館長室の隠し扉をくぐり、室内へ足を踏み入れる。
フローレンスから渡されていた、携帯用のランプをかざして進んでいく。
ノアが一度は回復させた図書館の各機能は完全に停止し、魔法灯に回す魔力もすでに底をついている。室内は真っ暗だ。
靴音だけを響かせて、目当ての魔導書の書棚までゆっくりと進んでいった。
館長室か、館内のどこかにフローレンスはいるにせよ、今この室内にはノア一人だけだ。
考えてみれば、レイリアに来てからというもの、ほとんど誰かといっしょに行動していた。
シーヴにいた頃は、一人でいる時間の方が多かった。しかも大抵は雑用を言い渡されて、それをこなす虚しい時間だ。
ギルドのメンバーといるときも、ノアに話しかけてくる者はほとんどいなかった。話しかけられたとしても小言か罵声ばかりだったので、一人の方が気が楽だと思っていたくらいだ。
今は違う。皆がノアに笑顔で話しかけてくれるし、ノアから話しかけても邪険にされることはない。
また、一人でいても、以前のような空虚さはない。
自分にできることをして、得た力を仲間のために、レイリアのために使いたい。
強い気持ちがノアを突き動かしていた。
目当ての魔導書の前までやってくる。
古代魔法の魔導書は、一冊ずつがケースに入っており、フローレンスに借りた鍵がなければ開けられない。
ランプを脇において、魔導書の表紙を撫でてみる。
不思議な気持ちだった。手持ちのランプしか明かりはないはずなのに、魔導書の表紙が鮮やかなブルーであることがわかる。
鼓動が早くなっていることに気づき、気持ちを落ち着かせるために、デイビットにもらった三つの球体を操り、くるくると動かしてみた。
パンツのポケットに入れてあったそれらを浮かばせ、右腕から肩を通って、左手の指先からランプの上へ。
全身に魔力がみなぎっているし、コントロールもいい。ノアは一人でくすりと笑った。
そっと両手で魔導書に手を伸ばし、丁寧に開く。
何も考えずにぱらぱらとめくっていくだけで、導かれるように目当てのページが開かれる。
魔導書はそれ自体が、目当ての魔法を身に着け、術者に染み込ませるための補助術式になっている。
正しいページの正しい文字列を唱え、その魔法を身に着けるのに必要な魔力……つまりは、魔導書内のすべての術式が正常に機能するに足る魔力を捧げることによって、その魔法は術者のものとなる。
効果の高いものや希少価値の高い魔法ほど、身に着ける難易度は高くなる。すべてを正しく行っても、魔法との相性が悪く身につかないこともある。少ない事例ではあるが、失敗したうえに副作用が出ることだってある。
よほど相性が悪くなければ危険はない、とフローレンスは言っていた。
それなのに、やけに鼓動が高鳴るのはどうしてだろうか。一人きりのせいなのか、暗い部屋のせいなのか、それとも。
「考えてもしょうがないか」
言い聞かせるようにつぶやいて、ノアは開かれたページを見つめる。
唱えるべき呪文を記した文字列が、ノアの魔力に反応して暗がりに浮かび上がる。
そこでふと、あれと思った。
一般的な魔導書であれば、しかるべきページの先頭から末尾までを読み進めていくのが普通だ。
しかし、浮かび上がった文字列は、まるで虫食いのように、ぎっしりと記された文字列の一部が飛び飛びになっていたのだ。
唱える前に、フローレンスに確認してみるべきだろうか。
いや、忙しいフローレンスに隠し扉を開ける時間をとってもらっただけでも、申し訳ないくらいだ。フローレンス自身も試して、身に着けている魔法だ。古代の魔導書なら、現在の一般的なものと記述の形式が異なっていても、そういうものなのかもしれない。
「よし……!」
覚悟を決めたノアは、唱えるべき文字列をなぞりながら、一言ずつそれを声に乗せていく。
ずるりと、芯からごっそりと持っていかれるような、不思議な感覚があった。
景色が傾いて、慌ててケースに手をつき、魔導書から目を離してあたりを見回す。
違う。傾いているのは景色ではなく、自分の身体だ。ノアは必死に意識を集中させ、どうにかその場に踏みとどまる。
魔導書に視線を戻し、文字列を紡いでいく。重い。ずるずると、普段は使っていない、開けてはいけない場所から魔力が引きずり出されていくようだ。
身体がだるくて熱い。それなのに寒い。意識がとびそうになるのに、唱えるべき文字列がやけにくっきりと浮かび上がる。
途中でやめてしまうのは、悪手中の悪手だ。
まだ身に着けていない魔法の詠唱を中止してしまうと、跳ね返ったそれがどんな副作用をもたらすかわからない。
半ばまできたところで、ノアは一度、大きく息を吸い込んだ。
自分の中の、開けられたくない箱にきっちりと蓋をする。これ以上、そこから持ってはいかせないと魔導書に宣言する。
幸い、続きの文字列が唱えられるのを、魔導書は大人しく待っていてくれるようだ。
急かすことも、跳ね返すこともしてこない。それならと、ノアは大切な箱を守るようにして、自身の中で魔力を膨らませていく。
工房の魔力炉に注いだときのことを、図書館の魔力炉に送り出したときのことを、そしてレイリア全体の地面に流し込んだときのことを、順番に思い出す。
どうすればより大きく、密度の高い魔力を、自分の身体の中だけで生み出せるだろうか。
ぼんやりとノアの身体が発光を始める。光は魔導書にも伝わり、続きの文字列が明滅する。
身体が浮き上がるのを感じ、ノアはさらに集中した。
ここで魔力の放出に身を任せてしまえば、図書館の魔力炉のときと同じように、暴走してしまうかもしれない。
そんなことはさせない。
「お前を使うのは、僕だ――」
はっきりと言いきったノアに呼応するように、魔導書の放つ光が強くなる。
身体中の魔力が、すべて吸いとられていくような気分だった。
しかし、敵意や悪意は感じない。もっとも大事な部分だけを残し、ノアはありったけの魔力を魔導書に預ける。
魔導書とノアの身体から、白と黄色、緑の淡い光の粒があふれ、部屋中を駆け巡る。
書棚にぶつかり、はじけ、細かくなった光の粒子は、きらきらと瞬きながら戻ってきては、ノアの身体にするすると吸い込まれていく。
最後の文字列を唱え終わり、すべての光がノアの中へと吸収され、静寂が訪れる。
ノアは確かに、何かが自分のものになった手ごたえを感じていた。
「やった……」
そしてそのまま、傾く身体を今度こそ支えきれず、ノアはその場にうつ伏せに倒れこみ、意識を手放した。
フローレンスから渡されていた、携帯用のランプをかざして進んでいく。
ノアが一度は回復させた図書館の各機能は完全に停止し、魔法灯に回す魔力もすでに底をついている。室内は真っ暗だ。
靴音だけを響かせて、目当ての魔導書の書棚までゆっくりと進んでいった。
館長室か、館内のどこかにフローレンスはいるにせよ、今この室内にはノア一人だけだ。
考えてみれば、レイリアに来てからというもの、ほとんど誰かといっしょに行動していた。
シーヴにいた頃は、一人でいる時間の方が多かった。しかも大抵は雑用を言い渡されて、それをこなす虚しい時間だ。
ギルドのメンバーといるときも、ノアに話しかけてくる者はほとんどいなかった。話しかけられたとしても小言か罵声ばかりだったので、一人の方が気が楽だと思っていたくらいだ。
今は違う。皆がノアに笑顔で話しかけてくれるし、ノアから話しかけても邪険にされることはない。
また、一人でいても、以前のような空虚さはない。
自分にできることをして、得た力を仲間のために、レイリアのために使いたい。
強い気持ちがノアを突き動かしていた。
目当ての魔導書の前までやってくる。
古代魔法の魔導書は、一冊ずつがケースに入っており、フローレンスに借りた鍵がなければ開けられない。
ランプを脇において、魔導書の表紙を撫でてみる。
不思議な気持ちだった。手持ちのランプしか明かりはないはずなのに、魔導書の表紙が鮮やかなブルーであることがわかる。
鼓動が早くなっていることに気づき、気持ちを落ち着かせるために、デイビットにもらった三つの球体を操り、くるくると動かしてみた。
パンツのポケットに入れてあったそれらを浮かばせ、右腕から肩を通って、左手の指先からランプの上へ。
全身に魔力がみなぎっているし、コントロールもいい。ノアは一人でくすりと笑った。
そっと両手で魔導書に手を伸ばし、丁寧に開く。
何も考えずにぱらぱらとめくっていくだけで、導かれるように目当てのページが開かれる。
魔導書はそれ自体が、目当ての魔法を身に着け、術者に染み込ませるための補助術式になっている。
正しいページの正しい文字列を唱え、その魔法を身に着けるのに必要な魔力……つまりは、魔導書内のすべての術式が正常に機能するに足る魔力を捧げることによって、その魔法は術者のものとなる。
効果の高いものや希少価値の高い魔法ほど、身に着ける難易度は高くなる。すべてを正しく行っても、魔法との相性が悪く身につかないこともある。少ない事例ではあるが、失敗したうえに副作用が出ることだってある。
よほど相性が悪くなければ危険はない、とフローレンスは言っていた。
それなのに、やけに鼓動が高鳴るのはどうしてだろうか。一人きりのせいなのか、暗い部屋のせいなのか、それとも。
「考えてもしょうがないか」
言い聞かせるようにつぶやいて、ノアは開かれたページを見つめる。
唱えるべき呪文を記した文字列が、ノアの魔力に反応して暗がりに浮かび上がる。
そこでふと、あれと思った。
一般的な魔導書であれば、しかるべきページの先頭から末尾までを読み進めていくのが普通だ。
しかし、浮かび上がった文字列は、まるで虫食いのように、ぎっしりと記された文字列の一部が飛び飛びになっていたのだ。
唱える前に、フローレンスに確認してみるべきだろうか。
いや、忙しいフローレンスに隠し扉を開ける時間をとってもらっただけでも、申し訳ないくらいだ。フローレンス自身も試して、身に着けている魔法だ。古代の魔導書なら、現在の一般的なものと記述の形式が異なっていても、そういうものなのかもしれない。
「よし……!」
覚悟を決めたノアは、唱えるべき文字列をなぞりながら、一言ずつそれを声に乗せていく。
ずるりと、芯からごっそりと持っていかれるような、不思議な感覚があった。
景色が傾いて、慌ててケースに手をつき、魔導書から目を離してあたりを見回す。
違う。傾いているのは景色ではなく、自分の身体だ。ノアは必死に意識を集中させ、どうにかその場に踏みとどまる。
魔導書に視線を戻し、文字列を紡いでいく。重い。ずるずると、普段は使っていない、開けてはいけない場所から魔力が引きずり出されていくようだ。
身体がだるくて熱い。それなのに寒い。意識がとびそうになるのに、唱えるべき文字列がやけにくっきりと浮かび上がる。
途中でやめてしまうのは、悪手中の悪手だ。
まだ身に着けていない魔法の詠唱を中止してしまうと、跳ね返ったそれがどんな副作用をもたらすかわからない。
半ばまできたところで、ノアは一度、大きく息を吸い込んだ。
自分の中の、開けられたくない箱にきっちりと蓋をする。これ以上、そこから持ってはいかせないと魔導書に宣言する。
幸い、続きの文字列が唱えられるのを、魔導書は大人しく待っていてくれるようだ。
急かすことも、跳ね返すこともしてこない。それならと、ノアは大切な箱を守るようにして、自身の中で魔力を膨らませていく。
工房の魔力炉に注いだときのことを、図書館の魔力炉に送り出したときのことを、そしてレイリア全体の地面に流し込んだときのことを、順番に思い出す。
どうすればより大きく、密度の高い魔力を、自分の身体の中だけで生み出せるだろうか。
ぼんやりとノアの身体が発光を始める。光は魔導書にも伝わり、続きの文字列が明滅する。
身体が浮き上がるのを感じ、ノアはさらに集中した。
ここで魔力の放出に身を任せてしまえば、図書館の魔力炉のときと同じように、暴走してしまうかもしれない。
そんなことはさせない。
「お前を使うのは、僕だ――」
はっきりと言いきったノアに呼応するように、魔導書の放つ光が強くなる。
身体中の魔力が、すべて吸いとられていくような気分だった。
しかし、敵意や悪意は感じない。もっとも大事な部分だけを残し、ノアはありったけの魔力を魔導書に預ける。
魔導書とノアの身体から、白と黄色、緑の淡い光の粒があふれ、部屋中を駆け巡る。
書棚にぶつかり、はじけ、細かくなった光の粒子は、きらきらと瞬きながら戻ってきては、ノアの身体にするすると吸い込まれていく。
最後の文字列を唱え終わり、すべての光がノアの中へと吸収され、静寂が訪れる。
ノアは確かに、何かが自分のものになった手ごたえを感じていた。
「やった……」
そしてそのまま、傾く身体を今度こそ支えきれず、ノアはその場にうつ伏せに倒れこみ、意識を手放した。