砕けた心に愛の香を

「ついてくるな」
 銀杏の並木道を歩いていたカイは、我慢の限界が訪れて振り向いた。
 図書館で彼女に話しかけられてすぐ、彼は人違いだと言いたげに背を向け、「風立ちぬ」を借り出して外に出た。無視していればその内諦めるだろう、と高をくくっていたのだが、どうにも意思は強いらしく、彼女はいつまでもついてきつづけるのだった。
「言っただろ、一晩限りだって」
「違うよ、今日は泊めてほしいって言いにきたんじゃなくて、ただ、あなたと話がしたかったの」
 カイは〝ハトに餌をあげないで!〟と書かれた看板を看板をまじまじと見つめた。なるほど、そういうことか、と。
「金輪際関わるつもりはない、って意思表示したんだ、俺は」
 言葉自体は尖って聞こえたが、中身は実に柔らかいことは、彼女にはすぐに分かってしまった。彼は、本質的にそういう人物なのだ、と彼女は見抜いていた。
「それは私が、女子高生だから?」
「ああ、そうだ。俺は自分が一番大事だからな。分かったらもうついてくんなよ」
 言い切って、歩速をさらに速める。
「嫌。あなたみたいに優しい人、初めてだし。せっかく再会出来たんだから、もっと一緒にいたい」
 それに彼女は応える。
「お前、俺のこの顔見えてるか? 願い下げだ、って顔が」
 カイは眉間にシワを寄せて、疎ましそうな顔をしてみせた。
「じゃあ、一個質問させて?」
「断る」
 彼は彼女から視線を逸らした。心が微かに痛む理由を、必死に考えまいとしながら。
「さっき、なんで本拾ってあげたの?」
 ピタリ、と足が止まる。瞬きを一つして、大きく溜め息を吐く。少しでも質問の答えを考えようとした自分が嫌で仕方なかった。
「自分が一番大事だなんて、嘘。そういうのは、まるで動こうとも思わなかった私みたいな人のことを指すんだもん」
 彼女がどんな顔をしてそんなことを口にしているのか、知りたくない彼は消失点だけを見ていた。だが、その前に彼女はぴょこん、と跳ね出てきた。
「お前さ、もう帰れよ。日も暮れてんだろ。変なのが出てくる前にさっさと帰れ」
 手で払うジェスチャーをしたって、彼女は嫌そうな素振り一つ見せない。見透かされたような気がして苛立ちを感じるのに、その一方でどこか安らぎを感じて、思わず拳を固めて自分を諫めた。
「だから言ったじゃん。帰りたくないの。機嫌が悪かったら暴力振られるんだから」
 カイはわざとらしく右斜め上に目玉を動かした。まったく厄介な奴にターゲットにされてしまったと思って、大きめに息を吐く。心の底から聞こえる気がする声は無視しながら。
「お前、結局泊めてもらいたいんだろ?」
 立場の弱さを盾に取られたら、結局のところカイに太刀打ちする術はない。他人に無関心な現代では、いくらカイの方が被害を受けている側だと主張したところで、いたいけな女子高生を誑かしているだけだとしか思ってもらえないのは明白だった。
「え? 泊めてくれるの?」
 そして、カイは自分の発言がドツボにハマったことを理解した。少女は別に、今日の宿が無いとは一言も言っていないのに、彼が自分から流れを提供してしまったのだ。
「これでいっぱいお話出来るね」
 カイからすれば、女子高生なんてもう、異性として見るには年の差がありすぎる。世の中にはそれでも愛情は生まれ得るのかもしれないが、少なくとも彼にとっては、彼女はいつ爆発するか分からない爆弾でしかない。
「人の迷惑ってものは、考えられないのか」
 彼は眉間を指で押さえた。彼はこれまで、多くの女性と関係を持ってきたが、どこかで規範めいたものはあった。健全な男女の過ちは犯しても、社会的な何某にもとる行いは慎んできた。だがそれを、彼女の前では出来る自信がなかった。
 似ている。見れば見るほど、どこまでも。最初に会った時には、微妙に違うところがあると感じたはずなのに、今はもう、生き写しのようだとしか思えない。
「迷惑だってことは、分かってるけど……でも、私に何の色目も使ってこなかったのは、あなたが初めてだから。あれからずっと、もう一度あなたに逢ってみたいって、思ってたの」
 カイは悲しくなった。どれだけ男を知っていても、それでもなお、重ねた年には勝てないのだと思ったから。少女は知らない。内に秘めた衝動を、全く表に出さないでいられるようになる、ということを。
 彼女の言葉は、巧みだった。もっとも、意識して言ったわけではないが、彼に否定を許さなかった。否定しようものなら、彼は彼女に色目を使っていたことになる。もちろん、彼女は自分がなぜカイにとって特別な存在かなど分かるわけもないのだから、単に対等に接してくれる人、としか考えないわけで。
「どうしても、ダメ……?」
 夢が夢で終われば良いのに、とカイは思う。美羽によく似た少女と出逢って、泡沫のような瞬間を過ごした。そんな摩訶不思議なお話。そんなふうに終わってほしかった。
(ああ……似てる……。頼み事をする時に両手の指先を合わせる仕草まで……)
 ずっと追い求めてきた。美羽によく似た誰かを。美羽を思い出させない誰かを。その誰もが、美羽とはまるで違う部分を持っていたし、美羽のような部分を持っていた。みんな不完全で、彼はやり直すことが出来なかった。
 瞬間、ある思いが彼の脳裏をよぎる。
(やり直せるんじゃないか、今度こそ……)
 身も心も、美羽と同等か、それ以上の人と、本当の愛を築きたい。彼の根底には、そんな思いがずっと存在していた。叶うはずのない願いを抱いてしまったからこそ、ここまで彼は歪み、苦しむハメになった。
 でももし、それが叶う願いだったとしたら……?
「好きにしてくれ。その代わり、面倒事だけは持ち込むな。俺の平穏な生活を脅かさないこと、それが条件だ」
 情けないと思った。それでも彼は、未だに美羽に縛られていた。彼女のことを、愛していた。
 二人は黙ってテレビを見ていた。ローテーブルを間に挟んで、特に何を話すこともなく、映像が流れるのをじっと見つめるばかりだ。
 有名な芸人が、スタッフを引き連れて海外ロケに向かう番組。オリジナルカレンダーを作るために、世界の絶景スポットを撮影しにいく、という企画だ。チャンネルを決めたのは、どちらだったか。それさえもハッキリしないほど、二人には内容自体は興味がなかった。笑いを誘う状況になったところで、少しも表情を崩さないし、もしここに他の誰かがいれば、どちらとも心が壊死しているのではないかと疑っただろう。
 バラエティ番組というのは、二人にとっては最も虚しく、それでいて最も有難いものだった。頭を使わないで済む分、気を楽にして見ることが出来る。重くのしかかることについて気を揉む必要もなくなるけれど、事態をそのままにしているというぼんやりとした不安を高める行為だった。それでも、二人はそれを選んでしまう性格だった。何かを変えるために、全力で向き合うということを、二人はこれまで一度もしたことがなかった。
 CMになって、ようやくカイが身体を動かした。その仕草からは、とても部屋にもう一人がいるということを意識していない様子が窺えた。おもむろに立ち上がって、キッチンの方へ歩いていく。冷蔵庫を開けたかと思うと、炭酸水を取り出して、近くに置いてあったコップに注いだ。それから二、三個氷を入れると、またテレビの前に戻ってきた。
〝俺の平穏な生活を脅かさないこと〟というのが、どこまでを指すのか。それが分からなくて彼女は口を開けないでいた。いや、本来の彼女なら、カイの気など何一切気にすることなく、自分のわがままを押し通していただろう。事実、ここに再び転がり込むことが決まったのは、彼女が我を通したからなのだ。それが、いざ部屋の中にまで入ってしまうと、途端に緊張のような感覚が芽生えて、どうすることも出来ないでいた。
 正直に言えば、彼女は拒まれるか、身体を求められると思っていた。まるで彼女に手を出そうとしなかった彼は、本当に彼女のことを厄介者だと思っているか、理性と闘うことの出来る稀有な例だったか。前者でなくなった以上、今度はそういうことをしたいとどこかで考えているに違いない、そう思ったのに。本当に彼女を保護するだけのような感じになっていて――彼女は、もっと彼のことを知りたいと願うようになっていた。
 けれど、そのためには彼の機嫌を損ねるわけにはいかなかった。軽口を叩かないで普通に人と接する、という方法を彼女は知らなかった。
 父親が出ていって、母親がどこかの誰かを連れ込むようになってからは、母親との不和を顔に出さないための虚勢の張り方を身に付けていったから。
 自分の気持ちを、誇張せずに伝える術を、持たない。
 だから、気付いて、気付いて、と視線を送ったりもぞもぞ動いたりしてみるのだが、カイはまたテレビに一心に意識を向けるばかりで、彼女の涙ぐましい努力にはとても気付いてくれない。
 みんな、構ってくれる男ばかりだったから。我慢が長く続くわけはなかった。
「私もそれ、もらって良い?」
「ああ」
 でも、ただのそれだけ。なんで自分をもう一回家に上がらせてくれたのかとかえって聞きたくなるくらい、彼は彼女に何の視線も送ってくれない。気を惹くためにスカートを折って、クラスの男子がヒソヒソ話していることからも定評があるのが窺える生足を見せつけて、胸元もその気になれば大した努力なしに覗けるようにしているというのに、彼はこれまで他の男がしてきたような、男らしい本能的所作をまるで見せない。わざと前を通って意識させようかと思ったけれど、怒らせるだけでしかないだろうな、と思い直して、後ろを通って冷蔵庫の前まで一直線。
 求められないことをどこかでずっと望んでいたのに、都合の良い逃げ場を見つけられたはずなのに、彼女の心を占めていたのは喜びなんかではなく、飢えに近い渇きだった。
(あ、私、正しく愛してほしかったんだ)
 食器棚から彼のより一回り小さい――きっといつかの誰かが置いていったものなのだろう、彼の選ばなそうな小洒落た装飾があった――グラスを取った時、彼女は初めて自分の思いに気が付いた。
 家出少女が心の底で求めていたもの。それはあたたかい寝床だった。でもそれは、これまでのようなあたためる寝床でもなければ、あたたかいだけのものでもなかった。ぬくもりを感じることであたたかいと思える、ずっと精神的なものだった。
 一口、喉に通した炭酸はただただ痛かった。ボトルをよく見れば、強炭酸とだけ書かれていた。
 今まで味わってきたのは、甘い、でも邪な思い。どれも長くは続かなかったのは、結局、そういうこと。本当に必要なのは、この無味な炭酸を、美味しいと思えるような彼を振り向かせて、心から愛してもらうということ。
 彼女は振り向いて、カイの背中を見た。
 この人と本当の恋をしよう、決めた喉は、まだヒリついていた。
「って……」
 首が痒いからと引っ掻くと、鋭い痛みが走った。中指には明るい赤がついていた。
 それを見て、どうということでもないけれど、カイは大きく溜め息を吐いた。ずっとテレビに意識を吸われていただけに、現実に引き戻されたような感覚があった。
 血はあっという間に乾いて、少し彩度を落とした。だというのに、彼はそれを拭き取ろうともせず、ただしんどそうに瞳を閉じた。今になって、鈍い後悔が下腹を襲う。彼の選択は、彼女にここを使う口実を与えた。それが、一つ目の後悔。これまで、面倒な女も何人かいたが、それでも鬱陶しいと感じたのは、それなりに時間を過ごしてからのことだった。
 二つ目は、彼自身が(何もないのであれば)この歪な関係が続いていくことに一定の価値を見出していたことだ。美羽に似ていたから、そんな浅い理由で、彼は心のフタを緩めてしまった。
 本当は、彼女の年齢や立場なんてものは、自制のための都合の良い建前でしかなかった。
「血、出てる」
 気が付けば、彼女はカイの手に触れて、心配そうな目をしていた。どうやら指先を怪我したものだと思っているらしい。
 その瞳に、彼の心は吸いこまれそうになった。
 怖くて仕方がなかった。そう、恐れていたのだ。全てを台無しにしてしまった自分に、もう一度戻ってしまうのが。
「ちょっと首を引っ掻いただけだ」
 彼はさっと彼女の手を振り払った。だというのに、彼女はほんの少しだって嫌そうな顔はしなかった。むしろ、大したことはなかったと安堵するように口元を和らげた。
 気に食わなかった。ファーストコンタクトの時のように、ただの自己愛の強い女子高生を貫いてくれたなら、早くどこか別の場所へ行ってしまえと思えたろうに、いつかの美羽のように、僅かに目を細めて心の底から思ってくれているような顔をしたら――
 感情が溢れ出す前に、とカイは立ち上がった。視界から彼女の顔が外れて、やっと一呼吸置くことが出来た。
「夕飯、まだ食べてないだろ」
 極めて日常的な話をすると、もう一段階気持ちは落ち着いた。
「え、うん、まだ」
「どっか食いに行くか」
「いいの?」
「二人分の食材、ないからな」
 それは事実だったものの、本当の理由はこのまま彼女と狭い空間にいて、平気でいられる気がしないからだった。少しでも意識の外に置いておきたいからと無視同然の振る舞いを続けてきたけれど、かえって彼女を意識しつづけるようなものだった。僅かな衣擦れの音や、本人も自覚していないだろう「ふーん、そうなんだ」だなんて独り言が生々しく彼女の存在を強調してやまなかったのだ。
「けど、良いか、今から男子の格好しろ。くれぐれも俺がお前を連れ込んでるなんて噂が流れないようにな」
「はーい」
 あっさりした返事は、予想外だった。
「適当に用意するから、髪とか縛っとけ」
 そう言うと、カイはクローゼットの所まで行って、物色を始めた。もらったもの、忘れていったものが綺麗に寝かされている一角から、彼女に着れそうなものを探す。
 一通り決め終えて彼女の前に戻ると、髪はすっかり短くなっていた――どうやら、三つ編みを作って、それを交差させてそれぞれ端で止めているらしい。彼は服をドサッと放ろうとしたが、思い直してきちんと手渡した。
「面倒くさいから、ここで着替えても良い?」
 ウブな男性なら、ここで慌てふためきもするのだろうが、そこは赤間カイ。付き合った女は数知れず。「好きにしろよ」と真顔で言い放った。いくら美羽に似ていようが、ふいな仕草に胸を締めつけられるような想いを抱かされようが、無頓着なルーズさを見せられた際には、あっさり冷めるだけの心の余裕は十分にあった。
 ただ、デリカシーに欠けているわけではなかったから、自分の支度をしようとその場を離れた。彼女も彼女で、いそいそと服を脱ぎ始める。異性慣れした二人には、一事が万事ときめくものではない、という観念がすっかり出来上がっていた。
「どう?」
 白地のパーカーに、黒いスキニーデニム。上はカイのものだったから、かなりだぼっとした感じになった。はっきり見ればもちろん女子だとあっさり分かるのだが、夜にさっと見かける程度なら、線の細い男子に見えなくもない。付け焼き刃なアイデアだったが、カイは及第点をつけた。
「悪くはないな」
 そう答えてから、俺はこういう格好をさせたかったのだろうか、という問いが思い浮かんだ。当時の美羽は、可愛らしい格好をすることが多かった。でも、美人という言葉が相応しい彼女は、もう少しシンプルに美しさを魅せる格好をしてみても良い、と思ったことが何度かあった。それを今彼女に押し付けているのではないだろうか、考えたら、自分の女々しさがまた強く思われて、心に影が落ちかかっていくのを感じた。
 けれど、目の前の彼女が「えへへ」と素直に声に出して喜ぶものだから、そんな陰った心はどこかへ消えてしまった。
「センスいいね」
 はっ、と彼女はわざとらしく口元に手を当てた。
「私、まだ名前聞いてない! 何て言うの?」
 そういえば、と彼も思った。二度目はないと思っていたから、彼女に関する簡単な情報にさえ全くアクセスしていなかった。
「カイ」
 彼は触れたくないものに触れるときのような声色で言った。
 お前は? と聞きかけて、自分の名前を答えたことも含めて、関係をこれ以上進めていくことへの躊躇が忍び寄った。もう、ただの家出人を泊めただけでは済まない、明らかな直感がカイにはあった。それでも、心は求めてしまった。純粋な欲求に逆らえなかった。
「お前は?」
「カンナ」
 答えるまでにほんの僅かに間があったように感じられた。
 そこに、彼は二人に相通ずる何かを見出してしまった。自分を自分だと示す最大のものに、抵抗を覚える。それは最も悲しく、最も愚かで、最も救いがたいことだと、普段なら自分を痛ましく思うだけなのに、同じようにする彼女――カンナを見て、彼はどこか心が安らぐのを感じていた。
「ご注文の品は以上でお揃いでしょうか?」
「ええ」
 ウェイトレスは軽く頭を下げると、そそくさと離れていった。傍目には分からないようにしているのだろうが、カイには彼女が何かに不満を抱いているのが分かった。歩き方が物語っているのだ。振り下ろす足には怒りが込められている。踏みつけてやりたい男でもいるのだろうか。
「綺麗な人だったね」
 カンナはストローから口を離して言った。その視線はまだウェイトレスの背中に向いている。
「そうか?」
「そこは男なんだ、カイって」
「どういう意味だ?」
「男女で綺麗だと思う子って、基準違うってこと」
 心当たりはある、と思った。一緒にドラマを見ていても、元カノたちが綺麗だと口にした女優と、カイが美人だと考えていた女優とはほぼ合わなかった。
「単に個々人の違いなのかと思ってたな」
「男子が綺麗だって言うのは、男にウケる顔してる人で、女子が綺麗だって言うのは、自分がムカつかない人なの」
「ムカつく顔って何だよ」
「男に媚び売ってる顔」
 カンナは少しドスの効いた声で言った。個人の見解です、という注意書きが必要そうだな、とカイはぼんやり考えた。取るに足らない会話を交わしたことで、彼は自分の中から粗熱が取れていくのが分かった。会った瞬間にも思いはしたことだが、やはり、中身はまるで違う。美羽はもっと、スレていなかった。純粋で、そんな彼女を女にしたのが自分だと思えば――
「女の思う、かっこいい顔はどうなんだ。あ、食えよ、冷めるから」
 カンナは僅かに頷いてからフォークを手に取った。鉄板に乗ったコーンをいくつかすくって口に運ぶ。咀嚼しながら、思案顔をした。飲み込むと、「裏切ってほしい顔」と言った。カイには彼女の瞳のハイライトが一瞬曇ったように見えた。
「でも、裏切ったらダメなの。分かる? 酷いことしてほしいけど、実際されたいわけじゃない」
「全く分かんねえな」
 そう答えて、カイはグリルチキンを一切れ口に放り込んだ。昔は美味しいと感じていたはずの外食も、大人になって数年経った今は、ただの濃い味付けだとしか思えなくなっていた。
「私は、カイにそういうことされてみたいって思ってるってこと」
「バカ言え」
 自分の言葉がすぐに出たか自信がなくて、カイは必死にカンナの表情を探った。
 彼女が本心でどう思っているか、そんなことはどうでもよかった。ただ彼女に、彼が抱えているシミに似た感情を知られたくなかった。
 あの日から続いている彼は美羽の亡霊を手にしたくて、あの日を境に生まれた彼は美羽の生き写しを大切に思いたかった。どちらもやり直したいと思っている点では同じだけれど、カイは自分がとても優しくはなれないと思っていた。もし自分がもう少しでも自制の利く人間だったなら、こんなにも長い間苦しむことはなかったのだから。
 このまま苦しみ続けること、それだけが自分に残されたたった一つの道だと言い聞かせていた彼には、カンナはあまりにも残酷な神様からの贈り物だった。
 彼は微かに左のこめかみが痛んでくるような感覚を覚えた。おそらく、そう遠くない内に本格的に痛んでくるだろう、と予想した。何気ない動作として、彼はこめかみに人差し指の腹を押し付けて動かした。少しだが、マシになるような気がした。
 カンナはほとんど食べなかった。鉄板の上にはハンバーグが優に半分は残っている。綺麗に平らげられていたのは最初に手を付けたコーンだけだった。
「食わないのか」
「食べたじゃん」
 どうやら、それがカンナのデフォルトらしい。
「ならもらうぞ」
 言うやいなや、カイはカンナの皿から丸ごとかっさらった。無言で食べ進める様を、カンナは目を円くしながら見つめた。
「えっ、えっ、なんで食べちゃったの、私の食べさしだよ」
「残せないだろ、そんなに」
「残せないって……カイってもしかして、育ち良いの?」
 カイは眉をひそめた。
「育ちが良い奴は、そもそもこういうことしないだろ」
 柄にもなく自分の苛立ちを言葉に乗せてしまったことを彼は酷く後悔した。けれど、家庭の話はダメだった。
「俺はどこにでもある普通の家庭の生まれだよ」
 普通の家庭、という言葉を彼はとても強調した。
 それ以上カンナは話を広げなかった。彼女と話している内に、カイは彼女が人との距離感を常に測っていることに気が付いた。何を言えば相手の機嫌を損ねず、何を言えば喜んで、どうしたら突き放されないかをほんの僅かなやり取りの中で見出す。一般社会ではそれを社交的、と形容するのだろうが、彼女の場合はどう考えても生きるための術なのがハッキリしていた。それほどまでに酷いことをされてきたのだろう。
 生まれは選べない。いつだったかのカノジョが言っていた。そう言った三カ月後に自殺した彼女は、両親に捨てられて施設で育った子だった。不幸な生い立ちを背負う者は、その多くが他人に合わせて自分を形作る。だがそれは、カイとて同じはずだった。けれども彼の場合、誰にその話をするわけにもいかなかった。どこにでもある普通の家庭、誰から見てもそう見えてしまう〝幸せな家庭〟出身の彼は、〝不幸せな家庭〟出身の者たちを前に、口を噤むことしか出来ない。
(俺のところには、そういう奴ばっか集まるな)
 それは彼が好みがそうさせているのか、それともそういう定めなのか。いずれにせよ、今度もまた、彼は一方的に相手の弱音を聞かねばならないのだろうな、と考えていた。
「質問終わったの?」
(ああ、そうか、夢か……)
「よくそんなに毎日聞くことあるよね」
(なんて答えたっけな、あの時)
「カイって結構、努力家だよね、顔に似合わず」
(お前が言うと、不思議と腹が立たなかったんだ)
「そういうところも……好き、だよ、私」
(やっぱり、お前じゃないと、ダメだ)

 頭痛は治っていなかった。今度はどうしてもベッドで寝てほしい、でも自分もベッドでないと寝られないと言うから、二人は一人用のベッドを共有した。カンナが壁際に寝て、カイは彼女に背を向けるように横たわった。「その気になったらそういうことしても良いからね」なんて戯れ言を言ってきたが、彼はもう少し若ければそうしていたかもしれない、と思いながら目を瞑った。
 幸せの絶頂にある夜、決まって見る美羽の夢。でも昨夜は、どう考えても幸せとは程遠かった。むしろ、不幸せに近かった。カンナの存在が触媒になっていると考えるより他になかった。
 カイは隣で眠るカンナの方に目をやった。化粧が下手なのか興味がないのか、すっぴんの状態でもあまり変わらないのも美羽によく似ていた。もっとも、器用な彼女なら、今頃はもっと綺麗に……
 ムラッと来るものがあった。刹那的なフラッシュバック。慣れないけど頑張った、なんて言って全然変わっていない顔を見せてきた美羽の姿が、脳裏を支配した。それはとてもカンナに酷似していて、本能的にカンナの頬に触れたくなった彼は手を伸ばしていた。
 だが、その瞬間にカンナはパチッと目を開けた。カイの手は、ほんのりと温もりを感じさせる距離で止まっていた。
「いいよ」
 その言い方には、優しさは全く無かった。自分を労る感情は、何一切持ち合わせていなかった。ただ代金を払おうとしている時のような無心だけがあるだけ。
 カイは何も言わずに手を引いた。そしてもう一度横たわった。心はちっとも揺れ動いていなかったけれど、下半身だけは酷く熱かった。慣れきった感覚のはずなのに、今までで一番鮮やかな悲しみが募っていくのが分かった。
「いいの?」
 その問いは、見事なまでにカイの背を突き刺した。瞬間、カンナの冷たい目がハッと脳裏に浮かんだ。きっと、ずっとそうやって受け容れてきたに違いない。そう考えはじめると、昂ぶりは少しずつ落ち着いてきた。
 何と答えるのも言い訳にしかならない気がして、彼は押し黙った。それも正しい答えではないとは分かっているのに、カンナに一番何も言わせない方法がだということに気付いているから、それを採用した。
 彼の読みどおり、彼女は言葉を続けなかった。とにかく今は時間を空けること、それだけが救いだと言い聞かせて目を瞑った。どれだけ寝覚めが悪かろうと、夢の中ではどこか痛みが甘いから、悪夢でも構わなかった。

「俺たち、もう別れよう」
「本気で言ってるの?」
(違う。美羽はそう言わなかった)
「考え直して?」
(これは、都合の良い方か)

 再び目を覚ましても、目元は濡れていなかった。感傷的になる資格さえ自分にはないとガラクタの恋の連続の中で知ったから。
 ふと、鼻腔を良い匂いがくすぐるのに気が付いた。バッと起き上がって台所へ行くと、ベッドに入った時のままの格好でコンロに向かう彼女の背中が見えた。
「お前、何やってんだ」
 それは彼女を責めるはずの言葉であるはずだったのに、酷くなまくらだった。そのせいでただの驚きにしか聞こえなかった。
「朝ごはん作ってるの。あ、使った分はちゃんと後で返すから許してね」
 口を開いては何も言わず閉じ、また開いては閉じを繰り返して、結局何かを言う意志は飲み込んだ。代わりに行き場を失った息を溜め息として吐き出して、エネルギーについては冷蔵庫のドアを開けるのに使った。
 炭酸水のペットボトルを出して、シンクに置きっぱなしだった昨夜のグラスに注ぐと、ぐいと飲み干した。喉を刺すような痛みが走れば、少しだけ涙腺が弛むような気がした。
「お前の料理、ちゃんと食えるのか」
 長い菜箸を使って器用に卵を畳んでいたカンナには、どう考えても余計な言葉だったけれど、彼はあえて尋ねた。
「昔料理教室に通ってたし、味についても結構定評あるよ」
「そりゃ楽しみだな」
 顔洗ってくると言って、彼は洗面所に移動した。秋の水は寝起きの顔には刺激が強くて、彼はしかめ面をした――はずなのに、鏡に映っていたのはどこかとても気の弛んだ表情だった。ここ数年彼を包んでいた紫色の感情は姿を潜めて、凝りのほぐれた真っ直ぐさが乗っていた。
(夢の続きなんて見られるわけでもないのに)
 いっそのこと鏡を叩き割ってやりたい気分だった。その破片が拳に突き刺さって、痛みが彼を責めてくれれば良いものを、そうすることの出来ない勇気のなさと、良い子っぷりが彼の肯定感をまた押し下げた。
 洗面所にまでは匂いが漂ってこないはずなのに、彼の腹は早く食わせろと鳴いた。
 それを口にすることは、カンナとの歪な日常を完全に受け容れることだと分かっていたけれど、食事に罪は無いとかいう、あまりにも正しい、けれども本心としては認めがたい論理を突っぱねるだけの強さを育てることの出来なかった彼は、育ちを言い訳にしてキッチンへ戻った。
 空っぽなテレビを見つめること、それが苦痛に戻った。
 最初、カイは信じられなかった。つまらないテレビと共に年を取っていくこと、それが彼の日常だったはずなのに、今の彼は心の底から番組の虚しさに一人前に腹を立てていた。それだけ命に張りが生まれていた。
 一人になった部屋には、彼女の匂いが残っている気がした。鼻の利きは悪い方だったが、そんな錯覚が激しくあった。
 カンナは着替えのと、使った食材を買い足したいからと家に戻った。もう来るな、という言葉は彼の口からは出なかった。それどころか、そう思う気持ちさえ、もうほとんど湧きはしなかった。あっさりLINNEまで登録してしまった。
 むしろ、帰った彼女がまた母親に何かされるのではないかという危惧の方が強かった。
 静かになった部屋を見回しても、昨日までと何ら変化は見られない。朝食を用意した以外では、彼女はカイの言いつけをきちんと守っていたらしい。
 彼はソファに深く腰掛けた。全身を預けて天井を見つめる。
 既にカンナとは始まってしまった。彼女との間には、関係を示すための特別な言葉は何ら必要がないことはよく分かっていた。お互い、そういうのを求めているわけではないのだ。自分をこの世に繋ぎ止めるだけの理由、それが生まれればもう十分。
 彼の心は脱皮したての海老のようだった。ちょっとした衝撃で致命的なダメージを受けかねない一方で、新鮮な気持ちで身体中を満たしていた。
 ブーッとローテーブルの上に置いていたスマホが震える。手帳型ケースのフタをめくると、LINNEの通知が表示されていた。通知をタップしてロックを解除すると、「着替え終わった! 今から買い出しいってくるね」というメッセージと不細工なウサギがピースするスタンプが見えた。何ともまあ、不細工なウサギだった。視力が悪い人が眼鏡を忘れた時にするような、顔の中心にシワを寄せたような感じ。スタンプに触れると、「眼鏡を忘れたウサギ2」の購入画面が表示された。
「当たってんのかよ」
 声を出して笑ってしまった。それもまた、いつ以来のことだったろう、自分でも信じられず、カイは一瞬ぽかんとしてしまった。この心理状態を、人はきっと、楽しいと形容する。しかもその感情は、本心からではなく付き合ってきた幾多の相手たちとの間で設けたものよりはずっと重く、それでいて心を押し潰すほど重くもない、その昔、美羽ともまだ浅い頃に感じていたような程よい質量をしていた。
 彼は床に座ったまま、頭だけをソファにもたせかけた。
 この状況を素直に受け止めること、それは罪なのだろうかとどこかで考えだした気持ちは、自分を正当化しようとしている――彼を見つめる無感動なもう一人の彼は、ひどく冷静に分析結果を述べた。もう一人は是非までは決して口にしない。ただ黙って後ろ指を指すだけ。
 今度こそは上手く行くかもしれないとは、何度も思ってきたことだった。どこからどう見たって美羽の要素をカケラも持たない人と、本気でやり直せると信じたこともあった。けれど、美羽なら、美羽ならと考える時間が増えすぎるだけだった。恋の痛みを麻酔のようにして鈍らせるために次の恋に浸る。繰り返せば繰り返すほど麻酔の効きは悪くなって、始まりの希望は鈍い輝きしか放たなくなる。
 当たり前だった。この世に美羽は一人しかいない。美羽に固執する以上、彼は決して幸せにはなれない。だとしても、もう彼女はカイのものにはならない。諦めて、消し去ろうとしても、触れた唇に、出させた喘ぎ声に、腕に収まった頭に、彼を縛って止まない彼女が顔を覗かせる。永遠の呪いだと思った。
 だが、カンナは彼に全く違うアプローチをさせた。美羽に瓜二つの彼女は、彼の中で歪みながら膨れ上がった情動を引き出させようとしながら、同時に有り得たかもしれない別の日を幻視させてくれるのだ。
 ポンと新しいスタンプが送られてくる。
〝既読無視はダメウサ!〟
 眼鏡を忘れたウサギは、渋さの極まった顔をして両腕でバッテンを作りながらそう言ってきた。
「語尾がウサって、おい、冗談だろ」
 また自然なこぼれ笑いが出た。
 今度は、きっと違う。こんなこと、あれ以来一度もなかったのだから。彼は愚かな男子らしく、性懲りもなくまたギャンブルに手を出した。
 ついに持てる全てを賭けてしまったなんてことは、思考を半分以上放棄していた彼には分かるはずがなかった。
 美羽に重ねすぎるということが示すのは、彼を完膚なきまでに叩きのめしたはずのあの日を、もう一度訪れさせる危険を孕んでいるということ。
〝ついでに今日の夕飯に使えそうなものも適当に買ってくれ。建て替えで構わないから〟
 ボロボロの吊り橋に、カイはその一歩を踏み出してしまった。
「なあ、どう思うよ」
「何が」
「藤堂さんだよ」
 カイはキーボードを叩いたままで返事した。隣の席の(あずま)は仕事はよく出来るのだが、黙っていられない性格なのが心底鬱陶しくて仕方ない。頭の切れる奴は脳の回転が早すぎて、溢れ出た思考を口から出さないとパンクしてしまうという話をどこかで聞いたことがあったが、あまりにもその通りだと思わずにいられなかった。ひょっとすると、そう口にしたのだったか書き記したのだったかした人は、東を見てそう書いたのではないかと疑ってしまう。
「トードー? 誰だよ」
 正しく書いたはずの関数がエラーを吐き出してきたせいで、カイは集中を切らして回転椅子を引いた。東はとっくの昔にパソコンから距離を取っていたらしく、ちょうど彼の顔が隣にあった。
「おいおい、朝礼聞いてなかったのかよ。今日新しく来た人だよ。めちゃくちゃ美人の。挨拶してただろ?」
 カイは黒目を上瞼の方に近づけた。そういえばそんなこともあったかもしれない、と考えるのが精一杯だった。決して器用ではないカイは、(今回の場合は正確にはそういう関係にはなっていないが)恋人が出来たりすると他人にはあまり意識が向かなくなるところがあった。対人関係に目立って影響が出るというわけでもないのだが、落ち着くまではかなり身の回りの出来事に関心がいかない。
「これだからモテる奴はダメなんだよ。朝から噂で持ちきりなのによ、まるで気にも止めてないの。何だ興味がないのかと思ったら、いつの間にかしっぽりしてやんの」
 勝手に話しかけられて、勝手に貶されて、やはり東は苦手だと感じた。言葉の端々に品が無いのも、あまり好かなかった。アルコールの入った場面なら別に構わなくも思うのだが、素面でそういうことを言われると、どうにも引っかかりを覚えてしまう。
「こういう時に限って、お前恋人切らしてんだろ、おいおい、やめてくれよな、俺には今月中にお前があの子を抱いてる予感がするぜ……」
 頭が痛くなってきた、とか言って東は席を立つと、どう見ても休憩室の方に向かっていった。あれで仕事が出来るというのだから、世の中はとんだ欠陥品だな、とカイは思ってしまった。ニコチンを吸うと、今以上に淀みなく話し出すのだろうという悪寒がして、カイは小さく溜め息を吐いた。
 案の定、東のお喋りはお昼休みを迎えるまで延々と続いて、今朝のカイの仕事の出来は芳しくなかった。だが、東はと言うともういくつもタスクをこなしていて、せめて席替えだけでも上申しようかと思うほどだった。
「ウザすぎる……」
 公園のベンチにどっかり腰掛けて、首が痛むのも構わずに体重を全て預けた。今日はまだ気温も高めで、心身に悪いオフィスにいるよりもここでお昼を取る方がよっぽど有意義に時間を過ごせそうだった。
 コンビニで適当に選んだメニューは中々すぐに食欲をそそるわけでもなく、彼はしばらくのったりと動く雲を見つめていた。
「あの」
 彼はだるそうに身体を起こすと、声のした方に視線を向けた。随分と綺麗な顔立ちの女性だった。どことなく見覚えがある気がしたが、誰かは分からなかった。あまり関わらない部署の人かもしれない。
「隣、座っても良いですか?」
「どうぞ……」
 恥じらいつつもそそくさと彼の隣に腰掛ける彼女。ああ、俺のこと好きなのか、とカイはあっさり感じた。これまでも何度かあったパターンだったせいで、彼にはそれが過ぎた自意識だという認識がない。
「せっかくだから外でお昼食べようと思ったは良いんですけど、来たばっかりで上手く場所見つけられなくて、やっとあったと思ったらベンチがここしかなくて……」
 まずは相手にこれがたまたまだと印象付ける言い訳をして、抱いている恋心を見えにくくする。お決まりのやり方だな、と思ってはみたものの、「来たばっかり」というところにカイは引っかかりを覚えてしまった。
「あ、もしかして藤堂さん?」
 言ってから、それはないよな、と思ってしまった。向こうからしたら、一応挨拶はしたはずなのだから。朝礼を全く聞いていないということがバレバレだ。
「はい、えっと……ごめんなさい、私、まだ皆さんの名前、覚えられてなくて……」
 謝るのか、と彼は面食らった。初日なんて、彼は直属の上司の名前を覚えるので精一杯だったというのに。
「赤間です。そんなに意識しなくても、すぐに覚えられますよ」
 彼女はスカートの裾を手で押さえながらベンチに腰を下ろした。細かな所作には品の良さがうかがえる。
 ガサガサとコンビニのレジ袋から彼女が出したのは、まさかのカイが選んだのと同じサンドイッチだった。
 そのまま食べはじめるのを見ると、急に身体は空腹感を覚えはじめた。だが、同じのをそそくさと出すのも憚られて、
「藤堂さんもサンドイッチなんですね」
 向こうが同じのを選んでしまった、という空気をわざわざ作ってみせてから、ないがしろにしていた自分のを出した。具まで一緒というのは、さすがに向こうも気にしないだろう。
「ついつい選んじゃうんですよね」
 彼女はしっかりと飲み込んで、口の端についたタレを人差し指で拭ってから答えた。さっと指をおしぼりで拭く様を見ながら、カイは美羽の几帳面な性格のことを思った。
 美羽はどこにだって顔を出す。あるいは爪の形、あるいは話し方、あるいはアクセサリーの系統。まるで、彼女が無数の女性に分裂して息づいているような。
「赤間さんも好きなんですか? サンドイッチ」
「いや、俺はたまたま」
 それらは全て、ありふれた要素の一つずつでしかないと思うのに、彼はどうしてもその頭に〝美羽の〟という接頭辞を付けずにはいられなかった。
 藤堂の一口一口は実に小さかった。学校だと給食の時間いっぱい費やしていたタイプだろうな、なんてことをぼんやり考えながら、カイはこの場を離れたい気持ちを募らせ始めていた。一人でのんびり過ごそうと思ってここに来たのに、これではまるで気も休まらない。だが、だからといってその場をあっさり離れてしまおうとするほど、彼は無神経な人間ではなかった。初日に避けられようものなら、この先の仕事のパフォーマンスにもきっと影響が出るだろう。そう思って、彼は缶コーヒーのプルタブを開けた。
「あの、ここの皆さんって、優しいですか……?」
 コーヒーを飲みながら、彼は部署の面々の顔を思い浮かべた。
「優しいか優しくないかで言うと、優しい方なんじゃないですかね。仕事に対してはみんな厳しめだけど、働き方って点で言うなら、割と融通も利く方です。少なくとも、世間で騒がれてるようなブラックな感じではないと思います」
「求人サイトを見てた時には、ネガティブなことも書いてあったので、どうなのかなって思ってたんですけど、それを聞いて安心しました」
「まあ、ああいうのは合わなかった奴が書いてるところありますしね」
 カイも一度自分の会社の評判が気になって、入社して少し経った頃に目を通したことがあった。実際そこに書かれていたことは根も葉もないようなことなんかではなく、働いていれば誰もが疑問に感じたり理不尽さを覚えたりする内容だった。それでも、そこに同調してやめたいという意志までは、彼の中には生まれなかった。やりがいなんてものを感じられるほど大層な職業観も持っていないけれど、自分の仕事にはそれなりに誇りを持っていたからだった。彼の働きによって、笑顔になる人がいる。自分の努力が目に見える結果として現れるというのは、恋に躓き続けてきた彼には重要なことだった。
「ただまあ、分からないことは自分から聞いて下さい。そうしないと多分、教えてくれないので」
「分かりました。えっと、それって赤間さんにでも良いですか?」
「俺で分かることなら、別に俺で良いですけど。なんでもかんでも分かるわけじゃないですからね」
 ああきっと、自分のこういう振る舞いから、俺は間違えていくんだろうな、とカイは感じた。それはいつも覚える感覚だった。つまるところ、彼は心根の優しい、端整な顔立ちの男性に映るのだ。特に心の荒れていた大学時代には、わざとそうして色々な女子の心を惹きつけてきた。今となっては、処世術の延長でそうしているだけのことなのだが、どうも彼は良い感じに映ってしまう。もっと邪険にあしらって、突き放した方がよっぽど良いだろうに、と思っても、彼はそんなふうに冷淡にはなれない。
 結局のところ、彼は優しさを与えることによって返ってくる、優しさを求めていた。
 野菜ジュースを飲み終えると、彼女はおもむろに立ち上がって、大きく伸びをした。スタイルの良さは、その動きだけでよく分かった。もし彼が平凡な恋路だけを歩いてきた男性だったなら、立派に恋をしたかもしれない。
「先、戻ってますね」
 そう言ってからすぐ、あ、と声に出したかと思うと、
「これからよろしくお願いします、赤間さん」
 藤堂は少し姿勢を正して、軽く会釈した。
 歩き去っていく後ろ姿もなかなか美しくて、普通はああいうタイプを好きになって、上手く行くことを望むんだろうな、なんて彼は思った。
 きっと美羽も、彼女のようにしっかりした社会人をやっているのだろう。たとえ束の間失恋に打ちひしがれたのだとしても、女子はすぐに立ち直る。結婚相手はどんな相手かも分からなかったが、きっと彼女と光差す道を共に歩んでいける人なんだろうなと思うと、カンナを家に転がり込ませている自分がつくづく惨めに思えてきた。
(戻りたくねえな、本当)
 とてもじゃないが、戻ったところで仕事が捗るとは思えない。だがそれでも、腕時計を見れば残り時間はほぼなく、早く家に帰りたい性格の彼は休み時間を引き伸ばすという選択肢は取れなかった。
 立ち上がった彼は、同じように伸びをしてみようかと考えた。けれど、いざ腕を伸ばそうとしたところで、恥ずかしくてとても出来そうになかった。
 そう感じた自分を、彼は酷く男性的だと思った。
「冷えてきたな」
 カイは首をすぼめながら家路を急いでいた。
 藤堂は目を丸くするほど仕事の出来る人だった。部署内でも「あんな人材を失うなんて、前の会社には損失でしかないよな」とか「珍しく人事が仕事したパターンだな」とか言って、容姿だけでなく中身にも正当な評価を与えていた。
 その高い能力にあぐらをかくこともなく、彼女は発言通りにカイのところに色々尋ねてきた。だが、それはカイ以外にも同様で、特定の誰かに入れ込まないように見せているのは、彼女なりの処世術なのだろう。
 家に着いて、鍵穴に鍵を差し込んだ。右に回したが、手応えがない。少し前までならゾッとしたところだが、彼はやれやれ、とわざとらしく溜め息を吐いてドアを開けた。
 やはり、カイのよりだいぶ小さいサイズのローファーが脱いである。綺麗に揃えてはあるが、ど真ん中にあった。
 カイは隣に添えるようにして靴を脱ぐと、足早に三和土に上がった。そのまま廊下を歩いてリビングへ続くドアを開けると、コトコトと何かを煮込む音が聞こえて、音のすぐ近くにブレザー姿のカンナがいた。
「鍵閉めろつったろが」
「あ、ごめん! 荷物重くて、先に運んじゃうことにしたら忘れちゃってた」
「出禁にすんぞ」
 彼はもう一度長い息を吐くと、ソファの傍に鞄を置いて着替えに行った。カンナが同じ空間にいるという緊張みたいなものは、数日もしない内に完全になくなっていた。
 出入りを許したことで入り浸り状態になるのかと思っていれば、意外とそういうわけでもなかった。家に帰りづらい雰囲気があるとそうしているのだろう、と感じるくらいにはまちまちな訪れだった。こうして帰る時間より先にいるのは稀で、むしろバイトを上がってからの遅い時間に来ることの方が多かった。場合によっては、カイが眠ってから、夜を明かす場所として利用するためだけに来ているようなこともあった。都合の良いねぐら、それでも構わなかった。
 正直な話、彼は隣家の住人を知らない。入居した際には空だったそこには、いつからか誰かが入っていたのだが、他人に無関心な時代は二人を繋げなかった。それは周囲の家に住んでいる者たちについても同様だった。だからはっきり言ってしまえば、初めて会った日、彼女を遠ざけようとした理由は酷く一般的な考えでしかなかった。ひょっとしなくても、そこに住んでいるのがカイだということさえ知らない人の方が多いように思えた、
 受け容れてしまった後はいつまでも続く下り坂。カンナの存在は、彼の日常の血肉に同化しつつあった。
 カッターシャツのボタンを外しながら、遠目にカンナの背中を見つめる。彼はラメが落ちていくようだと感じていた。このままありふれた色になってしまうのだとしたら、美羽以外と過ごしてきた日々の焼き回しでしかなくなる、そんな気がして、最後のボタンで手を止めた。
「なあ」
 距離が遠かったのか、彼の声が小さかったのか、カンナは振り向かない。
「おい、カンナ」
 それが初めて彼女の名前を口にした瞬間だとは、彼女が「何? 呼んだ?」とこちらを向くまで気付かなかった。だがそんな驚きも、カイの瞳に映った彼女――彼の心をいつまでもいつまでも縛るセピア色の記憶にかき消されてしまった。
(違う)
「カイー? どうしたのー?」
(きっとこれは、違う。今までとは、決定的に)
 彼が渡したのは、彼の部屋の戸を開けるための鍵。けれどそれは最早、彼の心を如何様にでも出来る権利を譲り渡したのと同じだった。
「あつっ」
 カンナが大きな声を上げたことで、彼はハッとした。
「大丈夫か、火傷したのか」
 そう尋ねた心は、ずっと昔に戻っていた。人を純粋に想い、幸せを願えた頃に。
「ううん! 大丈夫! ちょっと鍋のフチに手が当たっただけだから!」
「ちゃんと冷やせって」
「うん、そーするー!」
 流水の音がして、彼は最後のボタンに手をかけた。
 そこからはさっと着替えを済ませると、手洗いなどもいつもよりずっときびきびと終えて、カンナの隣に立った。彼女が作っていたのはシチューだった。
「何か手伝うよ、俺も」
 そんなことを言ったのは初めてだった。誰かと暮らしている間は、彼は料理なんてついぞしなかったのに。
「じゃあ、ジャガイモ潰してくれる? マッシャーも買ってきたから、そこ、レジ袋の中にあるから」
 彼は言われたとおりにジャガイモを潰しはじめた。ぐっ、ぐっと力を入れる作業を繰り返していく内に、思考はどんどん落ち着いてきた。まったくおかしなことをしているもんだと小さな笑みがこぼれてしまった。
「そういえば、さっき私を呼んだのは何だったの?」
「ただ呼んだだけ」
「えっ、私それで火傷したんだけど」
「大丈夫って言っただろ」
「そうだけど! そうなんだけど!」
 これまでの誰かとも、自分が歩み寄ればこんな時間もあったのだろうか。ジャガイモは何も答えてくれない。
 彼は数年ぶりにとても穏やかな顔をしていた。だが、キッチンに鏡はない。彼はその小さな喜びに気付きはしなかった。