「これは、どうして――」

 ドロシー・ブラバースが使い魔であるエリィゼとともに駆けつけた時、兄であるトゥール・ブラバースの暮らす屋敷は完全に火に呑まれていた。

「嘘、よ。こんなの、嘘……」

 ドロシーは眼を閉じてから、腰まで伸びる濃ゆい桃色の髪を振り乱し、目の前の現実が消えることを祈った。
 しかし再び眼を開いて正面を見れば、やはりそこには燃え盛るトゥールの住んでいた屋敷がある。
 どう足掻いても、それはたしかな現実だった。

「そんな、お兄様――」
「おやおや、ドロシーじゃないか。こんなところで奇遇だな」

 呆然と呟いたドロシーの耳に、あまり好ましくない女性の声が掛かる。

『キィっ!』
「……おやめなさい」

 肩の上で毛を逆立てたエリィゼを宥めながら顔を向ければ、やはり予想していた人物が立っていた。

「レンア、お姉様……」
「ふん、そう怖い顔をするな。お前があの出来損ないに情けをかけていたのは知っている。あれを邪険にする私を毛嫌いしていることもな」

 腰に右掌を当ててこちらへ飄々とした笑みを向けるレンアの姿に、ドロシーは拳を握りしめる。

「――どうしてお姉様がここに? なぜ、お兄様の屋敷が燃えているんです? お兄様は今どちらに?」
「そう一度に捲し立てるな。私がここにいるのは父上の命令に従い、不用となったゴミを片付けるためだ。屋敷は私が燃やした」
「そ、そんな……」
「そしてお前が『お兄様』などと呼ぶゴミは今、あの屋敷の中でこんがりと焼けている頃だろうな」
「――っ! まさか、お兄様はあの中にっ?」

 慌てて屋敷へと駆け出そうとしたドロシーの腕を、素早くレンアが掴んだ。

「何をするんですっ? 放してくださいっ!」
「今さら行っても無駄だ。もう死んでいる」
「そんなのっ! まだわからないじゃないですかっ!」

 レンアの腕を振り解き、ドロシーは再び屋敷へと駆け出した。

「死んでいるさ。私が致命傷を与えた後に火を放ったんだからな」
「――そ、そんな……」

 しかし背後からかけられたその決定的な言葉で、ドロシーの足はついに止まる。止められてしまう。

「……よくも、よくもお兄様をっ!」
「待て、早まるな」

 振り向き様、外套下の懐から杖を取り出したドロシーに、レンアが諫めるように掌を翳した。

「お前には不服だろうが、これは父上からの正式な命令だ。命令を遂行しただけに過ぎん私へ害を為せば、それすなわち父上への謀反となる。お前、死者のために恩あるブラバース家を敵に回すつもりか?」
「くっ……」
「それに、だ。お前は私よりもよほど才がある。いつまでも出来損ないを気にかけていては、その才も宝の持ち腐れというもの。これをきっかけにして、お前はいよいよさらなる高みを目指すべきだ。いつまで冒険者などに甘んじるつもりだ?」
「……大きな、大きなお世話ですっ!」

 まるで愛しい妹を案じるようなレンアのその視線に、ドロシーは顔ごと眼を背けた。

 なぜ、なぜその慈愛のひとかけら程度でも、トゥールに向けてやれなかったのか。
 魔法使いの家に生まれながら魔法が使えないことを負い目に感じていた弟にこそ、その眼差しは向けてやるべきではなかったのか。

 もはやすべてが手遅れなのだとしても、ドロシーはブラバース家がトゥールに行って来た仕打ちを、向けてきた侮蔑の視線を忘れることはないだろう。

「ふん、どうやら頭を冷やす時間が必要だな。父上への報告もあることだ、私はここから離れるとしよう。次に会うときは、もう少し仲良くなれるといいな」

 目を合わそうとしないドロシーに寂し気な笑みを浮かべ、レンアは従者が引き連れてきた馬へと一息に飛び乗った。

「ああ、屋敷の周囲には私の結界が張ってある。怪我をしたくなければ半日は近づかないことだ。もっとも、お前なら無理やりにでも壊せるだろうがな」

 そんな言葉を残し、馬を駆って従者とともに去って行くレンア。
 ドロシーはエリィゼとともにその姿をしばらく見送り、彼女たちが戻ってこないことを確認してから燃え盛る屋敷へと向き直った。

「……お兄様」

 ドロシーの双眸から、喪失感が生み出した涙が零れる。
 レンアに張られた結界によって、これほど近くにいるの拘わらず熱気も焦げ臭さも感じさせずに燃える屋敷。それはまるで、夢の世界の景色のように感じられた。

「私が、もっと早く……私、どうすれば……っ?」

 無力感から膝から崩れ落ち顔を覆ったドロシーはだが、突如として屋敷内で膨れ上がった魔力の気配に飛び退って杖を構える。
 そしてその瞬間、レンアが張っていた結界ごと屋敷の一角が吹き飛んだ。

「なにっ? どういうこと?」」 
 
 本能的に身体が動いただけのドロシーは、目の前で起こった現象に困惑する。

 ほとんど燃え焼けていた屋敷の一部が吹き飛ばされるのは、まだ理解できる。攻撃する術に長けた魔法使いであれば、大抵の者が可能だろう。
 しかしレンアが張っていた結界は、おそらく張れる者が限られる高位の魔法だ。それをただの一撃で吹き飛ばすのは、並みの術者はおろかドロシーにだって無理だ。

(それに、あの魔力……)

 一瞬だけとはいえ、屋敷内で膨れ上がった魔力の量も尋常ではなかった。
 ブラバース家の人間として様々な魔法使いと知り合って来たが、これほどの魔力を有するのは知る限り一人も――いや、一人しかいない。

「――お兄、様?」

 ドロシーの口から零れたその言葉に応じるように、吹き飛ばされた屋敷の一角から人影が歩み出てくる。
 警戒しながら杖を握るドロシーの視界の先、燃える屋敷を背に置いて現れたのは――黒い髪をした全裸の童女だった。

「はっ? て、えっ?」

 半信半疑ながら期待していた兄の姿でなかったのは、残念ながら仕方ない。まだわかる。しかし、凄惨な火災現場から十歳くらいの童女――それも全裸――が歩いて出てくるなど誰に予想できようか。

 困惑するドロシーを余所に、ふらふらとした足取りで現れた童女は俯いたままどんどんと近づいてくる。
 そしてドロシーの傍まで来ると顔を上げ、困惑したように首を傾げて黒い瞳を瞬かせた。

「あれ? ドリー(・・・)?」
「……えっ?」

 可愛らしい顔立ちの童女から発せられたその呼びかけに、ドロシーは困惑を一層強めた。
 その愛称を使うのは、ドロシーを『ドリー』と呼ぶのはこの世に一人しかいない。さらに言えばその大切なたった一人は、燃え盛る屋敷の中で失われたはずだったのだ。

「どう、して――」
「来てくれたんだな。それでレンアは……姉様はどこだ?」
「え? あ、レンアお姉様でしたら馬でこの地を離れられましたが……」

 戸惑うドロシーに気付いた様子もなく、童女はドロシーの知らない顔で声で気安く話しかけてくる。だからついついドロシーもそれに応えて返事をしてしまう。

(私は、この娘を知らないはずなのに……だって髪色さえ、魔力を持たない黒髪――)

 顔だけではなく姿形もまったく知らない。童女特有の鈴を鳴らすような可愛らしい声にも聞き覚えがないはずだ。
 けれど彼女から発せられる安心感のある雰囲気は、見たことのない顔が形作る見覚えのあるその表情は、たしかにドロシーに良く馴染んだものだった。

「おにい、さま?」

 そんなはずがないと思いながらも呟いたドロシーに、童女は不思議そうな顔をしてから思い出したように頷いた。

「ああ、そうか。今の僕はドリーの良く知る姿じゃないんだったな。話せば長いんだけど、色々あったんだ。ちょっと場所を変えて話そうか」
「は、はい、そうですね」

 未だ現状を呑み込めないドロシーにとって、それはありがたい申し出だ。どこか落ち着ける場所で、ゆっくりと頭の中を整理したかった。

「ああ、それと――」

 頷いたドロシーに童女は一瞬で顔を歪めると、「くしゅんっ」と可愛らしいくしゃみをして自分を抱いた。

「――それと悪いけど、ちょっとその外套を貸してくれないか? 全裸は寒いんだ」