私は名もない社会人である。趣味はロードバイクに乗ること。随分と特殊だなと、いつか言われたことがある。それでも、これといった成績はない。実に平凡な、ロードレーサーだ。
 
 会社の定休日を使った私は、それとなくバイクに乗って、一般の車道を走っていた。

 チリンっ

 後ろから聞こえた、またあの音。普通の、いわゆるママチャリに付いているような、ベルの音。この音が好きかと尋ねられれば、「ものによる」と、私は答えるだろう。私的には、ベルの音には二種類あって、自分は片方が好きだ。好みの方は、例えるなら風鈴の様な、神秘めいて、風情あるもの。もう一方は、小学生がふざけて鳴らすような、五月蝿いもの。

 最近、この好みのやつの方が、頻繁に耳を通るようになった。決まっていつも、背後から。毎度のこと、振り返っても、誰もいない。または人がいても、自転車がいない。片田舎でも、都会でも。いつでも音の主が、見当たらない。

 別にそれが気味悪いという話ではない。この音が聞こえた、後の話である。
 
 「ぅわっ、まただ……」

 そう、また来たのだ。人ではない。メールだ。
 

『おめでとうございます。貴方のゴミ箱行きが決定しました』
 

 こんな、変なメールが毎回毎回、削除しても、ブロックしても、執念深く送られてくるのだ。何にせよ内容もおかしいのだ。何だ。『ゴミ箱行き』って。人が文字通り、ゴミ箱に捨てられるって、言いたいのか。馬鹿馬鹿しいし、失礼だ。

 私は習慣の如く、それを削除する。早くあんなメールが届かなくなりますようにと祈って、私は強めに、ペダルを踏んだ―。


 ――あれからまもなく、ふと、愛車で山を登りたくなった。山と言っても、生温いものでは足りない。激坂で、うんと傾斜のきつい山が良い。もっといえば、自然体で残されていて、人が手を着けない、不思議な山。それこそ通常のバイクではなく、マウンテンバイクで走るべきかという考えに至り、後者は自分の中で却下されたが。

 兎も角私は、早く登りたい一心で、大した荷物も持たずに、家を出てしまったのだ。


 ――山を登る、登る。ひたすら登る。

 人工的に造られた道は、あまり魅力を感じるものではない。私は一人、何かに吸い込まれるように、登っている。


 チリンっ


 まただ。振り返っても、誰もいない。メールも、来ない。
 

 チリンっ


 「っつ、何で」

 どうして、二度も。


 チリンっ
 

 何でか、近くなっているような。

 
 チリンっ

 
 近い近い近い近い近いっ!

 近づいてきている。『後ろには』誰も居ないのに!

 堪らなく怖くなって、私は走り出す。
 
 チリンっ

 体感、およそ一メートル。近い。おかしくなる。

 チリンっ

 「あああああああああぁぁっっっっ!!!!」

 嫌だ嫌だ嫌だ。頼むから来ないでくれ。

 叫んで、私は今までにないくらいの速度で、霧の中を走った。

 霧の中で、私は足を止めた。音が聞こえなくなったから。

 目の前に広がるのは、古びた注連縄(しめなわ)。続く砂利道。

 ここで引き返せば、またあの音が聞こえてくるのではないか。今度こそ、逃げられないのではないか。

 そういえば、あのメールが、来ていない。

 違う。来ていた。私が気づいていないだけだった。文面を開く。

 『ゴミ箱はすぐ目の前です』

 は?何を言っている。目の前になんて、霧と注連縄と砂利道しかないでは—


 チリンっ


 一瞬で恐怖に染まる。身体が固まって動くことさえできない。

 唯一動く顔を上げると、


 「あっ……」


 そこで、『私』の記憶は途絶えている。霧の中には、私の愛車と、新たなメールが来た、スマホだけが、遺されていた。

 『ゴミの処理が完了致しました』



 『――先日から行方不明となっていた……』

 一人の名もない青年が運転する車の中、スマホでニュースを見ている。

 彼が見ているそれは、これから行こうとしている、ある山での行方不明者の話だ。何でも手掛かりが、行方不明者のバイクと、壊れたスマホだけらしい。しかもスマホに至っては、壊れてから結構な時間が経っていると。

 青年は、その行方不明者を「馬鹿だな」と思った。山に登りにいくのに、持っていった物がバイクと壊れたスマホだけかと。

 「俺はそんなヘマはしない」と心で嘲笑し、彼はスマホの電源を切った。信号が、気味の悪い青に変わる。


 チリンっ


 窓の外から、風鈴のような音が聞こえた。
 
 青年のスマホに、メールが届いた。

 『おめでとうございます。あなたのゴミ箱行きが決定しました』

 「うわ……、気持ち悪りぃ」

 顔を顰めた青年は、もう一度電源を切った。


 チリンっ

 
 青年が不思議に思って、後ろを見る。
 
 振り返っても、誰もいない。