金曜日の居酒屋は盛況で、赤間(あかま)カイはそのごった返した雰囲気が鬱陶しく感じられてならなかった。
「でさぁ、カイ、夏生(なつよ)がさぁ、もうマジでうるさいんだよ」
 酔った高校時代の友人のウザ絡みも面倒でならない。久々に呑みに行かないか、と誘われた時には悪くない気もしていたが、いざ目の前で酔われるとすぐに帰りたくなった。
「ほら、お前が付き合ってた子、美羽ちゃん、だっけ? あの子の結婚式に行ってから、夏生の奴、マジでうるさくてなんないの。ドレス姿が綺麗だったーとか、結婚相手がイケメン過ぎてヤバかったーとか、自分もあんな結婚式が挙げたいーとか、な」
 美羽の名前を聞いた瞬間、カイの心は柄にもなくざわついた。
 初めて関係を持った異性。それだけでも忘れ難い。そしてそれ以上に、今ある自分を形作っただろう、どうしても消せない相手。
「お? 別れない方が良かった、とか思ってたり?」
 気の利かなさが一級の癖に、こういった時だけ妙に勘づく彼を前にして、
「バカ言え。あいつはヤるには丁度良いけどな、結婚とか、どう考えても有り得ないから。俺がヤり捨てた女と結婚するとか、そいつの気が知れないんだよ」
 カイはわざと下卑た物言いをしてみせた。
「ひゃー、やっぱモテる男は違うねぇ。でも、お前は考えたりしないの? もうアラサーだぜ? 俺らも」
「別に、しなくて良いんじゃないか。あんなの、面倒なだけだ」
「ま、カイのことだし、気付いたら結婚してそうだからなぁ、そんな心配するくらいなら、俺は俺の心配をするね。あの子みたいな可愛い子と付き合いたいなぁ」
 あの子、と指差した先を見て、カイは顔をしかめた。
「どう見たって女子高生だろ。 朱鷺耶(ときや)、お前、捕まりたいのか?」
「え、そうなのか? あ、危ねー……」
「本気で分かってなかったのか……」
 じっと見ていると、彼女と目が合ってしまった。が、彼女はすぐに目をそらして、厨房の奥へ消えていった。
 いったいいつまでこうしていたら良いのか、と溜め息を吐きたくなった矢先に、朱鷺耶の携帯がブルブルと震えだした。
「げっ、矢守さんからだ。マジかよ、俺このまま帰りたいってのに」
 自分にとっては救いの電話だ、とカイは思った。案の定、その電話は会社への帰投命令で、朱鷺耶は立派な顔芸をしてみせた。
 カイの願い通りに二人は席を立ち、会計を済ませて店の外に出た。
 秋の夜は少しずつ寒さを帯びはじめていて、ひゅう、と吹いた風は首元の不安さを指摘しているようだった。
「じゃあ、俺、行くわ……」
「酔っ払ってるんだからな、車にはねられんなよ」
「分かってるよ……」
 朱鷺耶と別れたのに、カイは溜め息を吐いた。別れたからこそ、だったかもしれない。
 澄みはじめた夜空を見上げて、どこかで幸せになった元カノのことを思い出した。
 それから、名前もあやふやになったり、どんなことをしたか思い出せないたくさんの元恋人たちが次々と脳裏をよぎった。どれもみんな、大切とは程遠い記憶だった。
 カイはきゅっと左手を固めた。弱く、何も出来なさそうな拳だった。
 より大きな溜め息を一つ。
(〝別れない方が良かった〟か?)
 確かに愛していた。
 自分は彼女と幸せになるのだと信じていた。
 彼女は最高だった。もう他に無い存在だと思っていた。
 趣味も合った。話も合った。お互いの時間も確保出来た。体の相性も良かった。
 何もかもが正しいはずだった。
 それなのに、いつしか二人は愛のための行為ではなく、行為のための愛を重ねるだけになってしまった。
〝別れよう〟
 と口にしたのは、カイの方からだった。
 彼女との日々を続けていたら、自分は醜い悪魔に成り果ててしまう気がした。
 でも、それが間違っていた。
 それは結果論でしかないけれど、彼女と別れた彼は、彼女が彼にもたらしてくれたあらゆるものを、彼女以外に求める人生を歩み始めた。
 だが、どんな(ひと)も、彼女に敵わなかった。
 ただ、手と、唇と、身体だけは、重ねることが出来た。
 彼女と別れてからの数年間、彼は後悔をしないために――そんな心理に陥らないために、常に誰かといることで埋め合わせてきた。
 だが、そんな日々にもついに限界が訪れ、前カノと別れてから、もう三ヶ月もの間、誰とも付き合ったり、関係を持ったりしていない。
 自分のあり方がいかに間違っていて、酷いものかは、誰に言われなくても分かる。深く考えるまでもない。
 今からでも遅くない、清く、正しく、美しく生きれば、救いもあるかもしれない。なんてことを、彼はもう思えない。どうせ、聖なる夜を一人で過ごすのが寂しくてならない季節になれば、誰かしらは彼のところに来る。一度だって、一人であの夜の時計を見たことは無かった。
 どんなに過ちを見つめたところで、思い出した時には誰かを抱いている。
 そう思うと、カイは笑うしかなかった。最後に声を出して笑ったのは、破綻する前。つまり、彼女を愛していた頃。もう何年、そんな風に笑っていないだろう。
 夜道でそんなことをしている自分が虚しくなって、彼はゆっくり歩きはじめた。
「ねえ、待って」
 最初、カイはその声が自分に向けられているとは思わなかった。
「待ってってば」
 腕を掴まれ、呼ばれているのが自分だと分かった彼は、仕方なく声の主の方を向いた。
「……お前」
 そこにいたのは、居酒屋で目の合った女子高生らしき店員だった。
「お願い、一晩だけ泊めて」
 彼女は切迫した表情でそう言った。
 よく見れば、彼女は奇妙なほどに、美羽に似ていた。