キィキによる驚きの告白を受けたトゥールは、難しい顔でしばらく固まってしまった。

(魔物恐怖症――。実際にあるんだな)

 そもそも人間であるならば、「魔物なんて怖くない」と豪語できる者の方が少ないだろう。多かれ少なかれ、誰だって魔物に対して恐怖心を抱いて然るべきなのだ。

 その中でも先天的、あるいは後天的に魔物に対して酷く怯えを見せる者たちがいる。そうした者たちが、俗に『魔物恐怖症』と呼ばれているらしい。

 どれだけ弱い魔物であっても彼らには脅威に感じ、過度に怯えてしまうのである。
 まさに弱いと知られるコボルトが現れたことで挙動不審となってしまった、キィキのように――。

「……いつからだ? 生まれつきか?」
「い、いや。私が恐怖症になったのはこの学園に入学してからだ。初めて初級ダンジョンに挑戦した時、魔物に腕を咬みつかれた。それ以来、魔物が怖くて仕方ないんだ……情けないだろ? 本当は魔物がいると分かっているこのダンジョンに入ることさえ、身体が拒否をしていたんだ」
「――なるほどな。だからあんなに震えて怯えていたのか」
「うっ。そ、そうだよ……」

 己を恥じて俯くキィキに掛ける言葉が見つからず、トゥールはただダンジョンの上部を見上げた。

(引き返すべき……だろうな)

 単純に、キィキが一人でダンジョンをクリアする実力がないのであれば良かった。そうであれば助太刀して、踏破させてやろうと思っていたのだ。
 そうすれば、キィキに対する周囲の眼も変わるだろうし、キィキも「教師に一泡吹かせられた」と喜んだだろう。

 だが彼女が魔物恐怖症であるならば、無理にダンジョン内を連れ回すのは酷なことかもしれない。場合によってはいっそう恐怖感を強めてしまう可能性もあるのだ。

「なぁ、キィキ――」
「引き返す、なんて言わないでくれよ?」
「――っ」

 まさしくそう言おうとしていたトゥールは、震える声に遮られて言葉を呑み込んだ。
 キィキを見れば、その瞳には強い決意が満ちている。

「引き返したければ君一人で戻ってくれ。私は進む。ここで進むことを止めてしまえば、私はきっと一生前には進めない」
「キィキ……」

 そんなキィキの瞳を見て、トゥールは改めて理解する。

 すでにキィキなりに色々と考えてここまで来たのだろう。
 きっかけは教師による心無い一言だったのかもしれない。けれど積み重ねてきた劣等感があったからこそ、その一言でここまで追い込まれてしまったのだ。
 冒険者になるのであれば、魔物との遭遇や戦闘は避けて通れない。
 つまり本気で冒険者になりたいのであれば、遅かれ早かれどこかで恐怖症を克服しなければいけないのだ。
 キィキはそれが今日であると確信しているのかもしれなかった。

「……わかった。君に付き合うよ」

 少し考え、トゥールは真っ直ぐにこちらを見つめてくるキィキの眼を真っ直ぐに見返して頷いた。
 前進と撤退。どちらが正解であるかなんてわからない。
 ならばキィキが望んでいる選択をすることこそが、この場でできる最善であると思えたのだ。

「本当か? ありがとう。でも……」
「うん? なんだ?」
「いや、どうしてそこまでしてくれるんだい? トゥールと私は、今日が初めて会ったのに」

 不思議そうな顔で首を傾げたキィキに、言われたトゥールも首を傾げて悩んでみる。言われてみれば何故だろうか?

 思い当たるのは、以前の自分と似た境遇にある彼女へ少なからず同情心が芽生えたこと。あるいは多少なりとも縁を持ってしまったことなどいくつかある。
 しかし、どれもしっくりとこない。

「……うーん。良く分からないけど、君はマイカの友だちみたいだから。君の手助けをするのに、それ以上の理由は必要ないかな」

 ようやく思い至った答えは、我ながら奇妙な回答となってしまった。だがその答えこそが、何故か一番しっくりときたのである。

「えっ? たったそれだけの理由? へぇー、君はそんなにマイカと仲が良いのか」
「寮で同じ部屋だしね。これから仲良くしていきたいし、これくらいなら大した労力でもないから。それよりも歩きながら戦い方の話をしよう」

 これ以上この話を続けると余計なことを言ってしまいそうな気がしたため、無難に切り上げ話題を変える。
 歩き出したトゥールに、キィキが周囲を警戒しながらついてくる。

「戦い方と言っても、基本的にさっきと同じ方法で良いと思うんだけど。魔物が現れたら、僕が突っ込んで陽動をする。そうやって相手を惹きつけるから、その間に詠唱して魔法を放って欲しい」

 剣士と魔法使いが組んだ場合に、それが自然な戦法となるだろう。
 一般的に、剣士よりも魔法使いの方が攻撃力に優れている。しかし魔法使いは詠唱に時間がかかり、なおかつ膨大な集中力が必要となる。
 魔物の気を惹き魔法使いが詠唱に専念できてこそ、ずっと戦いやすくなるものだ。

「わ、わかった。けど、大丈夫か? 私が怪我をした時も同じような作戦だったが、魔物が陽動役の隙を突いてこっちまで来たんだ。それで咬まれたんだぞ」

 言いながらその時のことを思い出したのか、キィキの顔が蒼白となった。再び恐怖心が強くなってきたのかもしれない。

(……あまり良くない兆候だな)

 トゥールはマイカの両手を自分の両掌で包み込むと、真っ直ぐに見つめて大きく頷いた。

「……安心して欲しい、キィキ。僕が必ず君を守るから」

 本来ならそんなことは確約できない。
 相手が生き物である以上、常に想定外のことは起こり得るものだ。初級とはいえここはダンジョンなのだ。何が起こってもおかしくはない。
 トゥールだってそんなことは分かり切っている。

 だが、今必要なのは事実をありのまま伝えることではない。気休めであると自覚しながらも、怯える少女を勇気づける言葉だ。
 
「トゥール……」

 トゥールの言葉を受け、キィキも目を見開いてジッと見つめてくる。なんだか恥ずかしくなって手を離し、視線を逸らした。

「……ほら、もう行こう。今日で絶対に魔物恐怖症を克服するんだから」
「う、うん……」

 ダンジョンにそぐわない、ちょっと妙な空気を漂わせながら二人は奥へと歩を進めた。