砕けた心に愛の香を

 金曜日の居酒屋は盛況で、赤間(あかま)カイはそのごった返した雰囲気が鬱陶しく感じられてならなかった。
「でさぁ、カイ、夏生(なつよ)がさぁ、もうマジでうるさいんだよ」
 酔った高校時代の友人のウザ絡みも面倒でならない。久々に呑みに行かないか、と誘われた時には悪くない気もしていたが、いざ目の前で酔われるとすぐに帰りたくなった。
「ほら、お前が付き合ってた子、美羽ちゃん、だっけ? あの子の結婚式に行ってから、夏生の奴、マジでうるさくてなんないの。ドレス姿が綺麗だったーとか、結婚相手がイケメン過ぎてヤバかったーとか、自分もあんな結婚式が挙げたいーとか、な」
 美羽の名前を聞いた瞬間、カイの心は柄にもなくざわついた。
 初めて関係を持った異性。それだけでも忘れ難い。そしてそれ以上に、今ある自分を形作っただろう、どうしても消せない相手。
「お? 別れない方が良かった、とか思ってたり?」
 気の利かなさが一級の癖に、こういった時だけ妙に勘づく彼を前にして、
「バカ言え。あいつはヤるには丁度良いけどな、結婚とか、どう考えても有り得ないから。俺がヤり捨てた女と結婚するとか、そいつの気が知れないんだよ」
 カイはわざと下卑た物言いをしてみせた。
「ひゃー、やっぱモテる男は違うねぇ。でも、お前は考えたりしないの? もうアラサーだぜ? 俺らも」
「別に、しなくて良いんじゃないか。あんなの、面倒なだけだ」
「ま、カイのことだし、気付いたら結婚してそうだからなぁ、そんな心配するくらいなら、俺は俺の心配をするね。あの子みたいな可愛い子と付き合いたいなぁ」
 あの子、と指差した先を見て、カイは顔をしかめた。
「どう見たって女子高生だろ。 朱鷺耶(ときや)、お前、捕まりたいのか?」
「え、そうなのか? あ、危ねー……」
「本気で分かってなかったのか……」
 じっと見ていると、彼女と目が合ってしまった。が、彼女はすぐに目をそらして、厨房の奥へ消えていった。
 いったいいつまでこうしていたら良いのか、と溜め息を吐きたくなった矢先に、朱鷺耶の携帯がブルブルと震えだした。
「げっ、矢守さんからだ。マジかよ、俺このまま帰りたいってのに」
 自分にとっては救いの電話だ、とカイは思った。案の定、その電話は会社への帰投命令で、朱鷺耶は立派な顔芸をしてみせた。
 カイの願い通りに二人は席を立ち、会計を済ませて店の外に出た。
 秋の夜は少しずつ寒さを帯びはじめていて、ひゅう、と吹いた風は首元の不安さを指摘しているようだった。
「じゃあ、俺、行くわ……」
「酔っ払ってるんだからな、車にはねられんなよ」
「分かってるよ……」
 朱鷺耶と別れたのに、カイは溜め息を吐いた。別れたからこそ、だったかもしれない。
 澄みはじめた夜空を見上げて、どこかで幸せになった元カノのことを思い出した。
 それから、名前もあやふやになったり、どんなことをしたか思い出せないたくさんの元恋人たちが次々と脳裏をよぎった。どれもみんな、大切とは程遠い記憶だった。
 カイはきゅっと左手を固めた。弱く、何も出来なさそうな拳だった。
 より大きな溜め息を一つ。
(〝別れない方が良かった〟か?)
 確かに愛していた。
 自分は彼女と幸せになるのだと信じていた。
 彼女は最高だった。もう他に無い存在だと思っていた。
 趣味も合った。話も合った。お互いの時間も確保出来た。体の相性も良かった。
 何もかもが正しいはずだった。
 それなのに、いつしか二人は愛のための行為ではなく、行為のための愛を重ねるだけになってしまった。
〝別れよう〟
 と口にしたのは、カイの方からだった。
 彼女との日々を続けていたら、自分は醜い悪魔に成り果ててしまう気がした。
 でも、それが間違っていた。
 それは結果論でしかないけれど、彼女と別れた彼は、彼女が彼にもたらしてくれたあらゆるものを、彼女以外に求める人生を歩み始めた。
 だが、どんな(ひと)も、彼女に敵わなかった。
 ただ、手と、唇と、身体だけは、重ねることが出来た。
 彼女と別れてからの数年間、彼は後悔をしないために――そんな心理に陥らないために、常に誰かといることで埋め合わせてきた。
 だが、そんな日々にもついに限界が訪れ、前カノと別れてから、もう三ヶ月もの間、誰とも付き合ったり、関係を持ったりしていない。
 自分のあり方がいかに間違っていて、酷いものかは、誰に言われなくても分かる。深く考えるまでもない。
 今からでも遅くない、清く、正しく、美しく生きれば、救いもあるかもしれない。なんてことを、彼はもう思えない。どうせ、聖なる夜を一人で過ごすのが寂しくてならない季節になれば、誰かしらは彼のところに来る。一度だって、一人であの夜の時計を見たことは無かった。
 どんなに過ちを見つめたところで、思い出した時には誰かを抱いている。
 そう思うと、カイは笑うしかなかった。最後に声を出して笑ったのは、破綻する前。つまり、彼女を愛していた頃。もう何年、そんな風に笑っていないだろう。
 夜道でそんなことをしている自分が虚しくなって、彼はゆっくり歩きはじめた。
「ねえ、待って」
 最初、カイはその声が自分に向けられているとは思わなかった。
「待ってってば」
 腕を掴まれ、呼ばれているのが自分だと分かった彼は、仕方なく声の主の方を向いた。
「……お前」
 そこにいたのは、居酒屋で目の合った女子高生らしき店員だった。
「お願い、一晩だけ泊めて」
 彼女は切迫した表情でそう言った。
 よく見れば、彼女は奇妙なほどに、美羽に似ていた。
「断る」
 カイは自分の声が上ずっていないか心配だった。
 瓜二つ、ではない。だが、遠巻きに見たのなら、確実に見間違える気がした。身長、体型、髪型、化粧の薄さ、目元、鼻、胸。美羽には妹がいないと知っていたが、従妹か何かかと考えたくなるくらいには、色濃い面影があった。
「お前、高校生だろ」
 居酒屋をこの時間に上がるなんて、それだけでも年齢は知れる。もちろん、そこがまともなら、な話だが。
「そんな奴を泊めたりしたのが世間に知られちゃ、俺は即刻鼻つまみ者だ」
 こういうのは真っ先に両断すべきだ、と彼は分かっていた。一瞬でも躊躇(ためら)えば、罪悪感が芽生えはじめる。視界に映ったことさえ、記憶に留めないように断ち切る。
 いまだに引きずる彼女を思わされる少女、なんて。
「ネカフェでも漫喫でも行けば良いだろ」
 カイは彼女の手を振りほどこうとした。
「声、上げても良い?」
 ピタリとカイは動きを止める。知ったことか、と振り切ることはさすがに出来なかった。
「脅してるのか? それ」
 こちらは何も動揺していないことを暗に伝える必要があった。そんなものは俺には効かない、と。
「この状況で私が声を上げたら、悪いのはどっちに見えると思う?」
 いくら美羽に似ていようと、こいつは同じような見た目をした災厄だとカイは感じた。自分の社会的身分を盾に取って他者に寄生する奴だ、と。
「真っ当に事情を説明すれば、お前が家に帰りたくないだけの非行少女だとすぐに分かる」
 こんな奴と関わり合いになるのは心底ご免だ、と言い聞かせる。それだけ揺さぶられるものがあるのがカイには嫌で仕方なかった。
「今晩だけ、だから……泊めてよ」
「脅しが効かなくなったら泣き言か? 悪いな、俺はこう見えて真人間なんだ。年端の行かない女に興味は無い」
 それはまるで、少女でない誰かに向けた言い訳のようだと彼は思った。
「分かったらさっさと帰れ」
 そう言っても、彼女は依然として腕を放さない。
「嫌。家に帰ったら、酷いことされるから」
 虐待でも受けているのか、手が出るカレシでもいるのか、何にせよカイはそんな面倒事はまっぴらご免だった。
「そんな奴引き受けてみろ、その酷いことをしてくる奴が俺の家に殴り込んでくるだろ。冗談じゃない」
「言わないから、絶対あなたの所に行ったって言わないから、お願い、お願い……」
 おいおい、マジかよ、とカイは顔を背けたくなった。
 ついに彼女が泣きだしたから。
 女の涙は見慣れていたが、そこに何かを感じる心にはいまだに慣れないところがあった。
 しかも見計らったかのようにすぐ脇を通っていったOLが、二人の方をチラリと見て怪訝そうな顔をしてみせた。
 人間観察をするテレビでも来てるんじゃないだろうかと思いながら、カイは大きく息を吐き出した。
「やめろよ、実質脅しの強硬手段に出てるだろ、それだと。……クソ、一晩だけだからな」
 それで済むはずがない、と分かってはいた。一度使えることが分かれば、誰だって繰り返す。ダメになるまで、やめることは適わない。
「ありがとう……ママに会ったら、またタバコ、押し付けられそうだから」
 本当にそういうのいるんだな、と思うと、苦しむ彼女を助けてやった、という安っぽい正義感が束の間彼を良い気にさせるのを感じて、カイは顔をしかめた。
「礼とか言うな。俺は今この瞬間の保身を考えただけだ」
 そう言ってカイは彼女の手を振り払った。
 彼女のことは極力考えないようにして家路を辿りはじめる。すぐ傍に異性がいる雰囲気は彼にとってもう苦しいものとしか感じられなくて、嫌になった彼はタバコを吸いはじめた。
 澄んだ夜の空気の代わりに煙を吸うのは、どれだけ不健康だと分かっていても、悲しい自分にはやめられないことだと思った。
 酒を呑むのも、タバコを吸うのも、女と寝るのも、悲しいからだ。一時(いっとき)その悲しみを忘れられるからだ。そうしない奴はあまりに幸せに過ぎるとカイは思った。
 本当は、自分の体面を気にするほど綺麗な人間ではなかった。少なくとも、彼は自分を〝真人間〟だとは全く思っていなかった。同年代が少しずつ身持ちを固めはじめているのを耳にしながら、その夜限りの関係にばかり耽溺する彼は、むしろ〝クズ〟でしかないと思っていた。
 そうなった原因を思わされた先刻のことを思い出して、カイは苦虫をかみつぶしたような顔をした。
 本当は、どこかで真っ当に愛せる女性(ひと)を見つけて、適当に落ち着けば良いだけだと分かっているはずなのに、実際の彼はまたこうして厄介事を振り切れずにいる。
 結局最後まで食い下がられてしまったのは、彼が彼女を置いて立ち去れなかったからで。
 その理由は、今の彼がある原因そのもので。
(俺はずっと、あいつに縛られてる)
 それほどまでに愛していたはずなのに。
 どこで間違えてしまったのだろう。どうして間違えてしまったのだろう。
 もし少女が美羽に似ていなければ、彼はこう口にしていたはずだ。
〝俺以外を当たれ〟と。
 社会的な面目を考えず、捕まったって良いとさえ思っている倒錯した輩の前に少女が立つのは、耐えられなかった。
 少女が美羽に似ていたから。
 カイがまだ、美羽に惹かれていたから。
 アパートのドアを開けると、カイは苦々しい顔をした。
 迎えてくれた数々がよみがえったから。
 誰もが彼と愛を誓ってくれた。誰も誓いを守ってくれなかった。
「良いか、俺が許可したもの以外に触れるなよ、絶対」
 パチ、と電灯のスイッチを入れると、よく整頓された部屋が浮かび上がった。
「男の部屋なのに……キレイ」
 カイは彼女の反応を気にも止めなかった。
「風呂張るから。入るかは任せる」
 そう言って風呂場へ向かう途中、最後に付き合った彼女が置いていった化粧品が洗面台で寂しそうにしているのを目にした。そこは次の彼女が出来た一瞬だけ手を触れる場所で、それ以外の時は放置されていた。
 彼は儚げに目を伏せて、風呂場のスイッチを入れた。
 リビングに戻ると、彼女はローテーブルの前にちょこんと座っていた。
「今からでも帰って良いぞ」
 それは冗談なんかではなく、本気だった。仕事で疲れたところにこんな厄介事を背負い込むのは願い下げだった。
「帰っても良いなら、帰らない」
 彼女はカイの方を向かずに答えた。
「テレビ、見て良い?」
 言いつけを守ろうとする姿勢に、彼は少しばかり権利を認めてやる気になった。
「ああ」
 テレビには夜遅くに一般人の自宅に訪問する番組が映っていた。あれってギャラはいくらなんだろうか、とか思いながら、カイはスーツを脱いだ。彼女がいることなんて気にせず、楽な格好に着替えていく。
 綺麗にスーツを吊すと、彼はまた風呂場に向かって、カッターシャツをバスケットに放り込んだ。
 彼女にどう向き合えば良いか分からなかった。友人でもなければ、そういう(、、、、)相手でもない。渋々泊まるのを許可したくらいだが、それでも受け容れた以上、それ相応の責任が伴うようにも感じて困る。
 女物の服はさすがに持ち合わせていないし、かといって自分の服を貸してやるのもそこそこ抵抗があった。
 だが、外を出歩いた姿のままでずっといられるのも見るに耐えなくて、彼は仕方なくクローゼットから当分着ていなかったスウェットを出した。
 そうこうしている内に風呂が沸いたとメロディが鳴って、カイは
「入るのか?」
 と尋ねた。
「うん」
 うなずいた彼女にバスタオルの位置を教えてスウェットを手渡すと、風呂場へと消えていく姿を見ることも無く、カイはテレビに視線を向けた。
 よく見てみれば、訪問を受けた一般人女性はいつかの元カノに似ていた。髪型とか、化粧の感じとか、そこそこ。
 でも、彼女ほどではなかった。
 溜め息を漏らして腰を下ろすと、自分の行いの虚しさが目についた。
 過ちの始まりに目を向けるような振る舞い。一番好きだった女性によく似た少女に情けをかけるなんて、それこそしみったれた男の典型だと思ってしまった。
 それでも、あの場ではどうすることも出来なかったと必死に言い訳を探した。美羽に似た彼女が危険を冒して変な男の家に転がり込むなんて――
「たまたま俺だっただけなのにな」
 口にして、カイは自分が運命めいた何かを彼女に見出そうとしていたことに気付いた。
 彼は自分が男の中でも一番男らしい存在なんだと感じた。
 未練がましくて、いつまでも大人になれない。
 そんな自分をいつだったか否定した教師は、酷く正しかったように思えた。
 彼はぼーっと天井を見上げた。
 早く枯れてしまいたかった。誰もいなくても諦められるほど潤いがなくなってしまえば、そう考えた。
 でも、悩むという行為にたんでき(たんでき)出来るような年でもなくなってしまった彼は、そんな思考の虚しさにすぐに嫌気が差した。
 じっと座っていることもままならず、彼は立ち上がってベランダへ出た。
 けれど、片隅でぽつりと(たたず)むサボテン、そこにも昔の恋人の面影が見えて。
 幾度も同じような痛みを覚えたはずのに、未だに処分しない自分の心弱さに思い至って部屋に戻るしかなかった。
(いったいここで、俺は何人を不幸せにしてきたんだろう)
 繰り返す度に、悲しみは募る。
 愛は忘れられて、愛し方だけが残った。
 それが大人の恋だ、なんて言い訳をして。
 彼はこの部屋で愛を溢し続けてきた。
(なんでだ。何なんだ、これは)
 誰とも愛を誓ったのに、誰にも誓いを守れなかった。
 部屋の至る所に、忘れたい面影が見える。
 過ちを繰り返さないための恋だったのに。過ちを繰り返すだけの恋にしかならなかった。
 目の前にいる誰かは、美羽を見るためのレンズでしかなかった。でも、普通に見る分にはまるで美羽に似ていなかった彼女らは、薄ぼんやりと罪悪感を感じさせるに留まった。
 だから、彼女の存在は、真実の塊としてカイの目には映った。
(どうしろって言うんだよ、俺に)
 ただ今日限りの災難、そう思えば済む話だ、と言い聞かせても、効くはずが無かった。
 過ちを繰り返していただけだったとしても、今日までカイを突き動かしてきたのは、紛れもなく美羽への気持ちだったから。
 カイは目を瞑った。
 彼女が出てくるのが、恐ろしくて仕方なかった。
 彼女は初めカイに声をかけれなかった。
 自分の心が拙いと初めて思った。
 彼にかけるべき言葉を、彼女は持っていなかった。
〝誰でも良かった〟はずなのに。
 彼を見た時、世界から他の候補が消えた。
 もう、彼で終わりにしたくなった。
 そんな彼に、彼女がかけれる言葉は無かった。
「お風呂……ありがとう」
 こぼすように口にした言葉に、彼はちらりと視線を向けると、「ドライヤーは洗面台の上から二番目」とだけ答えた。彼女の目には、彼がはめ込み合成のテレビの前に座っているように見えた。そこに映っているものが何なのか、それは彼には関係無いようだった。
 一度仕切り直そうと思い、彼女は洗面所に戻った。ドライヤーは確かにそこにあった。一人暮らしに憧れた。目詰まり一つ起こしていないドライヤーを見つめながら、彼女はますます彼を選びたくなった。
 髪が乾いてしまうと、いよいよ手持ち無沙汰になって、仕方なく彼女は彼の様子を伺いに行った。
 相変わらず、彼ははめ込み合成されたテレビの前にいて、放っておいたら銅像になってしまいそうに見えた。ピクリとも動かず、じっとテレビを見つめている。
「入らないの?」
 そう尋ねると、彼はまたちらりと彼女の方を見た。それから立ち上がって、
「ベッドが良いか、ソファが良いか」
 無愛想に質問してきた。
 彼女は不思議に思った。それからすぐに、彼がそういう人なんだと分かった。女を惚れさせないでいられない人。
「ベッドが良い」
「そうか。じゃあもう寝てろ」
 彼女が言い終えた瞬間にそう口にして、彼は何も持たずに風呂場へ消えていった。
 一人残された彼女は、一人暮らしに見えない部屋を見渡して、彼に愛おしさを感じた。この部屋には、男の美しさが溢れていると思った。ここに暮らす男はとても男らしくて、女の腐った感じがまるでしない。
 だから彼は彼でいるんだと確信した。
 彼女はこれまで幾度となく、使えそうな男を見繕ってきた。けれど、女を知らない男には決して声をかけなかった。そういった男は自分のことしか考えない。男を知らない人は、女を知っている男こそがそうだと思っている。でも、実際はその逆だと彼女は知っていた。深く女を知る男は、必ず線引きをする。踏み越えてはならない線は、超えたりしない。
 それは、()が彼女に何もしないこの事態によく表れていた。彼からは女性の残り香がする。いくつもの匂いが合わさって、彼の哀しみを作っている。
 そういった男は、女を抱く度に一つ失うのだ。彼はとりわけその度合いが大きいように感じられた。もう何も無い、そんなふうにも。
 バスルームのドアが閉まる音がして、彼女は大きな溜め息を吐いた。この心の揺れを素直に信じられない気持ちが徐々に湧いてきた。目線を落とすと、無造作に置かれたリモコンが目に入った。彼女はチャンネルを適当に変えた。4番、6番、8番、7番、10番……。そうする度に光が瞳から薄れていく。
 テレビはこの世で最も残酷な道具の一つだと思った。勝ち組の姿を垂れ流し続ける機械。幸せからあまりにもかけ離れた彼女に、幸せにどっぷりと浸かっている人たちの姿を見せる。
 彼女は2番でようやく手を止めた。オランダの画家の特番だった。名前は知らない。ただ、彼の聖母マリアが映った時、全てのチャンネルがそうあれば良いのに、なんて感じた。本当なら消したかったけれど、彼がどう望んでいるか分からなくて、彼女はリモコンを元あった辺りに置きなおしてからベッドに横たわった。
 ごろんと仰向けになると、自分の部屋と同じように白い天井が目に入って、哀しくなった。額に左手を乗せると、心の揺れへの不信はますます募った。
 彼女は初めてこうした日のことを思い出した。心には愛があった。だから処女も捧げた。その痛みは今も微かにだが思い出せる。ただ漠然とした未来だけを愛おしみ、快楽の海に身を投げた。その時の彼女には、それが世界の全てだった。生きる意味も、今日という日も、全て愛の中にしまいこめた。
 けれど心がカラダから乖離して、気が付けば打ち上げられていた。
 それからは、愛への失望を重ねていく日々。捨て切れないから、希望の端を千切って残した。幾度となく繰り返す内、元の形なんてものはまるで分からなくなっていた。
 彼で終わりにしたい。その思いは、果たして明日の自分も持ち続けることが出来るだろうか。
 寝返りを打って壁の近くに顔を寄せた。壁との距離が近ければ近いほど、苦しさが大きい。
 涙は涸れてしまった。流すほどの心の働きが消えてしまった。
 目を瞑って、目を開ければ、何もかも捨て去れた気がして、適当な感謝の言葉を口にしたら、また何でもない朝が来る。本当に終わりが来るとしたら、それはきっと。
 彼女は眼を閉じた。他人の家で眠るのは得意だった。何を言われるか分からない家よりはずっとマシだった。たとえそれが、寝込みを襲いかねない誰かと一緒でも。そこに幾らかの愛情が含まれているなら、彼女には耐えられた。
 彼女は目をこすりながら腰を立てた。ぺたりと女座りをして、ぼやけた視界を見回す。寝起きの悪い彼女には、ここがどこだかいまいち分からなかった。二度寝しようかと考えながら、二、三度頭を揺らす。
 視線を下げると、彼がフローリングに直に寝ていた。枕代わりのクッションが頭上にのけられ、彼は自分の腕に頭を乗せていた。
 声をかけようとしたが、何と言えば良いか分からなくて、彼女は寂しげな吐息を漏らすことしか出来なかった。
 そうしている内に尿意を感じて、彼女はベッドから降りてトイレに向かった。戸口に立つと、ちらりと彼の方を見た。彼は眉間に小さくシワを寄せながら眼を閉じていた。まるで生きること全てに苦しんでいるように思えた。その姿に、彼女は自分の何かを重ねたくなった。
 トイレを済ませて戻ると、彼は元いた所にいなかった。探してみれば、彼は冷蔵庫の前で水を飲んでいた。飲み終わったコップをシンクに置くと、何の気なしに振り向いたせいで、彼女とばったり目が合った。
「お、おはよう」
 何も言わないと逆に気まずい気がして、彼女はへらっとした笑みを浮かべた。
「言われた通りに泊めてやったぞ。さっさと出ていってくれ」
 だが彼はそう言って彼女の脇を通った。昨晩のようにテレビを点けると、チャンネルを変えてニュースにした。キャスターは爽やかな声で原稿を読み上げていた。虐待を受けていた若者の支援についてだった。
 拒むように向けられた背中に、彼女はどんな言葉をかけるか戸惑う。ここにいたい、と言ってみたかった。でも、彼の様子はどこまでも冷たげで、人を遠ざける空気を生み出していた。
「分かった。泊めてくれてありがとう。凄く感謝してる」
 彼女は昨晩着ていた服を抱えて脱衣所に向かった。引き戸は重々しく感じられてならなかった。苦心して中に入ると、彼女は静かに腰を落とした。ドアに背中を付けて、唇を結んだ。どういうわけか、ここはとても落ち着くところだった。長居したいとさえ思うような空間だった。ただ一夜を明かすだけの、まるで思い出したくならないような場所たちとは違った。ただの脱衣所の匂いさえ、今はどうしてか愛おしく感じる。けれど、そうやってプラスの感情を抱く度、心にはマイナスの感情が立ち現れてしまう。これは単なる気持ちの昂ぶりに過ぎない、冷め切った声の自分が言う。
 彼女は誰にするわけでもなく頷くと、立ち上がって昨日の格好に戻った。
 出ようとしてドアに手をかけると、肩に髪の毛がついているのを目にした。
 それは、まじないのように。ささやかな願いのように。あるいは、微かな希望のように。
 はらり、その長い髪を一筋落とした。もう一度ここに帰ってこられるように、そう願いながら。
 脱衣所から出た彼女は、ベッドの近くに置いていた鞄を肩にかけると、ちらと彼を見た。彼は彼女なんていないふうに振る舞っている。またテレビははめ込み合成と変わらない。湯気を立てるコーヒーだけが彼の本当のようだった。
 彼女は何も言わずに玄関へ歩いていった。靴に足を押し込むと、そこから先へ進みたくなかった。ただの思いつきでやってきたはずのここは、彼女にとっての安全地帯になっていた。また外に出れば、陰鬱な時間が待っている。
 彼女は鼻を啜って唾を呑んだ。瞬きを一つして、ドアノブに手をかける。唇がわなわなと震えたけれど、力を込めた。これはきっと、これまでのどれかと同じようだ、そう言い聞かせて。
 差し込んできた光が眩しい。彼女はもう一方の手で目元を覆った。日の光は苦手だった。そんなことでさえ、自分が生きるに値しない人間であるように感じさせてならなかった。
 離したくない手も、体が完全に出てしまえばそうするしかなくて、ドアの閉まる音が別れの挨拶のように聞こえた。
 彼女はしばらくその前から動けなかった。動きたくなかった。そうしていたところで、何かがあるはずはないのに、そうしていたかった。いったいこの世界に、ドアをじっと見つめている人間がどれほどいるだろう。開けることは許されず、遠ざかることもままならず、ただ見つめるだけの人間がどれほどいるだろう。枯れてしまったはずの川に、もう一度潤いが戻るような気がした。
 それでも、秋の冷たさが徐々に彼女の身体を蝕んでいくと、そこに留まっていたいという気持ちはさらわれてしまった。
 アパートの敷地を出て、大通りにまで出てしまうと、小さな胸の痛みはどうにでも出来てしまいそうな気がした。彼女は改めて自分が女子であることを悟った。全てを受け入れ、全てを飲み込み、全てを捨て去る。悲しみも哀れさも、どうせ過去だなんて割り切ることの出来る、女子なのだと。
 彼女は家に母のいないことを切に願いながら、冷え込んでゆく世界を独り歩いていった。
 あれは夢だ、酷い悪夢だ、そう思えばカイの心の平穏は保つことが出来た。彼女を泊めてやったあの日から、早くも二週間が経とうとしていた。
 忘れ去るため、彼はいつも以上に仕事に精を出した。仕事をしている間は、他の事に対しての様々な感情を考えずに済むからか、もとより仕事熱心だった彼は、課長が思わず声をかけるほどの働きぶりだった。
 そうして過去を忘れ、現実に戻ろうとしかけていた彼は、久々に図書館に立ち寄った。近頃は会社帰りの社会人にも利用してもらえるようにと、ある曜日には開館時間を延ばしているらしい。そういうサービス精神旺盛なのが、結局日本人の労働問題を悪化させているのにな、と思いながらも、カイは不謹慎な有り難みを感じて本棚の間を縫う。それでも、図書館側が来てほしいのだろう壮年の姿が概して見られないのだから、せめて自身はその気苦労に報おう、などとぼんやり思った。それから、そう考える自分が急に浅ましく感じられて、大きく溜め息を吐いた。
 ずらりと並んだ本、本、本。本屋に寄っても思うことだったが、この世にはもう本が飽和していると、カイは題名も作家名も知らない本の列を眺めて感じた。きっと、これらを全て燃やし尽くしたところで、作家と一部のファン以外は気付きもしないだろう、そう考えたりして、彼は僅かに首を横に振った。
 結局足は、名の知れた文豪の名前が見える本棚に移る。どれだけ著名だろうと、現代作家の本は読む気になれなかった。扱うテーマが身近なものになるからだろうか、どうしても最後まで読み進めることが出来ない。文豪のそれは、どこか他人事のような気がして、それでいて心の働きみたいなものは現代人の感覚よりしっくり来るように思われて、読んでも良いという気になれるのだった。
 ふと、彼は目を止めた。そこにあったのは、堀辰雄の「風立ちぬ」だった。長らく気になっていたが、手を出せずじまいだったそれが、今という瞬間を運命めいたものにしろ、と告げているように思われて、彼は随分とぎゅうぎゅうに詰まった本棚から引き出した。ラミネートはまだ真新しい。ぱらぱらとページをめくってみても、その肌は生娘のようだった。
 彼はそれ以上本棚の間を彷徨うのはやめて、座れる場所を探した。二ブロック先を行ったところに、読書スペースを見つけて、彼はそこへ一直線に進んだ。新聞紙を広げた老人が一人と、何やら一心に文庫本を読み進める少女が一人、向かい合って座っていた。カイは少女の二つ隣に腰を落ち着けた。
 表紙には目もくれず、本文の見えるページを開いた。もともと気になっていたといっても、堀辰雄のことを知っていたわけでもないし、物語のあらすじもまるで把握していなかった。ただ漠然と、心の奥深いところに、このタイトルがいるような気がしていた。
 最初の数行を読んで嫌になったら、さっさと戻して帰ってしまおう、そう思っていた。けれど、やはり文豪の文章というものは、その数行で彼の心を掴んだ。文豪という称号のせいかもしれない、そう思う気持ちはありつつも、彼はページをめくることが出来た。それで、彼は借りることに決めた。
 こんなすぐに席を立つことを、周囲にはどう思われるのだろう、なんてことを考えながら、カイは今日何度目かの溜め息を吐いた。
 それをかき消すような、バン、という音。
 自然と身体がその方を向いた。胸元に十冊ほど抱えた女性の足元に、音の原因だろうハードカバーの本があった。
 それからはもう、彼自身でもどうしてなのか分からなかったが、本を拾っていた。見れば、美羽がこよなく愛していた作家の本だった。彼は何かを感じる前に本を手渡した。
 どこも似ていない。身なりに気を遣うこともなく、一気に何冊も抱えるくらい無計画で、拾ってもらったお礼ももごもごして聞こえにくい。惹かれる部分は何一切ないはずなのに、なぜかカイは目の前の彼女のためを思って行動したことに、どこか充足感を抱いていた。
 きっと、本を愛しているというたった一点が、でも何より大きいことに思えて、放っておけなかったのだろう。
 この振る舞いは、彼の内側に優しさが残っていることを示すものではなかった。ただ過去に囚われ、失った愛に操られているだけに過ぎなかった。少なくとも、カイはそうだと感じていた。
 あたふたしながら彼女が立ち去ると、彼はもう一度席につくことにした。年のせいかすぐ疲れるな、と彼は嘘を吐いた。
「やっぱり優しいんだ」
 声の主は誇らしげな笑みを浮かべながら彼を見ていた。指を文庫本に挟んだ少女は、夢で逢った彼女だった。
「ついてくるな」
 銀杏の並木道を歩いていたカイは、我慢の限界が訪れて振り向いた。
 図書館で彼女に話しかけられてすぐ、彼は人違いだと言いたげに背を向け、「風立ちぬ」を借り出して外に出た。無視していればその内諦めるだろう、と高をくくっていたのだが、どうにも意思は強いらしく、彼女はいつまでもついてきつづけるのだった。
「言っただろ、一晩限りだって」
「違うよ、今日は泊めてほしいって言いにきたんじゃなくて、ただ、あなたと話がしたかったの」
 カイは〝ハトに餌をあげないで!〟と書かれた看板を看板をまじまじと見つめた。なるほど、そういうことか、と。
「金輪際関わるつもりはない、って意思表示したんだ、俺は」
 言葉自体は尖って聞こえたが、中身は実に柔らかいことは、彼女にはすぐに分かってしまった。彼は、本質的にそういう人物なのだ、と彼女は見抜いていた。
「それは私が、女子高生だから?」
「ああ、そうだ。俺は自分が一番大事だからな。分かったらもうついてくんなよ」
 言い切って、歩速をさらに速める。
「嫌。あなたみたいに優しい人、初めてだし。せっかく再会出来たんだから、もっと一緒にいたい」
 それに彼女は応える。
「お前、俺のこの顔見えてるか? 願い下げだ、って顔が」
 カイは眉間にシワを寄せて、疎ましそうな顔をしてみせた。
「じゃあ、一個質問させて?」
「断る」
 彼は彼女から視線を逸らした。心が微かに痛む理由を、必死に考えまいとしながら。
「さっき、なんで本拾ってあげたの?」
 ピタリ、と足が止まる。瞬きを一つして、大きく溜め息を吐く。少しでも質問の答えを考えようとした自分が嫌で仕方なかった。
「自分が一番大事だなんて、嘘。そういうのは、まるで動こうとも思わなかった私みたいな人のことを指すんだもん」
 彼女がどんな顔をしてそんなことを口にしているのか、知りたくない彼は消失点だけを見ていた。だが、その前に彼女はぴょこん、と跳ね出てきた。
「お前さ、もう帰れよ。日も暮れてんだろ。変なのが出てくる前にさっさと帰れ」
 手で払うジェスチャーをしたって、彼女は嫌そうな素振り一つ見せない。見透かされたような気がして苛立ちを感じるのに、その一方でどこか安らぎを感じて、思わず拳を固めて自分を諫めた。
「だから言ったじゃん。帰りたくないの。機嫌が悪かったら暴力振られるんだから」
 カイはわざとらしく右斜め上に目玉を動かした。まったく厄介な奴にターゲットにされてしまったと思って、大きめに息を吐く。心の底から聞こえる気がする声は無視しながら。
「お前、結局泊めてもらいたいんだろ?」
 立場の弱さを盾に取られたら、結局のところカイに太刀打ちする術はない。他人に無関心な現代では、いくらカイの方が被害を受けている側だと主張したところで、いたいけな女子高生を誑かしているだけだとしか思ってもらえないのは明白だった。
「え? 泊めてくれるの?」
 そして、カイは自分の発言がドツボにハマったことを理解した。少女は別に、今日の宿が無いとは一言も言っていないのに、彼が自分から流れを提供してしまったのだ。
「これでいっぱいお話出来るね」
 カイからすれば、女子高生なんてもう、異性として見るには年の差がありすぎる。世の中にはそれでも愛情は生まれ得るのかもしれないが、少なくとも彼にとっては、彼女はいつ爆発するか分からない爆弾でしかない。
「人の迷惑ってものは、考えられないのか」
 彼は眉間を指で押さえた。彼はこれまで、多くの女性と関係を持ってきたが、どこかで規範めいたものはあった。健全な男女の過ちは犯しても、社会的な何某にもとる行いは慎んできた。だがそれを、彼女の前では出来る自信がなかった。
 似ている。見れば見るほど、どこまでも。最初に会った時には、微妙に違うところがあると感じたはずなのに、今はもう、生き写しのようだとしか思えない。
「迷惑だってことは、分かってるけど……でも、私に何の色目も使ってこなかったのは、あなたが初めてだから。あれからずっと、もう一度あなたに逢ってみたいって、思ってたの」
 カイは悲しくなった。どれだけ男を知っていても、それでもなお、重ねた年には勝てないのだと思ったから。少女は知らない。内に秘めた衝動を、全く表に出さないでいられるようになる、ということを。
 彼女の言葉は、巧みだった。もっとも、意識して言ったわけではないが、彼に否定を許さなかった。否定しようものなら、彼は彼女に色目を使っていたことになる。もちろん、彼女は自分がなぜカイにとって特別な存在かなど分かるわけもないのだから、単に対等に接してくれる人、としか考えないわけで。
「どうしても、ダメ……?」
 夢が夢で終われば良いのに、とカイは思う。美羽によく似た少女と出逢って、泡沫のような瞬間を過ごした。そんな摩訶不思議なお話。そんなふうに終わってほしかった。
(ああ……似てる……。頼み事をする時に両手の指先を合わせる仕草まで……)
 ずっと追い求めてきた。美羽によく似た誰かを。美羽を思い出させない誰かを。その誰もが、美羽とはまるで違う部分を持っていたし、美羽のような部分を持っていた。みんな不完全で、彼はやり直すことが出来なかった。
 瞬間、ある思いが彼の脳裏をよぎる。
(やり直せるんじゃないか、今度こそ……)
 身も心も、美羽と同等か、それ以上の人と、本当の愛を築きたい。彼の根底には、そんな思いがずっと存在していた。叶うはずのない願いを抱いてしまったからこそ、ここまで彼は歪み、苦しむハメになった。
 でももし、それが叶う願いだったとしたら……?
「好きにしてくれ。その代わり、面倒事だけは持ち込むな。俺の平穏な生活を脅かさないこと、それが条件だ」
 情けないと思った。それでも彼は、未だに美羽に縛られていた。彼女のことを、愛していた。
 二人は黙ってテレビを見ていた。ローテーブルを間に挟んで、特に何を話すこともなく、映像が流れるのをじっと見つめるばかりだ。
 有名な芸人が、スタッフを引き連れて海外ロケに向かう番組。オリジナルカレンダーを作るために、世界の絶景スポットを撮影しにいく、という企画だ。チャンネルを決めたのは、どちらだったか。それさえもハッキリしないほど、二人には内容自体は興味がなかった。笑いを誘う状況になったところで、少しも表情を崩さないし、もしここに他の誰かがいれば、どちらとも心が壊死しているのではないかと疑っただろう。
 バラエティ番組というのは、二人にとっては最も虚しく、それでいて最も有難いものだった。頭を使わないで済む分、気を楽にして見ることが出来る。重くのしかかることについて気を揉む必要もなくなるけれど、事態をそのままにしているというぼんやりとした不安を高める行為だった。それでも、二人はそれを選んでしまう性格だった。何かを変えるために、全力で向き合うということを、二人はこれまで一度もしたことがなかった。
 CMになって、ようやくカイが身体を動かした。その仕草からは、とても部屋にもう一人がいるということを意識していない様子が窺えた。おもむろに立ち上がって、キッチンの方へ歩いていく。冷蔵庫を開けたかと思うと、炭酸水を取り出して、近くに置いてあったコップに注いだ。それから二、三個氷を入れると、またテレビの前に戻ってきた。
〝俺の平穏な生活を脅かさないこと〟というのが、どこまでを指すのか。それが分からなくて彼女は口を開けないでいた。いや、本来の彼女なら、カイの気など何一切気にすることなく、自分のわがままを押し通していただろう。事実、ここに再び転がり込むことが決まったのは、彼女が我を通したからなのだ。それが、いざ部屋の中にまで入ってしまうと、途端に緊張のような感覚が芽生えて、どうすることも出来ないでいた。
 正直に言えば、彼女は拒まれるか、身体を求められると思っていた。まるで彼女に手を出そうとしなかった彼は、本当に彼女のことを厄介者だと思っているか、理性と闘うことの出来る稀有な例だったか。前者でなくなった以上、今度はそういうことをしたいとどこかで考えているに違いない、そう思ったのに。本当に彼女を保護するだけのような感じになっていて――彼女は、もっと彼のことを知りたいと願うようになっていた。
 けれど、そのためには彼の機嫌を損ねるわけにはいかなかった。軽口を叩かないで普通に人と接する、という方法を彼女は知らなかった。
 父親が出ていって、母親がどこかの誰かを連れ込むようになってからは、母親との不和を顔に出さないための虚勢の張り方を身に付けていったから。
 自分の気持ちを、誇張せずに伝える術を、持たない。
 だから、気付いて、気付いて、と視線を送ったりもぞもぞ動いたりしてみるのだが、カイはまたテレビに一心に意識を向けるばかりで、彼女の涙ぐましい努力にはとても気付いてくれない。
 みんな、構ってくれる男ばかりだったから。我慢が長く続くわけはなかった。
「私もそれ、もらって良い?」
「ああ」
 でも、ただのそれだけ。なんで自分をもう一回家に上がらせてくれたのかとかえって聞きたくなるくらい、彼は彼女に何の視線も送ってくれない。気を惹くためにスカートを折って、クラスの男子がヒソヒソ話していることからも定評があるのが窺える生足を見せつけて、胸元もその気になれば大した努力なしに覗けるようにしているというのに、彼はこれまで他の男がしてきたような、男らしい本能的所作をまるで見せない。わざと前を通って意識させようかと思ったけれど、怒らせるだけでしかないだろうな、と思い直して、後ろを通って冷蔵庫の前まで一直線。
 求められないことをどこかでずっと望んでいたのに、都合の良い逃げ場を見つけられたはずなのに、彼女の心を占めていたのは喜びなんかではなく、飢えに近い渇きだった。
(あ、私、正しく愛してほしかったんだ)
 食器棚から彼のより一回り小さい――きっといつかの誰かが置いていったものなのだろう、彼の選ばなそうな小洒落た装飾があった――グラスを取った時、彼女は初めて自分の思いに気が付いた。
 家出少女が心の底で求めていたもの。それはあたたかい寝床だった。でもそれは、これまでのようなあたためる寝床でもなければ、あたたかいだけのものでもなかった。ぬくもりを感じることであたたかいと思える、ずっと精神的なものだった。
 一口、喉に通した炭酸はただただ痛かった。ボトルをよく見れば、強炭酸とだけ書かれていた。
 今まで味わってきたのは、甘い、でも邪な思い。どれも長くは続かなかったのは、結局、そういうこと。本当に必要なのは、この無味な炭酸を、美味しいと思えるような彼を振り向かせて、心から愛してもらうということ。
 彼女は振り向いて、カイの背中を見た。
 この人と本当の恋をしよう、決めた喉は、まだヒリついていた。