ぼんやりとした頭、うつろな瞳で井戸の奥を覗き込むオディール。そこには前回見えなかった幻想的な光の渦が揺らめいていた。
「ゲートが見えていたら大丈夫です。見えますか?」
静かにうなずいたオディールは、さっそくロープを握り、井戸の縁に足をかける。
その時だった。ドヤドヤと多くの人が駆けてくる足音が響いてきた。
「いたぞーー! あそこだ!」
警備兵たちが迫ってくる。
「ここは我に任せて早く行くんじゃ!」
レヴィアがそう言った瞬間、爆発音が響き渡り、彼女は壮大なドラゴンへと姿を変えた。
ギュァァァァ!
腹に響く恐ろしい咆哮が周囲を完全に威圧する。
「あらあら、これは頼もしいですねぇ」
天使は優しく微笑むと、オディールの手を優しく握り、碧い瞳を深く見入る。
「この先がどこに繋がっているかは毎回変わるのでわかりません。ですが、神殿とは同じ空間なので必ず行く道はあります。……。最後に一ついいことを教えましょう。この世界は情報でできています。もし、追い込まれたらこれを思い出してください」
オディールは夢見心地でゆっくりとうなずくと、ロープを伝ってスルスルと器用に井戸の底へと降りていく。
ドラゴンと警備兵の激しい戦いの音が空気を震わせる中、オディールは井戸の奥深くに身を沈め、この世界に別れを告げた。
◇
うぎゃっ!
オディールはゴツゴツした岩の上に激しく落ち、思わず悲鳴をあげた。
いてててて……。
お尻をさすりつつ、周囲を探ると、陰鬱で湿っぽい洞窟のようである。
岩肌の凹凸の間から、幻想的な青い光を放つキノコがいたるところに生い茂り、洞窟をぼんやりと照らしていた。
「えっ? 洞窟……? こんなところに神殿なんてあるのかなぁ……」
洞窟はくねくねとカーブしており、全貌は分からない。だが、音の反響具合からするとどこまでも続いているようだった。
「くぅ……。何だよここは……。急がないとなのに!」
ミラーナのことが頭に浮かび、焦りは募るが、どちらへ行ったらいいかすら分からない。オディールはため息をつくと、意を決して緩やかながら上りの方へと足を進めた。
洞窟は広くなったり狭くなったりしながら、時々分岐を繰り返し、どこまでも続いて行く。出口どころか神殿に関するものも何もなくただ岩肌が続くばかりだった。その終わりのない迷路にオディールは泣きそうになってくる。もしかしたら同じところをクルクルと回っているだけかもしれないのだ。そうであれば自分もミラーナも破滅である。
「まずい、まずいぞ……。神殿なんか本当にあるの……?」
オディールは絶望に囚われそうになりながら、ハァハァと息を荒く切らし、ただひたすらに前を目指した。
と、その時、かすかにベンベンという楽器のような音が耳に届く。
『え……? 誰か……、いる?』
オディールは期待と不安が交差する中、音の方向へ駆け出した。
響いてくる音は弦楽器を思わせる優美な調べで、やがて憂いを帯びた歌声が聞こえてくる。ポップスのような明るさは微塵もない、哀愁に満ちた旋律だった。
そのうちに何を歌っているのかが聞こえてきた。
『祇園精舎の、鐘のこえぇぇえぇぇ……』
少し調子はずれた、中年男のだみ声が平家物語の冒頭を歌っている。
は……?
オディールは思わず足を止めた。
異世界の井戸に潜ったら、聞こえてきたのは鎌倉時代の琵琶法師の歌だったのである。そんなものがなぜこんなところで歌われているのだろうか?
ここでオディールは嫌なことに気が付いた。日本の歌を選んでいるのは、自分に向けた意図があることを示している。そして、平家物語は滅亡の物語であり、自分の破滅を皮肉るメッセージが隠されていた。なんという意地悪な歓迎だろうか。オディールはギリッと奥歯を鳴らした。
だが、いかに不愉快な人物であろうと、手掛かりが見つからない今、会わずにはいられない。
「上等じゃないか!」
オディールはパンパンと自分の頬を張り、気合を入れなおすと歌声の方へと駆け出した。
◇
しばらく行くと中年男の姿が見えてきた。
中世ヨーロッパ風の革のベストに白いシャツを着た小太りの男は、手に琵琶を持って気持ちよさそうに調子はずれの歌を歌っている。
男はオディールを見るなり、猥褻な笑みを浮かべた。
「おやおや結城君、遅かったじゃないか。くふふふ……」
オディールはキュッと口を結ぶ。やはりこの男は自分だと分かってここで待っていたのだ。
「あなたは誰ですか? 女神様の神殿へ行く方法を教えてもらえませんか?」
オディールは感情を抑えながら、丁寧に言葉を紡いだ。
「くっくっく……。自分の間抜けさを女神にフォローしてもらおうって? 随分と自分勝手だなぁ、おい!」
男はつばを飛ばしながら煽る。
「そうかもしれないですね。急いでいるんです。教えてくれませんか?」
オディールは相手のペースに飲まれないように淡々と返す。この手の対応は前世のサラリーマン時代のクレーム対応で嫌というほど学んであったのだ。
「そう警戒するな。取って食おうとしとるわけじゃない。ただ、今の君では教えてもたどり着けんからなぁ。ぐふふふ……」
男はニヤッと笑い、いやらしい目でオディールの身体を舐めるように見回した。
「そうですか? 試したいんですがいいですか?」
オディールは身をよじって腕で胸元を隠し、不機嫌さを隠さずに男をにらんだ。
「ゲートが見えていたら大丈夫です。見えますか?」
静かにうなずいたオディールは、さっそくロープを握り、井戸の縁に足をかける。
その時だった。ドヤドヤと多くの人が駆けてくる足音が響いてきた。
「いたぞーー! あそこだ!」
警備兵たちが迫ってくる。
「ここは我に任せて早く行くんじゃ!」
レヴィアがそう言った瞬間、爆発音が響き渡り、彼女は壮大なドラゴンへと姿を変えた。
ギュァァァァ!
腹に響く恐ろしい咆哮が周囲を完全に威圧する。
「あらあら、これは頼もしいですねぇ」
天使は優しく微笑むと、オディールの手を優しく握り、碧い瞳を深く見入る。
「この先がどこに繋がっているかは毎回変わるのでわかりません。ですが、神殿とは同じ空間なので必ず行く道はあります。……。最後に一ついいことを教えましょう。この世界は情報でできています。もし、追い込まれたらこれを思い出してください」
オディールは夢見心地でゆっくりとうなずくと、ロープを伝ってスルスルと器用に井戸の底へと降りていく。
ドラゴンと警備兵の激しい戦いの音が空気を震わせる中、オディールは井戸の奥深くに身を沈め、この世界に別れを告げた。
◇
うぎゃっ!
オディールはゴツゴツした岩の上に激しく落ち、思わず悲鳴をあげた。
いてててて……。
お尻をさすりつつ、周囲を探ると、陰鬱で湿っぽい洞窟のようである。
岩肌の凹凸の間から、幻想的な青い光を放つキノコがいたるところに生い茂り、洞窟をぼんやりと照らしていた。
「えっ? 洞窟……? こんなところに神殿なんてあるのかなぁ……」
洞窟はくねくねとカーブしており、全貌は分からない。だが、音の反響具合からするとどこまでも続いているようだった。
「くぅ……。何だよここは……。急がないとなのに!」
ミラーナのことが頭に浮かび、焦りは募るが、どちらへ行ったらいいかすら分からない。オディールはため息をつくと、意を決して緩やかながら上りの方へと足を進めた。
洞窟は広くなったり狭くなったりしながら、時々分岐を繰り返し、どこまでも続いて行く。出口どころか神殿に関するものも何もなくただ岩肌が続くばかりだった。その終わりのない迷路にオディールは泣きそうになってくる。もしかしたら同じところをクルクルと回っているだけかもしれないのだ。そうであれば自分もミラーナも破滅である。
「まずい、まずいぞ……。神殿なんか本当にあるの……?」
オディールは絶望に囚われそうになりながら、ハァハァと息を荒く切らし、ただひたすらに前を目指した。
と、その時、かすかにベンベンという楽器のような音が耳に届く。
『え……? 誰か……、いる?』
オディールは期待と不安が交差する中、音の方向へ駆け出した。
響いてくる音は弦楽器を思わせる優美な調べで、やがて憂いを帯びた歌声が聞こえてくる。ポップスのような明るさは微塵もない、哀愁に満ちた旋律だった。
そのうちに何を歌っているのかが聞こえてきた。
『祇園精舎の、鐘のこえぇぇえぇぇ……』
少し調子はずれた、中年男のだみ声が平家物語の冒頭を歌っている。
は……?
オディールは思わず足を止めた。
異世界の井戸に潜ったら、聞こえてきたのは鎌倉時代の琵琶法師の歌だったのである。そんなものがなぜこんなところで歌われているのだろうか?
ここでオディールは嫌なことに気が付いた。日本の歌を選んでいるのは、自分に向けた意図があることを示している。そして、平家物語は滅亡の物語であり、自分の破滅を皮肉るメッセージが隠されていた。なんという意地悪な歓迎だろうか。オディールはギリッと奥歯を鳴らした。
だが、いかに不愉快な人物であろうと、手掛かりが見つからない今、会わずにはいられない。
「上等じゃないか!」
オディールはパンパンと自分の頬を張り、気合を入れなおすと歌声の方へと駆け出した。
◇
しばらく行くと中年男の姿が見えてきた。
中世ヨーロッパ風の革のベストに白いシャツを着た小太りの男は、手に琵琶を持って気持ちよさそうに調子はずれの歌を歌っている。
男はオディールを見るなり、猥褻な笑みを浮かべた。
「おやおや結城君、遅かったじゃないか。くふふふ……」
オディールはキュッと口を結ぶ。やはりこの男は自分だと分かってここで待っていたのだ。
「あなたは誰ですか? 女神様の神殿へ行く方法を教えてもらえませんか?」
オディールは感情を抑えながら、丁寧に言葉を紡いだ。
「くっくっく……。自分の間抜けさを女神にフォローしてもらおうって? 随分と自分勝手だなぁ、おい!」
男はつばを飛ばしながら煽る。
「そうかもしれないですね。急いでいるんです。教えてくれませんか?」
オディールは相手のペースに飲まれないように淡々と返す。この手の対応は前世のサラリーマン時代のクレーム対応で嫌というほど学んであったのだ。
「そう警戒するな。取って食おうとしとるわけじゃない。ただ、今の君では教えてもたどり着けんからなぁ。ぐふふふ……」
男はニヤッと笑い、いやらしい目でオディールの身体を舐めるように見回した。
「そうですか? 試したいんですがいいですか?」
オディールは身をよじって腕で胸元を隠し、不機嫌さを隠さずに男をにらんだ。