「ご注文の品は以上でお揃いでしょうか?」
「ええ」
 ウェイトレスは軽く頭を下げると、そそくさと離れていった。傍目には分からないようにしているのだろうが、カイには彼女が何かに不満を抱いているのが分かった。歩き方が物語っているのだ。振り下ろす足には怒りが込められている。踏みつけてやりたい男でもいるのだろうか。
「綺麗な人だったね」
 カンナはストローから口を離して言った。その視線はまだウェイトレスの背中に向いている。
「そうか?」
「そこは男なんだ、カイって」
「どういう意味だ?」
「男女で綺麗だと思う子って、基準違うってこと」
 心当たりはある、と思った。一緒にドラマを見ていても、元カノたちが綺麗だと口にした女優と、カイが美人だと考えていた女優とはほぼ合わなかった。
「単に個々人の違いなのかと思ってたな」
「男子が綺麗だって言うのは、男にウケる顔してる人で、女子が綺麗だって言うのは、自分がムカつかない人なの」
「ムカつく顔って何だよ」
「男に媚び売ってる顔」
 カンナは少しドスの効いた声で言った。個人の見解です、という注意書きが必要そうだな、とカイはぼんやり考えた。取るに足らない会話を交わしたことで、彼は自分の中から粗熱が取れていくのが分かった。会った瞬間にも思いはしたことだが、やはり、中身はまるで違う。美羽はもっと、スレていなかった。純粋で、そんな彼女を女にしたのが自分だと思えば――
「女の思う、かっこいい顔はどうなんだ。あ、食えよ、冷めるから」
 カンナは僅かに頷いてからフォークを手に取った。鉄板に乗ったコーンをいくつかすくって口に運ぶ。咀嚼しながら、思案顔をした。飲み込むと、「裏切ってほしい顔」と言った。カイには彼女の瞳のハイライトが一瞬曇ったように見えた。
「でも、裏切ったらダメなの。分かる? 酷いことしてほしいけど、実際されたいわけじゃない」
「全く分かんねえな」
 そう答えて、カイはグリルチキンを一切れ口に放り込んだ。昔は美味しいと感じていたはずの外食も、大人になって数年経った今は、ただの濃い味付けだとしか思えなくなっていた。
「私は、カイにそういうことされてみたいって思ってるってこと」
「バカ言え」
 自分の言葉がすぐに出たか自信がなくて、カイは必死にカンナの表情を探った。
 彼女が本心でどう思っているか、そんなことはどうでもよかった。ただ彼女に、彼が抱えているシミに似た感情を知られたくなかった。
 あの日から続いている彼は美羽の亡霊を手にしたくて、あの日を境に生まれた彼は美羽の生き写しを大切に思いたかった。どちらもやり直したいと思っている点では同じだけれど、カイは自分がとても優しくはなれないと思っていた。もし自分がもう少しでも自制の利く人間だったなら、こんなにも長い間苦しむことはなかったのだから。
 このまま苦しみ続けること、それだけが自分に残されたたった一つの道だと言い聞かせていた彼には、カンナはあまりにも残酷な神様からの贈り物だった。
 彼は微かに左のこめかみが痛んでくるような感覚を覚えた。おそらく、そう遠くない内に本格的に痛んでくるだろう、と予想した。何気ない動作として、彼はこめかみに人差し指の腹を押し付けて動かした。少しだが、マシになるような気がした。
 カンナはほとんど食べなかった。鉄板の上にはハンバーグが優に半分は残っている。綺麗に平らげられていたのは最初に手を付けたコーンだけだった。
「食わないのか」
「食べたじゃん」
 どうやら、それがカンナのデフォルトらしい。
「ならもらうぞ」
 言うやいなや、カイはカンナの皿から丸ごとかっさらった。無言で食べ進める様を、カンナは目を円くしながら見つめた。
「えっ、えっ、なんで食べちゃったの、私の食べさしだよ」
「残せないだろ、そんなに」
「残せないって……カイってもしかして、育ち良いの?」
 カイは眉をひそめた。
「育ちが良い奴は、そもそもこういうことしないだろ」
 柄にもなく自分の苛立ちを言葉に乗せてしまったことを彼は酷く後悔した。けれど、家庭の話はダメだった。
「俺はどこにでもある普通の家庭の生まれだよ」
 普通の家庭、という言葉を彼はとても強調した。
 それ以上カンナは話を広げなかった。彼女と話している内に、カイは彼女が人との距離感を常に測っていることに気が付いた。何を言えば相手の機嫌を損ねず、何を言えば喜んで、どうしたら突き放されないかをほんの僅かなやり取りの中で見出す。一般社会ではそれを社交的、と形容するのだろうが、彼女の場合はどう考えても生きるための術なのがハッキリしていた。それほどまでに酷いことをされてきたのだろう。
 生まれは選べない。いつだったかのカノジョが言っていた。そう言った三カ月後に自殺した彼女は、両親に捨てられて施設で育った子だった。不幸な生い立ちを背負う者は、その多くが他人に合わせて自分を形作る。だがそれは、カイとて同じはずだった。けれども彼の場合、誰にその話をするわけにもいかなかった。どこにでもある普通の家庭、誰から見てもそう見えてしまう〝幸せな家庭〟出身の彼は、〝不幸せな家庭〟出身の者たちを前に、口を噤むことしか出来ない。
(俺のところには、そういう奴ばっか集まるな)
 それは彼が好みがそうさせているのか、それともそういう定めなのか。いずれにせよ、今度もまた、彼は一方的に相手の弱音を聞かねばならないのだろうな、と考えていた。