、どうしたら突き放されないかをほんの僅かなやり取りの中で見出す。一般社会ではそれを社交的、と形容するのだろうが、彼女の場合はどう考えても生きるための術なのがハッキリしていた。それほどまでに酷いことをされてきたのだろう。
 生まれは選べない。いつだったかのカノジョが言っていた。そう言った三カ月後に自殺した彼女は、両親に捨てられて施設で育った子だった。不幸な生い立ちを背負う者は、その多くが他人に合わせて自分を形作る。だがそれは、カイとて同じはずだった。けれども彼の場合、誰にその話をするわけにもいかなかった。どこにでもある普通の家庭、誰から見てもそう見えてしまう〝幸せな家庭〟出身の彼は、〝不幸せな家庭〟出身の者たちを前に、口を噤むことしか出来ない。
(俺のところには、そういう奴ばっか集まるな)
 それは彼が好みがそうさせているのか、それともそういう定めなのか。いずれにせよ、今度もまた、彼は一方的に相手の弱音を聞かねばならないのだろうな、と考えていた。
「質問終わったの?」
(ああ、そうか、夢か……)
「よくそんなに毎日聞くことあるよね」
(なんて答えたっけな、あの時)
「カイって結構、努力家だよね、顔に似合わず」
(お前が言うと、不思議と腹が立たなかったんだ)
「そういうところも……好き、だよ、私」
(やっぱり、お前じゃないと、ダメだ)

 頭痛は治っていなかった。今度はどうしてもベッドで寝てほしい、でも自分もベッドでないと寝られないと言うから、二人は一人用のベッドを共有した。カンナが壁際に寝て、カイは彼女に背を向けるように横たわった。「その気になったらそういうことしても良いからね」なんて戯れ言を言ってきたが、彼はもう少し若ければそうしていたかもしれない、と思いながら目を瞑った。
 幸せの絶頂にある夜、決まって見る美羽の夢。でも昨夜は、どう考えても幸せとは程遠かった。むしろ、不幸せに近かった。カンナの存在が触媒になっていると考えるより他になかった。
 カイは隣で眠るカンナの方に目をやった。化粧が下手なのか興味がないのか、すっぴんの状態でもあまり変わらないのも美羽によく似ていた。もっとも、器用な彼女なら、今頃はもっと綺麗に……
 ムラッと来るものがあった。刹那的なフラッシュバック。慣れないけど頑張った、なんて言って全然変わっていない顔を見せてきた美羽の姿が、脳裏を支配した。それはとてもカンナに酷似していて、本能的にカンナの頬に触れたくなった彼は手を伸ばしていた。
 だが、その瞬間にカンナはパチッと目を開けた。カイの手は、ほんのりと温もりを感じさせる距離で止まっていた。
「いいよ」
 その言い方には、優しさは全く無かった。自分を労る感情は、何一切持ち合わせていなかった。ただ代金を払おうとしている時のような無心だけがあるだけ。
 カイは何も言わずに手を引いた。そしてもう一度横たわった。心はちっとも揺れ動いていなかったけれど、下半身だけは酷く熱かった。慣れきった感覚のはずなのに、今までで一番鮮やかな悲しみが募っていくのが分かった。
「いいの?」
 その問いは、見事なまでにカイの背を突き刺した。瞬間、カンナの冷たい目がハッと脳裏に浮かんだ。きっと、ずっとそうやって受け容れてきたに違いない。そう考えはじめると、昂ぶりは少しずつ落ち着いてきた。
 何と答えるのも言い訳にしかならない気がして、彼は押し黙った。それも正しい答えではないとは分かっているのに、カンナに一番何も言わせない方法がだということに気付いているから、それを採用した。
 彼の読みどおり、彼女は言葉を続けなかった。とにかく今は時間を空けること、それだけが救いだと言い聞かせて目を瞑った。どれだけ寝覚めが悪かろうと、夢の中ではどこか痛みが甘いから、悪夢でも構わなかった。

「俺たち、もう別れよう」
「本気で言ってるの?」
(違う。美羽はそう言わなかった)
「考え直して?」
(これは、都合の良い方か)

 再び目を覚ましても、目元は濡れていなかった。感傷的になる資格さえ自分にはないとガラクタの恋の連続の中で知ったから。
 ふと、鼻腔を良い匂いがくすぐるのに気が付いた。バッと起き上がって台所へ行くと、ベッドに入った時のままの格好でコンロに向かう彼女の背中が見えた。
「お前、何やってんだ」
 それは彼女を責めるはずの言葉であるはずだったのに、酷くなまくらだった。そのせいでただの驚きにしか聞こえなかった。
「朝ごはん作ってるの。あ、使った分はちゃんと後で返すから許してね」
 口を開いては何も言わず閉じ、また開いては閉じを繰り返して、結局何かを言う意志は飲み込んだ。代わりに行き場を失った息を溜め息として吐き出して、エネルギーについては冷蔵庫のドアを開けるのに使った。
 炭酸水のペットボトルを出して、シンクに置きっぱなしだった昨夜のグラスに注ぐと、ぐいと飲み干した。喉を刺すような痛みが走れば、少しだけ涙腺が弛むような気がした。
「お前の料理、ちゃんと食えるのか」
 長い菜箸を使って器用に卵を畳んでいたカンナには、どう考えても余計な言葉だったけれど、彼はあえて尋ねた。
「昔料理教室に通ってたし、味についても結構定評あるよ」
「そりゃ楽しみだな」
 顔洗ってくると言って、彼は洗面所に移動した。秋の水は寝起きの顔には刺激が強くて、彼はしかめ面をした――はずなのに、鏡に映っていたのはどこかとても気の弛んだ表情だった。ここ数年彼を包んでいた紫色の感情は姿を潜めて、凝りのほぐれた真っ直ぐさが乗っていた。
(夢の続きなんて見られるわけでもないのに)
 いっそのこと鏡を叩き割ってやりたい気分だった。その破片が拳に突き刺さって、痛みが彼を責めてくれれば良いものを、そうすることの出来ない勇気のなさと、良い子っぷりが彼の肯定感をまた押し下げた。
 洗面所にまでは匂いが漂ってこないはずなのに、彼の腹は早く食わせろと鳴いた。
 それを口にすることは、カンナとの歪な日常を完全に受け容れることだと分かっていたけれど、食事に罪は無いとかいう、あまりにも正しい、けれども本心としては認めがたい論理を突っぱねるだけの強さを育てることの出来なかった彼は、育ちを言い訳にしてキッチンへ戻った。