「うっ……」

 現れた魔物を見て、キィキが怯えたように一歩下がった。

「どうしたんだ?」

 そんなキィキの反応を訝しみ、トゥールは首を傾げる。

 岩陰から出てきたのは、背の低いトゥールのさらに腰元ほどの高さしかない猫のような魔物。
 猫にしては大きいが、魔物にしては小さなコボルトよりもずっと小さい。
 それほど強そうにも見えず、今さらキィキがここまで怯えるような存在には思えなかった。

「こ、こいつは『咬み猫(シ・リャド)』……脅威的にはゴブリンとそれほど変わらないけど――私が魔物恐怖症になった原因だ」
「『咬み猫』? そうか、こいつが君の――」

 たしかに、キィキは魔物に『咬まれた』と言っていた。
 石斧や棍棒を武器として使うコボルトやゴブリンが相手なら、普通はそんな攻撃をしてこないだろう。
 おそらく『咬み猫』の得意な攻撃は、名前の通りに咬むこと。キィキはその攻撃を受けてしまったのだ。

(……さすがに恐怖症の原因となった魔物と戦うには早いか?)
 
「キィキ、下がっていてくれ。こいつは僕が倒そう」
「――いや、大丈夫だ」

 気を遣って前に出ようとしたトゥールに対し、逆にキィキが前面に出る。
 そして杖を構えると、無理やりな笑みを見せてきた。

「私は今日、こいつを一人で倒して過去と決別する。本当の自信を取り戻す。だから君は、そこで何もせずに見ていてくれ」
「……わかった。だけど危なくなったら邪魔するから、僕に邪魔をさせないでくれ」
「ふっ――言ってくれる」

 トゥールが刺した釘によって肩の力が抜けたようだ。
 キィキの笑みが一瞬だけ自然な物に変わり、すぐに集中するように前を向いた。

「この前の借りは返す――いくぞっ!」
『ビャァっ!』

 キィキの声に反応するように、『咬み猫』は身体をしなやかに動かし駆け寄って来る。
 その早さはコボルトの比ではない。近づくごとに加速しているようだ。

「ふぅっ……『揺蕩い漂う形なき水よ、我に仇なす敵を討て――第十三等級魔法:|水球《デル・フロード)』っ!」

 キィキの杖から生みだされた水の塊が、迫る『咬み猫』へと勢いよく向かう。当たればコボルト程度なら簡単に倒せる魔法だ。当然、『咬み猫』だって当たればただではすむまい。
――だが、当たらない。
 『咬み猫』はそれをあっさりと回避してみせ、ダンジョンの床に水が弾けた。
 
『ビィアアっ!」

 そして舞い上がる飛沫を背に置いて、『咬み猫』の走りは加速する。
 魔法を放ち終え、無防備となったキィキの傍まであっと言う間に迫り――。

「『閉ざし、防ぎ、その身を保て――第十二等級魔法:|氷壁《ディルア・アルソン』っ!」
『ビァガっ?』

 流れるように素早く短縮詠唱を完了させたキィキが、太い氷の壁を生み出した。
 間一髪で形成された小さな範囲の氷壁へ、キィキに飛び掛かろうとした『咬み猫』が顔から突っ込んでしまう。
 これにはたまらず潰れたような声を出し、『咬み猫』が無様にひっくり返る。

 無論、その好機をキィキが逃すはずもなかった。

「『光り、轟き、脅威を(つんざ)け――第十三等級魔法:瞬雷(ゾル・ラムン)』っ!」
『ビャァァァっ……』

 杖から放たれた閃光は『咬み猫』に突き刺さり、その喉から絶叫を上げさせる。
 そして周囲に焦げ臭さを撒き散らし、ついに『咬み猫』は絶命した。

「……た、倒したのか? こんなにあっさり……」

『咬み猫』が死んだことを充分にたしかめ、それでも信じられないと言わんばかりにキィキが呟いた。

「おめでとう。君はたしかに、君だけの力で君の恐怖を克服したんだ。誇っていいと思う」

 キィキが戦っている姿を見守ることしかできなかったトゥールは、ここでようやく口を開いて彼女に近寄った。

「トゥール――ありがとう。私は、君のおかげで……ありがとうっ!」
「うおっ? な、なにをっ」

 感極まったようなキィキに抱きしめられ、トゥールは思わず身を仰け反った。
 身体強化をしているので圧されたわけではない。ただ異性(・・)に突然くっつかれて恥ずかしかったのだ。

「ぼ、僕は別に大したことしてないし、大袈裟だってっ!」
「…………」
「ちょっと、キィキ? 聞いているのか――っ?」

 無理に引き剥がすわけにもいかず、両手のやり場に困りながら抱き着くキィキを窺えば、彼女は静かに泣いていた。

 ギュッと強く閉じられた眼から、頬に涙が幾重にも伝っている。
 そのたくさんの涙には、彼女が一人で抱えてきた苦労や悔しさが込められている気がした。
 そしてそれだけの涙を流しながら、一声さえ上げないキィキの強情さが実に彼女らしかった。

「……やれやれ」

 掛ける言葉も気の利いた言葉も見つからず、そんなその場しのぎを呟くことしかできない自分がもどかしい。
 せめてキィキに抱き着いていても大丈夫だと伝えるために、彷徨っていた両手を彼女の背に軽く回した。

 傍目から見れば、自分よりも年上でずっと背の高い少女から縋りつくように抱きしめられているのだ。きっと奇妙な光景だろう。
 きっと様子を窺っているマイカだって、不思議に思っているに違いない。
 いつ魔物が出るとも知れないのだ。転移陣も近いのであれば、さっさと迷宮を出ておくべきだ。
 そんな考えがつらつらと駆け巡ったが、トゥールはしばらくそのままでいることにした。

 キィキを抱き締めながら、ダンジョンの上部に視線を彷徨わせ、
「……やれやれ」

 馬鹿みたいにその言葉を繰り返し、ただ時間が過ぎるのを待った。