「何ですか!?」

 早く紫陽花の元に行きたくて、足止めをされているのがもどかしかった。切羽詰まった様子でちぃ先輩にそう訊いたのだが、彼女は険しい表情で答える。

「紫陽花と話さない方がいいよ」

「は、なんで……」

 璃仁は、ちぃ先輩がこれまで散々紫陽花と璃仁のことを気遣ってなんとか橋渡しをしてくれようとしていたのを思い出す。ちぃ先輩は紫陽花と仲が良いのではないのか。それなのになぜ、急に掌を返したかのような態度をとるのか、璃仁には理解できなかった。

「きみは、噂のこと知ってる?」

 噂。
 ちぃ先輩の言わんとしていることが分かった璃仁は静かに頷いた。璃仁の反応に、ちぃ先輩はため息をつく。

「それなら余計にやめておいたほうがいい。紫陽花と仲良くしてるとこ見られたら、きみも何されるか分かんないよ」

 ちぃ先輩は右手で左腕をぎゅっと握っていた。右掌の隙間から覗く左腕の青い痣が、璃仁の目に映る。はっとしてよくよく彼女のことを見てみると、左腕だけじゃない、スカートの裾から覗く足や白い首にも、いくつも痣や擦り傷があった。自分と紫陽花のことでいっぱいいっぱいになっており、彼女の傷に気がつかなかったのだ。

「どうしてそんなこと」

「さあ、分からない。みんな、紫陽花のことを本当は妬んでたのかもね。あの子、美人で人気者だから。やっかみを言うやつらがいてもおかしくない。今回の件で、紫陽花を貶める理由ができたんじゃない?」

「……ちぃ先輩はどう思ったんですか。紫陽花先輩のこと。本当に、紫陽花先輩がパパ活をしていると思いますか」

 璃仁の問いかけに、ちぃ先輩は大きく首を横に振った。その答えに、璃仁の胸の中で凍りついた怒りや嘆きの感情がすっと氷解していくような気がした。

「私、紫陽花に確かめたんだ。紫陽花は悲しそうに『やってない』とだけ言った。それ以上のことは言わなかった。それが事実なんだよ。紫陽花がどうして中年男と一緒にいたのかなんて知らない。でもそれは、聞くことでもない。私はパパ活なんてしてないという紫陽花の言葉だけを信じる。それだけ」

 何を信じ、何を疑うべきなのか。
 ちぃ先輩が主張したことは、璃仁の胸にすとんと降りてきた。紫陽花のことをただ信じている。誰がなんと言おうと、ちぃ先輩は紫陽花を無条件で信じたんだ。その結果、自分の身が危険に晒されたとしても。

「でもね、私はきみに同じ思いはして欲しくないんだ。紫陽花と話すことで、きみにも危険が迫るのを見過ごすことはできない。紫陽花には私がいる。しばらくすればこんな噂だってなくなるよ。みんな、どうでもよくなって忘れるって。だからそれまで我慢すればいい。きみが傷つく必要はない」

 ちぃ先輩は泣きそうな顔をしていた。璃仁と彼女のそばを通り過ぎていく3年生たちが、「あの人たち……」とヒソヒソ囁き合う声が聞こえた。ちぃ先輩の言う通り、こうして彼女と話しているだけで、璃仁にも矛先が向けられている。紫陽花の人気が、妬みの波を生み出して、今こうして本人のあずかり知らぬところで波紋を呼んでいる。
 ああ、なんてくだらなくて恐ろしいんだろうと思う。
 第三者である璃仁すらもそう感じるのだから、紫陽花はどれだけの悪意を感じ取り、震えているんだろう。
 もし紫陽花がいま、恐怖に身を竦ませているのであれば、なんとしてでも助けたい。ちぃ先輩の言う通りに、噂はいずれ消えていくのかもしれない。でも、一度胸に刻まれた創は一生かけても消えることはないのだ。

「ちぃ先輩、ありがとうございます。でも俺、後悔したくないんです、確かに傷つくことになるかもしれないですけど、たぶん紫陽花先輩の痛みに比べたら、どうってことないです」

 璃仁は掴まれていた自分の腕をちぃ先輩の手から離した。
 ちぃ先輩は目を大きく見開いた。「本当にいいのね?」とその目が問いかけているような気がして、璃仁は深く頷いた。

「きみ、格好いいじゃん。紫陽花も惚れるよ、きっと」

「惚れてくれないから困ってるんですよ」

 璃仁はちぃ先輩に頭を下げて、その場から駆け出した。