アパートのドアを開けると、カイは苦々しい顔をした。
 迎えてくれた数々がよみがえったから。
 誰もが彼と愛を誓ってくれた。誰も誓いを守ってくれなかった。
「良いか、俺が許可したもの以外に触れるなよ、絶対」
 パチ、と電灯のスイッチを入れると、よく整頓された部屋が浮かび上がった。
「男の部屋なのに……キレイ」
 カイは彼女の反応を気にも止めなかった。
「風呂張るから。入るかは任せる」
 そう言って風呂場へ向かう途中、最後に付き合った彼女が置いていった化粧品が洗面台で寂しそうにしているのを目にした。そこは次の彼女が出来た一瞬だけ手を触れる場所で、それ以外の時は放置されていた。
 彼は儚げに目を伏せて、風呂場のスイッチを入れた。
 リビングに戻ると、彼女はローテーブルの前にちょこんと座っていた。
「今からでも帰って良いぞ」
 それは冗談なんかではなく、本気だった。仕事で疲れたところにこんな厄介事を背負い込むのは願い下げだった。
「帰っても良いなら、帰らない」
 彼女はカイの方を向かずに答えた。
「テレビ、見て良い?」
 言いつけを守ろうとする姿勢に、彼は少しばかり権利を認めてやる気になった。
「ああ」
 テレビには夜遅くに一般人の自宅に訪問する番組が映っていた。あれってギャラはいくらなんだろうか、とか思いながら、カイはスーツを脱いだ。彼女がいることなんて気にせず、楽な格好に着替えていく。
 綺麗にスーツを吊すと、彼はまた風呂場に向かって、カッターシャツをバスケットに放り込んだ。
 彼女にどう向き合えば良いか分からなかった。友人でもなければ、そういう(、、、、)相手でもない。渋々泊まるのを許可したくらいだが、それでも受け容れた以上、それ相応の責任が伴うようにも感じて困る。
 女物の服はさすがに持ち合わせていないし、かといって自分の服を貸してやるのもそこそこ抵抗があった。
 だが、外を出歩いた姿のままでずっといられるのも見るに耐えなくて、彼は仕方なくクローゼットから当分着ていなかったスウェットを出した。
 そうこうしている内に風呂が沸いたとメロディが鳴って、カイは
「入るのか?」
 と尋ねた。
「うん」
 うなずいた彼女にバスタオルの位置を教えてスウェットを手渡すと、風呂場へと消えていく姿を見ることも無く、カイはテレビに視線を向けた。
 よく見てみれば、訪問を受けた一般人女性はいつかの元カノに似ていた。髪型とか、化粧の感じとか、そこそこ。
 でも、彼女ほどではなかった。
 溜め息を漏らして腰を下ろすと、自分の行いの虚しさが目についた。
 過ちの始まりに目を向けるような振る舞い。一番好きだった女性によく似た少女に情けをかけるなんて、それこそしみったれた男の典型だと思ってしまった。
 それでも、あの場ではどうすることも出来なかったと必死に言い訳を探した。美羽に似た彼女が危険を冒して変な男の家に転がり込むなんて――
「たまたま俺だっただけなのにな」
 口にして、カイは自分が運命めいた何かを彼女に見出そうとしていたことに気付いた。
 彼は自分が男の中でも一番男らしい存在なんだと感じた。
 未練がましくて、いつまでも大人になれない。
 そんな自分をいつだったか否定した教師は、酷く正しかったように思えた。
 彼はぼーっと天井を見上げた。
 早く枯れてしまいたかった。誰もいなくても諦められるほど潤いがなくなってしまえば、そう考えた。
 でも、悩むという行為にたんでき(たんでき)出来るような年でもなくなってしまった彼は、そんな思考の虚しさにすぐに嫌気が差した。
 じっと座っていることもままならず、彼は立ち上がってベランダへ出た。
 けれど、片隅でぽつりと(たたず)むサボテン、そこにも昔の恋人の面影が見えて。
 幾度も同じような痛みを覚えたはずのに、未だに処分しない自分の心弱さに思い至って部屋に戻るしかなかった。
(いったいここで、俺は何人を不幸せにしてきたんだろう)
 繰り返す度に、悲しみは募る。
 愛は忘れられて、愛し方だけが残った。
 それが大人の恋だ、なんて言い訳をして。
 彼はこの部屋で愛を溢し続けてきた。
(なんでだ。何なんだ、これは)
 誰とも愛を誓ったのに、誰にも誓いを守れなかった。
 部屋の至る所に、忘れたい面影が見える。
 過ちを繰り返さないための恋だったのに。過ちを繰り返すだけの恋にしかならなかった。
 目の前にいる誰かは、美羽を見るためのレンズでしかなかった。でも、普通に見る分にはまるで美羽に似ていなかった彼女らは、薄ぼんやりと罪悪感を感じさせるに留まった。
 だから、彼女の存在は、真実の塊としてカイの目には映った。
(どうしろって言うんだよ、俺に)
 ただ今日限りの災難、そう思えば済む話だ、と言い聞かせても、効くはずが無かった。
 過ちを繰り返していただけだったとしても、今日までカイを突き動かしてきたのは、紛れもなく美羽への気持ちだったから。
 カイは目を瞑った。
 彼女が出てくるのが、恐ろしくて仕方なかった。