〝調理の専門学校に行きたかったんだ、本当は〟
 自分がそんなことを言ったのだということをカンナは信じられなかった。
 またカイは心を無にしてテレビを見ている。カンナもまたそうだった。映像は流れているが、色の塊があちらこちらへ動いているだけ。脳は全て単一の疑問を解くのに使われてしまっている。
 それは心の底から抱いた願望ではなかった。廊下に貼ってあったポスター群の中で、唯一視界に入って、興味まで持てたものだった。自分の好きなことが、誰かの役に立つ日が来るかもしれない。ほんの少しだけ希望を抱かせてくれた。
 でも、そんな淡い夢は口にするより先、母親に両断された。どんなに自分にきつく当たる人でなしだろうと、彼女を育てたのはその母親で、親権を持たない父親ではない。母親がダメだと言ったら、そこで終わりだ。お金を貯めて、といっても現実的な額ではない。稼げるようになるための場所に、稼ぎがない人間は行くことが出来ない。
 だからずっと心の奥深くにしまい込んで生きてきた。そう時間が経たない内に、一瞬の気の迷いだと思えるようになった。きっと専門学校に行けていたとしても、すぐに嫌になってしまって退学するだろう、と言い聞かせれば、そんな気がした。
 それなのに。どうしても叶えたいことだったように口にしていた。何としてでも行きたいという意志を示したことだってなかったのに、あと一歩及ばなかった子のように言っていた。
 心を許してしまっていた。彼女はすぐにそうした理由に思い至った。
 優しいのだ。カイが。料理の腕に自信があると伝えたとはいえ、会ったばかりの相手の手料理を臆することなく口にして、本当かどうかに関わらず「美味しい」と言ってくれるなんて、彼女がこれまで出逢ってきた男たちとは決定的に違っていた。そうした男たちは、彼女が持っているものにしか興味がなく、彼女が生み出せるものにはまるで関心を示さなかった。
 だが裏を返せば、それはカンナにとっても同じことだった。相手がカンナの求めた以上のものをくれようとしたところで、有難いと思うようなことはなかった。お互い打算だけだった。
(この人は、どうして私をここにいさせてくれるんだろう)
 表情の抜けた顔は、彼が哀しい人であるということだけを教えてくれる。
 身体を求めてくるわけでもない。家事をさせるわけでもない。彼は何も求めてこない。きっと、彼女が訪れるのをやめれば、ただのそれだけになってお終いだろう。
 何となくは、感じていた。カイは自分を見ているわけではないと。彼の言葉は全て、どこか無機的だったから。
 その訳を知るには、あまりに情報が足りない。だが聞き出そうものなら、この関係はあっという間に破綻するだろう。最初にカイが言ったように、彼は干渉されることを望んでいない。過去に踏み入ろうとする行為は、間違いなく彼の許容の範囲外だ。
 だがその許容がなぜ起きるのかを解明したいという思いは、募るばかり。
 カンナだったから許したのか、誰であっても同じ道を辿ったのか、それだけでも知りたかった。
 しかし、そのことを上手く聞き出すだけの言葉が何一つ浮かばなかった。自然な流れなど生まれようがない。不自然な会話の糸口はあっという間に手繰られて、本心がずるりと引き出されてしまうだろう。
 やるせなくて、テレビに顔を向けるしかなかった。カンナは綺麗だと思わない女優が、今人気沸騰中の若手俳優に詰め寄って本心を問い質しているシーンだった。
「どうして私じゃダメなの!」
 話の筋を全く把握していないから、どうしてそんな言葉が出たのかもまるで分からない。女優の演技は下手ではないが上手くもないし、ただ顔でテレビに映っているだけ、という印象が強くて感情移入も上手く出来ない。それでも、言葉だけはカンナの心に何かを訴えかけていた。
「違うんだ、僕らは……。最初から決定的なまでに、違っていたんだ」
 彼の方が、よっぽど演技が上手かった。目元をほとんど覆っている前髪も、自分の思いを上手く伝えられない不器用さが表せていて好ましかった。
「だったらなんで、今日も私と会ってくれたの」
 所詮作り話だ、そう思う。現実は一度だってこんなロマンチックなシーンをくれたことがない。いつもなし崩しに始まって、どこかに置き忘れるように終わる。向き合って思いをぶつけるようなことなんてなく、少し時間が経ってから、終わったんだな、とぼんやり思うだけ。
 目だけを動かして、カイの顔を視界の中心に捉える。疲れているのか、まどろみつつあった。もうすぐ十時だ。普通の社会人なら眠くなるのだろう。
「眠いならベッドで寝たら?」
「そうだな……けど、その前に風呂入ってくる」
「うん、いってらっしゃい。このままドラマ見てて良い?」
「好きにしたら良い」
 カイは気怠げに立ち上がって、浴室へ向かった。
(結婚って、こんな感じなのかな)
 もう随分長い間、真っ当な未来について考えることがなかった。それほどまでに荒んだ時間を過ごしてきた。
 今のこれが、良い時間かと言えば、それはそれで違う気もするけれど、やはり相対的にはとても穏やかで、落ち着いた愛おしさすら感じる時間だ。
 これで構わないから、ずっと続いてほしい。好きになれないと確信してしまったドラマを見つめながら、カンナは眉尻を下げた。その願いさえ刹那的にしか抱けないくらいには、彼女はもう大人だった。