だだっ広い一室を完全に埋めるかのように並べられたいくつもの本棚。そのどれもの全ての段に、分厚い本が押し込められるように収められていた。

 その中の一つの棚へ、抜き取っていた彼らの仲間を目一杯の力で差し込んだ。

「よいしょ、っと。何とか入ったか。本を取り出すのも仕舞うのも一苦労だ」

 本を直す際に少し痛めてしまった手首を擦りながら赤髪の男は呟いた。
 そうして顰められた顔で部屋中の本棚を眺め回した後、不意に相好を崩す。

「――これで全部読み終わったのか。約一万二千冊……まっ、それなりに時間はかかって当然だな」

 近くの棚に並べられた書物の背表紙を撫でながら、達成感の籠った声を漏らした。

 赤髪の彼の名はトゥール・ブラバース。今年で二十になるブラバース家の長男である。
 ブラバース家は代々魔法に秀でた一族ということもあり、この部屋の本棚に並べられているのはすべて魔術書や魔導書、そして今では封じられた禁術書の類だ。
 
 トゥールは約十年の歳月をかけて、この部屋にある一万二千冊以上からなる魔法関連の書物を全て読破した。棚に先ほど戻したのが、その最後の一冊だったのだ。

「この屋敷に来てもう十年か。十年間で一万二千冊――一日三冊以上は読んでるけど、これは早い方なのか?」

 首を捻って一人呟くトゥールに応える者はいないが、本来であればそれはありえないペースと言えた。
 そもそもこの屋敷に所蔵された書は、ほとんどが何らかの法則や暗号、古語などといった通常では読むことのできない形式となっている。魔法の知識があるからといって、誰しもが容易に読める類いの本ではない。それどころか多くがその一生を終えるまでに百冊眼を通せればいい方だ。
 (いわん)やわずか十年で一万二千冊の中身を完全に理解し知識として習得するなど、ブラバース家はおろかこの国の歴史を遡っても存在しない。それ故、これらの本はこんな辺境の屋敷で埃を被って眠っていたのだ。
 
『魔法使い(・・)』としては落ちこぼれであるにしても、トゥールは紛うことなき魔法の天才と呼べるだろう。

(さて、目標だった知識は十二分に得た。後は計画(・・)を実行に移すだけだが……)

 トゥールが顎に軽く握った拳を当てて思案していると、
 
「あっ! 坊ちゃま、やっぱりここにいたっ!」

 背後から元気な声が響き、パタパタと駆け寄ってくる足音がする。

「ああ、ウェルナか。どうしたんだ?」
「『どうしたんだ?』じゃないですよっ! 朝食の時間になっても来ないから心配になって探してたんじゃないですかっ!」

 少しだけ息を切らせた黒髪の侍女姿。レラの娘でありトゥールの世話をしてくれているウェルナだ。
 ウェルナは二十三には見えない小柄で童顔な容姿をしている。そのためトゥールより三歳年上だが、ついつい年下の様に接してしまう。

「悪かった、ウェルナ。実は今朝、この書庫にある最後の一冊を読み終えたんだ。それを早く返しておきたくてね」
「えぇっ! 本当にこの部屋にあるすべての本を読んだんですかっ? す、すごい……」

 書庫内を見渡して目を丸くするウェルナの様子に、トゥールは内心で踏ん反り返りながら笑みを作る。

「大したことじゃない。なにせ十年もかかったんだから」
「すごいですよっ! 私なんて十年あっても一冊だって読めませんっ! 魔法の才能が少しだけある私の妹にだって、たぶん無理です。さすがは坊ちゃまですねっ――あっ」

 我が事のように喜んでいたウェルナだが、そこで何かを思い出したように口元に掌を当てた。

「うん? どうしたんだ?」
「い、いえ……あの、坊ちゃま。たしか全ての本を読んだら私に『ご褒美が欲しい』って言っていましたよね?」
「……ああ。そうだ、そうだ。言った、言った。随分前のことなのによく覚えていたな」

 軽く首肯すれば、ウェルナは恥ずかしがるように頬を赤くさせる。
 そして少し上擦ったような声でトゥールを見上げた。

「あの、その時に『ウェルナにしか頼めないご褒美だ』って言ってたじゃないですか。それってもしかして……」
「なんだ? 見当がついてるのか。話が早くて助かる」

 トゥールはウェルナのそんな反応に違和感を覚えながらも、今もっとも必要とするモノをウェルナにお願いした。

「ウェルナ。悪いがどうにかして成人男性二人分の新鮮な遺体(・・)を用意してくれ」
「……はい?」

 先程まで真っ赤だったウェルナの顔から一瞬にして血の気が引いた。

「あの、坊ちゃま……ご褒美って――」
「だから成人した男の遺体を二つ欲しいんだ。見当がついてたんじゃないのか?」
「――つ――っつくわけないでしょっ! ひどいっ! 乙女の純情を弄んだんですねっ!」
「えっ、あっ? な、何の話だ?」 
 
 強い剣幕と早口で迫ってくるウェルナから距離を取り、トゥールは困惑して首を傾げる。
 たしかにご褒美とするには奇妙な物だが、トゥールはこの屋敷からほとんど出たことがない。当然、新鮮な遺体を手にいれる当てもなく、普段から他者と関わるウェルナにしか頼めないことだ。
 間違ったことは一つも言っていないはずだが、ウェルナはすっかり機嫌を損ねてしまったようだ。

「死体なんて無理ですっ! それも新鮮な死体を二つですって? そんな都合よく手にはいるはずないでしょっ!」
「そうなのか? だけど炭鉱事故や流行り病なんかで――」
「この周囲には炭鉱なんてありませんし病も流行っていませんっ! だいたい軽々しく縁起でもないこと言わないでくださいっ! 坊ちゃまのバカバカバカっ!」
「わ、悪かったよ……」

 どうやらよほど腹に据えかねたらしい。こうなってしまうとしばらく彼女の怒りは収まらない。

「馬鹿なこと言ってないで、早く朝食を食べに来てくださいよ。まったくもうっ! 坊ちゃまは坊ちゃまなんだからっ」

 荒々しく侍女服を翻して書庫から出て行くウェルナ。
 そんな彼女を苦笑を浮かべて見送り、トゥールは近くの棚に収められていた一冊の本を手に取った。
 手にしたのは何の変哲もない古びた魔術書のようだった。実際にトゥールがページをぺらぺらと(めく)ってみても、書かれた内容は初心者向けの基本的なものである。

「ふぅ……『――姿を現せ(ベーズ・アールム)』」

 しかしトゥールが『古代魔語』と呼ばれる特殊な言語を呟けば、一瞬にして本の表紙や背表紙が変化し、それどころかインクで記されていた内容まで書き変わる。
 それは巧妙にただの魔術書に見せかけていた禁術書であったのだ。魔力を使う仕掛けではないが、一般人はもとより並みの魔法使いでも気付くまい。

「えーと『人体生成』のページは……ああ、ここだ」

 改めて書き変わった本を捲り、お目当てのページへと辿り着く。
 そしてそこに記載されている内容を確認する。

「――やはり理想の大きさの身体を生成するには、どうしても二人分の遺体が必要だな。それも『死後数刻以内が望ましい――』か。ちょっと、いや、かなり難易度が高いな」

 額に手を宛がって思わず唸る。
 方法は分かっている。やるべきことも分かっている。
 だが必要な材料を手に入れるのは、なかなかに骨が折れそうだ。

「仕方ない、ドリーを頼ってみるか。少し時間はかかるがこれまで十年も待ったんだ。もう少しくらい待つとも」

 ウェルナに素気無く断られた以上、もはやトゥールに頼れるのは一人しかいなかった。だがその心当たりに彼から連絡する手段はない。もどかしいが相手からの連絡を待つ必要があった。
 それでもトゥールは目的を果たすため、逸る心を押さえつける。

(もうすぐだ。丈夫な身体が手に入って立派な魔法使いになれば、父上はきっと僕を必要とするはずだ。またブラバース家の一員だと――息子だと認めてくれるはず……)

 今日までそのために準備してきたのだ。
 捨てられても見放されてもトゥールは父の元へと戻りたかった。とっくに成人を迎え二十になった身でどうかとも思うが、それ以外にどうすればいいか分からなかったのだ。
 
 決意を新たに強くしたトゥールは、

「――坊ちゃまっ! 早くーっ!」

 屋敷中に響きそうなウェルナの声に急かされて、肩を竦め彼女の元へと向かった。