月曜日の朝、璃仁はひどく寝不足の状態で学校に来ていた。
休みの間中金曜日の晩のことを考えていて、昨日の晩もよく眠れなかったのだ。気がつけば午前3時になっても覚醒したままで、いつ眠りについたのか思い出せない。とにかく、朝目覚まし時計の音で目を覚ましてから眠気が身体を襲っていた。
学校に着くと早速机の上に突っ伏して目を閉じた。まだ始業までには少し時間がある。10分でもいいから寝たいという欲求のままに行動していた。
「ねえ知ってる? 3年生の崎川紫陽花先輩って人、パパ活してるんだって」
囁くような声に耳がピクリと反応した。誰かは分からない。クラスメイトの女子が「崎川紫陽花」と「パパ活」という聞き捨てならない単語の組み合わせを口にした。
「え、そうなの? 崎川先輩って、あのインフルエンサーだよね? パパ活ってやばすぎ」
璃仁は、顔を上げずに女子たちの会話を盗み聞きしようと必死だった。
根も葉もない噂に決まっている。紫陽花がパパ活などするはずがない。そう心で否定する一方で、昨晩目にした紫陽花と男が居酒屋へと入っていく光景がフラッシュバックする。違う。あれはそういう関係ではなかった。いや、そういう関係ではないはずだ。でもそれならばやっぱり紫陽花はあの中年男に本気で恋愛をしているのだろうか。
「なんか男子が昨日見たって言ってたよ。崎川さんと男の人がお店に入っていくところ」
「まじで? それってやっぱりそういうお店なの?」
「そうらしいよー。あんまりよく分かんないけど、男子ってそういう情報に詳しいじゃん」
「うわあ。まじやばい。学校に知られたら退学にならない?」
「うん。少なくとも休学にはなるんじゃない?」
「崎川先輩ってそういうタイプの人だったの? 私、憧れてたのにがっかりした」
「だよね。私も、もうフォロー解除しちゃったよ」
違う。だから違うって。
頭の中で声が枯れそうなほど叫んだ。
紫陽花とあの男はパパ活なんてしていない。でも、証拠はない。誰も信じてはくれないかもしれないけれど、璃仁の直感が告げるのだ。
紫陽花は初対面では素っ気ない女の子に見えるけれど、本を投げ捨てられ傷ついた璃仁の心にそっと寄り添ってくれた。あの時、璃仁がどれだけ救われた気持ちになったか、今でも鮮明に思い出せる。他人の痛みを共感して慰めてくれる、そんな心根の優しい女の子なんだ。
ぐるぐると答えのない憶測が頭の中を駆け巡った。そのうち、紫陽花がパパ活をしているということだけは否定したいと切に願うようになった。
「紫陽花先輩は、そんなんじゃない」
気がつけば顔を上げ、紫陽花のことを噂する女子に向かって叫んでいた。
女子たちが一斉に璃仁の方を見た。幽霊でも見てしまったかのように、それぞれがぎょっと目を見開いている。少し離れたところから、海藤が璃仁に蔑むような視線を投げかけているのを感じた。
「田辺、どういう意味? なんか知ってんの?」
気の強い女子の一人が一歩前に出てきて璃仁に問う。しまった。紫陽花とつながっていることをクラスメイトに知られたらまずい。どうしてまずいのか、それはそばで海藤の次の言葉を待っている海藤がいるからに他ならなかった。
しかしもう手遅れだ。璃仁はしっかりと、紫陽花と何らかの関係性があることを暴露してしまっている。
「……詳しくは知らない。でも、紫陽花先輩はパパ活なんかするような人間じゃないんだ」
苦しい答えかもしれない。実際、何人かの女子は璃仁の言葉を聞いて哀れみの目を向けてきた。羞恥で頭が燃えるように熱くなる。そもそもいくつもの視線の中で発言をすること自体、璃仁には出過ぎたことなのだ。
もはやクラスの全員が、璃仁の言葉にじっと耳を傾けていた。誹謗と嘲笑が混じったような視線が肌に突き刺さる。
「お前、紫陽花とどういう関係なの?」
みんなよりも一歩前に進み出て璃仁に食ってかかったのは言うまでもなく海藤だった。
「どうって、単なる知り合いだけど」
海藤に自分と紫陽花の関係を知られるのはなんとなく嫌だった。海藤という男は、璃仁に何か少しでも隙があればそこを嫌らしく突いてくるのだ。今後海藤から紫陽花のことで何らかの攻撃に遭うのだけは避けたかった。
「へえ〜帰宅部のお前が、どうして紫陽花と知り合いなんだろうな?」
下品な笑みを浮かべながら、海藤が「なあ、みんな?」と周囲のやつらに同意を求めた。誰も頷かないが、みな心の中では璃仁のことを笑っているのではないかという嫌な想像をしてしまう。
「俺が誰と知り合いだろうが、海藤には関係ない。それより、海藤の方こそ紫陽花先輩の何なんだ? この間紫陽花先輩にしつこく話しかけてたじゃないか」
璃仁は以前、登校中に紫陽花に言い寄る海藤の姿を目撃している。誰にも言うなと口止めされていたが、この状況で聞かないわけにはいかなかった。
海藤は璃仁の言葉に鼻の穴を大きく膨らませ、荒い息を吐いた。瞬時に頭に血が上っていることが分かったが、同時に何を考えているのか、ふっと表情を緩めた。
「俺だって単なる知り合いさ。知り合いに話しかけるのに何か理由が必要か?」
「でも、あの時紫陽花先輩は嫌がってたよ」
「黙れ」
海藤が指の関節をポキポキと鳴らす音が、静寂に包まれた教室に響いた。それ以上言ったらどうなるか分かってるだろうなという無言の圧力が璃仁の肩に重くのしかかる。本当は海藤が紫陽花に無理やり近づいていたことについてもっと責めたかたったが、璃仁にそこまでの勇気はなかった。
「……とにかく、紫陽花先輩はパパ活なんてしない。それは絶対だ」
「ふ、どうだかな。あの女ならそれぐらいやるだろ。フォロワーだってそうやって集めたおやじたちばっかじゃねえの?」
品のない捨て台詞を吐いて、海藤は教室から出て行った。止まっていた時間が動き出したかのように、頭上からチャイムの音が降ってくる。璃仁と海藤の対峙する様子を見て固まっていたクラスメイトたちも、思い出したかのように動き出す。あと5分もすれば担任がやってくる。それまでに各々授業の準備をするのだった。
紫陽花がパパ活をしているというクラスメイトの誤解を解いたつもりでいたが、事はもっと深刻な状況だった。
その日、体育の授業を隣の3組と合同で行っていたのだが、3組の人間が紫陽花について噂しているのを聞いた。
「やっぱりあの話って本当だったのかな?」
「うん。横山なんてゴールデンウィークにも崎川先輩がおじさんと一緒のところ見たって言ってたもん」
「うわ、常習犯じゃん。もしかしてそれ以上のことやってるかもよ」
「崎川先輩、美人で写真も綺麗ですごく憧れてたのにぃ」
女子が嘆きつつも面白がって噂をしている声、男子が本気で紫陽花に失望したと残念そうに語る声が、体育の時間ずっと璃仁の耳にこだました。紫陽花のことをこんなに多くの下級生が知っているだけでも驚きなのに、悪い噂を立てられて心配だった。
紫陽花。崎川先輩。崎川さん。紫陽花先輩。
周りの人間の口から次々と飛び出す紫陽花の名前に、改めて彼女が学校でも特別な存在なのだということを思い知る。そんな人間と自分が知り合いであることが幻なのではないかとさえ思う。だが、みんなが口々に噂をしているのは紛れもなく、あの天使のような美しい先輩のことだった。
体育の時間だけじゃない。昼休みには廊下を歩いただけで紫陽花の噂をする女子グループとすれ違った。下校中も、翌日の登校中も、聞こえてくる「パパ活」というワードに背筋が凍りついた。こんなにも多くの人間が紫陽花のことを蔑んでいる。きっと本人の耳にも届いているはずだ。璃仁は、噂話を聞いてしまった紫陽花の精神状態が不安だった。
噂が立ち始めてから5日後、1学期の終業式が訪れた。
講堂で校長先生の話を聞いているあいだ、璃仁は上級生の座る列にじっと注目していた。3年生、2年生、1年生の順に前から座っていたので、3年生たちが座っているのが後ろからよく見えたのだ。
紫陽花の姿を必死に探したけれど、後ろ姿では到底見つけることができなかった。
やがて終業式が終わり、後ろ髪を引かれる思いで教室へと戻る。通知表を渡されてクラスが解散した。
「夏休み中に女といちゃつくなよ」
海藤が面白がってちょっかいをかけてきたが、海藤を睨みつけただけで反論はしなかった。今は海藤なんかよりも紫陽花の顔を見たい。自分が紫陽花の身を案じるような立場ではないことは重々承知していたが、ここ数日間学校中を流れる心ない噂話に、璃仁の方が耐えられなくなっていたのだ。もしかすると、本当に紫陽花は男の人とそういうことをしているのではないかと疑うことさえあった。
本人の口から、どうしてもあの夜の真相を聞きたかった。
仲良さげに一緒に居酒屋に入っていったあの中年男とはどういう関係なのか。あの夜のことを見られていたと知った紫陽花は怒り出すかもしれない。それでも構わない。紫陽花の潔白を、胸を張って信じたかった。
放課と同時に教室を飛び出す。向かうのは3年1組の教室だ。3年生もすでに解散をしているクラスが多く、1組も例外ではなかった。璃仁は教室に飛び込みそうな勢いで扉の前に立ちはだかった。
果たして教室に紫陽花は——いなかった。
まだ教室に半分くらいは生徒が残っていた。3年1組が解散したのは少し前なのだと分かる。こうなったら駅まで走るしかない。道中で紫陽花を捕まえるのだと踵を返したところで、ある人物に呼び止められる。
「……きみ、また来たの」
ちぃ先輩だった。変わらず頭の高いところで括られたポニーテールは以前会った時よりも若干長くなっているような気がした。
「こ、こんにちは。あの、紫陽花先輩は」
璃仁が自分の教室に来たということは紫陽花を探しにきたのだと瞬時に理解したのだろう。ちぃ先輩は残念そうに首を横に振った。
「そうですか。分かりました」
先輩から答えを聞かずとも、教室に紫陽花がいないことは明白だったのですぐさま走り出そうとした。だが、ちぃ先輩がなぜか璃仁の右腕を掴んだせいで、勢い余って後ろに身体が引っ張られた。
「何ですか!?」
早く紫陽花の元に行きたくて、足止めをされているのがもどかしかった。切羽詰まった様子でちぃ先輩にそう訊いたのだが、彼女は険しい表情で答える。
「紫陽花と話さない方がいいよ」
「は、なんで……」
璃仁は、ちぃ先輩がこれまで散々紫陽花と璃仁のことを気遣ってなんとか橋渡しをしてくれようとしていたのを思い出す。ちぃ先輩は紫陽花と仲が良いのではないのか。それなのになぜ、急に掌を返したかのような態度をとるのか、璃仁には理解できなかった。
「きみは、噂のこと知ってる?」
噂。
ちぃ先輩の言わんとしていることが分かった璃仁は静かに頷いた。璃仁の反応に、ちぃ先輩はため息をつく。
「それなら余計にやめておいたほうがいい。紫陽花と仲良くしてるとこ見られたら、きみも何されるか分かんないよ」
ちぃ先輩は右手で左腕をぎゅっと握っていた。右掌の隙間から覗く左腕の青い痣が、璃仁の目に映る。はっとしてよくよく彼女のことを見てみると、左腕だけじゃない、スカートの裾から覗く足や白い首にも、いくつも痣や擦り傷があった。自分と紫陽花のことでいっぱいいっぱいになっており、彼女の傷に気がつかなかったのだ。
「どうしてそんなこと」
「さあ、分からない。みんな、紫陽花のことを本当は妬んでたのかもね。あの子、美人で人気者だから。やっかみを言うやつらがいてもおかしくない。今回の件で、紫陽花を貶める理由ができたんじゃない?」
「……ちぃ先輩はどう思ったんですか。紫陽花先輩のこと。本当に、紫陽花先輩がパパ活をしていると思いますか」
璃仁の問いかけに、ちぃ先輩は大きく首を横に振った。その答えに、璃仁の胸の中で凍りついた怒りや嘆きの感情がすっと氷解していくような気がした。
「私、紫陽花に確かめたんだ。紫陽花は悲しそうに『やってない』とだけ言った。それ以上のことは言わなかった。それが事実なんだよ。紫陽花がどうして中年男と一緒にいたのかなんて知らない。でもそれは、聞くことでもない。私はパパ活なんてしてないという紫陽花の言葉だけを信じる。それだけ」
何を信じ、何を疑うべきなのか。
ちぃ先輩が主張したことは、璃仁の胸にすとんと降りてきた。紫陽花のことをただ信じている。誰がなんと言おうと、ちぃ先輩は紫陽花を無条件で信じたんだ。その結果、自分の身が危険に晒されたとしても。
「でもね、私はきみに同じ思いはして欲しくないんだ。紫陽花と話すことで、きみにも危険が迫るのを見過ごすことはできない。紫陽花には私がいる。しばらくすればこんな噂だってなくなるよ。みんな、どうでもよくなって忘れるって。だからそれまで我慢すればいい。きみが傷つく必要はない」
ちぃ先輩は泣きそうな顔をしていた。璃仁と彼女のそばを通り過ぎていく3年生たちが、「あの人たち……」とヒソヒソ囁き合う声が聞こえた。ちぃ先輩の言う通り、こうして彼女と話しているだけで、璃仁にも矛先が向けられている。紫陽花の人気が、妬みの波を生み出して、今こうして本人のあずかり知らぬところで波紋を呼んでいる。
ああ、なんてくだらなくて恐ろしいんだろうと思う。
第三者である璃仁すらもそう感じるのだから、紫陽花はどれだけの悪意を感じ取り、震えているんだろう。
もし紫陽花がいま、恐怖に身を竦ませているのであれば、なんとしてでも助けたい。ちぃ先輩の言う通りに、噂はいずれ消えていくのかもしれない。でも、一度胸に刻まれた創は一生かけても消えることはないのだ。
「ちぃ先輩、ありがとうございます。でも俺、後悔したくないんです、確かに傷つくことになるかもしれないですけど、たぶん紫陽花先輩の痛みに比べたら、どうってことないです」
璃仁は掴まれていた自分の腕をちぃ先輩の手から離した。
ちぃ先輩は目を大きく見開いた。「本当にいいのね?」とその目が問いかけているような気がして、璃仁は深く頷いた。
「きみ、格好いいじゃん。紫陽花も惚れるよ、きっと」
「惚れてくれないから困ってるんですよ」
璃仁はちぃ先輩に頭を下げて、その場から駆け出した。
一階に降り、下駄箱を目指す。一階には理科室や社会科資料室などの特別教室があり、その横を通り過ぎた。ギギ、という何かが床を擦れる音と、金属のものが床に落ちる音が聞こえて、璃仁は足を止める。無視して通り過ぎても良かったのだが、嫌な予感がした。勘としか言いようがないが、そのままスルーして進むことができなかった。
音が聞こえてきたのは家庭科室だった。理科室の隣に位置する家庭科室の扉に手をかける。
「失礼します……」
中にいるのが先生かもしれないので、そっと扉を開く。もし先生だったら、何事もなかったようにすっと扉を閉めよう。そう決めていたのだが、目に飛び込んできた光景に、璃仁は身を固くした。
家庭科室の一番後ろに、彼女が立っていた。
ただ立っていたのではない。彼女の周りには木製の椅子がいくつも転がっていた。先ほど聞こえてきた音は、椅子が倒れる音だったんだろう。彼女はまだ璃仁の存在に気づいていない。腰をかがめ、「何か」を手にとる。床に落ちていたそれを握りしめた彼女と、璃仁の目がようやく合致した。
「な、何してるんですか……?」
鋭利な包丁を持つ紫陽花の目が遠くから見ても虚ろで、とてもじゃないが放っておくことはできなかった。そもそも、彼女がどうして家庭科室にいるのか、荒れた椅子の真ん中で包丁を握りしめているのか、見当もつかなかった。
「これ、ダメだよね。包丁を置きっぱなしになんかしたら。先生、回収するの忘れちゃってたんだね」
「そう、なんですか。先生に届けないと。良かったら俺、届けますよ」
気が動転していた。
紫陽花が単に家庭科室で回収し忘れた包丁を見つけ、先生に届けようとしているだけなのだと信じたかった。でも、どうして紫陽花は家庭科室になんか来たんだろう。ふつう、家庭科室になんて家庭科の授業以外では来ない。それなのにわざわざ家庭科室にやってきたという事実だけで、紫陽花の手に握られている包丁が、怪しく光って見えた。
「届けなくていい」
小さな子が母親に抵抗するような様子で大きく首を横に振った。
「それじゃあ、どうしてこんなとこにいるんですか。なんで」
包丁なんて握りしめているんですか。
そう訊こうとしたところで、自分の声がひどく震えていることに気づいた。紫陽花が家庭科室で包丁を握りしめている理由を聞いてしまえばもう後戻りはできない。
美しく人気者の紫陽花のことを、ただ好きだと思っていた自分に。
「ほら、よく漫画とかで学校の屋上から飛び降りるシーンあるでしょ? それじゃあまりにありきたりだから、私はここに来てみた」
それがすべての答えだということが分かり、頭から地の底に落ちていくような恐怖と不安に駆られた。紫陽花に近づきたいのに、足が動かないのだ。璃仁は食い入るように紫陽花の顔を見つめた。こんな時にも関わらず、紫陽花の艶のある美しい髪の毛や瞳に、見惚れてしまいそうになった。妖艶な香りを放ち敵が近づいてくるのを静かに待っている花のように、彼女は存在するだけであらゆる人の心を鷲掴みにする。
紫陽花が包丁を持っていた右手を掲げ、鋒を首筋に当てる。「やめてください」という掠れた声が自分の口から吐き出される。紫陽花はその声にまったく動じない。白い首から一筋の血が流れ落ちる。
「こんなところ見せちゃってトラウマだよね。ごめんね」
「紫陽花先輩、あんなやつら放っておけばいいんです。紫陽花先輩のことを悪く言うやつらのことなんか、無視してくださいよ。
それで俺の言葉だけ、聞いてくださいよっ」
紫陽花が包丁を首筋に当てたまま璃仁の顔をじっと見つめていた。璃仁の言葉を聞こうとしてくれているのだ。今しかない。彼女を救えるチャンスは今この瞬間しかないのだ。
「人の噂なんてすぐになくなります。みんな、今は面白がって紫陽花先輩の噂を立てていますけど、もう少ししたら絶対に飽きて何も話さなくなりますって。そんな気まぐれな人たちのために、紫陽花先輩が傷つくのは絶対におかしいんです。お願いです。信じてください。俺の言葉を信じて」
紫陽花が例のパパ活の噂の件でクラスメイトから孤立させられて、ここまで追い詰められているなんて、璃仁は思ってもみなかった。強くしなやかな紫陽花があんな下品な噂に動揺するはずがない。心のどこかで紫陽花は大丈夫だと高を括っていた。でも、紫陽花の心はこんなにも傷ついていた。誰かの心ない噂話を聞くたびに、少しずつ毒をもられていくように心が壊れていったに違いない。噂話が立ち始めてまだ一週間と経たないが、この数日は紫陽花の心を砕くのに十分すぎる時間だったのだ。そんなことに今更気づいた自分が情けなく、やるせなかった。
紫陽花は何度も瞬きを繰り返して璃仁の言葉を聞いていた。まるで溢れ出そうになる心の枷を食い止めるかのような仕草だった。もう少しで紫陽花を止められる。そう自信が湧いたその時、紫陽花が包丁を握る手にぐっと力を込めたのが見て取れた。まだだ。まだ彼女の傷は治っていない。璃仁は竦んでいた足を無理やり動かして、紫陽花の元に駆け寄った。
「やめてください!」
彼女の手の中から包丁を奪おうと柄を握る。
「いやっ」
彼女は引き止めようとする璃仁の手を振り解こうと強い力で腕を振った。
「私は、あなたみたいにはなれないっ。あなたみたいにキラキラした目で、誰かを想うことなんてできないっ。してはいけないの」
鋒が、璃仁の首元をざっと深く切り裂いた。突如襲ってきた鋭い痛みに、璃仁は呻き声をあげる。驚いた紫陽花の手から包丁が滑り落ちる。金属が地面に落ちた時の独特な音が、薄れゆく意識の中で響いて聞こえた。
「田辺くん!」
紫陽花の叫びを聞いたとたん、璃仁の意識はそこで途切れた。
重たい瞼を持ち上げると、そこには無機質な白い天井が広がっていた。首元を触ってみると、分厚い包帯が巻かれている。状況を理解したくて、璃仁は目をきょろきょろと左右に動かす。瞬時にここが病院だということが分かったのだが、それよりも璃仁の隣に腰掛けて項垂れている彼女の姿を見て心臓が飛び出そうなほど驚いた。
「先輩……?」
蚊の鳴くような呟きに、紫陽花がはっと顔を上げる。絶望に打ちひしがれたように暗く、眉根を寄せてこちらを見つめていた。
璃仁は学校の家庭科室で紫陽花と対峙していたことを思い出す。紫陽花が包丁で自分を傷つけようとした時に、璃仁が抑えにいった。そうだ、あの時揉み合いになって自分は怪我を——。
「璃仁くん……大丈夫……?」
紫陽花のすがるような声が、璃仁の頭の中で反響する。あれだけ追いかけた紫陽花が今これほど至近距離にいて、自分の容態を心配してくれているということが信じられず、不謹慎だが心臓がドクンと鳴った。
「大丈夫、みたいです」
「良かった……」
そこにいたのは、家庭科室で周囲の人からの嫌がらせに絶望し自分を傷つけようとしていた紫陽花とは別人だった。身を縮こませて小さくなり、か弱げな姿で璃仁の安否を伺う彼女。よく見ると肩が震えている。大丈夫ですか、と彼女の肩に触れようとすると、より一層大きく激しく肩を震わせて、彼女の瞳から大粒の涙が溢れてきた。
「……わたし、あなたを傷つけるつもりはなかったのっ。こんなふうに血がたくさん出て倒れてしまうなんて……。私は最低な女だね。ごめんなさい。本当にごめん」
自分の一方的な行為で他者を傷つけてしまったことに慟哭する声が狭い病室の中で反響する。
「先輩のせいじゃないです」
あの時、璃仁が紫陽花のことを止めようとしたのは璃仁の自己満足だった。紫陽花に傷ついてほしくないという一心で闘った。だから、たとえ自分が怪我を負うおとも、紫陽花が無事ならそれで良かったのだ。幸い傷は命に関わるほどのものではなかったようだし、結果論にはなるが、あの時紫陽花を止めに入って正解だった。
しかし璃仁の想いとは裏腹に、紫陽花は悲痛なまなざしで璃仁を見つめている。その目に浮かんでいる恐怖と絶望と申し訳ないという気持ちが痛いほど伝わってきて、胸が疼いた。紫陽花にとっては璃仁が怪我をしたことが衝撃的だったのだろう。もし逆の立場だったら、璃仁も同じように凹んでいたに違いない。
「違うの。私のせいなの。私はなんてことをしてしまったんだろう……」
聞き分けの悪い子供のように、紫陽花はわっと声を上げて泣き出した。
大丈夫だと伝えても、きっと紫陽花は反省し続けるだろう。璃仁を傷つけてしまった自責の念に苛まれて、璃仁の顔を見るだけで今日のことを思い出してしまうに違いない。璃仁は、紫陽花が自分に対してマイナスな感情をこの先ずっと抱き続けるのではないかと恐れた。
「……」
いったいどんな言葉をかければ紫陽花の気持ちが軽くなるのかが分からない。
沈黙が二人の間に見えない壁をつくっていくようで怖かった。
散々悩んだ末、璃仁は上半身を起こし、いまだ方を震わせて瞳を湿らせる紫陽花の背中に、手を伸ばす。
言葉ではダメだと思った。紫陽花の気持ちは璃仁にも痛いほどよく分かっていた。だから、せめてその心の傷が軽くなるように、抱きしめたかった。
彼女の背中にすっと手を添えると、一瞬彼女は硬直して身体に力が入るのを感じた。だが璃仁がそのまま彼女を引き寄せてそっと抱きしめると、彼女の身体からふっと力が抜けていくのが分かった。紫陽花が安心して璃仁の肩に自分を預けてくれているような気がして嬉しかった。
「俺、紫陽花先輩が好きなんです」
静かな病室に響く一世一代の告白が、まるで自分の口から出たものではないかのような錯覚に襲われる。紫陽花がどんな顔をしているのか璃仁には見えない。喜んでくれているか、びっくりしているのかも分からない。彼女と初めて会った時、「告白しようとしているわけでないよね」と確認されたことが頭をよぎる。確かに出会ってすぐに告白するのは相手のことを考えていないと言っているようなものだ。紫陽花が嫌悪感を抱くのも当然だと思う。でも今日の璃仁は違う。紫陽花と話をする中で、自然と彼女に対して芽生えた感情を抑え切れなくなったのだ。
告白など生まれて初めてのことで、璃仁の心臓はうるさいほどに脈打っていた。その音が紫陽花に伝わってしまわないかと恐れた。だが、紫陽花は紫陽花で息を呑み、なんと返事をしようか迷っている様子だった。
「返事が欲しいんじゃないんです。ただ、伝えたかった。俺は紫陽花先輩が好きだから、紫陽花先輩には笑っていて欲しい。紫陽花先輩に悲しそうな顔なんて似合わないです。みんなの人気者の紫陽花先輩は、いつも凛としてる。その辺の男なんて目じゃないって感じで堂々と胸を張って歩いていく。俺はそんな紫陽花先輩を、そばで見ていたいと思っているんです」
自分は笑うことができないのに、他人には笑っていて欲しいなんて自分勝手な願いかもしれない。でも、紫陽花の笑顔を見られれば璃仁は明日を強く生きる勇気が湧いてくるのだ。
静寂に包まれていた病室に、紫陽花の息遣いがそっと聞こえてくる。夜眠る前、小さな子供に絵本を読んであげる時のような優しい吐息にも聞こえる。ここ数ヶ月の間、璃仁が感じていたかった彼女の生命の営みが、今ようやく璃仁の手の中にあるのだと実感した。
「璃仁くん……」
紫陽花が璃仁を呼ぶ声が、胸をじんわりと熱くした。これまで散々璃仁を避けていた紫陽花が、ようやく璃仁の方に歩み寄ってきてくれていると思った。
「私はあなたのことを避けてた。怖かったの。私、自分の感情が分からなくて、これ以上璃仁くんと一緒にいたら自分が壊れちゃうんじゃないかって。その結果あなたを傷つけてしまうかもしれないと分かっていても……。本当に、ごめんなさい」
啜り泣くように胸の内を打ち明ける紫陽花が、璃仁の中からこぼれ落ちてしまわないようにしっかりと抱きしめる。璃仁のことを避けて逃げていく紫陽花を、これまでどうしても捕まえることができなかった。もどかしい気持ちでもがいていた日々が懐かしい。
紫陽花が自分に対してどういう感情を抱いているのか、具体的に教えてはくれなかったけれど、今はまだこれが紫陽花の精一杯なのだと悟る。少なくとも、嫌われているわけではなかったのだと分かり、安堵のため息が漏れた。
肌や、耳や、鼻の感覚が目覚めた時から徐々にはっきりと自分のものとして戻ってくる。病院独特の薬品の匂いや窓から差し込む日差しの温かさ、廊下を歩く人の足音を感じた。そんな感覚とは正反対に、病院の一室が神聖な空間であるかのように、静けさとこみ上げてくるいろんな感情で満たされていた。
「紫陽花先輩の本音を、初めて聞いた気がします」
「そう、かな」
「はい。これまでも本音で話してくれていたとは思いますけど、今日が一番です。取り繕わない先輩の方がずっと綺麗です」
綺麗だ、という言葉に紫陽花がきゅっと一瞬だけ身を固くしたのが分かった。彼女を抱きしめていると、ほのかに香る柑橘系の
匂いが璃仁の心を癒した。こうして紫陽花とくっついていることが夢のようで、またすぐにいなくなってしまうのではないかと怖くもあった。
「あの人はね」
何を思ったのか、紫陽花が突然「あの人」と切り出して璃仁は誰のことだろうと考える。
「……パパ活だって噂される原因になった人」
ああ、もしかして紫陽花が一緒に居酒屋に入っていった男の人のことか。
「その人が、どうしたんです」
紫陽花は璃仁に中年男について打ち明けてくれるのだと分かった。自分から話し始めたものの、少し逡巡するような素振りを見せて、紫陽花は言葉を繋いだ。
「私のお父さんになる予定の人なの」
「え?」