どんな時でも人は食事を取る。人と始まった時も、盛り上がった時も、終わった時も。悲しいほど、それだけは避けられない。一度や二度くらいは抜けたとしても、感情は食欲を淘汰しきれない。食事は多くカイの心を虚しくさせる行為だった。
 怖かった。小さな幸せが大きな不幸せに繋がるということを知っていた彼には、今が後になって禍のように降りかかってくるイメージしか湧かなかった。
「美味いよ」
 けれど、彼は自分の心をやつれさせる天才だったから。相手の口に合うか気になりつつも、素直に美味しいか尋ねられなくてチラチラ彼の様子をうかがうばかりのカンナを見て、そう言ってあげるだけの優しさを見せた。もっとも、舌はそのシチューがよく出来ていると判断していた。カイは思ってもいないことはあまり口にしない。だが心がこもっているかはまた別の話だった。
「料理くらいしか取り柄ないから、私。料理を認めてもらえたら、自分が認めてもらえたような気がするの」
 真一文字に結ばれていた彼女の口が僅かに綻んだのは、照れなのか劣等感の表れなのか、引かれた顎のせいで判然としなかった。
「調理の専門学校に行きたかったんだ、本当は」
 本当は、という言葉はとても弱々しかった。専門学校のことは彼は詳しくなかったが、秋も深まるこのシーズンに進路に対しての明るい感情を持っていないということは、願う通りの形にはとてもいかなそうに感じた。
「もう働けって、ママが。ママもそうだったから、必要ないと思ってるの」
 こういう時どういう言葉をかければ良いか、同じような話をされたことが何度あっても、未だに分からなかった。望む通りにしたら良いと言ったところで無責任だし、諦めろと言うには不憫で、そうだなと話を聞いてやるのが一番の正解だとは思えても、何も生まないその正答が彼は酷く嫌いだった。
「あ、ごめんね、こんな話されたら、不味くなっちゃうよね」
 彼はほんの少し考えてから、「いや、別に」とだけ返した。
 どうして、と思ってしまう。きっとカンナは、生まれた家がもっと真っ当なら、もっと幸せに生きられただろう。そんな家庭に育ってなお、彼女の根はカイなんかよりずっと真っ直ぐだった。彼女のように恵まれない境遇にあった子と幾度か付き合ったことがあるけれど、みんな自分のことだけを考えていた。それが生存への最後の足掻きだとは分かっていても、自分のことしか見ていない彼女たちが最後には嫌で嫌で仕方なく思えてしまった。
「なら、今度俺の好きなの作ってもらっても良いか」
 だがそれは何より、自分への憤りだった。自分のことしか見ていないのは、カイも同じだった。けれど、自らを肯定しきるギリギリ手前で踏み留まっているから、どうしようもない酸欠状態になって仕方ないのだった。ただ救われるだけに徹しようとすることも出来ない。断罪して誰かのためにその身を捧げることも出来ない。自分の今を見つめるだけの余力が残っているから、彼はずっと辛い。
「うん、何作ったら良い?」
 彼を見つめるカンナの瞳に吸い込まれそうになって、ふいに、彼は彼女の頬に手を伸ばそうとした。だがすぐ我に返って、行き場を失ったように見えないように頬をかく仕草に変えた。
(やっぱり俺は、最低だ)
 美羽に似ていたからそうしたわけではなかった。ただ目の前の誰かに慰めてほしい、そんな欲求だけがそこにあった。渇ききった心に、僅かでも潤いが与えられるなら、それで良い、そんな感情。
「私、何だって作ってみせるよ」
 だから、美羽との関係を破綻させた。それは彼自身の業そのものだと言うのが正しいだろう。
「ロールキャベツが良いな」
 抗おうとすればするほど、かえって自身を深く縛り付けるもの。その根の深さを痛感させられるだけで、結局目を背けてしまう自分の弱さ。やり直せるかもしれないと思わせてくれた彼女にさえ、彼の本質は同じものを求めようとしていた。
 いけない、そう思ってはいるのに。
「作ってくれるか?」
 底に大きな穴を開けた彼の心は、ただひたすらに愛を欲する。そこに注ぎたいと思わせてしまうだけの容姿を、神様がお与えになって、彼の求めるとおりに、誰もが言うことを聞いたから。
 美しい男と、美しい女と。不幸なエッセンスを垂らされた彼らは、愛の真似事を繰り返す。愛した気になって、愛された気になって。愛でているのが自分だと分かった刹那、熱は冷めるという形容も生ぬるいほどに消え去る。
「めちゃくちゃ美味しいの作ってあげるから、期待してて」
 最早演じているという自覚は彼らにはない。たとえ偽りであろうと、愛の形をした服を身に纏っている間だけは、不幸せという現実から目を背けられるから。
 カンナを見るカイの目は、少しずつ思考を捨てつつあった。これまでも何度となくそうしてきたように、やり直すチャンスを涙腺へ流そうとしていた。