身体強化が施された下肢によるその一歩は、ダンジョンの地面を深く抉ってトゥールの身体を前へ前へと運んでいく。
そうしてすぐに、その光景は現れた。
「――マイカ?」
今まさに、馬鹿でかい熊のような化物に、マイカの身体が小枝のように吹き飛ばされるところだった。
そんな絶望的な光景を前に、トゥールの思考は一瞬止まりかける。が、化物がマイカへさらなる追撃を行おうとするのを見て、胸の内に煮え滾るような怒りが沸々と湧いて出た。
「お前っ! マイカに何をしてやがるっ!」
地面を陥没させる勢いで蹴りつけたトゥールの身体が、まるで瞬間移動したかのようにマイカと熊の化物の間へ割り込んだ。
そして振り下ろされた巨腕による一撃を、抜き放った剣で受け止める。
「ぐぅっ! こ、このぉ――せいっ!」
『グゥゥっ?』
叩きつけられた腕の威力に膝を折ってしまったが、それでも気合を入れ剣でもって跳ね飛ばす。
まさかこんな小柄な少女に力負けするとは思わなかったのか、化物は戸惑ったように飛び退った。
「額にやたら大きな魔石……純魔、いや王純魔か」
対峙する化物を見れば、姿こそ巨大化した熊のように見える。だが、額に埋め込まれた緋色の大きな魔石は、その存在が魔物や単なる動物と一は線を画すモノであると如実に告げていた。
純魔――それも学園側の放送とリンケードの言葉を加味するのであれば、王純魔と呼ばれる災厄に違いない。
『グラァっ!』
咆哮を上げ、剣を構えるトゥールへと猛烈な突進を仕掛ける王純魔。その速度は、ただの人間の視力では到底捉えることはできまい。為す術もなく圧殺されて終いだろう。
ただし、それはトゥールが身体強化を使用していなければ――の話である。
「速いが……僕の方がまだ迅いっ!」
振り下ろされた右腕を難なく躱し、手にした剣で鋭く斬りつける。
『グギっ』
まるで大木に木の棒を叩きつけたような鈍い手応えとともに、王純魔が再びトゥールから距離を取った。その姿を見るに、戸惑ってはいるようだが攻撃が効いた印象はない。
敵の動きが鈍くなったその隙を狙い、今度はこちらから攻めることにした。
「ふっ。せぇやっ!」
一つ息を吐くと、裂帛の気合とともに跳躍にて一瞬で間を詰め、中空から王純魔に向かって剣を振り下ろす。
『ギァっ?』
脳天に直撃した必殺の一撃は、王純魔に悲鳴にも近い呻き声を上げさせた。
「まだまだっ!」
引力によって地面に引き寄せられる最中、それでもトゥールの斬撃は止まらない。
さらに一閃、二閃、三閃と加え、まるで荒れ狂うよう嵐のような連撃を着地までにお見舞いする。
『グググゥっ』
王純魔はロクに抵抗することもできず、その巨腕で身体を守るのがせいぜいだ。剣の威力に身を丸め、吹き飛ばされないように両足で踏ん張り耐えている。
それでも後退を余儀なくされた王純魔は、巨腕の隙間から忌々し気な赤の瞳でトゥールを睨む。
この状況、優勢なのは確実にトゥールだ。
災厄級の存在とされる王純魔を圧倒し、主導権を握っている。
「……これは、不味いな」
しかしそれでも、トゥールの口は意識せずに弱気を紡いだ。
『――ガァァァァァっ!』
トゥールの攻撃が止まったのを見計らい、王純魔が両腕を広げ一瞬で距離を殺して襲い来る。
「はぁっ!」
先ほどよりもずっと速いその接近を落ち着いて躱し、トゥールは王純魔の背後を取って背中から剣で斬り付けた。
『グビャっ』
潰れるような声を上げ、もんどりうってひっくり返った王純魔は、そのまま一回転をしてすぐに立ち上がって構えた。
「くっ、硬い……」
トゥールは歯噛みしつつ、握る剣へわずかに視線を送った。
幾度となく斬り付けてみたが、それでも王純魔に有効なダメージが入っているようには見えない。
(――速さは僕が勝ってる。そして力も。だけどそれだけじゃ、あの化物を倒すことはできない、か……)
王純魔を打倒するために足りないモノ――。
それは、手にした剣が刃毀れだらけになっているのを見れば一目瞭然だ。
「問題は『硬度』だな」
たしかに、身体強化を使用しているため速度や膂力はトゥールが王純魔の上を行っている。だが、トゥールが手にして戦っているのは『魔放剣』でも名剣でも聖剣でもない単なる剣だ。鈍らとは言わないにしろ、とても業物とも言えない。
この剣でいくら攻撃をしたところで、鎧を思わせる王純魔の極厚で頑強な毛皮は越えられない。それどころか、斬り付けたこちらの剣が先に使い物にならなくなってしまう。
(――斬り付けて駄目なら……手は一つ)
トゥールは剣を構え直すと、体勢を低くしたまま王純魔へと駆け寄った。
『ガガガァっ!』
王純魔も左腕を突き出し右腕を振り上げ、まるで迎え撃つような構えを取った。
そして王純魔と激突する寸前、トゥールは剣を水平にして柄尻を自分の身体へ引き寄せ――。
「てやっ!」
そして一気に切っ先を、王純魔の身体目掛けて突き出した。
斬撃が駄目であるならば、剣による攻撃では最大威力を誇る刺突を試すまで。
トゥールの渾身の力が込められた切っ先は、咄嗟に反応して身を伏せた王純魔の『魔石』に激突する。
「なっ――」
その瞬間、突き入れられた剣はまるで飴細工のように湾曲し、『キィーン』と澄んだ音を残し折れ砕けた。後に残ったのは、掌程度の長さになった刀身のみだ。
『グググっ』
一方、自身の魔石に傷一つつかなかったことを誇るように、王純魔が牙を剥き出しにして唸り声をあげた。そして剣が使い物にならなくなって呆然とするトゥールへ、反対に襲い掛かってくる。
「うっ、くっそっ!」
トゥールは持っていた剣の残骸を王純魔へ投げつけ、辛うじて振り下ろされた右の巨腕を躱す。
だが、王純魔の攻撃は止まらない。
鋭い爪でトゥールを引き裂かんとばかりに迫り、また巨腕で圧殺せんと腕を振り回す。
武器を失ってしまったことで、今度はトゥールが防戦一方となってしまった。
(――どうする? 魔法を使うしかないか?)
背後へ大きく跳躍し、一旦距離を取りつつ考える。
武器を失った以上、残された攻撃手段は徒手空拳か魔法のみだ。
徒手空拳――身体強化によって硬化されているとはいえ、剣で傷を付けられなかった王純魔に、拳や蹴りでダメージを与えられるとは思えない。これは却下だ。
なら消去法的に魔法ということになるが、なにせリスクが大きい。
現在、トゥールの魔放具である指輪はリンケードが所持している。
魔放具がなくとも高威力の魔法を放つことはできるはずだが、問題はその後だ。その後、無事に立っていられる保証はない。補助を伴わない魔法の行使には、常に暴発や魔力枯渇の危険性が付き纏う。
仮に王純魔の頑強な毛皮に阻まれ、一撃で倒すことができなかった場合、トゥールは窮地に陥るだろう。自分の命だけではなく、周囲にいるマイカの身も危なくなるのだ。そんな危険は冒せない。
(――くそ、何か手はないのか……)
悩むトゥールに考える時間など与えないとばかりに、再び王純魔が接近し鋭い爪による攻撃を仕掛けてくる。
それをギリギリとのころでいなし、躱しつつ、トゥールは必死に頭を巡らせる。
(マイカの指から魔放具を外して……いやいや、そんな時間はくれそうにない。せめて小さな魔石でも転がっていれば……)
効率はいくらも落ちるが、加工していなくとも魔石があれば魔法はずっと行使しやすくなる。トゥールもそれを知っているため、王純魔の隙を見ながら周囲を探るが見つからない。
そもそも魔石とは貴重な物で、ダンジョンとはいえそう簡単に道端には落ちているはずもない。
だからこそリンケードも、『魔放剣を造る素材は手に入れにくい』と言っていたのだ。本来であれば、魔石は魔力を帯びた鉱山を採掘するか、あるいは純魔の核を取り出すことによってしか手に入れられないのだ。
「――うん? 待てよ……」
トゥールはそこまで思い出し、そして思いついてしまった。
荒唐無稽な、しかしそれでもこの状況を打開し得る悪魔の一手を……。