ノアの手のひらに、深紅の球体が生み出される。揺らぎのない、つるりとした球体だ。
 それを、そっと組み上げられた薪の中心へ落とす。
 深紅の球体はなめらかな炎に姿を変え、よく乾いた薪に絡みつく。ぱちぱちと小気味よい音を立て、種火はあっというまに焚き火へと成長した。
 魔物の襲撃を受けた時点で、日が沈みかけていた。無理をして進めば、ここ数年で魔物が増え続けているレイリア近くで、夜を迎えてしまう。一行は、倒した魔物からある程度離れたところで野宿することにした。
 炎魔法を使える者はパイクの仲間にもいるらしいのだが、運悪く今回の旅には同行できず、手作業で火起こしをするかという話になったところで、ノアが炎魔法を披露する流れになったのだ。
「なんか、ノアってやっぱりすごいよね」
「ええ、こんなに美しい炎魔法は初めて見ました。まるでお手本のようです」
 次々と賛辞を口にするエミリーたちに、ノアは恐縮しきりで首を振る。
 魔法の造形や仕上がりを褒めてもらえたことなど初めてで、くすぐったい気持ちだった。
「お手本は言い過ぎですけど、ありがとうございます。でも、焚き火の火種とか、水場がないときの間に合わせの飲み水とか、そういうことには使えても、いざ戦いになると駄目なんです」
「そりゃ欲張りってもんだろ。あんだけの魔力をぶん投げながら、魔法も使いたいってのはよ」
「っていうか使ってたけどね。パイクもノアの向上心とか、見習った方がいいんじゃない? とりあえず禁酒から」
「待て待て、酒は関係ねえだろ! ちゃんと仕事して、一日の終わりの嗜みとしてだな」
「確かに、明け方まで嗜むのは、回数を減らしてもいいかもしれませんね」
 さらりとジェマが加わり、パイクが苦い顔になる。
 エミリーとパイクたちの関係性をノアはまだよく知らないが、軽口を言い合える関係は、信頼しあっている証拠なのだろう。
 ノアが追放された都市、シーヴで出会った頃の、そして別れる直前のうつむいたエミリーの顔をふと思い出す。隣で屈託なく笑う彼女を見て、ノアは少し嬉しくなった。
「僕の場合は向上心を持って、とかじゃなくて自分の能力に気づけてなかったので……正直、今でも実感がないですし」
 三人が顔を見合わせて、真面目な顔を作り直した。
「あれだけのことができるのに、あやうく処刑、形見も取られて家に火までつけられて……なんて普通じゃないよね。何があったの?」
 エミリーが心配そうに覗き込んでくる。
 パイクが火の加減を確かめて夕食の準備を始め、ジェマは他の護衛メンバーにやんわりと指示を出して遠ざけた。
 ノアは、どう話すべきかを整理しながらそれをぼんやりと眺めていたが、話す負荷を下げようとしてくれているのだとわかり、思わず口元が緩む。
 この人たちは優しい。今まで出会ってきた人たちの中で、だんとつに。
「シーヴギルドが受けた依頼で、大規模な魔物の討伐をする仕事があったんだ」
 ぱちぱちと小気味よく燃える焚き火を見つめて、ノアは目を細める。
「シーヴで大規模ってことは、例の死の谷?」
「そう。知ってたんだね」
 シーヴの南西、レイリアから見れば北東に位置する死の谷は、よどんだ魔力の吹き溜まりになっている。
 魔力がどうしてよどんでしまうのかは諸説あるが、よどんだ魔力の溜まる場所には魔物が生まれ、魔物は人や動物を襲う。
 各都市ギルドの最も重要な仕事は、溢れた魔物を討伐し、都市の安全を守ることだ。
 だから、どれだけ他の仕事を上手くこなせても、魔物の討伐に力を発揮できないギルドやギルドメンバーは、軽く見られる傾向にある。
 人を笑わせたり感動させたりする芸を披露してくれるよりも、身の安全を守ってくれる方が優先されるのは、魔物のはびこるこの大陸では当然の流れだった。
「いつもなら、そういう大規模な討伐では後ろの方に配置されるんだけど、今回はそれこそ、最後のチャンスだって言われて……最前列のアタッカーとして配置されたんだ。それで、結局ほとんど何もできなくて」
 寂しそうに笑うノアは、ギルドを追放されることについては、この時点である程度の覚悟ができていた。
 いつかはそういう日がくると思っていたし、それがそう遠くないことも予想していた。同じ時期に加入した他のメンバーについていけなくなっていることを、ずいぶん前から気にしていたからだ。
「最後のチャンスを、その、あんまり上手くできなかったから、追放ってこと?」
「そうだね。でも、問題はその後かな。最前線にいたのにわざと魔法を使わないで、仲間を危険に晒しただろうって言われて」
「わざと!? ノアはそんなことしないのに!」
「もちろん違うよ。違うけど、ギルド全体がそういう空気になっちゃって」
 怒りをあらわにするエミリーとは反対に、パイクはくつくつと笑い始める。
「なるほど、読めてきた。本来は処刑もののところを、命は助けてやるから身ぐるみ置いてどっか行けって、そういうことだろ?」
「……落ち着いて考えてみると、そうかもしれません」
「お前さんの親の形見とやら、なかなかイイモノだったんじゃねえのか? シーヴギルドのやつらは、最初からそいつが狙いだったのかもしれねえな」
「そんな、最初からなんて」
 そんな、最初からなんてっ!
 数倍に誇張した形で、パイクがノアの真似をしてから、「お人好しすぎたんだよ、お前さんは」と笑い転げる。
「落ち着いて、パイク。すごく辛いことを無理に話してもらってるのに。それ以上ノアを馬鹿にしたら、鍋の中身が偶然あなたの頭に全部かかっちゃうかも。焚き火つきで」
「ごめんなさい、エミリーさん」
 ぴたりと動きを止めて、すごすごと座りなおしたパイクを無視して、ジェマがため息をついた。
「命を助ける寛大さも見せて株を上げ、ノアくんの形見のレアアイテムを懐に入れたと。火を放ったのはついでの腹いせというところですか。私、シーヴが大嫌いになりました」
「そ、そこまでひどい人たちではなかったですよ? 役に立てない僕に何度もチャンスをくれて、何年もギルドに置いてくれましたし」
 シーヴのフォローに回ったノアを、パイクがぎろりとにらみつける。
「お前さんが抱えてるそのロッドはなんだよ」
 ノアの荷物は、着ているローブとブーツ、そしてパイクが指摘した、折れてひびの入ったロッドだけだ。
「これは……父の形見です。母の形見は渡さざるを得ませんでしたけど、こっちは折れて、石も割れてしまったので」
「シーヴのやつらに折られたんじゃねえのか? 石もそうだろ、割られちまったって感じに見えるがな」
 今度はエミリーも、パイクをたしなめることなく、無言のまま焚き火を見つめている。
 ノアは何も言い返せなかった。
 パイクの言うとおりだった。ロッドがこうなったのは、あやうく処刑かという問答の中で、激昂したシーヴギルドの主力メンバーによるものだったからだ。
「お前さんはそれでいいのか。不幸の特盛だっつって昼間は大笑いしたけどな、そいつを自分で引きよせちまってるんじゃ本当に世話ねえぞ」
 いい訳はない。ないが、これまでのノアにはどうしようもなかった。
 ノアに身寄りはなく、頼れるつてもない。唯一の拠り所であったギルドで、いくらか厳しい扱いを受けたからといって、そこを離れる勇気は出せなかった。
「でも本当にひどいよね。シーヴの人たちは何考えてたんだろ。ノアがすごすぎて嫉妬しちゃったのかな?」
 空気を変えようと、エミリーがわざと明るい声を出す。
「いや、多分違うな。ノアの話からしても、能力自体に気づいてなかったのさ」
「ええ……そんなことある? 普段の自分とまったく別の何かになれる勢いだよ? ちょっとした英雄気分だよ?」
「まあそうなんだけどな。なあノア、シーヴのギルドでいっしょに戦ってたやつらってのは、同じ時期に入ったやつらばっかりだったんじゃねえか?」
「そうです、よくわかりますね。同じ時期に入ったのに、みんなどんどん強くなっていきました。僕だけ伸び悩んでしまって」
「な? そういうことだよ」
 したり顔でエミリーを振り返るパイクに、「わかんないんだけど、どういうこと?」とエミリーが頬を膨らませる。
 ジェマも、不思議そうにパイクを見ている。
 当事者であるはずのノアも、思わずパイクを覗き込んでしまう。
「最初っからあれが普通な状態でやってきたらよ、自分たちが特別なんだって勘違いするに決まってる。なにしろ俺ですら、今日はずいぶん調子がいいぜ、なんて考えちまってたくらい、違和感なかったからな。他人様の魔力だってのによ」
「あ、なるほど」
「一人でむちゃくちゃに成長しまくってたのは、多分お前さんの方だな。こりゃあ楽しみになってきた」
 悪役にしか見えない、にんまりとした笑みを浮かべて、パイクは満足そうにうんと伸びをした。
「なあノア、変わりたいか? それとも、もうギルドはこりごりか?」
 問われて、ノアは考える。
 変われるのなら、もちろん変わりたい。小さな頃から、ギルドで活躍し、人の役に立つことを夢見てきた。
 追放される直前までそれを信じて努力を続けてきたつもりだし、追放された今も、その炎は心の中で熱を帯びている。
「変われるのなら、変わりたいです」
 ノアは、まっすぐにパイクを見つめ返して答えた。
「いいだろ、そんならレイリアのギルドに案内してやる。俺はこう見えて顔がきくからな」
「……いいんですか!」
「いいんですか、どころじゃありません。ノアくんなら大歓迎だと思いますよ。超強力なサポート役ですもの」
「うんうん! それがいいよ!」
 ジェマとエミリーも賛成し、ノアは大きくうなずく。
「ぜひお願いします!」
「おう、引き受けた。そんなら難しい話はここまでだ。飯も煮えた頃合いだろ。がつんと食って、明日に備えて寝ちまおうぜ」
 追放、処刑未遂、昔馴染みとの再会、自らの隠れた能力の自覚……整理しきれないほど濃厚なノアの一日は、ようやく終わりを迎えようとしていた。