彼女は目をこすりながら腰を立てた。ぺたりと女座りをして、ぼやけた視界を見回す。寝起きの悪い彼女には、ここがどこだかいまいち分からなかった。二度寝しようかと考えながら、二、三度頭を揺らす。
 視線を下げると、彼がフローリングに直に寝ていた。枕代わりのクッションが頭上にのけられ、彼は自分の腕に頭を乗せていた。
 声をかけようとしたが、何と言えば良いか分からなくて、彼女は寂しげな吐息を漏らすことしか出来なかった。
 そうしている内に尿意を感じて、彼女はベッドから降りてトイレに向かった。戸口に立つと、ちらりと彼の方を見た。彼は眉間に小さくシワを寄せながら眼を閉じていた。まるで生きること全てに苦しんでいるように思えた。その姿に、彼女は自分の何かを重ねたくなった。
 トイレを済ませて戻ると、彼は元いた所にいなかった。探してみれば、彼は冷蔵庫の前で水を飲んでいた。飲み終わったコップをシンクに置くと、何の気なしに振り向いたせいで、彼女とばったり目が合った。
「お、おはよう」
 何も言わないと逆に気まずい気がして、彼女はへらっとした笑みを浮かべた。
「言われた通りに泊めてやったぞ。さっさと出ていってくれ」
 だが彼はそう言って彼女の脇を通った。昨晩のようにテレビを点けると、チャンネルを変えてニュースにした。キャスターは爽やかな声で原稿を読み上げていた。虐待を受けていた若者の支援についてだった。
 拒むように向けられた背中に、彼女はどんな言葉をかけるか戸惑う。ここにいたい、と言ってみたかった。でも、彼の様子はどこまでも冷たげで、人を遠ざける空気を生み出していた。
「分かった。泊めてくれてありがとう。凄く感謝してる」
 彼女は昨晩着ていた服を抱えて脱衣所に向かった。引き戸は重々しく感じられてならなかった。苦心して中に入ると、彼女は静かに腰を落とした。ドアに背中を付けて、唇を結んだ。どういうわけか、ここはとても落ち着くところだった。長居したいとさえ思うような空間だった。ただ一夜を明かすだけの、まるで思い出したくならないような場所たちとは違った。ただの脱衣所の匂いさえ、今はどうしてか愛おしく感じる。けれど、そうやってプラスの感情を抱く度、心にはマイナスの感情が立ち現れてしまう。これは単なる気持ちの昂ぶりに過ぎない、冷め切った声の自分が言う。
 彼女は誰にするわけでもなく頷くと、立ち上がって昨日の格好に戻った。
 出ようとしてドアに手をかけると、肩に髪の毛がついているのを目にした。
 それは、まじないのように。ささやかな願いのように。あるいは、微かな希望のように。
 はらり、その長い髪を一筋落とした。もう一度ここに帰ってこられるように、そう願いながら。
 脱衣所から出た彼女は、ベッドの近くに置いていた鞄を肩にかけると、ちらと彼を見た。彼は彼女なんていないふうに振る舞っている。またテレビははめ込み合成と変わらない。湯気を立てるコーヒーだけが彼の本当のようだった。
 彼女は何も言わずに玄関へ歩いていった。靴に足を押し込むと、そこから先へ進みたくなかった。ただの思いつきでやってきたはずのここは、彼女にとっての安全地帯になっていた。また外に出れば、陰鬱な時間が待っている。
 彼女は鼻を啜って唾を呑んだ。瞬きを一つして、ドアノブに手をかける。唇がわなわなと震えたけれど、力を込めた。これはきっと、これまでのどれかと同じようだ、そう言い聞かせて。
 差し込んできた光が眩しい。彼女はもう一方の手で目元を覆った。日の光は苦手だった。そんなことでさえ、自分が生きるに値しない人間であるように感じさせてならなかった。
 離したくない手も、体が完全に出てしまえばそうするしかなくて、ドアの閉まる音が別れの挨拶のように聞こえた。
 彼女はしばらくその前から動けなかった。動きたくなかった。そうしていたところで、何かがあるはずはないのに、そうしていたかった。いったいこの世界に、ドアをじっと見つめている人間がどれほどいるだろう。開けることは許されず、遠ざかることもままならず、ただ見つめるだけの人間がどれほどいるだろう。枯れてしまったはずの川に、もう一度潤いが戻るような気がした。
 それでも、秋の冷たさが徐々に彼女の身体を蝕んでいくと、そこに留まっていたいという気持ちはさらわれてしまった。
 アパートの敷地を出て、大通りにまで出てしまうと、小さな胸の痛みはどうにでも出来てしまいそうな気がした。彼女は改めて自分が女子であることを悟った。全てを受け入れ、全てを飲み込み、全てを捨て去る。悲しみも哀れさも、どうせ過去だなんて割り切ることの出来る、女子なのだと。
 彼女は家に母のいないことを切に願いながら、冷え込んでゆく世界を独り歩いていった。