「岡山、ですか」
 何を言っているんだ、と思った一回目。
「藤堂と」
 何を言っているんだ、と思った二回目。
「いやぁ、昔からよくしてもらってる人だからねぇ、お願いの一つや二つ、聞いてあげないとなのよ。女性社員の多い会社だからね、出来れば女の子が良いと。でも今うちから出せるのは藤堂ちゃんだけだし、かと言って来たばっかりのあの子一人で行かせるのは酷でしょ? 多分、一人でもこなせちゃうと思うけど、赤間君、ちょうど今のプロジェクト一区切りつきそうだし、美男美女で来たら先方も大喜び、君も君も彼女とならハッピーでしょ? ね?」
 バチコーン、と擬音がぴったりなウインクとサムズアップ。
「部長、藤堂にはその言い方しないで下さいよ。セクハラで訴えられかねませんから、今時」
「じゃ、オッケーということだね! 申請書はこっちで作っとくから、準備は今から進めてね!」
 何も聞いてねえなと思うより先に部長は気持ち悪いステップを踏んで行ってしまった。社長にヘッドハンティングされた驚異のスコアラーなのだが、頭のねじが一本か二本、いやそれ以上に吹き飛んでいるとしか思えなかった。あれでカイよりたった二つ年上なだけとはとても信じられない。おまけに身長がとても低くて童顔で、スーツに着られているというのが意味不明さに拍車をかけていた。ある意味で、天は二物は与えなかった、ということなのかもしれない。
 溜め息を吐いたかと思えば時計は正午過ぎを示していた。今朝は昼ご飯を買っていなかったから、カイはどこかに買いに行くことにした。外に出てすぐ、秋の深まりというよりは冬の始まりと思いたくなるような冷たい風が吹き付ける。やっぱり食堂にしようかと振り向きかけた彼は、すぐ後ろに藤堂がいたせいで肩をビクッと震わせた。
 藤堂も藤堂で驚いたのか、ただでさえ大きい目を見開いていた。だがすぐに目をパチパチさせると、
「聞きましたか赤間さん! 出張ですって!」
 その目を輝かせて言ってきた。
「聞いてますけど。藤堂さん、なんでそんなテンション上がってるんですか」
 自動ドアが開いたり閉まったりするせいで、二人は少し脇に移動した。
「移動費も宿泊代も出るんですよ、そりゃ仕事もありますけど、そこそこ時間に余裕もあるなんて、これは旅行ですよ、喜んじゃいますよ」
「まさか、前の職場はそこのところも出なかったんですか」
 聞けば、藤堂は相当なブラック企業に勤めていたらしい。労働時間、給与、保障、どれをとっても一級品の真っ黒エピソードが社内に密かに(大っぴらに)流れていた。
「一部負担、って感じでしたね……。そもそもこんなスケジュールだと、日帰りで帰れって言われて、万が一その日の内に終わらなかったら、社員の責任って名目で自腹で泊まってました」
 ははは……と枯れた笑いを漏らしても、藤堂は綺麗だった。
「だから私、この会社に雇ってもらえてとっても幸せです。やっぱり皆さん優しいですし、食堂もご飯が美味しいし。知ってます? ブラックかどうかって、社食の美味しさで決まるんですよ? とりあえず腹を満たせたら良い、って感じで入れた食堂は、本当に美味しくないご飯しか出してくれないんです……」
 食べるのが好きなんだろうな、と思うくらい、食堂の話から先は熱量が違っていた。食事に興味関心をほとんど失ってしまったカイには、なかなか分からない感覚だった。
「それはそうと赤間さん、ここの近くにすごく手軽で美味しいイタリアンのお店があるんですけど、知ってます?」
「いや?」
「それなら一緒に行きませんか? 一緒に出張行くわけですし、もっと親睦を深める感じで!」
「良いですけど」
 そう答えつつも内心は丁重にお断りしたい気分だった。初日にカイに声をかけてきたのは、どうやら卓越したコミュ力の表れだったようだ。明朗で快活、カイとしては苦手なタイプだった。
 そのレストランは確かにすぐ近くにあったのだが、そこまでの僅かな時間だけでもカイは容赦なく生気を吸われていくような気がしていた。とにかく藤堂はよく喋る。カイはほとんど聞き専の状態で、彼が頷いたり相槌を打つのを良いことにどこまでも一人で話し続けるのだった。やはり頭のキレる奴はよく喋ると、彼は隣の席の東を思い出していた。
 さらにカイを驚かせたのは、注文をする時に店員と仲睦まじげに話しはじめたところだった。彼の二十六年という人生の中で、ウェイターと注文に関すること以外で話をするなんてことは一度としてなかった。輪をかけて凄かったのは、話の流れで出てきたおすすめの品を、流されることなく断った上で、気まずい雰囲気は作らなかった部分だ。これが真性のコミュニケーション力かと思えば、一般的な社交スキルはかろうじてゼロを少し超えた辺りに位置するくらいでしかないと感じてしまった。
 美羽を含め、彼の知る女性はみんな彼の前ではそれなりに喋るけれど、他の人に対しては静かでいることが多かった。社内の女性社員についてもそういう人が多いだけに、とても新鮮に映る。自分にその元気さが向いていない瞬間については、だけれど。
 彼はまた自分勝手に落ち込みはじめた。藤堂ほど闊達である必要はないものの、彼の理想とする人間像は明るくいることだったから、その対極に向かって歩を進め続ける自分の虚しさがドクン、ドクンと嫌な脈を打つ。どうしようもなくダメな奴だな、と彼は唇を結ぶ代わりに微笑みを作った。嬉しくない時でもえくぼを作れば、少しだけ気持ちが和らぐのを知っていた。
 でもちょうど、藤堂が彼の方を向いて。彼がどうしてそんな表情をしていたのか誤解して、正しい感情を乗せて口元を緩めた。
 その刹那、カイは自身の中で何か物音がしたように感じた。それはいつだったか聞き覚えがあった音だったけれど、いつ、どこで耳にしたのかはまるで思い出せなかった。