「嘘だろう……」

 鍛錬場で這いつくばるトゥールを見下ろし、リンケードは唖然としたような声を出した。

「はぁ、はぁ、はぁ……ふぅ、ふぅ」
「たった二周でこの様かよっ! あんた、どんだけ体力ないんだ?」
「す、すみません。はぁ、はぁ。実はあんまり、走ったことがなくて」
「だからって……いや、そうか。考えてみればまだ十二歳だもんな。鍛えてない子どもの体力なんてこんなもんなのかな?」

 しきりに首を捻って不思議そうな顔をしていたリンケードだが、やがて諦めたように「まぁいいか」と呟いた。

「じゃあトゥール、鞘から剣を抜け」
「いいんですか?」

 呼吸を整えて立ち上がったトゥールは、リンケードのその指示に首を傾げる。
 先ほどのやりとりから、しばらく剣は使わないものと思っていたのだ。

「いいから剣を抜け。剣を抜いたら、その地面に転がしておけ」 
「えっ? 剣を地面に置くんですか」
「ああ。そして腰から鞘をとれ。今から鞘による素振りだ。五百回やれ」
「ご、五百回……」

 もちろん、剣本体よりも鞘の方がいくらも軽い。しかし、だからといって気軽に「五百回振れ」と言われてもキツイことには変わりない。トゥールは唾を呑み込み覚悟を決める。

「ふぅ……はぁっ!」

 腰元から取った鞘を上段から振り下ろし、残身。そして再び上段へと構えて振り下ろす。それを何度も何度も繰り返す。

「いいか? 時間がかかってもいい、不格好でもいい。なんなら途中で休んでもいい。とにかく、今日中に五百回は素振りをしろ。今日の俺の授業はそれまでだ。その後は好きなように過ごせ。また明日から負荷を強めていくからな」
「はぁ、はぁ、はいっ!」
「それじゃあ俺は雑用に戻るから、後は頑張れよ」
「は、はいっ! ありがとう、ございましたっ、はぁ、はぁ……」

 息を切らしながら礼を言うトゥールに後ろ手で手を振り、リンケードは振り返ることなく去って行った。
 このまま途中でやめて帰ることも、身体強化をして楽をすることもできたが、放置されたのは信頼されているからだろう。それを裏切るわけにはいかない。
 そもそも自分のための鍛錬だ。これで少しずつでも強くなれるのであれば、どれだけ辛くても最後までやり抜くべきである。

「ぬ、ぬぁ、ぬあぁぁぁっ!」

 腕に極度の疲労を覚えながらも、トゥールは最後まで休むことなく素振りを続けた。
 そして五百回振り終えるのと同時、力尽きて地べたに身体を投げ出す。

「はぁ、はぁはぁ……やったぁ。五百っ、回、できたーっ」

 もはや腕すら上げる力も残っていない。
 しかし、トゥールの全身を心地よさが駆け巡っていた。これまでの人生で初めて感じるような、充実した疲労である。
 汗だくになりながら振っていたのは軽い鞘ではあるが、なんだか魔剣士に近づいた気がした。

「……よし。しんどいけど、この調子で頑張ろう」

 そう呟いてしばらく仰向けになって流れゆく雲を見ていたが、いつまでもこうしてはいられない。
 少しだけ疲労がとれると立ち上がり、衣服に着いた草や土を払う。
 そして剣と鞘を腰元に戻し、トゥールは寮へ向かって歩き出した――が、
「あ、そうだ」

 思い出したことがあり立ち止まる。

(――そういえば、さっき探索した時に硬葉草(こうようそう)が自生していたな。赤茎(せきけい)の花と火蜜蜂(かみつばち)の火蜜があれば()ができたはず……)

 トゥールは少し寄り道して、校舎の傍に生えていた雑草を採取してから寮へと戻った。そして部屋へ行くと、当然だがマイカはいなかった。
 昼前のこの時間であれば、授業に出ている頃だろう。
 
「おばさん。この近くに赤茎の花と火蜜蜂の巣がある場所を知りませんか?」

 部屋で汗を掻いた衣服を着替えると、トゥールは食堂へ行き今朝の職員へと声を掛ける。

「『赤茎の花』? 花ならたしか初級ダンジョンの入口付近で生えていたけど……火蜜蜂の巣は知らないね。どうするんだい?」
「いえ、ちょっと花の根と火蜜が欲しくて」
「ああ、火蜜ならあるよ。持って行くかい?」
「本当ですか? ありがとうございますっ! おいくらですか?」

(おお、聞いてみるものだな)

 職員は親切にも瓶ごと渡してくれたので、トゥールはお金を入れた巾着を取り出す。

「ああ、お金はいいよ。食堂の料理や調味料なんかは、あんたたちの学費から出されてるんだから」
「そういうわけにはいきません。他の人が貰ってないのに、僕だけ貰うからには代金を支払わないと。受け取ってください」
「そうかい? やれやれ、頑固な娘だねぇ。小さいのにしっかりしてるよ」

 トゥールから半ば押し付けられるようにお金を受け取り、職員は仕方なさそうに頬に手を当てた。

「けどね、火蜜なんて何に使うんだい? 言っておくけど、それは普通の蜂蜜と違ってそのまま食べても甘くもないし美味しくもないよ? 食材を炒める時に油代わりに使われる物なんだから」
「ええ、分かってます。ああ、ついでに初級ダンジョンの場所も教えていただいていいですか?」
「ああ、赤茎の花か……あれの茎だってそのまま齧れば眩暈や幻覚を引き起こす毒になるんだよ? いったい何をしようっていうんだい?」
「あーその……ちょっと魔法薬の授業の予習になればと思って」

 少し探るような眼差しを向けられ、トゥールは咄嗟にそう答えた。

 剣士科であるトゥールに魔法薬の授業を受ける予定はないが、未来のことなど正確には分からない。もしかしたらこれから受ける機会があるかもしれないので、厳密には嘘をついたわけではない――ちょっと誤魔化しただけである。

「そうかい、勉強熱心だね。いいよ、教えようじゃないか」

 ダンジョンの場所も教えてもらうと職員に礼を言い、トゥールは火蜜の入った瓶を部屋に置いてから再び寮を出た。

 さっそく赤茎の花を採取するのである。