「質問終わったの?」
(ああ、そうか、夢か……)
「よくそんなに毎日聞くことあるよね」
(なんて答えたっけな、あの時)
「カイって結構、努力家だよね、顔に似合わず」
(お前が言うと、不思議と腹が立たなかったんだ)
「そういうところも……好き、だよ、私」
(やっぱり、お前じゃないと、ダメだ)

 頭痛は治っていなかった。今度はどうしてもベッドで寝てほしい、でも自分もベッドでないと寝られないと言うから、二人は一人用のベッドを共有した。カンナが壁際に寝て、カイは彼女に背を向けるように横たわった。「その気になったらそういうことしても良いからね」なんて戯れ言を言ってきたが、彼はもう少し若ければそうしていたかもしれない、と思いながら目を瞑った。
 幸せの絶頂にある夜、決まって見る美羽の夢。でも昨夜は、どう考えても幸せとは程遠かった。むしろ、不幸せに近かった。カンナの存在が触媒になっていると考えるより他になかった。
 カイは隣で眠るカンナの方に目をやった。化粧が下手なのか興味がないのか、すっぴんの状態でもあまり変わらないのも美羽によく似ていた。もっとも、器用な彼女なら、今頃はもっと綺麗に……
 ムラッと来るものがあった。刹那的なフラッシュバック。慣れないけど頑張った、なんて言って全然変わっていない顔を見せてきた美羽の姿が、脳裏を支配した。それはとてもカンナに酷似していて、本能的にカンナの頬に触れたくなった彼は手を伸ばしていた。
 だが、その瞬間にカンナはパチッと目を開けた。カイの手は、ほんのりと温もりを感じさせる距離で止まっていた。
「いいよ」
 その言い方には、優しさは全く無かった。自分を労る感情は、何一切持ち合わせていなかった。ただ代金を払おうとしている時のような無心だけがあるだけ。
 カイは何も言わずに手を引いた。そしてもう一度横たわった。心はちっとも揺れ動いていなかったけれど、下半身だけは酷く熱かった。慣れきった感覚のはずなのに、今までで一番鮮やかな悲しみが募っていくのが分かった。
「いいの?」
 その問いは、見事なまでにカイの背を突き刺した。瞬間、カンナの冷たい目がハッと脳裏に浮かんだ。きっと、ずっとそうやって受け容れてきたに違いない。そう考えはじめると、昂ぶりは少しずつ落ち着いてきた。
 何と答えるのも言い訳にしかならない気がして、彼は押し黙った。それも正しい答えではないとは分かっているのに、カンナに一番何も言わせない方法がだということに気付いているから、それを採用した。
 彼の読みどおり、彼女は言葉を続けなかった。とにかく今は時間を空けること、それだけが救いだと言い聞かせて目を瞑った。どれだけ寝覚めが悪かろうと、夢の中ではどこか痛みが甘いから、悪夢でも構わなかった。

「俺たち、もう別れよう」
「本気で言ってるの?」
(違う。美羽はそう言わなかった)
「考え直して?」
(これは、都合の良い方か)

 再び目を覚ましても、目元は濡れていなかった。感傷的になる資格さえ自分にはないとガラクタの恋の連続の中で知ったから。
 ふと、鼻腔を良い匂いがくすぐるのに気が付いた。バッと起き上がって台所へ行くと、ベッドに入った時のままの格好でコンロに向かう彼女の背中が見えた。
「お前、何やってんだ」
 それは彼女を責めるはずの言葉であるはずだったのに、酷くなまくらだった。そのせいでただの驚きにしか聞こえなかった。
「朝ごはん作ってるの。あ、使った分はちゃんと後で返すから許してね」
 口を開いては何も言わず閉じ、また開いては閉じを繰り返して、結局何かを言う意志は飲み込んだ。代わりに行き場を失った息を溜め息として吐き出して、エネルギーについては冷蔵庫のドアを開けるのに使った。
 炭酸水のペットボトルを出して、シンクに置きっぱなしだった昨夜のグラスに注ぐと、ぐいと飲み干した。喉を刺すような痛みが走れば、少しだけ涙腺が弛むような気がした。
「お前の料理、ちゃんと食えるのか」
 長い菜箸を使って器用に卵を畳んでいたカンナには、どう考えても余計な言葉だったけれど、彼はあえて尋ねた。
「昔料理教室に通ってたし、味についても結構定評あるよ」
「そりゃ楽しみだな」
 顔洗ってくると言って、彼は洗面所に移動した。秋の水は寝起きの顔には刺激が強くて、彼はしかめ面をした――はずなのに、鏡に映っていたのはどこかとても気の弛んだ表情だった。ここ数年彼を包んでいた紫色の感情は姿を潜めて、凝りのほぐれた真っ直ぐさが乗っていた。
(夢の続きなんて見られるわけでもないのに)
 いっそのこと鏡を叩き割ってやりたい気分だった。その破片が拳に突き刺さって、痛みが彼を責めてくれれば良いものを、そうすることの出来ない勇気のなさと、良い子っぷりが彼の肯定感をまた押し下げた。
 洗面所にまでは匂いが漂ってこないはずなのに、彼の腹は早く食わせろと鳴いた。
 それを口にすることは、カンナとの歪な日常を完全に受け容れることだと分かっていたけれど、食事に罪は無いとかいう、あまりにも正しい、けれども本心としては認めがたい論理を突っぱねるだけの強さを育てることの出来なかった彼は、育ちを言い訳にしてキッチンへ戻った。