【お天気】スキルを馬鹿にされ、追放された公爵令嬢。不毛の砂漠に雨を降らし、美少女メイドと共に甘いスローライフ~干ばつだから助けてくれって言われてももう遅い~

「くぅ! オディールを探せ! 見つけて確実に息の根を止めろ!」

 公爵は雹とガレキに埋もれた部屋を見回しながら焦って叫ぶ。

 その時だった。

 ぐはぁ! ぐふっ!

 一人また一人と、黒装束の男たちが倒されていく。

 異常に気付いた公爵は、恐怖に追い込まれるように隅に逃れ、剣を構えた。

 刹那、月明かりをギラリと反射しながら眼にもとまらぬ速さで剣が迫り、公爵はかろうじて剣を合わせる。

 ギィィィン!

 鋭い金属音が響き渡った。

 ケーニッヒがガタイのいい公爵を剣で押し込んでいく。

「お前が首謀者だな?」

 ケーニッヒは不気味に瞳を赤く光らせながら、公爵を威圧する。

 くっ!

 ケーニッヒの驚異的な剣圧に翻弄され、公爵は恐怖で冷や汗を浮かべた。剣の達人と呼ばれ、これまでに数多くの偉業を成し遂げてきた公爵だったが、ケーニッヒの剣さばきにははるか高みの色があり、到底及ばぬ絶望を感じる。

 とは言え、オディールを処分できないままここで自分が倒れれば、代々続いてきた公爵家はおとりつぶしだ。

 ぬぉぉぉ!

 公爵は髪を逆立てながら渾身の気迫を込め、熱く燃える【剣気】を呼び起こす。筋肉はパワフルに膨らんで、身に纏っていた黒い装束がパン! と音を立ててはじけ飛んだ。

 そのまま力ずくでケーニッヒの剣を跳ね上げ、一気に懐に入ろうとした瞬間だった。踏ん張ろうとした足に力が全く入らない。

 えっ?

 公爵はそのまま無様(ぶざま)に床に転がり、同時に太ももから激痛がやってくる。見れば脚は失われ、横倒しに転がっていた。

「い、いつの間に……、くぅ……」

 ガスッ!

 ケーニッヒは公爵の頭を蹴り上げ、あっさりと意識を断つとオディールを探す。

「オディール殿! オディール殿ぉぉぉ!」

「ぼ、僕はここだ! ミラーナ、ミラーナがぁぁ!」

 瓦礫と巨大雹の隙間からオディールは叫ぶ。その腕の中に抱えたミラーナの心臓は今にもとまりそうに弱弱しく、顔は真っ青でもはや風前の灯だった。

「今助けます、動かんように!」

 ケーニッヒは氷塊にカンカンカン! と剣を叩きこむと、氷塊はバラバラとなり、ゴロリと転がりながら床に散らばった。

 息も絶え絶えのミラーナをソファーの上まで運んだ時だった、ゴゴゴゴと建物全体が地震のように揺れ始める。

 な、なんだ……?

 顔を上げると街の入り口に立っていたフローレスナイトがバラバラに壊れ、崩れ落ちていくのが見えた。

「えっ!? どういうこと!?」

 オディールは混乱の極みに達し、叫んだ。

「ミラーナが死ねばミラーナの土魔法はすべて解除される。つまり、この街全ては消え去るのじゃ。見せてみろ」

 いつの間にか戻ってきていたレヴィアが、聖水の小瓶のふたを開けながら、ミラーナに刺さった矢を険しい目で眺めていく。

「ねぇ! どうしたらいいの!?」

 涙を溢れさせながら、オディールは悲痛な叫びをあげる。

「んー、これはマズい……」

 レヴィアは眉間にしわを刻みつつ、貫通して胸から飛び出ている矢じりをパキッと取り去ると、聖水をかけながら矢を背中の方から静かに抜いていく。

 建物の揺れが地震のごとく激しさを増し、まるで今にも崩れ落ちそうな危うさが漂う中、レヴィアはいつになく慎重な手さばきで矢を引いていった。

 わずかに抜くたびに、ピュッピュ! っと噴き出してくる鮮血。

 うぅぅぅ……。

 ミラーナが苦しそうにうめく。

「ミラーナ、頑張って!」

 オディールはポロポロとこぼれる涙をぬぐいもせず、ミラーナの手を熱く強く握り締めた。

「引き抜くぞ! 頑張るんじゃ!」

 レヴィアが矢を取り除くやいなや、鮮血が勢いよく吹きだしてくる。

「お主! 押さえとけ!」

 レヴィアはハンカチで傷口を覆うと、オディールの手を引いてそこに押し当てた。

「ミラーナぁ……」

 涙でにじむ視界の向こうでハンカチはあっという間に鮮血に染まっていく。オディールはひたひたと死神の足音が聞こえてくるような恐怖に襲われる。自分の命より大切なミラーナ、その命を支えている鮮血がどんどんと失われていく様に、オディールは蒼白となって今にも壊れてしまいそうな衝動に苛まれた。

「しっかりしろ! もういい! 我がやる」

 レヴィアはガタガタと震えるオディールを下がらせ、ミラーナに少しずつ聖水を飲ませながら、傷口の周りを観察する。

「これは……、毒じゃな……。聖水の効きが悪いし、肌が黒ずんできている」

「ど、毒!?」

 レヴィアは折り取った矢じりをジッと観察し、指先で矢じりをなぞるとペロッと舐めると、眉間にしわを寄せた。

「マズいな……。ズィールヘッグの血じゃ」

「えっ!? 何それ?」

「伝説の毒蛇の毒じゃ。血清は……ない」

「そ、それじゃ……」

 レヴィアはキュッと口を結ぶと、沈痛な面持ちで首を振った。

「ぐわぁぁぁ! 嫌だ! 嫌だよぉぉぉ!」

 オディールは苦悩に満ちた表情で頭を抱え、悲痛な叫びを空に向ける。聖水も効かない毒がミラーナの命を蝕んでいる。それは到底受け入れられない運命だった。
 レヴィアはオディールの腕を力強くつかむと、燃えるような真紅の瞳でオディールをにらみつける。

「落ち着け! お主が取り乱してどうする!」

「だ、だって……。ミ、ミラーナが……。ミラーナが居なくなったらもう僕は生きていけない……」

 パァン!

 レヴィアはオディールを平手打ちにした。

「街崩壊の危機に、領主が何をぬるいこと言っとる!」

 ヒックヒックとしゃくりあげながら、オディールは真っ赤な泣きはらした目でレヴィアを見上げる。

「あー! もう! 住民の避難はケーニッヒに任せるぞ! ええか?」

 レヴィアは困り切った顔で首を振り、大きくため息をついた。

 ケーニッヒはじっとオディールを見つめ、すっとひざまずくとオディールの手を握る。

「オディール殿、住民の安全はそれがしに任せてください」

 オディールは力なくうなずいた。

「崩壊する前に全員避難させるぞ! 動けるものはついてこい!」

 地震のように揺れる建物がいつまで持つか分からない。ケーニッヒは自警団を何人か連れて飛び出して行った。


        ◇


 オディールは沈痛な面持ちで、まるでろう人形のように生気を失ったミラーナを眺める。今、自分に何ができるだろう? 毒は取り除けない、となると、どうしたらいいか……。

「くぅぅぅ、このままじゃ死んじゃうよぉ……。死んだら……。……。死ぬ……?」

 ここでオディールは自分も一度死んだことを思い出す。死んでもまだ終わりではなかったのだ。

 と、なると……。

 オディールはレヴィアの手を取り、碧い瞳を見開いて言った。

「め、女神様だ! 女神様に会わせて!」

 たとえ死んでも女神様なら助けられる。女神様へ直談判することが唯一の解決策だろうと気が付いたのだ。

 だが、レヴィアは顔をしかめ、視線を落とす。

「女神様は医者じゃない。助けてくれるとは限らんぞ? それに、女神様には連絡などつかん。我もすでにメッセージは送ってはおるんじゃが……、お忙しいので読まれることはないじゃろう。女神様はいつも気まぐれにふらっとやってくるだけなんじゃ……」

「次はいつ来そう?」

「前回は三十五年前なんじゃ……」

 オディールは頭を抱える。そんな気まぐれを待っていられないのだ。

「誰か……、女神様に連絡がつく人……。あっ! きょ、教皇……?」

「えー……、教皇は……」

 レヴィアは渋い顔で首を振る。

「いや、僕は大聖堂の神託の儀で女神様の声を聞いたんだよ。教皇なら何か知ってるはずさ!」

「うーん……」

 腕組みをしながら首をかしげるレヴィア。

「いいから、大聖堂へ飛んでよ! 他に策なんてないじゃないか!」

 オディールはガシッとレヴィアの腕をつかむと、感情にかられて悲痛な叫びをあげる。

 レヴィアは溜息をもらし、オディールの切実な瞳にちらりと目を向けるとそっと(うなず)いた。

「じゃが、命尽きてミラーナの魂が命のスープに溶けてしまったら、女神様でも助けられんぞ」

「えっ!? そ、そんな……」

「急ぐしかない。いいから乗れ!」

 レヴィアは月夜に軽く飛び上がると衝撃音を立てて荘厳なドラゴンに変身し、オディールの前に巨大な頭を降ろした。


         ◇


 ミラーナを医療班に託し、レヴィアはオディールを乗せ、全速力で王都へと飛ぶ。

 月光が砂漠を静かに照らし出す中、いつもよりはるかに高い高度を超音速で飛び続けるレヴィア。シールドである程度守られてはいるものの厳寒と低酸素で限界ギリギリの中を必死に鱗の棘にしがみつくオディール。ミラーナの命は聖水によってかろうじて繋がれているが、いつまで持つかは分からない。緊迫した時間との闘いなのだ。

 山脈を超え、徐々に大きく見えてくる王都。久しぶりに見る石造りの荘厳な街並みは夜の静寂に沈み、明かりもまばらである。レヴィアは少しずつ高度を落としながら大聖堂を目指した。

「教皇の部屋はどこじゃろうな? 昔は大聖堂の隣のタワーの最上階じゃったけどなぁ……」

 大聖堂上空までたどり着いたレヴィアは、降下しながら巨大な翼をバサッバサッと大きく羽ばたかせる。

「あそこだね! 突っ込もう!」

 オディールは冷え切った身体に震えながら、覚悟を決めた目で叫んだ。

「突っ込むってお主……」

「時間がないんだ! 僕を窓に放り投げて!」

「……。分かった」

 オディールの身体を大きな前足で包み込むようにつかむと、レヴィアは翼を広げ、タワーの最上階の窓に向けて静かに滑るように迫った。

「『いっせーのせ』で放るぞ!」

「ちゃんと窓狙ってよ!」

「外したら勘弁な!」

「くぅぅ………。信じてる!」

 ぐんぐんと近づいてくるタワーにオディールはゴクリとのどを鳴らす。突入に失敗すればそのまま墜落して即死だ。しかし、死の淵をさまようミラーナのことを思えば大したことではないのだと、オディールは自分を奮い立たせる。

「いっせーのー……」

 タワーの直前まで滑空しながら慎重に迫ると、レヴィアは全力で羽ばたいて上空へと進路を変え、その隙にオディールの身体を放り投げる。

「せっ!」

 月の光に照らされながら、オディールの身体はそのまま最上階の窓へと弧を描く。それはオディールの切なる願いを賭けた月夜のアクロバットだった。

 リュックを盾にしてガラス窓へと飛んだオディールは、盛大なガラスの割れる音と共に部屋へと突っ込んでいく。ガラスが飛び散る音が響く中、オディールはあちこちに傷を負いながらも何とか侵入に成功したのだった。

「な、なんだ!? 何者だ!」

 豪奢なベッドで若い女と寝ていた教皇は驚いて飛び起きる。でっぷりと太っただらしない恰好にオディールは幻滅しながら挨拶をする。

「夜分すみません。緊急のお願いがあって参りました」

「ふざけんな! 寝込みを襲ってお願いなんてありえんだろう!」

 憤怒で顔を赤くした教皇を横目で見ながら、オディールはリュックから剣を一振り取り出し、すらりと抜いた。月光を浴びてギラリと鈍い光を放つ刀身を教皇の喉元に突きつけ、決然とした瞳で言葉を繰り返す。

「すみません。緊急のお願いがあって参りました……」

 月明かりを浴びてオディールの碧眼は鋭くキラリと光った。

 キャァッ!

 隣で寝ていた若い女はおびえ、毛布で裸体を隠しながら後ずさる。

「な、な、な、なんじゃ? お前は確か公爵家の……」

「女神様を呼んで……。今すぐ!」

 オディールは揺るぎない決意が宿る眼で教皇に迫り、その覚悟が空気を振るわせる。

「な、何を言ってるんだ! め、女神様なんて呼べる訳なかろう!」

 教皇は両手を上げ、冷汗を垂らしながら後ずさりする。

「あんた教皇なんでしょ? この世で一番女神様に近い人。呼べないなんてことあり得ないわ! 早く!」

 オディールは刀身で教皇の頬をなでるようにペシペシと叩く。

「ひ、ひぃ! 違う違う! うちは女神様を祀り、敬う組織であって、女神様と直接やり取りしてるわけじゃないんだ!」

「は? 女神様とは直接関係ない? じゃ、なんでいつも偉そうにしてるの?」

「な、なんでって……、昔からそういうもんなんだよ!」

 教皇は悪びれもせず、怒鳴る。

「だから無駄じゃと言ったんじゃよ……」

 後からやってきたレヴィアは首を振りながら言った。

「いやいやいや! 僕は神託の儀で女神様の声を聞いたんだよ!」

「あんなことは普通起こらんのだよ。普通は単にスキルが発現するだけだ」

「じゃ、本当に教会は女神様とは関係ないの?」

「ないんだよ! 勘違いも甚だしいな!」

「関係ない……。なら教会なんて無くていいよね?」

 オディールは腹立ちまぎれに剣をベッドに振り下ろす。バスっ! と音をたてながらコイルが中から飛び出し、羽毛が舞った。

 ひぃぃぃ! キャァ!

 教皇は若い女と抱き合いながらオディールの激しい怒りに震える。

「もうええじゃろ」

 レヴィアは右手を高く上げ、黄金に光る魔法の鎖を空中に浮かび上がらせると二人に向けて手を振り下ろす。魔法の鎖はクルクルッと二人に巻き付き、縛り上げた。

「な、何をするんだ! 外せ!」

 二人は何とかしようともがくが、鎖はビクともしない。

「で、次はどうするんじゃ?」

 レヴィアは渋い顔でオディールを見る。

 一縷(いちる)の望みが絶たれたオディールはギリッと奥歯をきしませる。

『くぅぅぅ……。どうしたら……、急がないと……』

 頭を抱え必死に考えるオディール。ミラーナに残る時間はわずかだ。何としても女神様に会いに行かなければならないが、教皇が答えを持っていなかったら、誰に相談するべきなのだろうか?

 くぅ……。

 いくら考えてもアイディアなど出ない。

「ちくしょう! 女神像だ! 女神様の声を聞いたところへ行くよ!」

 オディールは、最後の望みに(すが)りつくように、部屋を飛び出していった。


         ◇


 カギのかかっていたドアを蹴破って、オディールは大聖堂内部へと突入する。

 月光が柔らかく照らす中、女神像は幻想的に浮かび上がり、神々しい雰囲気を醸し出していた。

 神託の儀式を思い出しながらオディールは荒い息のまま女神像の前でひざまずく。

「女神様! 女神様! お話があります!」

 オディールは目をギュッとつぶり、必死に想いを女神像に捧げていく……。

 けれども、神託の儀式の際に感じた女神の声は、どれほど切に祈っても訪れることはなかった。

「女神様ぁ! お願いなんですぅ……」

 ここで願いが叶わなければ、もう希望の光は消えてしまう。それは、ミラーナの愛おしい笑顔を永遠に失ってしまうことを意味していた。

「うっうっう……。ミラーナぁ……」

 いつでも自分のそばにいて笑顔で支えてくれた可憐な少女、ミラーナを失ってはもはや生きている意味さえ見いだせない。

「いやだよぉ……。ミラーナぁぁぁ!!」

 涙が溢れ出す中、オディールは絶望に押し潰されるようにその場にくずれ落ちた。

 レヴィアは沈痛な面持ちでそんなオディールを眺め、深くため息を漏らす。

 運命の皮肉にもミラーナと生きていこうと決めた女神像の前で、ミラーナを救う道が閉ざされ、オディールは絶望の闇に取り込まれていった。

 悲しみに揺れるオディールの金髪を月明かりが照らし、嗚咽が大聖堂内に静かに響き渡っていく。


          ◇


 カツカツカツ……。

 誰かが大聖堂に入ってきた。

「何か……お困りですか?」

 魔法のランタンを手に、クリーム色の法衣をまとった若い女性が近づいてくる。

 オディールはハッとしてその女性を見上げた。それは教会の侍祭(アコライト)だった。
「め、女神様に会いたいのです! 何とか会う方法はありませんか?」

 オディールはすがるように叫んだ。

「女神様にですか? うーん……。女神様の目の色は何色か……ご存じ?」

 突然の奇妙な侍祭(アコライト)の質問に、オディールは困惑しながらも必死に記憶を辿(たど)った。

「確か……黄色っぽい……あれは何色っていうのかな?」

 オディールはレヴィアに振る。

琥珀(こはく)色じゃな。なぜ目の色なんか聞くんじゃ?」

 レヴィアは侍祭(アコライト)をいぶかしげに見つめた。

「ふふっ、あなた方は女神様の縁者の方なんですね。ならご存じだと思いますが、女神様に連絡を取っても基本反応はありません。それこそ全宇宙の無数の方々が女神様にお話を聞いてもらいたがっていますからね」

 女神の事に詳しい侍祭(アコライト)。教皇なんかよりはるかに頼もしい存在の登場に色めき立ったオディールは、駆け寄り手を取った。

「そ、それは分かりますが、どうしてもすぐに会わないとならないんです」

「ごめんなさい、私でもそう簡単には会えないのですよ」

「いやでも、会う方法、絶対何かありますよね?」

 必死に食らいついてくるオディールに侍祭(アコライト)は圧倒され、苦々しい笑みを浮かべる。

「うーん、次元回廊で神殿とはつながっているので、理屈としてはそこを通るという手はありますが……。私でも危険で難しいのでとてもお勧めはできません」

 侍祭(アコライト)は申し訳なさそうに首を振る。

「えっ! それ! それ、やります! 教えて下さい!」

「あらら、言わなきゃよかったですね……。次元回廊はこの世の残渣(ざんさ)の吹き溜まり。形も定まらねば、魑魅魍魎の住処にもなる混沌の世界。多分……、死にますよ?」

 侍祭は諭すようにじっとオディールを見つめた。

「神殿へ行ける可能性はゼロではないですよね?」

「それはまぁ、奇跡的に幸運が重なれば……」

 侍祭(アコライト)は渋い顔をして目をそらす。

「命とは誰かのために燃やすものなんです」

 オディールは侍祭(アコライト)の手をギュッと握りしめた。

 え?

「ただ生きるだけでは人生何の意味もありません。前世では自分はだらだらと適当に生きて、無駄に命を失いました。もう何にも残らない、それこそゴミのような人生でした……。だから今こそ、悔いなく、まっすぐに全力でこの命燃やし尽くすんです。教えて下さい!」

 オディールは決意にみなぎる目で侍祭(アコライト)を貫く。それは、ミラーナを救える可能性があるなら命など惜しくないという圧倒的な覚悟だった。

 う、うーん……。

 侍祭(アコライト)は困った顔をしながら思わず後ずさり。

「お願いします!」

 畳みかけるオディール。

 侍祭(アコライト)はしばらく何かを考えると、うなずき、慈愛に満ちた笑顔を見せる。

「いいでしょう、ついてきなさい」

 侍祭(アコライト)はすたすたと歩き始めた。

 やったぁ!

 オディールは満面の笑みでガッツポーズを見せる。

 ついに得た女神様への手がかり。首の皮一枚でつながっているような状態だったが、絶対にやり遂げて見せると、オディールはキュッと口を結んだ。


           ◇


 侍祭(アコライト)は月明かりが美しく照らす中庭を静かに歩く。

 足音がしないことを不思議に思ったオディールは侍祭(アコライト)の足元を見て驚いた。その足は地面からわずかに浮かび、歩くふりをしながら静かに空中を飛んでいたのだ。

天使(エンジェル)じゃな」

 レヴィアは耳元でそっとつぶやいた。

天使(エンジェル)?」

「女神様の部下じゃな。ワシら眷属(けんぞく)とは違ってお仕事をやっとるんじゃ。スキルの付与なども彼女の仕事じゃろう。こんな所におったのか」

 教皇が生臭で、末端の侍祭が実は本当の聖職者だったのだ。そんな教会の不条理な構造にオディールは疑問を感じ、肩をすくめた。


           ◇


「こちらが特異点、女神様の神殿の空間に繋がる次元回廊の入り口です」

 侍祭(アコライト)は精緻な彫刻に彩られた祭壇の前にある井戸を指さした。

「えっ!? この中?」

 オディールは驚いて中をのぞいてみる。

 井戸の中は底の方に聖水がたまっており、黄金色に光る微粒子がフワフワと美しく舞っていた。

「こ、この中に行けば次元回廊経由で神殿に……行ける?」

「井戸に降りるだけでは駄目です。この底で聖水に浸かりながら深層意識の中に身をゆだねるのです」

「し、深層意識……?」

 オディールはいきなり難しいことを言われて困惑した顔でレヴィアを見た。

「心であり、魂の事じゃ。瞑想(めいそう)しろって事じゃな」

「えっ!? 瞑想なんてやったことないよ……」

 泣きそうな顔をするオディール。

「しょうがない奴じゃな。深呼吸して心を落ち着けるだけじゃ。四秒息を吸って、六秒止めて、八秒かけて息を吐く。やってみろ」

「わ、分かったよ……」

 スゥーーーー、……、フゥーーーー。
 スゥーーーー、……、フゥーーーー。

「うまいうまい。その調子じゃ」

 しかし、オディールは次々と湧いてくる雑念に流される。

『急がないとミラーナが……』『ケンカなんかしちゃって、謝りたい……』

 オディールは懸命に頭を振って、迫りくる雑念を払いのけようと試みるものの、それでもなお次から次へと押し寄せてくる。

「ダメだ! 上手くいかないよぉ……」

 ブンブンと首を振ったオディールは、今にも泣きだしそうな顔でレヴィアに目を向けた。

「雑念湧いたら消そうとせずに『そういう考えもあるじゃろ』と、受け止めてそっと送り出してあげるんじゃ。あせらんでええぞ」

「そ、そうなんだね……」

 オディールはもう一度姿勢を正すと深呼吸をやり直す。

 スゥーーーー、……、フゥーーーー。
 スゥーーーー、……、フゥーーーー。

 やがて心地よい軽やかさに包まれ、意識が深いところへと落ちていくのを感じた。

 すると、いままで感じなかったかすかな虫の音や、風に揺れるこずえの動きなどが鮮やかに感じられるようになってくる。

 オディールは生まれて初めて世界を全身で感じ、その驚くべき豊かさに心を奪われた。
 ぼんやりとした頭、うつろな瞳で井戸の奥を覗き込むオディール。そこには前回見えなかった幻想的な光の渦が揺らめいていた。

「ゲートが見えていたら大丈夫です。見えますか?」

 静かにうなずいたオディールは、さっそくロープを握り、井戸の縁に足をかける。

 その時だった。ドヤドヤと多くの人が駆けてくる足音が響いてきた。

「いたぞーー! あそこだ!」

 警備兵たちが迫ってくる。

「ここは我に任せて早く行くんじゃ!」

 レヴィアがそう言った瞬間、爆発音が響き渡り、彼女は壮大なドラゴンへと姿を変えた。

 ギュァァァァ!

 腹に響く恐ろしい咆哮が周囲を完全に威圧する。

「あらあら、これは頼もしいですねぇ」

 天使は優しく微笑むと、オディールの手を優しく握り、碧い瞳を深く見入る。

「この先がどこに繋がっているかは毎回変わるのでわかりません。ですが、神殿とは同じ空間なので必ず行く道はあります。……。最後に一ついいことを教えましょう。この世界は情報でできています。もし、追い込まれたらこれを思い出してください」

 オディールは夢見心地でゆっくりとうなずくと、ロープを伝ってスルスルと器用に井戸の底へと降りていく。

 ドラゴンと警備兵の激しい戦いの音が空気を震わせる中、オディールは井戸の奥深くに身を沈め、この世界に別れを告げた。


          ◇


 うぎゃっ!

 オディールはゴツゴツした岩の上に激しく落ち、思わず悲鳴をあげた。

 いてててて……。

 お尻をさすりつつ、周囲を探ると、陰鬱で湿っぽい洞窟のようである。

 岩肌の凹凸の間から、幻想的な青い光を放つキノコがいたるところに生い茂り、洞窟をぼんやりと照らしていた。

「えっ? 洞窟……? こんなところに神殿なんてあるのかなぁ……」

 洞窟はくねくねとカーブしており、全貌は分からない。だが、音の反響具合からするとどこまでも続いているようだった。

「くぅ……。何だよここは……。急がないとなのに!」

 ミラーナのことが頭に浮かび、焦りは募るが、どちらへ行ったらいいかすら分からない。オディールはため息をつくと、意を決して緩やかながら上りの方へと足を進めた。

 洞窟は広くなったり狭くなったりしながら、時々分岐を繰り返し、どこまでも続いて行く。出口どころか神殿に関するものも何もなくただ岩肌が続くばかりだった。その終わりのない迷路にオディールは泣きそうになってくる。もしかしたら同じところをクルクルと回っているだけかもしれないのだ。そうであれば自分もミラーナも破滅である。

「まずい、まずいぞ……。神殿なんか本当にあるの……?」

 オディールは絶望に囚われそうになりながら、ハァハァと息を荒く切らし、ただひたすらに前を目指した。

 と、その時、かすかにベンベンという楽器のような音が耳に届く。

『え……? 誰か……、いる?』

 オディールは期待と不安が交差する中、音の方向へ駆け出した。

 響いてくる音は弦楽器を思わせる優美な調べで、やがて憂いを帯びた歌声が聞こえてくる。ポップスのような明るさは微塵もない、哀愁に満ちた旋律だった。

 そのうちに何を歌っているのかが聞こえてきた。

祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の、鐘のこえぇぇえぇぇ……』

 少し調子はずれた、中年男のだみ声が平家物語の冒頭を歌っている。

 は……?

 オディールは思わず足を止めた。

 異世界の井戸に潜ったら、聞こえてきたのは鎌倉時代の琵琶法師の歌だったのである。そんなものがなぜこんなところで歌われているのだろうか?

 ここでオディールは嫌なことに気が付いた。日本の歌を選んでいるのは、自分に向けた意図があることを示している。そして、平家物語は滅亡の物語であり、自分の破滅を皮肉るメッセージが隠されていた。なんという意地悪な歓迎だろうか。オディールはギリッと奥歯を鳴らした。

 だが、いかに不愉快な人物であろうと、手掛かりが見つからない今、会わずにはいられない。

「上等じゃないか!」

 オディールはパンパンと自分の頬を張り、気合を入れなおすと歌声の方へと駆け出した。


       ◇


 しばらく行くと中年男の姿が見えてきた。

 中世ヨーロッパ風の革のベストに白いシャツを着た小太りの男は、手に琵琶を持って気持ちよさそうに調子はずれの歌を歌っている。

 男はオディールを見るなり、猥褻(ひわい)な笑みを浮かべた。

「おやおや結城君、遅かったじゃないか。くふふふ……」

 オディールはキュッと口を結ぶ。やはりこの男は自分だと分かってここで待っていたのだ。

「あなたは誰ですか? 女神様の神殿へ行く方法を教えてもらえませんか?」

 オディールは感情を抑えながら、丁寧に言葉を紡いだ。

「くっくっく……。自分の間抜けさを女神にフォローしてもらおうって? 随分と自分勝手だなぁ、おい!」

 男はつばを飛ばしながら煽る。

「そうかもしれないですね。急いでいるんです。教えてくれませんか?」

 オディールは相手のペースに飲まれないように淡々と返す。この手の対応は前世のサラリーマン時代のクレーム対応で嫌というほど学んであったのだ。

「そう警戒するな。取って食おうとしとるわけじゃない。ただ、今の君では教えてもたどり着けんからなぁ。ぐふふふ……」

 男はニヤッと笑い、いやらしい目でオディールの身体を舐めるように見回した。

「そうですか? 試したいんですがいいですか?」

 オディールは身をよじって腕で胸元を隠し、不機嫌さを隠さずに男をにらんだ。
 男はペロリと唇をなめると楽しそうに言った。

「よし! こうしよう。これからクイズを出すぞ。答えられたら教えてやる。ぐふぐふっ」

「クイズ……?」

「君がたどり着けるかどうかが分かるクイズさ。どう、このホスピタリティ? くふふふ……」

 下品な笑みを浮かべる男。

 しかし、どんなに気持ち悪い奴でも、今、オディールに選択肢はなかった。

「わ、わかりました……」

「それでは行くぞ! 迷える子羊、結城くん特別クイーーズ! 『月夜の晩に雲が出て、誰も月を見てない状態になりました。月はどうなる?』」

 つばを飛ばしながら、楽しそうに大声で喚くと、男はニヤニヤしながらオディールの瞳をのぞきこむ。

 は……?

 オディールは困惑する。月は壮大な衛星だ。見ている人がいるかどうかと月の状態には何の関係もない。『変わらない』がどう考えても正解だ。

 しかし……。

 オディールは考え込む。そんな分かり切ったことをクイズにするわけがない。であれば、月は違う状態になる……のだろうが、一体どうなるかなんて見当もつかない。

 こんなバカげた哲学的な質問に正解などあるのだろうか? 単に自分をからかって楽しんでいるのではないか? オディールはギロリと男をにらんだ。

「くっくっく……。だから君には神殿にはたどり着けんのだよ」

 男は愉快そうに笑い、オディールはキュッと口を結んだ。

 何としてでも女神さまのところへたどり着いてミラーナを救わねばならないというのに、この体たらくである。

『考えろ……、考えるしかない……』

 オディールは目をギュッとつぶって必死に頭を働かせる。

 この時、天使に言われたことをふと思い出した。

『この世界は情報でできています』

 オディールはこの哲学的で不可解な言葉に、クイズと同じ匂いを嗅ぎ取った。

 『情報』とは一体何なのだろう? この世界はモノがあって、エネルギーがあって、それらの組み合わせで情報を表していると思っていたが、天使は『それは逆だ』と言いたいのではないだろうか?

 情報がモノやエネルギーを表現している……。オディールはどういうことか混乱しかけたが、ヴァーチャルゲームの世界がまさにその状態であることに気が付いた。

 3Dがグリグリ動くコンピューターゲーム。最新のものでは実際の景色と見まごうような精緻な世界を構成していて、思わず感嘆のため息をついたことを思い出した。

 天使が言いたかったことは、この世界はコンピューターゲームのような仮想世界だということなのかもしれない。それが本当かどうか確かめようもないが、もしそうだとしたらクイズの答えは何になる?

「くふふふ……。どうした? 降参か?」

 男は嬉しそうに笑う。

「ちょっと待って! もうすぐでわかりそうなんだから!」

 オディールはいら立ちを隠さずに叫ぶ。

 クイズの質問は月には関係なく、『コンピューターゲームを作っていて、見えないところにモノがある時、それは描画しますか?』という問題なのではないだろうか? だとしたら答えは簡単だ。そんなのは描画する意味もないので表示されない、それが答えになる。

 つまり、月を見てる人が誰もいなければ月を描く意味もない。月は消えているはずだ。

 そんな馬鹿な……。

 あまりにも荒唐無稽な結論にオディールは頭を抱える。

 とは言え、天使の話を前提とするならこれが答えだろう。他に良さそうな答えも思い浮かばないのだ。これで行くしかない。

 オディールは覚悟を決めるとキッと男をにらむ。

「答えが分かったわ。月は消えてるんでしょ?」

「ほほう……。これは驚いた。どうしてわかった?」

 男は目を丸くしてオディールを見る。

 どうやら正解だったらしい。しかし、それは逆にこの世界がリアルではないということを意味している。それはそれでオディールの心に不安を呼び起こす。

「この世界は情報でできてるんでしょ? で、教えてくれるんですよね?」

「うむ、まぁ、約束だからな。この先を道なりに行くだけだよ。だが、それでもまだ君には神殿へは入れない。どうだね、ワシの仲間にならんか? くふふふ……」

 男はいやらしく笑う。

「は? 結構です。僕は神殿へ向かうのでこれで……」

「あの娘を治してやるって言ってもか?」

 えっ!?

 オディールは驚いて男のドヤ顔を見つめた。

「『この世界は情報でできてる』ってことの意味をまだ君は理解しとらんようだな。【ズィールヘッグの血】という化学物質が実際に存在する訳じゃない。ステータスが毒状態になっとるだけだ。これを解除してやるだけでいい。分かるか? ウヒヒヒ……」

 オディールはなぜそんなゲームみたいな説明になるのか頭が追い付かず、ポカンと口を開けたまま困惑する。

 そんなオディールを見て、男はにやけながら言った。

「結城くん、君は高校で物理や化学を習っただろう? 君の【お天気】スキルを科学で説明してみたまえ。ん?」

「か、科学!?」

 オディールは唐突な科学の話に面食らった。祭詞を唱えるだけで雨が降り、風が吹く、そんなことは科学的にはあり得ないのだ。それを説明しろとは一体どういうつもりなのか? オディールは無理難題に圧倒され、力なく首を振った。
 男はドヤ顔で話し始める。

「結城くん、この世は科学だよ。科学で説明できないことなどない。魔法なんてものは本来ある訳ないのだ」

 その通りである。オディールも、異世界転生して最初のうちはなぜ魔法なんてあるのかと、困惑していたことを思い出す。

「いやでも……、魔法はみんな使ってるから……」

「思考停止かよ! やれやれ、しょうがないな。スキルの科学的説明なんて簡単な話さ。この世界は情報でできている。祭詞というコマンドに反応して雨になるコードを走らせればいい。行数にしてたった数行だ。ワシでもすぐ書ける」

 当たり前のように『プログラミングコードで雨を降らせる』と言う男に、オディールは言葉を失う。ここが仮想現実空間なら、確かにそうだろう。この世界がコンピューター上で作られたモノなら科学的合理性を持ちながら何でもアリなのだ。だがそうなると、この自分の身体自体もミラーナもゲームのキャラクター同然ということになってしまう。

 オディールは自分の両手を見つめた。微細なしわや指紋、そしてその下の複雑な血管が指を動かすたびに躍動する。これらすべてがコンピューターの合成像だとはとても思えない。

 そんなオディールをニヤニヤしながら眺めていた男は、思いがけないことを言う。

「この世界は海王星の中にあるコンピューターサーバ群でリアルタイムに運用されている。仲間になるなら実際に見せてやろう」

 えっ……?

 オディールは言葉に詰まる。地球上に広がる海、山、街の広大な世界、そこに暮らす膨大な数の人間を創出するコンピューターサーバーを実際に見せてくれるというのだ。それは圧倒的なスケールの、まるでSFの世界から抜け出したような存在に違いない。

 本当にそれが実在し、彼がそれにアクセスできるならば、ミラーナを癒すことも現実味を帯びてくる。

 仮想現実であろうと何であろうと、今はミラーナを救うことが何よりも優先である。オディールはつい男の提案に惹かれてしまう。

「仲間になったら……、何をするんですか?」

 オディールは不安に満ちた声で尋ねた。

「世界征服をしろ。全ての国を打倒し、大陸の全人類を統べるのだ。ワシは表舞台には出れんからな」

 男はオディールを指さすと、とんでもない事を言い出す。

 そもそも公にはできないというのはどういう事だろうか? 男の立場にきな臭さを感じる。

「表舞台に出られない……?」

「そりゃそうさ。ワシはハッカー。システム管理者側からしたら異分子だからな」

 男は肩をすくめて自虐的に言った。

 オディールはこの男の目論みが読めてきた。要は女神公認のチート持ちの自分を傀儡(かいらい)にして、影から操って好き勝手やりたいのだ。

「それは……。女神様の敵に……なるって事ですよね?」

「女神? あいつは横暴な独裁者だ! 元から敵なんだよ! あの娘を治したいんだろ!?」

 突如、男は怒りだす。やはりそこが男の痛いところらしい。女神と男の関係はよく分からないが、女神の恩寵を受けたオディールには女神を裏切ることはできない。

 オディールはふぅとため息をつくと、毅然とした態度で返す。

「もちろん治したいですが、やっぱり女神様に頼みに行きます」

 ミラーナの治療を優先したいと思う部分はあるが、本当に治してくれるかも分からないのだ。

「いうこと聞かん奴だな……。愚かな……。まぁいい。それなら別の使い方がある……。ぐぉぉぉぉ!」

 男は突如悲痛なうめきをあげ始めると、下半身が見る間に膨らみ、ズボンが弾けるように吹き飛んだ。

 ぬはぁぁぁ!

 変容を続ける中年男は、何か巨大な恐ろしい存在へと姿を変えていく。太くて黒々とした棘の生えた脚が次々と生えてきて、洞窟の岩肌を砕きながら成長し、その姿を完成させていく。

 ひっ、ひぃぃぃ!

 その恐ろしい異形にオディールは圧倒され、パニックに(おちい)って逃げ出した。

 しかし、姿を変え終えた男は、その大きな体格に反して驚くほどの速さを見せる。岩肌のでっぱりを次々と粉砕しながら、重機のような重厚な音を立て、オディールに猛然と迫った。

「どこへ行こうというのかね? ウヒヒヒヒ」

 それは巨大な蜘蛛だった。男は上半身だけ人間のままに、下半身は巨大な蜘蛛へと変身したのだった。

 いやぁぁぁぁ!

 必死に逃げるオディールだったが、凸凹だらけの洞窟ではうまく走れない。どんどん迫る蜘蛛男……。

 きゃぁ!

 ついにくぼみに足をとられてオディールは無様に転がってしまった。

「ひっひっひ。つーかまえた!」

 あっという間に追いつかれ、触肢(しょくし)に絡め取られてしまう。

「ぐわぁぁぁ! 止めろ! 何するんだよ!」

 必死にもがくオディール。しかし、凄まじい力でつかまれ、どうすることもできなかった。

「何するって、お前を喰うんだよ。お前を喰って楽しんだ後、お前そっくりの人形を送り込んでやるのさ」

 男はカメレオンのように長い舌を伸ばすと、恐怖に歪むオディールのほほをペロリと舐めた。
 ひぃぃぃ!

 べっちょりと臭い唾液がつき、オディールは目を白黒させながら吐き気に耐える。

「あはあはっ! 小娘の恐怖……実に美味い、美味いぞぉ! ヒャッヒャッヒャ!」

「この化け物! 止めろ! 止めろって言ってんだろ!」

 オディールは渾身(こんしん)の力で脚を蹴ってみたが、それは電柱を蹴っているかのようで自分が痛いだけだった。

 くぅぅぅ……。

 オディールはポロポロと涙をこぼす。

「くははは、足掻(あが)け足掻け! やはり人間喰うならお前くらいの娘が一番だよな。ぐふふふ」

 男はまるで食材を見極めるように、オディールのしなやかで張りのある頬をつまんだ。

 目をギュッとつぶって耐えるものの、絶望で心がえぐられるオディール。

 【お天気】スキルも使えないこんな洞窟内ではもはや万事休すだった。

 ミラーナを助けることもできずにこんなところで喰われてしまう。オディールは無念で胸が張り裂けそうになる。

「くふふふ。いいね、いいよー! その絶望、まさに最高の調味料!」

 男はカパッと大きな口を開け、巨大な牙を光らせながらオディールの綺麗な白い首筋に迫る。

 ひぃぃぃぃ!

 オディールは必死に腕をのばし、脂ぎって薄くなった男の頭を全力で押さえた。

「ぐははは! 無駄な抵抗、いいね、いいよー!」

 しかし、男は信じられないような力で首筋に近づいてくる。

 くぅぅぅ……。

 オディールは破れかぶれになり、男の頭に多量の魔力を流しいれた。

「くははは、何やっとるんだ? 気持ちいいだけだぞ?」

 男は黄金色の光に包まれながらにやける。

 しかし、オディールは下腹部にある魔力の湧き出すところに渾身の力を込め、ありったけの無限の魔力を放出した。

「ぐっ? ぐっ、ぐおっ! な、なんじゃ!? や、止めろぉ!」

 男は予期せぬ大量の魔力に翻弄され、動揺を隠せない。どうやら魔力も膨大ならダメージに繋がるようだ。

 オディールは自らも黄金色の光で輝きながら、一筋の光明に命運を賭け、全精力を傾けて魔力を全力放出する。

「行っけーー! ぐぉぉぉぉぉぉ!」

 身体中から黄金色の光の粒子を吹きだしながら膨張し始める男。

「や、止めろぉぉぉ! ぐはぁぁぁぁ!」

 男が断末魔の叫びをあげた刹那、煌めく閃光が放たれ、壮大な爆発が巻き起こった。

 爆炎は洞窟内一杯に広がり、激しいエネルギーの奔流が蜘蛛の身体をバラバラにし、吹き飛ばす。

 きゃぁっ!

 悲痛な叫びと共に洞窟へと弾き飛ばされ、もんどりうってころがるオディール。

 辺りにははじけ飛び、バラバラになった巨大蜘蛛の脚が洞窟内に転がって騒がしい音を立てている。

 自身も魔力を放っていたためか、爆炎の影響は深刻ではなかった。それでも金髪の毛先はチリチリと焼け、床にたたきつけられた衝撃にオディールはしばらく息もできず身もだえていた。

 くぅぅぅ……、いててて……。

 オディールはよろよろと身体を起こす。黄色い蜘蛛の体液を全身に浴び、臭くてたまらない。

 顔をぬぐいながらあたりを見まわしたが男の気配はもはやなく、何とか危機は脱したようだった。

「勘弁してよもぅ……」

 オディールが立ち上がろうとしたその時、ズキッと足首に鋭い痛みが走った。

 うっ!

 思わずうずくまるオディール。足首をねんざしてしまったらしい。その痛みはジンジンと骨の髄まで穿(うが)ち、とても歩くどころではなかった。

 くぅぅぅ……。

 痛みで涙がポロリとこぼれてくる。

 こんな足では神殿まで行けないかもしれない。たどり着けねばミラーナも自分も破滅である。

 そっと足首をさすってみるが、痛みはひどく徐々に腫れてきて、もしかしたら骨をやってしまってるかもしれない。

 うっ……ううっ……。

 オディールは押し寄せる悲しみに耐えきれず、涙の奔流を止めることができなくなる。次々と押し寄せる試練の波に、心はもう疲弊しきっていつ折れてもおかしくないまでに追い込まれていた。

「うわぁぁん! ミラーナぁぁぁ……」

 辛い時、悲しい時、いつもミラーナが支えてくれた。ミラーナの甘く優しい匂いに包まれ、何とか乗り越えることができていたのだ。しかし、今ミラーナは生死の境をさまよい、自分は身動きもとれない。

 悲しみの波が堰を切って押し寄せ、オディールは悲痛な叫びを上げた。

「誰か……誰か助けてよぉぉ!」

 一体自分が何をしたというのだろうか? 追放され、大好きな女の子と一緒に街を作った。それのどこにこんな仕打ちを受ける筋合いがあるのか?

 オディールは全てが嫌になる。

 父親は人殺しだし、教皇は生臭坊主だし、策を見つけても、訳わからない洞窟を歩かされ、化け物の蜘蛛に喰われかける。一体どうなっているのか?

 オディールは赤ん坊のように泣き喚く。

 洞窟にはオディールの痛みに満ちた悲しみがいつまでもこだましていた。
 パサッ……。

 悲嘆にくれるオディールの手の上にドライフラワーの飾り物が落ちてきた。それはミラーナに教えてもらいながら編んだ花冠を乾かしたものであり、リュックに括り付けておいたのが外れたのだろう。

 ミラーナ……。

 オディールはそれを拾い上げ、二人で笑いあったあの頃を思い出して、ポロポロとさらにこぼした。

 すると、ボウっとドライフラワーはほのかに黄金の輝きを放ち始める。

 えっ……?

 いぶかしげにドライフラワーを見つめているとどこからか懐かしい甘く優しい匂いが鼻をかすめる。それは忘れもしないミラーナの匂いだった。

 ミ、ミラーナ!?

 オディールは慌てて辺りを見回す。すると、淡く輝きを放つ人影が薄暗がりの洞窟の中をスーッと通り過ぎ、奥の方へ消えていった。

 人は死ぬときに親しかった人の前に現れるという話を聞いたことがある。

 ミ、ミラーナ!!

 オディールは真っ青になって慌てて立ち上がり、足首の激痛に思わず転がった。

「ミ、ミラーナ! ダメ! 行かないで!!」

 オディールは這って必死に人影を追いかける。ひざをすりむき、ひじをしたたかに打ちつけながらもオディールはただ、ミラーナの影を追う。

「置いて行かないでよぉ! ミラーナぁぁ!」

 しかし、どんなに頑張ってもう薄暗がりが続くだけだった。

 ミ、ミラーナぁぁぁぁ!

 オディールは絶叫し、その場に泣き崩れた。

 自分の無力さ、浅はかさに耐えられなくなりオディールはこぶしでガンガンと冷たい岩肌を叩く。

 ぐあぁぁぁ!

 無能な自分が愛するミラーナを死へと追いやっている。その事実が鋭い刃物のようにオディールの心をえぐった。

 くぅ……。

 しばらく動けなくなっていたオディールは、バッと顔を上げ、ギラっと目を光らせると、手近にあった蜘蛛の脚を取った。巨大なカニの足のようなそれをベキベキとはがし、折り、杖へと加工していく。

「まだ間に合う! 女神様は死んだ後の僕を助けたんだから!」

 オディールは決意に満ちた目で杖をついて立ち上がる。もはや猶予はない。命尽き果てるまでベストを尽くし続けると誓い、オディールは歩き始めたのだった。


     ◇


 爆発でぐちゃぐちゃになった洞窟だったが、奥へはなんとか行けそうに見える。

 オディールはねんざの足を引きずり、ボロボロになった身体に鞭を打ちながら、洞窟の奥を目指す。

「よいしょ、よいしょ……」

 もう残された時間はほとんどないのだろう。とっくに限界を超えたオディールだったがただ、ミラーナに対する想いだけが彼女を動かしていた。


      ◇


 蜘蛛の男に言われた通り道なりに進むと、やがて広い空洞に出た。そこはまるで鍾乳洞のようで、下の方には聖水でできた地底湖が広がっていた。

 キラキラと黄金色の光の微粒子を放つ地底湖。その深い水底には細い洞窟があり、その先から鮮やかな碧い光が吹きだしていた。

「うわぁ……、綺麗だ……」

 洞窟の先で思わず見つけた碧く輝く地底湖。だが、空洞の周りは黒い岩肌が続き、とても神殿といえるようなものではなかった。

「も、もしかしてここで行き止まり?」

 オディールは辺りを見回すがどこにも通路らしきものは見えない。蜘蛛男に一杯食わされたのかもしれないと不安で顔が曇る。

 よろよろと杖を突きながら地底湖まで降りてくると、オディールはそっと腫れあがっている足首を聖水へと漬けた。

 はぁぁぁぁ……。

 じんわりと温かいエネルギーが患部を少しずつ癒していく。それは相当に上質な聖水だった。

 オディールはそっと聖水を両手ですくうとジャバジャバと顔を洗う。蜘蛛男の臭い体液で汚れた所がずっと気になっていたのだ。

「あー、さっぱりした……」

 その時だった、パンパンと誰かがオディールの肩を叩く。

 ヒェッ!

 いきなりのことに驚いたオディールは地底湖の方へ跳び上がり、そのまま足を滑らせて沈んでしまう。

 うひゃぁ!

 手足をばたつかせて地底湖でジャバジャバと水しぶきを上げるオディール。

「はははは、あなた何やってんの?」

 金の縁取りのある白い法衣を身にまとった少女は楽しそうに笑う。それはヘーゼル色の瞳に、透き通るような白い肌の人間離れした美しい少女だった。彼女は楽しそうに銀髪を揺らしながらひとしきり笑うと、年季の入った木製の杖をオディールに向け、くるっと回した。

 黄金色の光の筋がいくつか優美な曲線を描きながらオディールの周りを取り囲み、やがてオディールは宙に持ちあげられていく。

「あ、ありがとうございます……」

 びしょぬれのオディールは、空中でバツの悪そうな顔をしながら頭を下げた。

「ここは天然の原子炉。長く入ってると危ないわ」

「へっ!? じゃ、この碧い輝きは……」

「そう、チェレンコフ光よ。今日も元気に核反応してるわ」

 オディールは命を奪いかねないその怪しくも美しい魔の光に、ゾクッと背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 少女は岸辺の岩の上にオディールを降ろすと、杖をオディールに向けたまま何かをつぶやく。直後、バシュッ! という衝撃音と共に、びしょぬれになっていたオディールから水分が吹き飛び、あっという間に乾いてしまった。

 その見たこともない見事な魔法の技にオディールは驚嘆し、綺麗になった自分のワンピースをつまんで見た。

「綺麗になってよかったわね。こんなところで何してるの?」

 少女はにこやかに笑いかける。

 見るからに神殿の関係者であろう少女にどう言ったらいいのか逡巡するオディールであったが、緊張して頭が上手く動かず、いい言葉が浮かんでこない。

「あ、あの……。め、女神様に会いに来たんです。神殿はどちらですか?」

 すると、少女はちょっと困ったような顔を見せ、首を振る。

「神殿は……、資格のある人にしか見えないのよ……」

「資格……?」

「帰りなさい。来た道を戻れば自然と元の世界に帰れるわ」

 少女は無情にも歩いて来た洞窟を指す。

 その拒絶にオディールはドクンと心拍数が上がるのを感じた。女神に会えなければミラーナは死んでしまう。ここで引き下がるわけにはいかなかった。