本日は休業日だ。
 学園での授業は基本的に休みとなり、生徒たちは思い思いに与えられた休みを過ごす。
 友達同士で街へ息抜きに繰り出す者、寮の部屋でひがな一日のんびりと過ごす者。
 学パでダンジョン攻略に乗り出す者や、自主的に鍛錬を積む者たちもいる。とにかく休業日には様々な過ごし方があるのだ。

「うぅ。僕はなんでこんなことを……」
「おい? 何か言ったか?」
「いえ、何も――」

 トゥールも今日は学園に入学して初めての休業日である。本来であれば慣れない環境での疲れを癒すためにゆっくりしたり、学園を見て回ったりしたかった。
 しかし、ありがたいことにトゥールの担任であるリンケードは、休みの日まで指導役を買って出てくれた。
 おかげで他の生徒たちが休業日を謳歌する間に、トゥールはひたすら鞘による素振りを繰り返すことになったわけである。

「……四百九十八、四百九十九、ご、五百――ふぅ、はぁ」
「よし、休んでいいぞ」

 言われた通り鞘による素振り五百を終えたトゥールは、鞘を支えにしてズルズルと地面に倒れ込んだ。
 腕の筋肉が痙攣し、思うように力を制御できない。不必要に力が入ったかと思えば、痛みですぐに抜けてしまう。
 しばらくはまともに動かせないだろう。

「いてて……か、顔が痒いのに、腕が上がらない」

 無様に転がりながら顔を掻こうとするトゥールを見下ろしながら、リンケードが意外にも感心した顔つきとなる。

「ふーむ、なるほど。走り込みの後に素振りを五百回だ。腕の方はもちろんそうなっても仕方ないだろうが、だが存外に体力が付いたな。ほとんど呼吸が治まっている」
「へっ? あ、たしかに……」

 屋外鍛錬場を三周した後はともかくとして、十分体力を使う素振りを千回したにも拘わらず、それほど呼吸は苦しくない。
 昨日や以前までのトゥールであれば、素振りだけでも息を荒らげていたはずだが、早くも慣れてきたのだろうか?

「たまには身体を休めることももちろん大事だ。だが、基礎的なトレーニングは毎日継続してこそ意味がある。走り込みと素振りだけは、たとえ授業や特訓がない日でも毎日続けてもらいたい。それだけは、俺がいなくてもできるだろうからな」
「つまり、今後も休業日であっても、走るのと素振りをするのは続けろってことですか?」
「そうだ」
「鍛錬場を三周と、素振り五百回ですか?」
「いや。体力と筋力がもう少しつけばそれらも増やしていく。なーに、じきに三周や五百では物足りなくなるさ。はっはっはっは!」

(くぅ、他人事だと思って……)

 お気楽に笑うリンケードへ恨みがましい視線を送った後、トゥールは何とか身体を起こして地面に座り直す。しばらく休まないと立ち上がることもできないだろう。
 腰元の巾着には滋養強壮薬が入っている。それを飲めばすぐに立ち上がることもできるだろうし、腕もずっと楽になるはずだ。

(けど、それは最後の手段だな)

 なにせ、この薬は不味すぎる。もっと激しく疲労し、どうしようもなくなった時にしか飲む決心ができない。

「どうやら、しばらくは立てそうにないな。その間、昨日みたいに座学でもするか? といっても、魔法であんたに俺が教えられそうなことはないが……一般教養でもいいぞ」
「はぁ……」

 こちらを見かねたように、リンケードが胡坐を掻きながら提案してくる。
 彼の言うとおり、トゥールは十年前から独学で魔法の勉強をし、実に一万以上の魔導書や禁術書を読破している。
 新たな身体を得てから学園に入学するまでの一か月間、実際にどの程度の魔法が使えるか試したが、ほとんど問題なく行使可能だった。
 つまり現在では使用者が限られる十級以上の魔法は元より、一級の魔法さえも使用可能なのである。トゥールとしても、今さら魔法の勉強が必要とは思えない。

 一般教養に関しても、元々はブラバース家で専属の家庭教師を付けられ教わってきた。算術や地理、経済関連などの知識も備わっている。特には必要もない。

(うーん、特に教えて欲しいこともないんだよなぁ)

「何かないのか? 聞きたいこととか?」

 考えるトゥールに、痺れを切らして問いかけてくるリンケード。そんな彼の姿に何となく、以前した話を思い出す。

「先生。そういえば、僕を弟子にしてくれる時に『あんたも鈍色の夢を見るんだな』と言っていましたよね? 鈍色の夢ってなんですか?」
「……あぁ、聞こえていたのか」

 リンケードはトゥールの問いに少しだけ遠い眼をしてから、仕方なさそうに肩を竦めた。

「大した意味はない。俺も剣を教えてくれた師匠に聞いた話なんだが、とある国のことわざみたいなもんだ」
「ことわざですか? 鈍色の夢が?」
「ああ。通常、剣は銀色だろう? 中には黒色だったり鋼色だったりする物もあるが、やがては使ううちに切れ味が悪くなり使えなくなる。どれだけ大事に丁寧にしていても、いつかは鈍らになってしまう。それが……鈍色だ」
「えっ? つまり剣を鈍らにするのが夢なんですか?」

 意味が分からず首を傾げたトゥールに、リンケードが一瞬目を見開いて、そして一拍の間を空けて大笑いした。

「はっはっはっはっ! そうだな、そう思うよな? はっはっは!」
「せ、先生? ちょっと、笑い過ぎじゃ……」

 腹を抱えて涙まで流して笑うリンケード。一体トゥールの言葉のどこに、そこまで笑う要素があったというのか。
 もしかしてリンケードの笑いのツボは、とんでもなく浅いのでは? トゥールがそう思うのも無理なかった。

「いやぁ、すまんすまん。ははっ。餓鬼だった頃、俺も師匠に同じことを聞いたんだ。ついつい懐かしくて笑ってしまった」
「は、はぁ……」
「それで、だ。鈍らっていうのは、剣が振れなくなるってことの比喩表現だな。ずっと使ってきた剣が、斬れ味が無くなり用をなさなくなるか……あるいは自分自身の身体が限界を迎えて剣を握れなくなるか――つまり限界を迎えるまで剣士であろうとすることを、『鈍色の夢を見る』というらしい」
「……なる、ほど?」

 リンケードなりに丁寧に説明してくれたのだろうが、如何せんトゥールにはあまり理解できなかった。
 リンケードもトゥールの表情からそのことを察したのか、苦笑を浮かべる。そしてごつごつとした掌を、トゥールの頭の上に乗せた。

「あぁ、いいぞ。今はわからなくたっていい。あんたが剣士として生きていれば、いつかその意味がわかるかもな」
「……そうでしょうか?」

 トゥールが剣を握ってまだ数日。たしかに今のままでは、剣を鈍らにするなんてずっと遠い未来のことだろう。
 まだまだ想像もつかないことだった。

「よし、随分と話したな。だいぶ疲れもとれただろうし、特訓の再開といくか?」
「あ、はい」

 リンケードの言うとおり、先ほどよりも身体にしっかり力が入るようになっている。これなら何とか剣の修行を続けられそうだ。
 座っていた姿勢からトゥールとリンケードが立ち上がった――時である。

「――っ?」

 空気を震わすような痛いほどの甲高い音が、唐突にこちらの耳へと飛び込んできた。

『――非常事態発生っ! 非常事態発生! こちらは学園治安局である。職員、ならびに生徒は傾聴せよっ! 非常事態発生! 非常事態発生!』

 そして切迫したような人の声が大音量で響き、トゥールは突然の出来事に身を竦めることしかできなかった。