「断る」
 カイは自分の声が上ずっていないか心配だった。
 瓜二つ、ではない。だが、遠巻きに見たのなら、確実に見間違える気がした。身長、体型、髪型、化粧の薄さ、目元、鼻、胸。美羽には妹がいないと知っていたが、従妹か何かかと考えたくなるくらいには、色濃い面影があった。
「お前、高校生だろ」
 居酒屋をこの時間に上がるなんて、それだけでも年齢は知れる。もちろん、そこがまともなら、な話だが。
「そんな奴を泊めたりしたのが世間に知られちゃ、俺は即刻鼻つまみ者だ」
 こういうのは真っ先に両断すべきだ、と彼は分かっていた。一瞬でも躊躇(ためら)えば、罪悪感が芽生えはじめる。視界に映ったことさえ、記憶に留めないように断ち切る。
 いまだに引きずる彼女を思わされる少女、なんて。
「ネカフェでも漫喫でも行けば良いだろ」
 カイは彼女の手を振りほどこうとした。
「声、上げても良い?」
 ピタリとカイは動きを止める。知ったことか、と振り切ることはさすがに出来なかった。
「脅してるのか? それ」
 こちらは何も動揺していないことを暗に伝える必要があった。そんなものは俺には効かない、と。
「この状況で私が声を上げたら、悪いのはどっちに見えると思う?」
 いくら美羽に似ていようと、こいつは同じような見た目をした災厄だとカイは感じた。自分の社会的身分を盾に取って他者に寄生する奴だ、と。
「真っ当に事情を説明すれば、お前が家に帰りたくないだけの非行少女だとすぐに分かる」
 こんな奴と関わり合いになるのは心底ご免だ、と言い聞かせる。それだけ揺さぶられるものがあるのがカイには嫌で仕方なかった。
「今晩だけ、だから……泊めてよ」
「脅しが効かなくなったら泣き言か? 悪いな、俺はこう見えて真人間なんだ。年端の行かない女に興味は無い」
 それはまるで、少女でない誰かに向けた言い訳のようだと彼は思った。
「分かったらさっさと帰れ」
 そう言っても、彼女は依然として腕を放さない。
「嫌。家に帰ったら、酷いことされるから」
 虐待でも受けているのか、手が出るカレシでもいるのか、何にせよカイはそんな面倒事はまっぴらご免だった。
「そんな奴引き受けてみろ、その酷いことをしてくる奴が俺の家に殴り込んでくるだろ。冗談じゃない」
「言わないから、絶対あなたの所に行ったって言わないから、お願い、お願い……」
 おいおい、マジかよ、とカイは顔を背けたくなった。
 ついに彼女が泣きだしたから。
 女の涙は見慣れていたが、そこに何かを感じる心にはいまだに慣れないところがあった。
 しかも見計らったかのようにすぐ脇を通っていったOLが、二人の方をチラリと見て怪訝そうな顔をしてみせた。
 人間観察をするテレビでも来てるんじゃないだろうかと思いながら、カイは大きく息を吐き出した。
「やめろよ、実質脅しの強硬手段に出てるだろ、それだと。……クソ、一晩だけだからな」
 それで済むはずがない、と分かってはいた。一度使えることが分かれば、誰だって繰り返す。ダメになるまで、やめることは適わない。
「ありがとう……ママに会ったら、またタバコ、押し付けられそうだから」
 本当にそういうのいるんだな、と思うと、苦しむ彼女を助けてやった、という安っぽい正義感が束の間彼を良い気にさせるのを感じて、カイは顔をしかめた。
「礼とか言うな。俺は今この瞬間の保身を考えただけだ」
 そう言ってカイは彼女の手を振り払った。
 彼女のことは極力考えないようにして家路を辿りはじめる。すぐ傍に異性がいる雰囲気は彼にとってもう苦しいものとしか感じられなくて、嫌になった彼はタバコを吸いはじめた。
 澄んだ夜の空気の代わりに煙を吸うのは、どれだけ不健康だと分かっていても、悲しい自分にはやめられないことだと思った。
 酒を呑むのも、タバコを吸うのも、女と寝るのも、悲しいからだ。一時(いっとき)その悲しみを忘れられるからだ。そうしない奴はあまりに幸せに過ぎるとカイは思った。
 本当は、自分の体面を気にするほど綺麗な人間ではなかった。少なくとも、彼は自分を〝真人間〟だとは全く思っていなかった。同年代が少しずつ身持ちを固めはじめているのを耳にしながら、その夜限りの関係にばかり耽溺する彼は、むしろ〝クズ〟でしかないと思っていた。
 そうなった原因を思わされた先刻のことを思い出して、カイは苦虫をかみつぶしたような顔をした。
 本当は、どこかで真っ当に愛せる女性(ひと)を見つけて、適当に落ち着けば良いだけだと分かっているはずなのに、実際の彼はまたこうして厄介事を振り切れずにいる。
 結局最後まで食い下がられてしまったのは、彼が彼女を置いて立ち去れなかったからで。
 その理由は、今の彼がある原因そのもので。
(俺はずっと、あいつに縛られてる)
 それほどまでに愛していたはずなのに。
 どこで間違えてしまったのだろう。どうして間違えてしまったのだろう。
 もし少女が美羽に似ていなければ、彼はこう口にしていたはずだ。
〝俺以外を当たれ〟と。
 社会的な面目を考えず、捕まったって良いとさえ思っている倒錯した輩の前に少女が立つのは、耐えられなかった。
 少女が美羽に似ていたから。
 カイがまだ、美羽に惹かれていたから。