『すぐにお逃げください、お兄様――』

 そんな一文から始まる手紙に、トゥールは思わず手紙を掴む指に力を入れる。

『今日、フィガルが魔法を使ったとの連絡が入りました。これによりお父様は、正式にフィガルをブラバース家の跡取りに決めたようです。近日中にブラバース家の長男(・・)を祝福するパーティーが開かれます』

(……フィガルが魔法を使った――だと?)

 手紙に書いているフィガルとは、トゥールの弟である。
 トゥールが父に拒絶されてこの屋敷に放逐された後に生まれた、五歳になったばかりのブラバース家の次男だ。
 トゥール自身は会ったことすらないが、自分に歳が離れた弟がいることはドロシーからの情報で知っていた。そしてフィガルの髪が、自分と同じように正統後継者の証たる赤色で、魔力を保有していることも知っている。
 だからいずれ、フィガルが魔法を使うこともあるとは思っていたのだ。だが、まさかこれほど早くとは――。

「『天才』だな……」

 奥歯を噛み締めながら、トゥールは怨嗟の声を漏らした。
 自分が欲する物を軽々と手に入れた未だ見ぬ弟に、十五近く歳が離れた兄としては情けないことに嫉妬してしまう。
 
 しかし、今問題にすべきはそこではない。

(……『長男(・・)』を祝福するパーティー?)

 ブラバース家の長男とはトゥールだ。
 だがこの手紙の書き方では、まるでフィガルこそが長男のようではないか。
 疑問を抱きながらドロシーの手紙に書かれた文字を追う。

『お父様はこれからフィガルを後継者にすべく行動を起こすでしょう。お兄様がブラバース家の長男として諍いの種とならないよう、取り除くつもりなのです。私もすぐに駆け付けますが、すでにお父様の手の者はそちらに向かっているはずです。はやくお逃げください。どうぞご無事で』

 いつもは奇麗な字を書くドロシーだが、手紙が進むにつれて書き殴ったようになっていて、最後の方などほとんど読めない。彼女の焦りが手に取るようにわかった。

「そうか。父上はいよいよ……僕を殺すつもりか」

 手紙を読み終わり、トゥールの口から意図せぬ呟きが漏れる。
 フィガルが問題なく魔法を使えることが分かれば、父が彼を後継ぎに選ぶことは予想していた。
 そうなれば、トゥールはいよいよ完全に厄介払いされることも覚悟していた。この屋敷からも追い出されるだろうとは思っていた。
 
 しかし、仮にも血の繋がった息子をあっさりと消しにかかるとは考えてもいなかった。いや――正しく言えば、考えないようにしていたのだ。
 それくらいやりかねないことは、トゥールだって理解している。けれどそれでも、父を信じたい気持ちがあったのだ。見限られた今でも……。

「あと、もう少しなのに……もう少しで僕は、父上が望む息子になれたのに――くそっ!」

 トゥールは声を荒らげ、握りしめた拳を机に叩きつける。
 
 長い月日をかけて勉強した『人体生成』の陣は複雑ながらも完璧に暗記した。今すぐにでも描ける。他に必要な魂を転移させるための魔法の言葉もしっかりと覚えた。
 理論上、転移の魔法は成功さえすれば貧血を起こしたり気を失ったりする心配もない。
 後は新たな身体を生成するための素材さえあれば、トゥールはすぐにでも理想の自分へと生まれ変われる。
 なのに――。
 それなのに、どうしようもなく時間が足りない。

「……とにかく、ドリーが来るまで身を隠そう。ウェルナに伝えないとっ」

 手紙を仕舞い、トゥールは自分の部屋を後にする。
 父が寄越す刺客に備え、一刻も早くウェルナと共に避難しなければいけない。

 ウェルナがいるであろう食堂に近づいた時である。

「――っ?」

 玄関の方から突如として轟音が響き、入口から突き当りの通路の壁へ扉が猛烈な勢いで叩きつけられた。

「な、何事ですか?」

 その音に驚いくようにして食堂からウェルナが駆け込んできたが、トゥールは咄嗟に彼女の前に立ち塞がった。

「ぼ、坊ちゃま?」
「だ、駄目だっ! ウェルナ、奥へっ! 奥に隠れて出てきちゃ駄目だっ!」
「え? あ、はいっ」

 奥へ続く通路を駆けていくウェルナに続きながら、トゥールは気配を感じて素早く振り返る。すると玄関の方からゆったりと歩いてくる人影が見えた。

(――橙色の髪っ! レンア姉様か……)

 ちらりと見えた特徴的な髪色に、強襲者が実の姉であるレンア・ブラバースであることを知る。
 十年近く会っていなかったが、レンアはドロシーとは違いトゥールに対して親愛の情など一切持っていないことは明白だ。
 顔を合わせるたびに自分に向けられたレンアの汚物を見るような目がそれを物語っていた。
 おそらくは父に指示され、何の感慨も抱くことなく不出来な弟の存在を抹消しに来たのだろう。
 思わず足を止めてしまったトゥールに合わせるように、レンアの方も立ち止まった。

「ふん、久しぶりだな。我が愚弟にして一族の恥晒しよ」

 相変わらず意思が強そうな切れ長の瞳をした彼女は、やはりゴミを見るかのような視線をトゥールへと向けてくる。

(くっそ! よりにもよってレンア姉様とはっ! 話を聞いてくれる相手じゃないっ)

 相手によっては計画を打ち明け猶予を貰おうと考えていたトゥールにとって、現れたレンアは想定していた中で最悪と言ってもいい。

「……お久しぶりです、レンア姉様。随分と乱暴な訪問ですが、いったい僕に何の用ですか?」

 ドロシーからの手紙で用件は分かっているが、素直にそれを伝えてしまえば、ブラバース家での彼女の立場が悪くなってしまう。
 じりじりと後退りしながらしらばっくれて問いかけたトゥールへ、レンアはつまらなそうに橙色をした自分の髪を右手で掻き上げた。

「『何の()』だと? 違う違う。もはや貴様は――()済み、なのだ」

 不意にこちらへ向いたレンアの、薬指に指輪をはめた左掌。そこから猛烈な威力の風が放出される。

「ぐぅあっ!」

 その風の直撃を受けて為す術もなく吹き飛ばされたトゥールは、背後の壁へと叩きつけられた。
 なんとか身体を丸め両手で頭部を守ったが、背中を強打し呼吸さえしばらくできなくなってしまう。

「がはっ、あ……」
「ふん、やはり弱いな。こんな脆弱な男が高貴なる赤髪保有者とは――父上の失望も頷けると言うものだ」

 痛みと息苦しさでのたうち回るトゥールに追い打ちをかけることもなく見下ろすレンア。その眼差しは、かつてトゥールを見限った父とそっくりであった。

(――は、はは……やっぱり、親子なんだな)

 トゥールに対しても優しい妹のドロシーは、それほど父に似ているとは思えない。しかし軍の要職に就く父を補佐する長女のレンアは、その血を色濃く受け継いでいるようだ。
 そんな場違いなことを考えて少しだけ気持ちを落ち着かせると、トゥールは身体をふらふら揺らしながらもなんとか立ち上がる。
 そして少しでも寿命を延ばすために、屋敷の奥へと動き出した。