ノアが目を覚ましたのは、日が落ちてしばらくしてからだった。戻りがあまりにも遅いことを心配したフローレンスに発見され、館長室のソファで応急処置を受けたのだ。
 大急ぎで呼び出された医者によれば、症状は完全に魔力切れのそれで、他に異常はないという。
 当のノア自身も、倦怠感は感じられるものの、身体が痛むことも、記憶が混濁することもなかったため、念のためギルドから人を呼び、自分の足で帰ることになった。
 迎えに来たパイクは、ノアが魔力切れだと聞いて目を丸くしたが、その場で詮索はせず、フローレンスに礼を言って医者に診察代を支払うと、手早くノアを連れ出してくれた。
 ギルドに戻る道中でいくらかの説教をされた気がするが、頭がぼんやりとしていたノアは、あまりよく覚えておらず、そのままベッドで深い眠りについた。
「まったく、心配かけやがってよ」
「ごめんなさい」
 翌朝、ギルド酒場に起きていくと、ノアはいくつもの心配そうな顔に囲まれた。
「さすがのノアも、疲れがたまってたってところか? 館長どのでも身につけられた魔法で魔力切れとはな」
「違うんだよ、あれは」
 万全の状態から、ほとんどすべての魔力を吸い取られたことを話すと、魔導書のことはちょっとした騒ぎになった。
 すでにそれを唱えてしまっているフローレンスも一緒に、念のため医者や魔術師からのヒアリングを受けさせられたし、魔導書自体も地下の禁書エリアに移されることになった。
 隠し扉の先の部屋は、図書館やレイリアへの貢献度によって、館長権限で解放しても問題ないとされていたエリアだ。ノアやフローレンスが責任を問われることはなかったが、古代魔法の魔導書には見直しが必要であるとの決定が議会でなされ、図書館の蔵書についても、大規模な整理が行われた。
 整理にはノアやジェマ、その他の魔術師数人も、ギルドが正式な依頼を受けて参加した。
 図書館の大規模整理と、ノアとフローレンスに対する個人的なヒアリングなどがひととおり落ち着いたのは、議会での議論も含めて、ノアが倒れてから三十日が経った頃だった。
「結局、何も身につかなかったのは残念だったよね」
 いつもの朝の水汲みの時間に、エミリーが残念そうな顔をする。
 ひととおりの事態が落ち着いたあと、ノアは身についたはずの魔法を試そうとした。しかし、どうやってもそれを使うことはできなかった。
 フローレンスが身に着けた魔法は目の前で見せてもらったし、自分でもあの時に流れこんできた確かな感触を頼りに、思いつく限りのことを試してみた。すでに効果が出ているのかもと思い、通常の魔法もやってみたが、どれも詠唱速度に変化はなかった。
 ばしゃばしゃと冷たい水で顔を洗い、空を仰ぐ。
 どんよりと曇った空は、そう簡単に楽はさせないぞとノアに忠告しているようで、ノアは思わず唇をかんだ。
 魔導書を利用して魔法を身に着けること自体は、そう珍しいことではないし、誰かにとがめられることでもない。
 しかし、あれだけの確信があったにもかかわらず、自分の中に何も残っていないことが、ノアはとても悲しかった。
「基礎を身に着ける勉強も、魔力制御の訓練も続けてるし、一歩ずつやっていくしかないよね」
 どうにか笑顔を返すが、ノアの心情は、エミリーに悟られてしまっている気がした。
「そうだ。ノアもフローレンスもばたばたしてたから話すのが遅くなっちゃったんだけど、例の調査の結果が出たよ。昨日で一応、病院も議会も一区切りついたんだよね? 今日、どこかで集まれる?」
 エミリーの号令でお昼過ぎにギルド酒場に集まった三人は、パイクやジェマたちギルドの中心メンバーも交えて、バツ印のついた地図を広げた。
 地図の印にはよどみが深くなるまでの日数と、ノアには基準がわからなかったが、その深さを表すであろう数値が細かく書き込まれている。
「北東が早いか……となるとやっぱり死の谷ってことか?」
「死の谷に異変が起きているなら、シーヴの方が先に影響を受けるのではありませんか?」
 金髪のつんつん頭をかきあげてパイクが眉をひそめ、隣にいたジェマが各都市と死の谷との位置関係を確かめるように地図を指でなぞった。
「これを見てください」
 フローレンスが、別の地図を取り出して広げる。
 バツ印がついているものより広域の地図で、細かい街道などは描かれていないかわりに、大陸全体の主要都市や危険地域が記されているものだ。
 通常の地図と違っていたのは、川のような流れが縦横無尽に、都市にもまたがるような形で描かれていることだった。
「これは魔力流の大まかな位置と流れを示した地図です。かなり古いものなので地形の変わってしまった場所もありますし、わたしたちが持つ知識や技術ではその流れを調査することはできませんが、おおむね合っているのではないかと考えています」
 フローレンスの言葉に、機能の一時復旧を聞きつけて戻ってきた数人の図書館職員がうなずく。聞けば、図書館が中心となって、レイリア近辺のみではあるが、魔力の流れが濃いとされている場所の調査を行った結果、地図に記された内容には一定の信ぴょう性があるとの結論に至ったのだという。
「シーヴを通って死の谷へと進んだ魔力流は、このように南に逸れていくとされています」
 地図を見ると確かに、死の谷から抜けた流れは、レイリアと、南西にある王都の間を抜けて南へ散っていた。
「北東方面で他に可能性があるとすれば、この流れですね」
 シーヴと死の谷を通る流れの少し北に並行して走り、レイリアをかすめて北西の山脈へ抜けていく流れを指さして、フローレンスが皆の顔を見回す。
「絞り込みきれなくて申し訳ないですが、あとはもう一本。この流れです」
 南から伸び、弧を描いてレイリアに北東から重なり、南西に戻っていく線を指さして、「つまり」とフローレンスが続ける。
「調査すべきは三か所。北西のナイン山脈、南の湿地帯、それから死の谷ということになります」
 集まった皆が、それぞれに難しい顔をしている。
 地図に描かれた魔力流は複雑に絡み合っていて、素人目にはどれがどうなっているのかよくわからないほど、たくさんの線が描かれている。
 当然、レイリアに関係する流れも十や二十ではきかないほどの数がある。
 その中で、仮説とはいえ、北東方面からレイリアに触れている三か所にまで絞り込めたのは、かなりの成果と言っていい。
 しかし、それでも三か所だ。パイクががしがしと髪をかきあげて、ばつが悪そうに口を開いた。
「館長さんよ、この地図を見ても俺には細かいところはわからねえが、可能性を三つに洗い出せたってのはすげえことだよ。本当にそう思う」
「それではさっそく、すぐにでも調査隊を」
「しかしだ」
 パイクがギルドの面々に視線を配る。仕方ねえから俺から言うぞ。そんな雰囲気だった。
「今のうちの頭数で、ここの守りまで考えるとなると、人は出せても一か所ずつだな。それにしたって、すぐには無理だ」
「そんな……よどみの深さは前よりひどくなっているんです。こちらの地図の数値はパイクさんもおわかりでしょう? この場にいる皆さんには申し上げますが、もはや一刻の猶予もないと考えます。ここで機を逃せば、レイリアはじきに、人の住めない場所になってしまうでしょう」
 吐き出したフローレンス本人が、一番つらそうな顔をしていた。ざわついていたギルドメンバーも、押し黙ってしまう。
 そこには、レイリア創始者の子孫である、フローレンス・レイリアだからこその重圧があるに違いなかった。
「フローレンスは、どこが一番怪しいと思う?」
 ノアはここで口を開いた。まっすぐにフローレンスを見つめ、意見を促す。
「……死の谷か南の湿地帯、かな」
「それはどうして?」
「ナイン山脈は流れの終着点……下流だから。北東と南なら、流れの元を確かめることができるし、ここからさらに絞るのであればこの二か所です」
「……一か所に絞り込むのは、どうしても難しい?」
 フローレンスが、悔しそうに首を振る。
 わかった、と言ってノアは立ち上がる。それこそ、専門的なことはノアにはわからない。だから、調査をするにあたっての精度で話をしようと思った。
「死の谷に絞って調査をしてみませんか? 僕はシーヴのギルドにいた頃に何度か魔物討伐に行ったことがありますし、特に魔力が吹き溜まりになっている場所だとかもわかります。絞り込めないのなら、より細かく調査ができる方を選んでみるのはどうでしょう? もちろん、湿地帯に詳しい方がいれば、そちらを優先しても構いません」
「ノア、お前さんの話は結局、出たとこ勝負ってことかよ?」
 険しい顔をするパイクを真正面から見つめ返して、ノアは「そのとおりです」と言いきった。
「時間があまりないのなら、何もせずに悩んでいる時間が惜しい。時間も人手もないのなら、自分たちで最善だと思える決断をして、全力を尽くすしかありません」
「ここの守りや他の依頼はどうすんだ? お前さんが思ってるより、うちは余裕ねえんだぞ」
 パイクだって、こんなことを言いたくて言っているわけではない。
 それがわかってしまったからこそ、ノアは言葉を飲み込んでしまった。酒場内に一瞬の沈黙が訪れる。
「じゃあ私もノアといっしょに行こうかな。ここの守りとか他の依頼は、皆でなんとかしてよ」
 張り詰めた糸を切ったのは、エミリーだった。
「おいおいエミリーさんよ、なんとかしてってのは流石に暴論じゃねえか?」
「あんまり根性論は好きじゃないけどさ、できるところまで分析した結果がこれなんだから。あとはノアが言うとおり、やってみるしかないんじゃない? 他の依頼はどうすんだ? なんてノアにすごむ方がよっぽど暴論でしょ」
「……あっはっは! 根性論は好きじゃないとか言いやがって、気合入れてみろだ? おもしれえじゃねえか」
 ばしっと自分の膝をたたいて、パイクが立ち上がる。
「そもそもお前ら、さぼりすぎなんだよ。気が付いたら魔道具の工房だの、図書館の魔力炉だの、古代の魔導書だのって理由つけて消えやがってよ」
「ちょっと、今それは関係ないでしょ!」
「だから今度は、俺もついてくぞ。きっちり仕事してるか監視してやるからな」
 パイクは、ふんとおおげさにそっぽを向いてみせてから、にやりと笑って視線を戻す。
「素直じゃないんだから……心配だからついていくって言えばいいのに」
「パイクは照れ屋だもんね」
「うるせえ、ノア! てめえ、それ言っときゃいいと思ってんだろ!」
 盛り上がるギルドの面々に対して、フローレンスが不安そうな顔になる。
「あの、ノアにエミリー、パイクさんまで出かけちゃって、ギルドの方は大丈夫なんですか? わたしが言うのもなんですけど……」
「それなら心配いりませんよ」
 パイクのかわりに答えたのはジェマだ。落ち着いた笑顔でにっこりとフローレンスに笑いかける。
「うちのギルド長を事務方や後方支援に置いておいても、何の役にも立ちませんから。実質的に依頼のやり取りだとかを回しているのは、他の優秀な皆さんです」
「えええ……俺の立場……」
「ついでに言えば、放っておくとすぐサボって楽しそうな方についていこうとするんです。そんなことをさせないように、私も同行しますのでご安心ください」
「うげ、本気かよ。それこそ、ジェマがいなくて事務方は回るのか?」
「もちろんです。私が教育した優秀な子たちがそろってますから。あなたは知らないでしょうけど」
 とどめを刺されてしゅんとなったパイクに、一瞬だけ視線をやってから、フローレンスがジェマに向き直る。
「パイクさんはともかく、ジェマさんが出かけるのは本当に大丈夫なんですよね?」
「フローレンス、その言い方はさすがにパイクがかわいそうかも」
 ノアが助け舟を出すが、それをさらりとさえぎって、ジェマが「大丈夫ですよ」と答える。
「依頼を回すのに長けた者は他にもいますからご安心ください。それに、パイクのお目付け役としても、チームバランスを見たときの回復要員としても、私が入る方が調査も進むと思います」
 そう言うと、ジェマは酒場の奥から二人の男女を連れて戻ってきた。
「こっちはシャロン、安心して依頼の受付と消化を任せられます。それからこっちはティム。情報収集と伝達、隠密能力に長けているので、異変があればすぐに知らせてくれるでしょう。二人とも、留守をお願いできますか?」
 パイクをきりきり働かせてさっさと戻ってきますから、少しの間だけですので。
 にっこり微笑むジェマに、二人がうなずく。
「ギルド長はともかく、ジェマさんがいないのは少し不安ですけど、頑張ってみます!」
「どいつもこいつも俺をともかく扱いしやがって。ずいぶんいい教育してんなおい」
「すごんでも無駄ですよ、そういうところをスルーすることもしっかり教育してありますから」
 がっくりと肩を落としたパイク以外のほぼ全員が納得して、その場は解散となった。
 死の谷が空振りだったときのことも考えると、とにかく時間がない。
 明日の朝には出立することに決まり、それぞれが準備のために動き出した。