どんな時でも人は食事を取る。人と始まった時も、盛り上がった時も、終わった時も。悲しいほど、それだけは避けられない。一度や二度くらいは抜けたとしても、感情は食欲を淘汰しきれない。食事は多くカイの心を虚しくさせる行為だった。
怖かった。小さな幸せが大きな不幸せに繋がるということを知っていた彼には、今が後になって禍のように降りかかってくるイメージしか湧かなかった。
「美味いよ」
けれど、彼は自分の心をやつれさせる天才だったから。相手の口に合うか気になりつつも、素直に美味しいか尋ねられなくてチラチラ彼の様子をうかがうばかりのカンナを見て、そう言ってあげるだけの優しさを見せた。もっとも、舌はそのシチューがよく出来ていると判断していた。カイは思ってもいないことはあまり口にしない。だが心がこもっているかはまた別の話だった。
「料理くらいしか取り柄ないから、私。料理を認めてもらえたら、自分が認めてもらえたような気がするの」
真一文字に結ばれていた彼女の口が僅かに綻んだのは、照れなのか劣等感の表れなのか、引かれた顎のせいで判然としなかった。
「調理の専門学校に行きたかったんだ、本当は」
本当は、という言葉はとても弱々しかった。専門学校のことは彼は詳しくなかったが、秋も深まるこのシーズンに進路に対しての明るい感情を持っていないということは、願う通りの形にはとてもいかなそうに感じた。
「もう働けって、ママが。ママもそうだったから、必要ないと思ってるの」
こういう時どういう言葉をかければ良いか、同じような話をされたことが何度あっても、未だに分からなかった。望む通りにしたら良いと言ったところで無責任だし、諦めろと言うには不憫で、そうだなと話を聞いてやるのが一番の正解だとは思えても、何も生まないその正答が彼は酷く嫌いだった。
「あ、ごめんね、こんな話されたら、不味くなっちゃうよね」
彼はほんの少し考えてから、「いや、別に」とだけ返した。
どうして、と思ってしまう。きっとカンナは、生まれた家がもっと真っ当なら、もっと幸せに生きられただろう。そんな家庭に育ってなお、彼女の根はカイなんかよりずっと真っ直ぐだった。彼女のように恵まれない境遇にあった子と幾度か付き合ったことがあるけれど、みんな自分のことだけを考えていた。それが生存への最後の足掻きだとは分かっていても、自分のことしか見ていない彼女たちが最後には嫌で嫌で仕方なく思えてしまった。
「なら、今度俺の好きなの作ってもらっても良いか」
だがそれは何より、自分への憤りだった。自分のことしか見ていないのは、カイも同じだった。けれど、自らを肯定しきるギリギリ手前で踏み留まっているから、どうしようもない酸欠状態になって仕方ないのだった。ただ救われるだけに徹しようとすることも出来ない。断罪して誰かのためにその身を捧げることも出来ない。自分の今を見つめるだけの余力が残っているから、彼はずっと辛い。
「うん、何作ったら良い?」
彼を見つめるカンナの瞳に吸い込まれそうになって、ふいに、彼は彼女の頬に手を伸ばそうとした。だがすぐ我に返って、行き場を失ったように見えないように頬をかく仕草に変えた。
(やっぱり俺は、最低だ)
美羽に似ていたからそうしたわけではなかった。ただ目の前の誰かに慰めてほしい、そんな欲求だけがそこにあった。渇ききった心に、僅かでも潤いが与えられるなら、それで良い、そんな感情。
「私、何だって作ってみせるよ」
だから、美羽との関係を破綻させた。それは彼自身の業そのものだと言うのが正しいだろう。
「ロールキャベツが良いな」
抗おうとすればするほど、かえって自身を深く縛り付けるもの。その根の深さを痛感させられるだけで、結局目を背けてしまう自分の弱さ。やり直せるかもしれないと思わせてくれた彼女にさえ、彼の本質は同じものを求めようとしていた。
いけない、そう思ってはいるのに。
「作ってくれるか?」
底に大きな穴を開けた彼の心は、ただひたすらに愛を欲する。そこに注ぎたいと思わせてしまうだけの容姿を、神様がお与えになって、彼の求めるとおりに、誰もが言うことを聞いたから。
美しい男と、美しい女と。不幸なエッセンスを垂らされた彼らは、愛の真似事を繰り返す。愛した気になって、愛された気になって。愛でているのが自分だと分かった刹那、熱は冷めるという形容も生ぬるいほどに消え去る。
「めちゃくちゃ美味しいの作ってあげるから、期待してて」
最早演じているという自覚は彼らにはない。たとえ偽りであろうと、愛の形をした服を身に纏っている間だけは、不幸せという現実から目を背けられるから。
カンナを見るカイの目は、少しずつ思考を捨てつつあった。これまでも何度となくそうしてきたように、やり直すチャンスを涙腺へ流そうとしていた。
〝調理の専門学校に行きたかったんだ、本当は〟
自分がそんなことを言ったのだということをカンナは信じられなかった。
またカイは心を無にしてテレビを見ている。カンナもまたそうだった。映像は流れているが、色の塊があちらこちらへ動いているだけ。脳は全て単一の疑問を解くのに使われてしまっている。
それは心の底から抱いた願望ではなかった。廊下に貼ってあったポスター群の中で、唯一視界に入って、興味まで持てたものだった。自分の好きなことが、誰かの役に立つ日が来るかもしれない。ほんの少しだけ希望を抱かせてくれた。
でも、そんな淡い夢は口にするより先、母親に両断された。どんなに自分にきつく当たる人でなしだろうと、彼女を育てたのはその母親で、親権を持たない父親ではない。母親がダメだと言ったら、そこで終わりだ。お金を貯めて、といっても現実的な額ではない。稼げるようになるための場所に、稼ぎがない人間は行くことが出来ない。
だからずっと心の奥深くにしまい込んで生きてきた。そう時間が経たない内に、一瞬の気の迷いだと思えるようになった。きっと専門学校に行けていたとしても、すぐに嫌になってしまって退学するだろう、と言い聞かせれば、そんな気がした。
それなのに。どうしても叶えたいことだったように口にしていた。何としてでも行きたいという意志を示したことだってなかったのに、あと一歩及ばなかった子のように言っていた。
心を許してしまっていた。彼女はすぐにそうした理由に思い至った。
優しいのだ。カイが。料理の腕に自信があると伝えたとはいえ、会ったばかりの相手の手料理を臆することなく口にして、本当かどうかに関わらず「美味しい」と言ってくれるなんて、彼女がこれまで出逢ってきた男たちとは決定的に違っていた。そうした男たちは、彼女が持っているものにしか興味がなく、彼女が生み出せるものにはまるで関心を示さなかった。
だが裏を返せば、それはカンナにとっても同じことだった。相手がカンナの求めた以上のものをくれようとしたところで、有難いと思うようなことはなかった。お互い打算だけだった。
(この人は、どうして私をここにいさせてくれるんだろう)
表情の抜けた顔は、彼が哀しい人であるということだけを教えてくれる。
身体を求めてくるわけでもない。家事をさせるわけでもない。彼は何も求めてこない。きっと、彼女が訪れるのをやめれば、ただのそれだけになってお終いだろう。
何となくは、感じていた。カイは自分を見ているわけではないと。彼の言葉は全て、どこか無機的だったから。
その訳を知るには、あまりに情報が足りない。だが聞き出そうものなら、この関係はあっという間に破綻するだろう。最初にカイが言ったように、彼は干渉されることを望んでいない。過去に踏み入ろうとする行為は、間違いなく彼の許容の範囲外だ。
だがその許容がなぜ起きるのかを解明したいという思いは、募るばかり。
カンナだったから許したのか、誰であっても同じ道を辿ったのか、それだけでも知りたかった。
しかし、そのことを上手く聞き出すだけの言葉が何一つ浮かばなかった。自然な流れなど生まれようがない。不自然な会話の糸口はあっという間に手繰られて、本心がずるりと引き出されてしまうだろう。
やるせなくて、テレビに顔を向けるしかなかった。カンナは綺麗だと思わない女優が、今人気沸騰中の若手俳優に詰め寄って本心を問い質しているシーンだった。
「どうして私じゃダメなの!」
話の筋を全く把握していないから、どうしてそんな言葉が出たのかもまるで分からない。女優の演技は下手ではないが上手くもないし、ただ顔でテレビに映っているだけ、という印象が強くて感情移入も上手く出来ない。それでも、言葉だけはカンナの心に何かを訴えかけていた。
「違うんだ、僕らは……。最初から決定的なまでに、違っていたんだ」
彼の方が、よっぽど演技が上手かった。目元をほとんど覆っている前髪も、自分の思いを上手く伝えられない不器用さが表せていて好ましかった。
「だったらなんで、今日も私と会ってくれたの」
所詮作り話だ、そう思う。現実は一度だってこんなロマンチックなシーンをくれたことがない。いつもなし崩しに始まって、どこかに置き忘れるように終わる。向き合って思いをぶつけるようなことなんてなく、少し時間が経ってから、終わったんだな、とぼんやり思うだけ。
目だけを動かして、カイの顔を視界の中心に捉える。疲れているのか、まどろみつつあった。もうすぐ十時だ。普通の社会人なら眠くなるのだろう。
「眠いならベッドで寝たら?」
「そうだな……けど、その前に風呂入ってくる」
「うん、いってらっしゃい。このままドラマ見てて良い?」
「好きにしたら良い」
カイは気怠げに立ち上がって、浴室へ向かった。
(結婚って、こんな感じなのかな)
もう随分長い間、真っ当な未来について考えることがなかった。それほどまでに荒んだ時間を過ごしてきた。
今のこれが、良い時間かと言えば、それはそれで違う気もするけれど、やはり相対的にはとても穏やかで、落ち着いた愛おしさすら感じる時間だ。
これで構わないから、ずっと続いてほしい。好きになれないと確信してしまったドラマを見つめながら、カンナは眉尻を下げた。その願いさえ刹那的にしか抱けないくらいには、彼女はもう大人だった。
「岡山、ですか」
何を言っているんだ、と思った一回目。
「藤堂と」
何を言っているんだ、と思った二回目。
「いやぁ、昔からよくしてもらってる人だからねぇ、お願いの一つや二つ、聞いてあげないとなのよ。女性社員の多い会社だからね、出来れば女の子が良いと。でも今うちから出せるのは藤堂ちゃんだけだし、かと言って来たばっかりのあの子一人で行かせるのは酷でしょ? 多分、一人でもこなせちゃうと思うけど、赤間君、ちょうど今のプロジェクト一区切りつきそうだし、美男美女で来たら先方も大喜び、君も君も彼女とならハッピーでしょ? ね?」
バチコーン、と擬音がぴったりなウインクとサムズアップ。
「部長、藤堂にはその言い方しないで下さいよ。セクハラで訴えられかねませんから、今時」
「じゃ、オッケーということだね! 申請書はこっちで作っとくから、準備は今から進めてね!」
何も聞いてねえなと思うより先に部長は気持ち悪いステップを踏んで行ってしまった。社長にヘッドハンティングされた驚異のスコアラーなのだが、頭のねじが一本か二本、いやそれ以上に吹き飛んでいるとしか思えなかった。あれでカイよりたった二つ年上なだけとはとても信じられない。おまけに身長がとても低くて童顔で、スーツに着られているというのが意味不明さに拍車をかけていた。ある意味で、天は二物は与えなかった、ということなのかもしれない。
溜め息を吐いたかと思えば時計は正午過ぎを示していた。今朝は昼ご飯を買っていなかったから、カイはどこかに買いに行くことにした。外に出てすぐ、秋の深まりというよりは冬の始まりと思いたくなるような冷たい風が吹き付ける。やっぱり食堂にしようかと振り向きかけた彼は、すぐ後ろに藤堂がいたせいで肩をビクッと震わせた。
藤堂も藤堂で驚いたのか、ただでさえ大きい目を見開いていた。だがすぐに目をパチパチさせると、
「聞きましたか赤間さん! 出張ですって!」
その目を輝かせて言ってきた。
「聞いてますけど。藤堂さん、なんでそんなテンション上がってるんですか」
自動ドアが開いたり閉まったりするせいで、二人は少し脇に移動した。
「移動費も宿泊代も出るんですよ、そりゃ仕事もありますけど、そこそこ時間に余裕もあるなんて、これは旅行ですよ、喜んじゃいますよ」
「まさか、前の職場はそこのところも出なかったんですか」
聞けば、藤堂は相当なブラック企業に勤めていたらしい。労働時間、給与、保障、どれをとっても一級品の真っ黒エピソードが社内に密かに(大っぴらに)流れていた。
「一部負担、って感じでしたね……。そもそもこんなスケジュールだと、日帰りで帰れって言われて、万が一その日の内に終わらなかったら、社員の責任って名目で自腹で泊まってました」
ははは……と枯れた笑いを漏らしても、藤堂は綺麗だった。
「だから私、この会社に雇ってもらえてとっても幸せです。やっぱり皆さん優しいですし、食堂もご飯が美味しいし。知ってます? ブラックかどうかって、社食の美味しさで決まるんですよ? とりあえず腹を満たせたら良い、って感じで入れた食堂は、本当に美味しくないご飯しか出してくれないんです……」
食べるのが好きなんだろうな、と思うくらい、食堂の話から先は熱量が違っていた。食事に興味関心をほとんど失ってしまったカイには、なかなか分からない感覚だった。
「それはそうと赤間さん、ここの近くにすごく手軽で美味しいイタリアンのお店があるんですけど、知ってます?」
「いや?」
「それなら一緒に行きませんか? 一緒に出張行くわけですし、もっと親睦を深める感じで!」
「良いですけど」
そう答えつつも内心は丁重にお断りしたい気分だった。初日にカイに声をかけてきたのは、どうやら卓越したコミュ力の表れだったようだ。明朗で快活、カイとしては苦手なタイプだった。
そのレストランは確かにすぐ近くにあったのだが、そこまでの僅かな時間だけでもカイは容赦なく生気を吸われていくような気がしていた。とにかく藤堂はよく喋る。カイはほとんど聞き専の状態で、彼が頷いたり相槌を打つのを良いことにどこまでも一人で話し続けるのだった。やはり頭のキレる奴はよく喋ると、彼は隣の席の東を思い出していた。
さらにカイを驚かせたのは、注文をする時に店員と仲睦まじげに話しはじめたところだった。彼の二十六年という人生の中で、ウェイターと注文に関すること以外で話をするなんてことは一度としてなかった。輪をかけて凄かったのは、話の流れで出てきたおすすめの品を、流されることなく断った上で、気まずい雰囲気は作らなかった部分だ。これが真性のコミュニケーション力かと思えば、一般的な社交スキルはかろうじてゼロを少し超えた辺りに位置するくらいでしかないと感じてしまった。
美羽を含め、彼の知る女性はみんな彼の前ではそれなりに喋るけれど、他の人に対しては静かでいることが多かった。社内の女性社員についてもそういう人が多いだけに、とても新鮮に映る。自分にその元気さが向いていない瞬間については、だけれど。
彼はまた自分勝手に落ち込みはじめた。藤堂ほど闊達である必要はないものの、彼の理想とする人間像は明るくいることだったから、その対極に向かって歩を進め続ける自分の虚しさがドクン、ドクンと嫌な脈を打つ。どうしようもなくダメな奴だな、と彼は唇を結ぶ代わりに微笑みを作った。嬉しくない時でもえくぼを作れば、少しだけ気持ちが和らぐのを知っていた。
でもちょうど、藤堂が彼の方を向いて。彼がどうしてそんな表情をしていたのか誤解して、正しい感情を乗せて口元を緩めた。
その刹那、カイは自身の中で何か物音がしたように感じた。それはいつだったか聞き覚えがあった音だったけれど、いつ、どこで耳にしたのかはまるで思い出せなかった。
カイは窓の外から視線を外すと、隣で眠っている藤堂の姿を確かめた。出会い頭から「ちょっと寝不足で……」とあくびをしていた彼女は、新幹線に乗るとすぐに眠りこけてしまった。
すっかりカイを信じ切っているのか、実にほぐれた表情をしている。
(俺が女ならもっと警戒すんだけどな……)
ゆっくり見つめてみても、やはり彼女の目鼻立ちは非常に整っている。もてはやすものの最後の最後で奥手な会社の連中は、今のところ藤堂にアタックしたという話は聞かない。確かに相手を気後れさせるほどの美しさだ。
綺麗さについては目の肥えてしまったカイでさえ、意識しなければ見続けてしまうほどの麗しさ。もちろん、化粧の上手さもあるのだとして、それを差し引いても素地の整い具合がよく思えた。
こうも美しい容姿をして、愛想よく振る舞うことの出来る明るさを持ち合わせていられるなんて、同じく端麗な見た目を持っていると評され続けてきた彼からすれば、どこか羨ましく、どこか憎たらしく、どこか理解出来なかった。
ふいに、パチ、と藤堂が目を開けた。
彼女は驚くでもなく、目を合わせたカイに微笑んだ。
「もう着きました?」
「いや、まだ。っていうか全然」
「そうなんですね。なら、まだ寝てますね」
そう言って藤堂は目を瞑った。あっさり寝入ることが出来るのか、彼女はすぐに穏やかなリズムで呼吸しはじめた。
さすがに次に目を開けた時も同じ感じだったら変に思われるだろうからと、カイは持ってきた「風立ちぬ」を出して、最初のページを開けた。やはり家に帰ってからは読むようなことはなくて、延長の手続きだけを済ませていたそれはもうすぐ完全な返却期限を迎えようとしていた。
目は文字列の上を滑る。意味も頭に入ってくるのだが、理解しているとはとても言えなかった。一文一文が何を伝えているのかが分かるのに、それらが繋がって物語を構築しようという働きには至らないのだ。
十ページもいかない内、裏表紙は天井を見上げていた。
読書が好きな頃は確かにあった。美羽との出逢いがそれを最高潮に高めて、でもその最中に失って、以降は果てしなく距離を置くことになった。
本を読むという喜びを、どうして自分が感じられたのか、まるで思い出せない。僅かな煌めきを最初の数行の内に見たような錯覚は覚えるのだが、そこから先、それがやはり気のせいでしかないと悟るのだった。
通路を挟んで反対側に目をやると、大学生くらいのカップルが互いにもたれかかって眠っていた。カイはそんなふうに旅行に出掛けるようなことは一度もしたことがなかった。いつも乾いた日常を潤すのが精一杯で、日常の続きにある非日常なんてものは知らないのだった。
それは幸せなことなのだろうか。思う彼に答えてくれる人はいない。
不幸せを薄めるための恋をしてきた彼には、そういう相手ばかりが集まってきた。同属は初め惹かれ合うけれど、終いには反発し合うのが定めだから、彼はいつも最後に微笑むのが恋だと思うようになっていた。
だから、カンナとの関係に名前をくれてやりたくはなかった。始まらなければ、終わらない。浅ましい抵抗ながら最も有効な一打は、大人になってしまった彼には実に効果的だけれど、そう長くは持続しないと分かっていた。
彼はもう一度裏返ったままの「風立ちぬ」に目をやった。それはあまりにも象徴的だった。
再起の機会を思わせてくれるような喜びを味わわせてくれたのに、いつの間にか再起は出来ないと告げてくるだけの重荷になってしまう存在。あっさり目の前から消し去ってしまえば良いのに、そうするのも億劫で、心を刺したままなのを放置して、痛みに慣れる道を選ぶ。
それでも二十六歳なのだ。自分が変わらなければ、どうすることも出来ない。そんなことは転職を促す広告で、久々に買ってみた漫画で、たまたま付けたテレビでやっていたドラマで、まるで後頭部を押さえつけられて水の中に押し込まれるような苦しさとして感じていた。
変わろうとして手をかけたドアノブの数は幾多。そのどれを開けても、待っていたのは同じ結末。
箱の中に、当たりが入っているから人は試行を繰り返すのだ。当たりが入っているかさえも確率にされてしまったら、人はいつまで手を入れようとするだろう。
カイはスマホを出した。その指は、何とはなしにLINNEを立ち上げる。時系列通りに残る幾多のトークルームは、そのほとんどが彼のトークで終わっていた。送られっぱなしなのは、彼の性分が許さなかった。
下へ下へと動かしてから、一番上に戻る。カンナとのやり取りも、やはり彼のトークが最後に表示されている。
いつかこれも過去に埋もれていくのだろうか。スマホから視線を外した彼は、そのまま藤堂に目をやった。
恋が間になければ、彼はこんなにも誰かと上手くやれるのに。
不向きなことを、延々続ける自分がいる。
心地良さげに目を瞑る藤堂を見ていると、結局それだけが救いなように思えて、彼は自分も倣うことにした。
彼女と違って、睡眠は足りていたけれど。
教室の中は騒がしいというのに、カンナには音のない世界に見えた。
進学する、就職する、実家を継ぐ、フリーターになる、結婚する、それが彼女にとって全く魅力を感じられない選択であっても、何かしら進む道が決まっている彼らの話を漏れ聞くことは、何ら未来にビジョンを持たない彼女には息苦しい時間だった。
これ以上休んでしまえば卒業が出来ないというほどに出席日数がギリギリだから、心を無にしてでもこの空間にいるしかない。
もう随分前から、先生が何を話しているか分からなくなっていた。自分の人生にはきっと関係のないことたちなのに、どうして時間を割かなければならないのか。眠っているだけなら、いっそ来ない方がマシだとさえ思うのに、高校生という資格を失いそうになれば、主義主張なんてあっさり放り捨てる。何かにもたれかかっていなければ、何も言えない存在が自分だと思っていた。
ドン、と衝撃があって、机が大きく彼女に向かって食い込んできた。どうやら、押し相撲で負けた男子がよろめいてぶつかったらしい。
「わりぃ」
両手を合わせて謝った彼に、気にしてないよ、とカンナは目配せする。
バカだな、と思う。彼らの口から出るのは臆面ない卑猥な言葉で、彼らがするのはいつまでも小学生レベルの遊び。それなのに女子は、そんな誰かを好きになる。
最初の相手は今日しか見ていなかった。勢いから生まれたような彼に、心まで揺さぶられたと感じたのは、錯覚以外の何物でもなかったはずなのに、心の多くを割いてしまったのが全ての始まりだった。
自分の愛し方を学ぶ前に人の愛し方を学んでしまった彼女は、いつからか今日しか見ていない人間になっていた。いつか来る終わりから目をそらし続けて、今日を最低限の痛みで過ごす術を探す。
それで生きていける人たちがたくさんいるのは知っていた。何十歳になっても活き活きと生きることに何の魅力も感じられない彼女には、少しだけ先の未来、どうにか生きていられるならそれで十分だった。いつか電源を落としたくなったら、溜め息も吐かずに「切」の方に力を込められる人間だと思っていた。
それが、ここに来て揺れている。そうだ、こんな気持ちになりかけることは何度だってあった。バイト先の先輩が就職を決めたと嬉しそうに語っているのを聞いた時も、脳の奥がズキリと痛んだ。でもそういった痛みを一過性だと言い聞かせて目を背けてきた。背けられるほど自分とは切り離して考えることが出来た。
カイとの日常は、きっと長くは続かない。もともと、一般的には有り得ない形から生まれた繋がりなのだ。向こうには守るべき社会的地位もある。どういう価値観を持っているかは知らないけれど、その気になったら本線に戻ることなんて容易いだろう。家出娘なんて、どうやってでも追い出すことなんて出来るのだから。
だけど、カイのような人にもう一度会うことなんて出来るのだろうか。生きることに目を向けさせてしまうほど、生きることに真剣に苦しんでいる人に。
彼は、カンナと違って、本当は全力で生きたい人だ。何がそうさせてくれないのかは彼女にはまるで想像もつかなかったけれど、彼のほとんど開かれず、結ばれてばかりの口元は、彼の心の片鱗を語って聞かせてくれていた。
今日の先を欲している人の、すぐ隣にいれば、自分にも今日の先が見えるかもしれない。それを打算と呼ぶべきなのか、それも恋と呼べばいいのか、彼女は客観的に考えることができなかった。
何にせよ、彼女は今、彼の傍にいたい、それだけがハッキリしていた。今日も行くね、なんてメッセージを送ろうと、携帯のロック画面を点けた時だった。
〝出張で今日は家に帰らないから〟
心の端が小さく欠けた音がしたような気がした。
「こんな時はいてよ」
細めた目でこぼす。
無理な話だ。分かっているのに、わがままを聞いてほしかった。そう思うほど、もうカンナはカイに依存しようとしていた。出逢ってからの日数の短さなんて関係ない。これが運命でないというなら、この世に運命なんてきっとないのだ。
(決めた。カイが帰ってこなくても、カイの家に行く)
帰ってきたら、とびっきりのご馳走でもてなして驚かしてやろう。どんな顔をするだろう。あのほとんど変わらない表情が少しでも柔らかくなったら面白いに違いない。
それを今日の先と呼ぶのはズルいと分かっていたけれど、何かがこれまでと違うような気がしていた。そして、それを確かにこれまでと違うものにするのは、他ならぬ自分の役目だと思った。
気が付けば、教室には音が戻っていた。
「やっぱり隆ちゃんのところに頼んで正解だったわー! こんな美男美女を送ってくれるなんて! はー! 早速隆ちゃんにお礼の電話しなきゃー!」
キャー! と両頬に手を当てながら口にする人が本当にいるのを目にしてカイは心を無にした。美熟女と形容するのが正しそうな社長さんの指には、指輪が一つも見当たらなかった。独身を貫いているのだろうか。
「お仕事は真崎ちゃんに聞いてね。もし何かあったら、私は社長室にいるから、内線2番にかけてちょうだい」
それじゃあねー、と手を振って行ってしまった彼女は、どう見ても女子大生が限界だった。
「お二人に作業していただく場所をご用意してありますので、ご案内致しますね」
真崎と呼ばれた女性社員は、社長とは正反対に無機質なトーンだった。むしろ、二人に対して早く帰ってほしいとさえ言いたげな印象を与えていた。
通された部屋で二人は早速仕事に取りかかった。
「ここの社長さん、綺麗な方でしたね」
しばらく経った頃、作業の音に紛れて藤堂の声がした。秒速でキータッチしながら、脇に置いた資料にも時折目をやりつつ、仕事とは無縁な話を出来てしまう藤堂は、やはり東同様出来る奴だとカイは改めて思った。強いて言うなら、鬱陶しくない東だろうか。
「そう、ですね。ちょっと、クセのある人でしたけど」
そう答えてから、つい最近も同じような話をしたことがあったな、と振り返った。あれはいつだったか。そう、カンナとファミレスに入った時のことだった。
「あんなふうに力強く生きていける女性、憧れです」
「藤堂さんは十分力強く生きてるでしょ」
自分でも驚くほど早々に言葉が出て、カイは自分の心がざわついていることに気付いた。きっと今心臓を撫でようものなら、酷くざらついているだろう。
「そんなふうに見せかけてるだけです。私、前の会社から逃げ出したんです。新卒で入った時には、ここで頑張って、きっとキャリアを積んでみせる、って意気込んでたくせに」
弱音に反して異様なペースのキータッチ。そのギャップをどう理解したものかと思ったが、大方、自分のポテンシャルに対して、正しい評価を下せていないのだとすぐに分かった。自分の心に向き合うことが多い彼は、それとなく相手の心の傾向を読み取ることが得意だった。
「自分を大事にしてくれてないってことに気付いてやめただけでしょ。藤堂さんの発想自体が、その会社に大分やられてますよ」
一瞬だけ、タイピングの音が止まった。
「みんなそう言って励ましてくれるんですけど、でも、私には、やっぱり逃げ出した、って事実としてのし掛かってるんですよね。いつまでも引きずってちゃダメだって時分でも思うし、こうやって愚痴を言ってしまったら……赤間さんの気を悪くさせるだけだって分かってるのに」
カイは彼女に共感出来なかった。きっと藤堂の悩みは、藤堂にとっての塗りつぶせない苦しさなのだろう。持ち前の明るさを以てしてもかき消せない隈なのだろう。けれど彼は成功者のドキュメンタリーを見ている時のような気分にしかなれない。藤堂に落ちかかる影は、朝が来るための月夜にすぎないとしか思えなかった。
「溜め込んでどうしようもなくなるより、小出しに言う方がよっぽど心身に良いですよ。その方が、結果的に周りの人にもそれほど大きな影響を与えないで済みますし」
それでもカイは優しかった。適当にあしらってそつなくやることも、無愛想に振る舞って適度な距離を保つことも、彼には難しかった。いつだってそうだ。波風を立てないためにといって、一番苦しくなる道を選んでしまう。
「やっぱり、赤間さんは優しい人です。初めて会った日も、いきなりでこんなふうに優しくしてくれましたよね」
「俺は誰にでもこんなふうですよ」
彼は努めて冷静に振る舞ったが、藤堂にどんなふうに聞こえていたかについてはまるで自信がなかった。これ以上この場にいたらどんな言葉を口にしてしまうか不安で、彼は席を立った。
「ちょっと確認を取りたいことがあるから聞いてきます」
部屋の外に出てすぐ、彼は溜め込んでいた息を吐ききった。間違っても藤堂は悪い奴ではない。だが、彼の心に良い存在でないこともまた確かだった。平均以上の存在を、彼は認められない。
「どうかされましたか?」
真崎だった。一息置いて見てみると、なかなか整った顔立ちをしていた。
「メンテナンスを担当されている方っています? 少し話を伺っておきたくて」
「分かりました。すぐに向かうように言っておきます」
カイが反応を返さなかったために、真崎は「まだ、何かございますか?」と尋ねた。
「ああ、いえ。大丈夫です」
「では、伝えておきますね」
丁寧なお辞儀をして、真崎は行ってしまった。歩き方は美脚をよく魅せるものだった。
あっさり目的を果たしてしまった彼は、どこか宙に浮いたような気分を味わっていた。部屋に戻るには、まだ少し時間が欲しかった。手洗い場の位置も聞いておけばよかったと思ったものの、他の社員についてはすぐ近くにいる雰囲気もない。
何とはなしにスマホを出してしまった現代人たる彼は、ロック画面に宣伝メールだけしかないのを目にして、寂しげな笑みを浮かべた。
出張に出たことに対しての何らかの反応を欲しているとは、彼も気付いていた。恋しいという感覚よりは、単なる憩いだとは言い聞かせていたけれど。
タバコを吸えば、煙が心臓を冷たく撫でてくれるような気がした。藤堂の光に揺さぶられた気持ちも、カンナの影に揺さぶられた心も、何もかも靄の中。感情はなおも鮮明な色をしたままで、ただそれを、頭が認識することはない。絵画は確かに瞳の中にある。だが精々絵であるという認識が限界だ。
思えば、すっかりタバコを吸うことも減った。禁煙には酷い苦しみが伴うとも聞くが、彼はニコチンに好かれていないのか、吸ったり吸わなかったりということが容易に出来た。
何となく、カンナの前で吸おうという気はあまり湧かなかった。それはきっと、美羽が煙を苦手としていたから、かは知らないが、自分の中に、そして自分の外に理由があるのは明白だった。
社員が一人入ってきて、どさっと腰を落ち着けると、慣れた手つきで火を点けた。もう片方の手でスマホを弄りはじめたが、その様はどこかとても美しかった。
別段彼女は美人というわけではなかった。ただ、タバコがよく似合っていた。吐き出す煙が、彼女のファッションに映った。カイのように、吸って吐き出しているだけとは大違いだった。
彼女はカイなどまるで気にせず、いつものようにくつろいでいたが、その様が彼にまた息苦しさを覚えさせた。自分以外のほとんどの命は、当人がどう思っているにせよ、命を全うしている、そんな感覚をもう長いこと培ってきたせいで、見る人見る人に後ろ指を指されるような感覚を日常的に感じてしまう。
そうなってしまったら、軽く鼻で笑って、その場を離れるのだ。感情をその場に置き去りにするイメージで、元凶を視界から外す。大人らしい賢い生き方だといつからか信じるようになったそれは、確実に彼を蝕んでいたのだが、そのことを自覚してなお、他の方法を見つけようとするほどの自己愛も随分昔に失っていた。
戻ると、藤堂が大きく伸びをしていた。どうやら、一段落ついたらしい。
「肩凝り凝りですよ、目もしょぼしょぼするし。私もタバコ休憩しようかな」
「藤堂さんも吸うんですか」
「ううん、吸わないですけど、吸ったら疲れ取れるかなって」
「やめといた方が良いですよ。お金払って病気の可能性買いつづけるようなもんですから」
「なら赤間さんもやめときましょうよ」
「俺にとっては今の疲れを取る方がずっと大事ですから」
カイは椅子に腰を下ろした。今の疲れの原因から目をそらすべく、部屋を出た時のままのモニターに視線をやった。打ちかけのスクリプトの最後で、カーソルが点滅している。
「もっと身体に良いことして取った方が良いですって」
「例えば?」
「例えば……アロマとかですね」
「俺に合いそうな奴にしてもらっても?」
「合いますよ! 赤間さんにアロマ!」
いったいどんな顔をしてそんなふざけたことを言えるのかと、思わず彼は藤堂を見てしまった。彼女は彼の方をしっかり向いていたから、視線が等距離でぶつかるのは必然だった。
「本当です。だって赤間さん、そんなに綺麗な顔してるんですから。お洒落なことするの、きっと似合います」
彼女の放った言葉の一箇所だけが、尖った心の端に引っかかった。その単語自体は、今日初めて言われたわけでもないけれど、藤堂の喉を通って出てくるとは思わなかった。光の中を歩いているように見える人が、影の中を歩いているような自分を褒めるだなんて、気味の悪いことのように思えた。
それからも藤堂はカイを遥かに凌ぐ速度で仕事を進めながら(藤堂のキータッチは深いのか、タイピングの音がやけに響いて仕事をしている感じを演出した)、職場ではしないような他愛のない会話をたくさん投げかけてきた。カイは東にも感じるように静かに仕事をさせてほしかったが、そうも言い出せずその全てに付き合った。
思っていたよりずっと早く一日目の仕事を終えた二人を前にして、精神年齢の若々しい女社長は歓喜の声を上げた。
「まさかこんなに手早く仕事してくれちゃうなんて、本当感激ー! まとめてうちに雇っちゃいたいくらい!」
明らかに違う職種だろう、とカイは思っていたが、藤堂は「じゃあその内お世話になるかもしれませんね」なんて気の利いた返事ができていて、彼は改めて彼女の対人スキルの高さを感じた。
会社を出て宿泊先のホテルへ向かう電車に乗ると、ようやくカイはまともな呼吸が出来たような気がした。
「疲れましたね」
それは藤堂も同じだったのか、眉はハの字型に下がっていた。
「あの秘書の人、真崎さんって言いましたっけ、時々こっちの様子を確認しに来てましたけど、あれが結構プレッシャーで、一回コーヒーのカップ倒しちゃったんですよ。幸い中身は空だったので無事でしたけど、あの鋭い視線に見つめられながらの仕事は、正直しんどいです」
カイはうんうんと聞いてはいたが、その視線とやらは全く気付いておらず、藤堂の視線の広さに驚くばかりだった。あれほどの速度で仕事を為すのだから、てっきり画面に集中しているかと思っていたのに、そんなところまで意識が向いていたとは。彼も同じ会社の人間のはずなのに、まるで違う世界の住人のように思うばかりだ。
「ま、今日の所は済んだわけですし、赤間さん、ここからパーッと、食べて飲んで、ストレス発散しましょうね!」
疲れましたね、とは何なのか、とカイは突っ込みたくてならなかった。彼はすぐにでもベッドに倒れ込みたかった。
カイは目の前でどんどんと吸い込まれていく串焼きの数々に戦慄の念を覚えていた。
多くの女性はカイよりよっぽど多く食べるのだが、藤堂はその中でも頭一つ抜けていた。アルコールにはさほど強くないのか、とにかく出てくる料理を会話を途切れさせることなく咀嚼していくのは、彼の食欲を大きく削ぐ要因だった。食べ方には品を感じるし、どれも美味しそうに口にするのだが、如何せん仕事と同じで速い。
「そんな速度で食べてたら、お腹壊しませんか」
思わず心配になって、カイはそう尋ねてしまった。
「確かに、もうちょっとよく噛んで食べた方が良いですよね。友だちにもよく言われます。逃げないからもうちょっと落ち着いて食べろ、って。意識すれば出来るんですけど、気を抜いちゃうとまたテンポ速くなっていくんですよね」
その快活な様は、自身の食欲に与える影響を脇に置けば、見ていてとてもすがすがしいものがあった。生きることの喜びみたいなものを自他ともに与えるような気がした。
「そういえば赤間さんって、大学は何学部だったんですか?」
酔いが回ってきたのか、藤堂の頬の辺りはうっすらと赤くなっている。店内のオレンジライトが瞳を照らせば、女慣れしていない男ならすぐにでもやられてしまうような色香が漂う。ましてや自分の過去を尋ねてくるのだ。興味があるのかと勘違いする者は少なくないだろう。
「文学部」
「えぇ意外、赤間さんってもっと派手な感じかと思ってたのに」
「派手って、例えば?」
「社会学部とか、経済とか?」
「そう言う藤堂さんは?」
「私は国際コミュニケーション学部です」
若干呂律が回っていない感じで聞き慣れない学部名を言うせいで、カイは一瞬聞き間違いかと思った。
「私も普通の学部名にしといたら良かったなあ。人に言う時かっこ悪くないですか?」
どうやら悪酔いするタイプらしく、藤堂は唇を尖らせながら駄々っ子のような空気を出し始めた。
「何するんですか、その国際何とか学部って」
だがカイの心は解けない。藤堂にどんな心積もりがあるのかはしれないが、今までだってお酒の席でカイの気を引こうとしてくる者は少なくなく、この手の会話を上手く終わらせる術はよく知っていた。要は、あくまでもただの会話に留めれば良いのだ。
「色々ですよ。まあ悪く言えば外国のことについて調べてまとめるんです。大学の案内とかにはかっこよく書いてますけど、ちょっと国際交流したり留学するだけじゃ、大して実にはなりませんよね」
前の仕事といい大学といい、藤堂は自身の経歴にいくらかコンプレックスを抱いているようだった。頭の出来や仕事の出来についての正当な自己評価もしないあたり、どこかで挫折を味わったのかもしれないとカイは感じた。
「まあ文学部よりはマシじゃないですか。本読むだけですから、あそこは。しかも本読まなくても卒業できますし。それに大学生なんて、ほとんどはバイトとボランティアと遊びしかしてないでしょ。国際交流とか留学とかしてるのは、ちゃんとやってる方です」
カイは自分の言葉を虚しく聞いた。彼の会話の基本方針は、相手を認めることにある。そうすれば大抵の人は良い気になって、程良い人間関係が築ける。それは良好であるが至高ではなく、そこから先には何も生まれない。
そうでしょうか、と尚も認めたがらない藤堂から少し焦点を外して、彼はバンダナを巻いた女性店員に目をやった。それは初めてカンナを目にした時のことを思い出させた。
(不思議なもんだな。離れて思い出すのは、いつ以来だ)
多くの元彼女たちは、一緒にいない間は想いもしてやらなかった。それは彼がつくづく薄情な人間であることの証拠に思えた。
「赤間さん、私の話聞いてますか?」
だが藤堂は彼を物思いに耽らせてくれない。彼女はやはり、美羽と付き合うまでの彼が多く接していたような、日の当たるところに暮らしている女性らしい。
「ああ、何でしたっけ」
「もう。サークルの話ですよ、サークル。赤間さんは何か入ってました?」
「サッカーのに」
「ああ、そんな感じします」
カイは嘘を吐いた。正しくは半分嘘、といったところか。サッカーサークルとは名ばかりの、ただの集まることが名目の集団だった。
「私はベリーダンスサークルに入ってたんですけど、喧嘩して途中でやめちゃいました」
その時初めて、カイは藤堂が心底悲しそうな表情をしたのを目にした。前職や学部の時は、苦笑い程度に済ませたのに、今度のは明らかに書き換えたい過去について話しているようだった。
「仕切ってた子の彼氏が私を好きになっちゃったとかで、完全にとばっちりでした。私は友だちのつもりだったけど、向こうは違ったみたいで」
グラスの淵に手を沿わせて語る藤堂は、カイの目にも色っぽく映った。
「その子のことは好きだったし、ずっと仲良くしてたかったけど、もう全然話聞いてくれなくて、私も随分、酷いことを言っちゃいました」
永遠と続くと思えた光の道に、一点の黒。それまでずっと対岸にいるとばかり思っていた藤堂が、同じ岸に立っているように見えた。
酔いで火照った顔に初冬の風が当たるのはとても心地良かった。
まだまだこれからが盛り上がり時な歓楽街では男女の二人連れを見逃す者などいるはずもなく、二人は何度となく会釈や身振りで断った。
「あの人たち見てると、自分のメンタルがいかに弱いかが分かります」
ふいに藤堂が漏らしたのを、カイは聞かなかったことにしようかと思った。彼女のメンタルが弱いのだとしたら、自分のは消し炭になってしまうと思えたからだ。
「俺だったら一日でやめる自信がありますよ」
だが彼に無視することは出来なかった。彼にとって、女性とはそういう存在だった。
夜を照らす街灯の明かりは心に微妙な揺らめきを生む。藤堂の口数の多さは、今ばかりは少し有難かった。
「デザート、買っても良いですか?」
コンビニの前で立ち止まって尋ねた彼女に、カイは小さく頷いた。
「俺はそこで風に当たってます」
彼は歩道の柵を指さして言った。藤堂は「すぐ済ませますね」と口にして店に入った。
柵に軽く腰掛けると、カイは目を瞑った。全ての関係がこうであったなら、と思う。とても穏やかで、苦しみとは無縁な時間。どうして人は、それ以上を求めてしまうのだろう。そう考えると、この素晴らしい時間もあっという間に不安の色に染まりそうな気がした。
社会人には出逢いが少ない。それでいて一人と濃い時間を過ごすことは多い。一人でいるのを厭う人間なら、容易に距離を詰める。誰かと一緒に過ごさなければならないように感じるこのシーズンにおいて、彼は何度となく誰かと特別な関係になった。そしてその度に自分の有り様を悔いてきた。同じ聖夜を二度過ごせたことが、彼にはない。
藤堂とはいつまでもこの距離感でいたいと思った。だが彼の世界では、男女間の友情は成立しない。そう遠くない内に、この穏やかな時間は次の段階に移るだろう。親密な関係か、あるいは思い出されない過去に。
藤堂は言葉とは裏腹に、なかなか出てこない。女性だな、と感じた。彼とは違う存在。ただそれだけのことで、彼は彼女との間に多くのことを考える。もしそれが同性なら考えようのないことを。
そしてふいに、今までの付き合いの全ては彼がそうなるように望んだから叶ったことではないかと思えてしまった。彼はまるで自然の成り行きのように受け止めていたが、本当のところは彼が女性たちに痛みを和らげてほしいと願って、それが叶ってしまったのではないだろうか。
一人でいられない男。それでいて、いつまでも一緒にいようともしない男。
彼は首を横に振った。一人で佇んでいると、彼はそんな風に独りの世界に迷い込んでしまう。それも、ロクな思考に行き着かない場所に。
気を紛らわせたくて、携帯を手に取った。ロック画面には購入時に設定されていた標準の壁紙が映っているだけ。だが何も無いそこは、カンナのことを思わせた。
結局彼女は何なのだろう。
恋人ではないし、恋人とは呼ばない都合の良い相手でさえない。友だちでもなく、知り合いというわけでもない。だが究極の所は、恋人と呼ぶのが一番近い存在ではあった。決して触れることの無い、清い頃の付き合いとよく似ている。
だがカンナを恋人と考えることは彼には出来なかった。中途半端に残った倫理観は彼女を二十歳に満たない少女と映し、二つに分裂した自分が彼女を壊したく守りたく思うせいでどうすることも叶わない。
そのせいで、あるいはそのおかげで彼はカンナとの歪な関わりを続けていられるのだが、不安定な状態は必ず安定に移ろうとする。そう長く続かないのは十分分かっていた。
もし彼女を恋人と呼べないのなら、その他の何者にも出来ないカイは、やがてカンナとの時間を終わらせるしかない。
自動ドアが開いて、「赤間さん! お待たせしました!」と元気な声で藤堂が帰ってきた。
身の丈に合っていて、真っ当であること。もうどうしようもないほど逸脱しているはずなのに、いまだに彼は幼い頃から敷かれ続けてきたレールからはみ出すことをよしと出来なかった。
仕事の外にいる藤堂を見れば見るほど、彼は自分の今が誤っていると思わずにいられなかった。
どうして彼は、藤堂と逢ってしまったのだろう。カンナと過ごす時間の中に、まだいくらかは酔っていられたというのに。
まるで彼女は、カイを現実に引き戻すために現れたような。
「赤間さんの分もデザート、買ってきたんです。ホテルでもうちょっとだけ飲み直しませんか?」
カイは仕方ないな、という感じに微笑して、小さく頷いた。
彼にはもう、人間関係というのが分からなかった。なぜ人は、関わり合おうとするのだろう。
それでも彼は、断ち切って孤独の中に生きることも出来ない。
夜灯りが、彼の心を強く責めた。もういっそ潰れてしまえたらどれだけ楽だろうと思っても、彼の心は狂いきれなかった。