なにこれ。
ベッドに寝転びながらスマホで動画サイトを見ていると、一つのバナー広告をみつけた。
「いままでどこにもなかったSNS『RE:SO』スタート‼」
どうやらRE:SOと書いて「リソウ」と読むらしい。とてもSNSとは思えない変わった名前だなあ。興味を惹かれた雪野は広告をクリックした。
するとRE:SOのリリース記事にサイトが飛んだ。
「RE:SOは。理想のあなたを演じるSNSです。理想のあなたが、理想の世界で、理想の交流を持ちましょう」
記事にはそう書かれていた。なるほどこのSNSは登録者全員が理想の自分を演じて交流するのか。投稿も事実である必要はない。登録者とのやり取りも含めてすべて理想の自分を演じるのがルールらしい。たしかにいままでなかったタイプのSNSかもしれない。
雪野のスタンスとして、SNSはもっぱら見る側だった。いくつか登録はしているけど自分から何か発信することはない。だってああいうのはキラキラしている人がするものでしょ、と雪野は思っている。
おしゃれな服を買った。人気のデートスポットに行った。美味しいものを食べた。それから、ルックスに自信のある子はことあるごとに自撮りを投稿する。
基本、SNSって自慢が多いと雪野は感じている。だけど、自分には人に自慢できる様なキラキラした日常も、愛らしい容姿も持ち合わせていない。
それでも、投稿したい気持ちはある。もしも、なにかしら自分から発信して、誰かから「いいね」をもらえたら嬉しいだろうなとは思う。でも、「いいね」をもらえるような投稿が出来ない雪野は、見るだけというスタンスをとっていた。
でも、RE:SOならこんな自分でも発信する側になれるかもしれない。実際の自分とはかけ離れた投稿をしても誰からも責められない。責められるどころかそれがこのSNSでのルールなのだ。普段は地味で何の取り柄もない自分だけど、SNSの中でくらいはキラキラしたい。想像しただけで胸が高鳴った。
雪野は気持ちの高ぶりのままにRE:SOのURLをクリックした。
※
「おはよう」が飛び交う教室で、雪野は誰とも目が合わないように小さくなっていた。
高校生活二年目、この学校はクラス替えがないからこのクラスメイトとの付き合いも二年目だ。付き合いと言っても雪野はこの学校に入ってからほとんど誰とも口をきいていない。雪野以外はだいたいグループができあがっていて、無所属は雪野だけかもしれない。
ときどき、自分の名前が聞こえたかと思えば、ほぼ悪口だ。
「暗い」とか「キモイ」とかだいたいそんな感じだ。そういう風に陰口を叩いてくるのは、たいして目立たない男子のグループだ。自分より劣っている人間をみつけて喜んでいるのだと思う。同じクラスでも、一軍ははなから雪野のことを意識していない。
「おはよ」
武井美香がバックを肩にかけながらクールに教室に入ってきた。美香が教室に入ってくると、緊張感が生まれると同時に場の雰囲気が華やかになる。
このクラスの一軍といえば、なんといっても武井美香のグループだ。みんな派手な化粧し、制服も着崩している。校則違反だし、いつも騒がしくしているのに、担任の先生からも憎めない存在として可愛がられている。これだから若い男の担任は困ったものだと雪野は思っている。担任から可愛がられていることと、全体的に可愛い子が多いから、女子だけではなく男子たちも一目置かれて、クラス中がこのグループのご機嫌を伺っている。そんな勢力図だ。
自分みたいなタイプからすると目障りなグループだけど、リーダー格の武井美香のことは気になる。グループの中でも長身で美人。長い黒髪をかき上げる仕草はまさにクールビューティー。いますぐにでもモデルになれそうだ。サバサバしている性格で女子からもかっこいいと言われている。
基本、雪野はアニメのキャラクターや芸能人にしても可愛いタイプが好きだ。それでも美香の魅力は十分にわかる。
チャイムがなると同時に、担任の平林先生が教室に入ってくる、
名簿番号順に名前を呼び終えると、
「えーっ、今年のクラスマッチは野球に決まりました」
平林先生が言うと、
「よっしっ」
と雪野の前の席に座る野球部の倉島雄太がガッツポーズをした。野球部からすると、自分の活躍を女子たちに見てもらえるチャンスだと思っているのだろう。でも、雄太のことは中学の同級生だから知っているけど、たしか万年補欠だったはず。いいいところを見せることなんてできるのだろうか。雄太の無駄にキレイな丸い坊主頭を見ながら思った。
雄太の「よしっ」にかまわずに平林先生がクラスマッチの説明をしていると、ガラガラと教室の後ろのドアが開いた。
クラス全員の視線が一点に集まる。入ってきたのは、牧野大志だった。
「遅刻しました」
大志はボソッと言うと、ポケットに手を突っ込んだまま、自分の席まで歩き、ドスンと腰を下ろした。
いつも思うけど態度が悪い。
大志はガタイが良い上に目つきも鋭いからみんなから恐れられている。いつもつまらなさそうに教室の一番後ろの席に一人でいるのだが、殺気と言うか、人を寄せ付けないオーラを醸し出している。
そういえば、このクラスで孤立しているのが自分だけじゃなかった。大志もだ。でも、多分人の印象としては、雪野は「ぼっち」だけど、大志は一匹狼だと思われていそうだ。
そう考えると、大志とは全然違う。大志は好き好んで一人でいるように見えた。
休み時間になると、すぐさまスマホを開く。
こんな最悪な学校生活を送っている雪野でも、RE:SOの中では「リイナ」という名前で充実したSNSライフを過ごしている。
買った小物や、洋服、遊びに行った映えスポットを投稿し、いいねをたくさんもらっている。だけど、投稿はすべて嘘。実際には可愛い洋服も買っていないし、映えスポットにも行っていない。これらはフリー画像を編集して使っている。
そもそもアイコンからして自分とは別人だ。RE:SOはアイコンなどのフリー素材が充実していて、無数の画像の中から選べる。
雪野は理想の自分として、ツインテールにぱっちりとした目、そしてフリフリなワンピースを着ている。アイドルみたいに可愛い女子の画像をアイコンにした。
これが雪野の理想の容姿だった。当然のことながら他の利用者のアイコンも美女やイケメンばかりで、見ているだけで目の保養になっている。それに、外見だけではなく、理想の自分を演じるSNSだけあってみんなマナーがいい。他のSNSみたいに罵詈雑言を吐いて誹謗中傷するような利用者はほぼみつからない。
実際の世界では、容姿に優劣がつくし、良い人もいれば悪い人もいる。成績の良い人もいれば悪い人もいる。だけど、ここではみんなが美しい。本当に美しい世界だと雪野は思った。
でも、とふと思う。アイコンや投稿はあくまで利用者の理想の姿だ。つまり、若くてイケメンのアイコンにしている人も実はおじさんかもしれないし、サイト上ですごく優しい人も本当は極悪人かもしれない。仮にそうだとしても、雪野はこの美しい世界を気に入っていた。
気に入っている理由として大きいのは、仲の良い友達ができたことだろう。その中でも、ピンキーとはDMでもやり取りしているけど本当に気が合う。お互い可愛いものが好きで、キャラクターグッズや、可愛い服、オシャレなスイーツなどの情報交換をしている。さらにアイコンの髪型も同じツインテール。
自分の身近には好きなものの話をできる人はいない。雪野はリイナとしてピンキーとの交流が心の支えになっていた。
いつもは明るい話題しかしないけど、あるときピンキーが悩みを打ち明けてくれた。
「私さあ、本当は可愛いものが好きだし、人からも可愛いと思われたい。だけどそういう自分を学校では出せない。本当はツインテールで学校に通いたい」
このピンキーのDMを受け取ったとき、純粋に嬉しかった。自分には悩みを相談してくれるような友達はいない。会ったことはないけど本当の友達みたいだ。
ここは理想を演じるSNSだから、こういう本音のやり取りはルール違反かもしれない。その背徳感がお互いを盛り上げているのかもしれない。
ピンキーが心を許してくれるから雪野もピンキーには本心を打ち明けた。
「実は、わたしもそうなんだ。なりたい自分と現実の自分が違いすぎて苦しい。わたしも本当は可愛い格好で過ごしたい」
ピンキーが実際の雪野を見たらどう思うだろう。RE:SOのリイナとは別人過ぎてひいてしまうと思う。そんなことを思っているとピンキーから返信がきた。
「お互い、素の自分を出せるようになりたいね」
雪野はその言葉が嬉しくて、しばらく胸がいっぱいで動けなくなった。そんな温かい言葉をかけてくれる人は雪野の近くにはいない。
胸がいっぱいだった。そして、しばらくしてからその返信に大好きなウサギのキャラクターが踊るスタンプで返した。そしてもう一度ピンキーからのDMを見返した。
現実の世界は理想とは程遠い。
日常の学校生活も苦痛だけど、行事ごとはもっと苦痛だ。
特に、スポーツクラスマッチが雪野は死ぬほど嫌いだ。特に野球なんてとんでもない。
昔から運動神経が悪かった。何をやっても様にならないから、男子だけじゃなくて女子からも馬鹿にされてきた。野球なんてほとんどやったことないし、できるはずがない。
「野球とか、だるー」
と一軍たちもジャージ姿で嘆いている。
「よしっ、やるか」
張り切っているのはクラスで唯一の野球部員の雄太だけ。バットを持っているわけではないのにエアで素振りを始めた。中学から知っているけど、休み時間でもエアでボールを投げたり、バットを振ったりとかなりの野球バカだ。それなのに万年補欠。報われないのがかわいそうすぎる。
そういえば、ここ最近RE:SOのタイムラインで山男という野球部員の投稿が目立つ。もともとスポーツに興味がないから本来なら興味を引かないけれど、目にも止まった理由がある。なぜなら、山男がアップしている野球の写真が、どうみても、雪野が通う学校の野球部の練習風景だからだ。
だけど、内容は嘘ばかり。山男の投稿には、「甲子園を目指してがんばるぞ」とか、「今日はカーブが冴えていた」とか「プロのスカウトが練習を見にきていました」とか弱小野球部としてはあり得ないことばかり書いてある。
この山男の正体、実は雄太なのではないかと雪野はにらんでいる。実際の雄太は補欠だけど、あれだけの野球バカだから甲子園も目指しているだろうし、プロにもなりたいと夢見ているのだと思う。これこそまさに雄太の理想だと思う。描いてあることは嘘だけど、RE:SOだからなんの問題もないし、そういう理想を演じる場所だ。だけど、実際の雄太を知っている雪野からすると、なんだか冷めた目で雄太を見てしまう。
グランドで、やる気満々の雄太は入念にストレッチを始めた。一方、同じ男子でも不良の大志は、やる気なさそうにジャージのポケットに手を突っ込んでうつむいている。この人は団体競技とは無縁だろうな。と自分のことを棚に上げて思った。
しかし、第一試合が始まると、予想に反して大志は大活躍をした。打てばホームラン。守備をすればファインプレーを連発する。
一方、ピッチャーを務めた雄太は、相手チームの野球部員相手に何本もヒットを許し、せっかく大志が積み上げた得点もふいにしてしまう。RE:SOに描いてある通り、得意のカーブを投げればいいのにと雪野は心の中で皮肉った。
でも、人のことは言えない。雪野は全打席三振だし、守備でもトンネルをしたりと完全に足を引っ張っていた。早くこの時間が終わればいいのにと雪野は願った。
雪野と雄太は足を引っ張ったけど、それでも大志が再びスリーランホームランを打ち、なんとか同点にまで追いついた。
女子からも「かっこいい」という黄色い声援が届いた。その声にも大志はまったく動じない。むしろ試合に集中している。最初はやる気がなさそうだった大志だったけど試合が進むごとに目の輝きが増していた。そしていつのまにかジャージを腕まくりしていた。
雄太も、人一倍全力でプレーし、ボテボテの当たりでも一塁目掛けて胸から飛び込み、ぎりぎりでセーフを勝ち取った。
「っしゃー」
ジャージを泥んこにしながら雄太は雄叫びをあげた。大志みたいに華麗なプレーはできないけど、気迫だけは甲子園クラスなのかもしれない。
大志のためにも、張り切っている雄太の為にも、この試合に勝てればいいな、早く終わってほしいと思っていた雪野ですらそう思った。それに、クラス全体が熱くなった。
「がんばれー」
美香の大声の応援を機に、全員が大声をあげて応援しはじめていた。こんなにクラスが一体になったのは初めて見た。まるで青春映画みたいだ。
しかし、最悪の局面が雪野を襲った。
最終回の裏。試合は6対7で負けている状況。
ランナーは二塁、三塁。
一本でもヒットが出れば同点、もしくは逆転に成功する。そんな場面でよりによって雪野の打順になってしまった。
これにはクラス中が「雪野かよ、終わった」「うわっ、なんでよりによって雪野」と落胆の声をあげた。一番落胆しているのは自分だ。それでも打席に立たなければいけない。
最悪だ。と真っ青な顔のままバットを手にした。すると、
「雪野、ちょっと待った」と誰かが雪野の名前を呼んだ。
振り向くと大志だった。うわっ、責められる。胸がズキッとした。自分だってこんなタイミングで打席に立ちたくない。
どうせダメだ。自分が大志の活躍を無駄にしてしまう。雪野は申し訳なさから、大志の顔も見られずうつむいた。
すると、大志が雪野の肩をポンと叩いてから言った。
「ボールを良く見て、リラックスして打て。なっ」
大志は二度、雪野の肩を叩き微笑んだ。
この人、こんな顔するんだ。胸のズキッとした痛みが、ドキドキに変わった。
雪野はバッターボックスに向かいながらヒットを打ちたいと思った。
打ちたい。今までそんなことを思ったことはなかったけど、強く思った。
神様、どうか奇跡を起こしてください。
そう思って相手ピッチャーと向き合った。
ボールをよく見て、思いっきりバットを振った。
どんよりした気持ちで帰宅した。
最後のバッターボックス。大志からはリラックスとアドバイスされたのに逆に肩に力が入ってしまった。結果、三振に終わり、雪野が試合を終わらせてしまった。
クラス中のためいきが家に帰った今も耳に残る。雪野が三振してすぐに、一軍が頭を抱えて落胆する姿がたまたま視界に入ってしまい、そこから雪野は顔を上げることができなかった。スポーツなんか興味なさそうな一軍の女子ですらあんなにもガッカリするんだ。それくらい熱い試合だったんだと思うと余計気分が沈んだ。
こんな嫌な気持ちは自分の中だけでとどめておきたくない。こんなときは、ピンキーにDMだ。雪野はスマホを操作し、RE:SOを開いた。すると、ピンキーからDMが届いていた。ピンキーも何か嫌なことがあったのかもしれない、雪野はDMのアイコンをタップした。
「リイナちゃん。今日凄く胸が熱くなったことがあったからお裾分けするね。今日、クラスマッチで野球大会があったんだけど、すごく接戦でいい試合だったの。まるでサッカーのW杯を見ているみたいだった。(ちなみにW杯は見ていませんwww)
特に、普段は不貞腐れている男子が大活躍してさ、思わず「かっこいい」って呟いちゃったよ。最後は結局負けちゃったんだけどね。それでも普段スポーツに興味のないわたしでもそう思うくらい、すごく良い試合だったんだ」
ピンキーのDMを見て、雪野の手が震えた。これってどう考えてもうちのクラスの話だ。ということは、ピンキーはクラスメイト。でも、誰だろう。まったく見当がつかなかった。でも、クラスメイトだとわかってしまった以上やり取りがしづらい。雪野はピンキーからのメッセージをそのままにして、タイムラインを見た。
そこで雪野は、山男の投稿を見て息をのんだ。その投稿には、「クラスマッチがあって、接戦だったけど負けた。負けたけど熱い試合だった」と、ピンキーとまったく同じ状況が綴られていた。
その投稿と一緒に添えられているのはジャージを着た男子がバットを持つ姿。顔は隠されているけど、同じ高校なのは間違いないし、文章から同じクラスだというのはわかる。やはり山男の正体は、雄太なのだろうか。でも、写真に写っているジャージ姿を見ると、雄太ではない気がする。山男は腕まくりをしているから腕が良く見えるけど、雄太ならもっと黒く焼けているし細い。いや、そもそもこの腕の血管の浮き出方に見覚えがある。
「あっ」
雪野は思わず声をあげた。この腕は大志の腕だ。雪野は肩をポンと叩かれたときのことを思い出した。間違いない。心臓は激しく動き出した。胸のドキドキもこの腕が大志のものだと証明しているようだった。
ということは、山男の正体は大志? 信じられないけど、一度そう思うと、そうとしか考えられない。つまり、大志は野球部で活躍するのが理想の姿だということだろう。
でも、さっきの試合を観た人は、大志が野球部以上の実力者であることはわかったと思う。あれだけ上手いんだから野球部に入ればいいのに。
雪野と違って、手を伸ばせば理想の自分を手に入れられる。それなのにどうしてなんだろう。雪野には理解できなかった。
翌日、雪野は登校すると授業中にもかかわらず大志のことが気になって仕方がなかった。昨日の輝かしい活躍と爽やかな笑顔とは打って変わって、いつも通りクラス中に殺気を振りまいていた。
だけど、昼休みに状況が変わった。雪野がいつも通り自分の席で一人弁当を広げると、後ろの席が騒がしくなった。
振り向いてみると、大志の周りを坊主頭が囲んでいた。六人ほどいたがその中には雄太の姿もあった。雪野は耳を澄ませた。
「なあ、俺らと一緒に野球やろうぜ」
坊主頭の誰かが言った。
そうか、昨日の活躍を見て野球部員がスカウトしにきたんだ。あの活躍を見れば当然だろう。
しかし、大志は答えない。
雪野はちらっと大志を見ると、むしゃむしゃと弁当を食べている。よくこんな暑苦しい連中に囲まれた状況で食べられるな。少し呆れた。
「牧野さあ、もう肘は治ってるんだろ? だったらいいじゃないか」
別の部員が言った。肘? 肘に怪我をおっている? それで野球部に入らなかったのか。雪野は腑に落ちた。
それでも、大志は答えない。そのことにしびれを切らしたのか雄太が「おい、牧野」と声を上げた。
クラス中が雄太を見た。
「お前さあ、それほどの才能がありながらなんであきらめるんだよ。俺はお前の才能が羨ましい。むしろ憎い。お前のことは中学のころから知ってたよ。ものすごく曲がるカーブを見て感動したんだ。だから同じクラスになれて嬉しかったのに。なんなんだよ。今のお前は」
雄太の言葉には切実さがすべて詰まっていた。気持ちはわかる。情熱はあるのに上手くなれない雄太にとって、大志の態度は歯がゆいのだろう。
「っるせえな。弁当がまずくなる」
やっと大志が口を開いた。
「まずくなるって全部食べ終わってるじゃないか」
雄太の突っ込みに少し笑ってしまいそうになる。しかし、すぐに張り詰めた空気が戻ってきた。
「もう、投げられないんだよ。普通にしていればなんともないけど、カーブを投げると肘が痺れるんだ。中学の時と同じ球が投げられないのは耐えられない」
「そっ、そうなのか。でも、それだったら打者になればいいだろ。昨日のバッティングだったら十分通用するだろ」
雄太はなだめるように言った。
「というか、もう野球に興味がなくなったんだよ。だから帰れよ」
小さな声で言った後、「帰れよ」と大志は怒鳴った。その迫力に負けて、野球部員たちは教室を出ていった。でも、雄太だけは「俺はあきらめないからな」と声をかけた。それに対して大志は返事をしなかった。
野球部員が去っても、大志の機嫌が最悪なのはクラス中がわかった。その証拠にお昼休みなのに、誰も笑顔で会話をしていない。昨日のスターが一転、厄介者になっている、
野球に興味がなくなったとは言っていたけど、昨日の活躍を見た人はみんなそれが嘘だとわかっているはず。それくらい野球をしている大志は輝いていた。
教室が重苦しい空気に包まれている中、一人の生徒が大志の前に立った。美香だった。
「ねえ、ちょっと話があるから来て」
美香は親指で廊下を指さした。かっこいい。その姿も絵になる。まるで宝塚の男役みたいだ。
その圧倒的なオーラに負けたのか、「なんだよ」と凄みながらも大志は立ち上がった。
一体なんの話があるんだろう。気になりすぎた雪野は立ち上がった。そして静かに廊下を出た。
美香と大志は、少し離れた場所で向かい合っていた。雪野は陰から覗き見た。
「あんたさあ、山男って名前でRE:SOやってるでしょ?」
美香が言った。
雪野の心臓が止まりそうになった。自分以外にも気づいている人がいた。しかも一軍のリーダーの美香だ。
ということは美香もRE:SOの利用者なのか。でもおかしいな。美香みたいな人がRE:SOをやる必要があるだろうか。こんなに理想的な女子が。
「だったらなんなんだよ」
大志が美香を睨みながら答えた。
「なんなんだよじゃないよ。野球やりたいんでしょ? だったらやればいいじゃん。なんなの?」
美香もにらみ返した。二人を見ていると今にでも取っ組み合いになりそうでヒヤヒヤする。
「お前に関係ないだろ」
大志がけだるそうに言った。
「うん。たしかに関係ない。でもね、あんたみたいな理想の自分が目の前にあるのにウジウジしているヤツ見ているとイライラするんだよ」
「そんなの知るかよ」
大志が怒鳴った。廊下を通る生徒はみんなその言い合いに気づいているのに見て見ないふりをして通り過ぎる。
「とにかくさあ、やりたいならやれよ。これが私の意見。じゃあね」
美香は大志に背をむけて教室に戻ろうとした。そのとき「おい」と大志が美香を呼んだ。
美香は振り返る。
「人のこと散々言ってくれたけど、お前だってRE:SOやってるってことは、今は理想の自分じゃないってことだろ? 人のこと言えるのかよ」
大志は歪んだ笑みを見せ、挑発的に言った。
たしかに雪野もそう思う。RE:SOの登録者は現実の自分に満足していない。美香だってそうなんだ。
「そうだよ。私も今の自分は理想とは程遠い。だけど本当の自分になりたい」
悲し気な顔でそう言うと、美香は前を向いて歩き出した。
本当の自分になりたい。それは雪野も心から思う。でも、理想の自分になるのは簡単じゃない。美香がどんな理想を求めているかわからない。でも少しでも近づくといいなと思った。
家に帰ってからRE:SOを開いた。ピンキーからのDMにいまだに返信していないことでずっと気が重かった。そろそろ返さないと、そう思っていると逆にピンキーからメッセージが届いた。雪野はスマホに目を落とした。
「リイナちゃん。昨日は返信なかったけど忙しいのかな? もし時間が空いたらまたメッセージください。
わたし、今日は学校で言い争いをしてしまいました。その相手は昨日メッセージに描いた野球で大活躍した男子です。その男子はすごく野球が上手いのに意地を張って野球部に入ろうとしません。だから余計なことだと思ったけどビシッと言いました」
ここまで読んで心臓が暴れだした。心臓の音が外にまで漏れそうだ。これってつまり……
雪野は震える右手を左手で押さえて再びスマホ画面に目をやった。
「そしたら、その男子から確信をつくことを言われてしまいました。『お前だって理想の自分じゃないんだろ』って。たしかにその通りです。リイナちゃんは私の悩みを聞いているから知っていると思うけど、私も本当はもっと女の子らしい女子高生になりたいです。でも、昔から背が高くて、気も強いから、なにかと人に頼られてしまい、いつのまにか頼りになるかっこいい女のイメージがついてしまいました。そのイメージに自分が一番振り回されてきました。好きな洋服も着られないし、アニメのグッズも人前では持ち歩けません。そんな自分をその男子から指摘されてしまいました。でも指摘されて吹っ切れました。自分から吹っ掛けたケンカだし、まずは自分から変わろうと思います。明日、私はアイコンのようなツインテールで学校に行きます。バッグには好きなアニメのキャラクターのキーホルダーも付けます。あとスマホケースも苺模様に付け替えます。クラスのみんなは驚くと思います。それでもいい。これが本当の私だから」
ここまで読んで心が震えた。美香はやっぱりかっこいい。本人はかっこいいより可愛いと言われたいようだけど、やっぱりかっこいい。
こんな心を打つようなメッセージを見ると、ますます返信ができなくなる。しかも相手は一軍の美香だ。クラスで孤立している雪野とではつり合いが取れない。でも、ピンキーとはこれからも仲良くしたい。やっぱり返信したい。今までどおり本音で話したい。
悩みながらも雪野は返信できずに夜が更けていった。
翌日、教室に入ると教室がざわついていた。理由は、宣言通り美香がツインテールにしてきたからだ。見てみるとバッグにアニメのキーホルダーも付いている。このキーホルダーは前にRE:SOにも写真をアップしていた。なんだか感慨深い気持ちになる。
「ねえ、どうしたの美香? なにかの冗談?」
美香の仲間が驚きながらそう言った。驚くのもわかる。今までの美香とは雰囲気が違いすぎる。
「どうしたのもなにもないよ」
美香はさっぱりと答える。
「あっもしかしてハロウィン? 仮装? でもまだハロウィンじゃないか」
別の一軍女子が冗談めかして言った。
「全然、そんなんじゃないよ。これが私の好きな髪型。それよりこのスマホケース可愛くない?」
美香は周りにスマホを掲げた。苺の可愛らしいスマホケースだった。
雪野は、ふと、後ろの席を見ると、大志が美香の変わりようをじっと見つめていた。
その翌日も、その翌日も美香はツインテールで登校した。性格は相変わらず男前の美香だったけど、見慣れてくると女の子らしい雰囲気も似合う。結局美人は何をやっても似合うんだ。思い切って行動をしてよかったねピンキー。黒板を見ながら、心の中で祝福した。
「えっ、マジかよ。本当だな」
大きな声がして後ろを向くと、雄太が大志の机の前で叫んでいた。
「本当に入部するんだな。本当だな?」
雄太が大志の肩を掴み、体を揺らす。
「本当もなにも、もう顧問に入部届け出したよ」
大志は雄太の手を払いながら言った。
「そうか。そうか。一緒に頑張ろうな」
背中しか見えないけど、雄太の背中が嬉しそうだ。大志も大志で「うざっ」と言いながらも表情が柔らかい。もう以前の殺気は消えていた。
気になって美香を見ると、美香も優し気な目で大志を見ていた。
家に帰ってからRE:SOを開く。いつも通りタイムラインを見ると、ピンキーも山男も投稿がない。調べてみると、山男のアカウントが消えていた。それはそうだ。もう大志は理想の自分を手に入れたんだ。RE:SOは必要ない。
もしかしたらピンキーもアカウントを削除してしまったんじゃないか。そう思って調べてみた。幸いピンキーのアカウントはまだ存在していた。それにはホッとした。アカウントを消してしまえばもうDMのやり取りもできない。返信できないままサヨナラは嫌だ。でも、理想の自分の姿で学校に行きはじめた美香だから、いつアカウントを消しても不思議ではない。今すぐにでも自分の気持ちを美香に伝えないと。
でも、中々本心を語る勇気がでない。それでも雪野は指を動かした。理想の親友に想いを伝えるために。
結局、言葉を選びすぎて雪野は徹夜をしてしまった。うたた寝して目が覚めると八時になっていた。これでは遅刻してしまう。雪野は慌てて家を出ようとした。しかし、洗面台の前で足を止めた。
※
学校に向かって走りながら雪野は朝方にやっとの思いで美香に送ったDMを思い出していた。自分の素直な気持ちを吐き出せたと思う。
「ピンキーへ。返信できなくてごめんなさい。ちょっと自分の気持ちに整理をつけるのに時間がかかりました。ピンキーにも伝えていたけど、私も可愛いものが好きです。アニメも、スイーツも、洋服も、髪型も、アイドルも可愛いものはすべて好きです。だけど、自分には似合わないと思って避けてきました。前に、自分の好きな猫が書かれたノートを学校に持っていったことがあります。そのときはクラスの男子に「キモイ」と馬鹿にされました。それ以来、自分を出すことはやめました。好きなものを好きだといえない。そんな自分のことは正直好きではありませんでした。でも、ピンキーの話を聞いていて私も人に何と言われようと自分の好きな自分になりたいと思うようになりました。
今日、わたしもピンキーとおそろいのツインテールで学校に行きます。ツインテールと言ってもまだ髪が短いのでピンキーのとはまったく違います。それでも笑わないでね。教室で会いましょう」
このメッセージを出したあと、雪野は後悔した。でも送ってしまったものはもうどうしようもない。そう思いながら学校に向かって走った。
でも、教室の前で足がすくんだ。この頭を見たらみんなに馬鹿にされるだろう。それに美香にリイナの正体がバレてしまう。そーっと教室の中を見ると、数学の山谷先生が出席簿をつけるために生徒の名前を呼んでいた。
耳を澄ますと、「山田真美」と名前を呼んだ。ヤ行ということは、次は雪野の番だ。でも、中々教室に入る勇気がでない。でも、美香と大志みたいに一歩踏み出さなきゃ。
「雪野大輔」
山谷先生が読み上げた名前に「はい」と言いながら雪野大輔は教室に足を踏み入れた。
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どうやらRE:SOと書いて「リソウ」と読むらしい。とてもSNSとは思えない変わった名前だなあ。興味を惹かれた雪野は広告をクリックした。
するとRE:SOのリリース記事にサイトが飛んだ。
「RE:SOは。理想のあなたを演じるSNSです。理想のあなたが、理想の世界で、理想の交流を持ちましょう」
記事にはそう書かれていた。なるほどこのSNSは登録者全員が理想の自分を演じて交流するのか。投稿も事実である必要はない。登録者とのやり取りも含めてすべて理想の自分を演じるのがルールらしい。たしかにいままでなかったタイプのSNSかもしれない。
雪野のスタンスとして、SNSはもっぱら見る側だった。いくつか登録はしているけど自分から何か発信することはない。だってああいうのはキラキラしている人がするものでしょ、と雪野は思っている。
おしゃれな服を買った。人気のデートスポットに行った。美味しいものを食べた。それから、ルックスに自信のある子はことあるごとに自撮りを投稿する。
基本、SNSって自慢が多いと雪野は感じている。だけど、自分には人に自慢できる様なキラキラした日常も、愛らしい容姿も持ち合わせていない。
それでも、投稿したい気持ちはある。もしも、なにかしら自分から発信して、誰かから「いいね」をもらえたら嬉しいだろうなとは思う。でも、「いいね」をもらえるような投稿が出来ない雪野は、見るだけというスタンスをとっていた。
でも、RE:SOならこんな自分でも発信する側になれるかもしれない。実際の自分とはかけ離れた投稿をしても誰からも責められない。責められるどころかそれがこのSNSでのルールなのだ。普段は地味で何の取り柄もない自分だけど、SNSの中でくらいはキラキラしたい。想像しただけで胸が高鳴った。
雪野は気持ちの高ぶりのままにRE:SOのURLをクリックした。
※
「おはよう」が飛び交う教室で、雪野は誰とも目が合わないように小さくなっていた。
高校生活二年目、この学校はクラス替えがないからこのクラスメイトとの付き合いも二年目だ。付き合いと言っても雪野はこの学校に入ってからほとんど誰とも口をきいていない。雪野以外はだいたいグループができあがっていて、無所属は雪野だけかもしれない。
ときどき、自分の名前が聞こえたかと思えば、ほぼ悪口だ。
「暗い」とか「キモイ」とかだいたいそんな感じだ。そういう風に陰口を叩いてくるのは、たいして目立たない男子のグループだ。自分より劣っている人間をみつけて喜んでいるのだと思う。同じクラスでも、一軍ははなから雪野のことを意識していない。
「おはよ」
武井美香がバックを肩にかけながらクールに教室に入ってきた。美香が教室に入ってくると、緊張感が生まれると同時に場の雰囲気が華やかになる。
このクラスの一軍といえば、なんといっても武井美香のグループだ。みんな派手な化粧し、制服も着崩している。校則違反だし、いつも騒がしくしているのに、担任の先生からも憎めない存在として可愛がられている。これだから若い男の担任は困ったものだと雪野は思っている。担任から可愛がられていることと、全体的に可愛い子が多いから、女子だけではなく男子たちも一目置かれて、クラス中がこのグループのご機嫌を伺っている。そんな勢力図だ。
自分みたいなタイプからすると目障りなグループだけど、リーダー格の武井美香のことは気になる。グループの中でも長身で美人。長い黒髪をかき上げる仕草はまさにクールビューティー。いますぐにでもモデルになれそうだ。サバサバしている性格で女子からもかっこいいと言われている。
基本、雪野はアニメのキャラクターや芸能人にしても可愛いタイプが好きだ。それでも美香の魅力は十分にわかる。
チャイムがなると同時に、担任の平林先生が教室に入ってくる、
名簿番号順に名前を呼び終えると、
「えーっ、今年のクラスマッチは野球に決まりました」
平林先生が言うと、
「よっしっ」
と雪野の前の席に座る野球部の倉島雄太がガッツポーズをした。野球部からすると、自分の活躍を女子たちに見てもらえるチャンスだと思っているのだろう。でも、雄太のことは中学の同級生だから知っているけど、たしか万年補欠だったはず。いいいところを見せることなんてできるのだろうか。雄太の無駄にキレイな丸い坊主頭を見ながら思った。
雄太の「よしっ」にかまわずに平林先生がクラスマッチの説明をしていると、ガラガラと教室の後ろのドアが開いた。
クラス全員の視線が一点に集まる。入ってきたのは、牧野大志だった。
「遅刻しました」
大志はボソッと言うと、ポケットに手を突っ込んだまま、自分の席まで歩き、ドスンと腰を下ろした。
いつも思うけど態度が悪い。
大志はガタイが良い上に目つきも鋭いからみんなから恐れられている。いつもつまらなさそうに教室の一番後ろの席に一人でいるのだが、殺気と言うか、人を寄せ付けないオーラを醸し出している。
そういえば、このクラスで孤立しているのが自分だけじゃなかった。大志もだ。でも、多分人の印象としては、雪野は「ぼっち」だけど、大志は一匹狼だと思われていそうだ。
そう考えると、大志とは全然違う。大志は好き好んで一人でいるように見えた。
休み時間になると、すぐさまスマホを開く。
こんな最悪な学校生活を送っている雪野でも、RE:SOの中では「リイナ」という名前で充実したSNSライフを過ごしている。
買った小物や、洋服、遊びに行った映えスポットを投稿し、いいねをたくさんもらっている。だけど、投稿はすべて嘘。実際には可愛い洋服も買っていないし、映えスポットにも行っていない。これらはフリー画像を編集して使っている。
そもそもアイコンからして自分とは別人だ。RE:SOはアイコンなどのフリー素材が充実していて、無数の画像の中から選べる。
雪野は理想の自分として、ツインテールにぱっちりとした目、そしてフリフリなワンピースを着ている。アイドルみたいに可愛い女子の画像をアイコンにした。
これが雪野の理想の容姿だった。当然のことながら他の利用者のアイコンも美女やイケメンばかりで、見ているだけで目の保養になっている。それに、外見だけではなく、理想の自分を演じるSNSだけあってみんなマナーがいい。他のSNSみたいに罵詈雑言を吐いて誹謗中傷するような利用者はほぼみつからない。
実際の世界では、容姿に優劣がつくし、良い人もいれば悪い人もいる。成績の良い人もいれば悪い人もいる。だけど、ここではみんなが美しい。本当に美しい世界だと雪野は思った。
でも、とふと思う。アイコンや投稿はあくまで利用者の理想の姿だ。つまり、若くてイケメンのアイコンにしている人も実はおじさんかもしれないし、サイト上ですごく優しい人も本当は極悪人かもしれない。仮にそうだとしても、雪野はこの美しい世界を気に入っていた。
気に入っている理由として大きいのは、仲の良い友達ができたことだろう。その中でも、ピンキーとはDMでもやり取りしているけど本当に気が合う。お互い可愛いものが好きで、キャラクターグッズや、可愛い服、オシャレなスイーツなどの情報交換をしている。さらにアイコンの髪型も同じツインテール。
自分の身近には好きなものの話をできる人はいない。雪野はリイナとしてピンキーとの交流が心の支えになっていた。
いつもは明るい話題しかしないけど、あるときピンキーが悩みを打ち明けてくれた。
「私さあ、本当は可愛いものが好きだし、人からも可愛いと思われたい。だけどそういう自分を学校では出せない。本当はツインテールで学校に通いたい」
このピンキーのDMを受け取ったとき、純粋に嬉しかった。自分には悩みを相談してくれるような友達はいない。会ったことはないけど本当の友達みたいだ。
ここは理想を演じるSNSだから、こういう本音のやり取りはルール違反かもしれない。その背徳感がお互いを盛り上げているのかもしれない。
ピンキーが心を許してくれるから雪野もピンキーには本心を打ち明けた。
「実は、わたしもそうなんだ。なりたい自分と現実の自分が違いすぎて苦しい。わたしも本当は可愛い格好で過ごしたい」
ピンキーが実際の雪野を見たらどう思うだろう。RE:SOのリイナとは別人過ぎてひいてしまうと思う。そんなことを思っているとピンキーから返信がきた。
「お互い、素の自分を出せるようになりたいね」
雪野はその言葉が嬉しくて、しばらく胸がいっぱいで動けなくなった。そんな温かい言葉をかけてくれる人は雪野の近くにはいない。
胸がいっぱいだった。そして、しばらくしてからその返信に大好きなウサギのキャラクターが踊るスタンプで返した。そしてもう一度ピンキーからのDMを見返した。
現実の世界は理想とは程遠い。
日常の学校生活も苦痛だけど、行事ごとはもっと苦痛だ。
特に、スポーツクラスマッチが雪野は死ぬほど嫌いだ。特に野球なんてとんでもない。
昔から運動神経が悪かった。何をやっても様にならないから、男子だけじゃなくて女子からも馬鹿にされてきた。野球なんてほとんどやったことないし、できるはずがない。
「野球とか、だるー」
と一軍たちもジャージ姿で嘆いている。
「よしっ、やるか」
張り切っているのはクラスで唯一の野球部員の雄太だけ。バットを持っているわけではないのにエアで素振りを始めた。中学から知っているけど、休み時間でもエアでボールを投げたり、バットを振ったりとかなりの野球バカだ。それなのに万年補欠。報われないのがかわいそうすぎる。
そういえば、ここ最近RE:SOのタイムラインで山男という野球部員の投稿が目立つ。もともとスポーツに興味がないから本来なら興味を引かないけれど、目にも止まった理由がある。なぜなら、山男がアップしている野球の写真が、どうみても、雪野が通う学校の野球部の練習風景だからだ。
だけど、内容は嘘ばかり。山男の投稿には、「甲子園を目指してがんばるぞ」とか、「今日はカーブが冴えていた」とか「プロのスカウトが練習を見にきていました」とか弱小野球部としてはあり得ないことばかり書いてある。
この山男の正体、実は雄太なのではないかと雪野はにらんでいる。実際の雄太は補欠だけど、あれだけの野球バカだから甲子園も目指しているだろうし、プロにもなりたいと夢見ているのだと思う。これこそまさに雄太の理想だと思う。描いてあることは嘘だけど、RE:SOだからなんの問題もないし、そういう理想を演じる場所だ。だけど、実際の雄太を知っている雪野からすると、なんだか冷めた目で雄太を見てしまう。
グランドで、やる気満々の雄太は入念にストレッチを始めた。一方、同じ男子でも不良の大志は、やる気なさそうにジャージのポケットに手を突っ込んでうつむいている。この人は団体競技とは無縁だろうな。と自分のことを棚に上げて思った。
しかし、第一試合が始まると、予想に反して大志は大活躍をした。打てばホームラン。守備をすればファインプレーを連発する。
一方、ピッチャーを務めた雄太は、相手チームの野球部員相手に何本もヒットを許し、せっかく大志が積み上げた得点もふいにしてしまう。RE:SOに描いてある通り、得意のカーブを投げればいいのにと雪野は心の中で皮肉った。
でも、人のことは言えない。雪野は全打席三振だし、守備でもトンネルをしたりと完全に足を引っ張っていた。早くこの時間が終わればいいのにと雪野は願った。
雪野と雄太は足を引っ張ったけど、それでも大志が再びスリーランホームランを打ち、なんとか同点にまで追いついた。
女子からも「かっこいい」という黄色い声援が届いた。その声にも大志はまったく動じない。むしろ試合に集中している。最初はやる気がなさそうだった大志だったけど試合が進むごとに目の輝きが増していた。そしていつのまにかジャージを腕まくりしていた。
雄太も、人一倍全力でプレーし、ボテボテの当たりでも一塁目掛けて胸から飛び込み、ぎりぎりでセーフを勝ち取った。
「っしゃー」
ジャージを泥んこにしながら雄太は雄叫びをあげた。大志みたいに華麗なプレーはできないけど、気迫だけは甲子園クラスなのかもしれない。
大志のためにも、張り切っている雄太の為にも、この試合に勝てればいいな、早く終わってほしいと思っていた雪野ですらそう思った。それに、クラス全体が熱くなった。
「がんばれー」
美香の大声の応援を機に、全員が大声をあげて応援しはじめていた。こんなにクラスが一体になったのは初めて見た。まるで青春映画みたいだ。
しかし、最悪の局面が雪野を襲った。
最終回の裏。試合は6対7で負けている状況。
ランナーは二塁、三塁。
一本でもヒットが出れば同点、もしくは逆転に成功する。そんな場面でよりによって雪野の打順になってしまった。
これにはクラス中が「雪野かよ、終わった」「うわっ、なんでよりによって雪野」と落胆の声をあげた。一番落胆しているのは自分だ。それでも打席に立たなければいけない。
最悪だ。と真っ青な顔のままバットを手にした。すると、
「雪野、ちょっと待った」と誰かが雪野の名前を呼んだ。
振り向くと大志だった。うわっ、責められる。胸がズキッとした。自分だってこんなタイミングで打席に立ちたくない。
どうせダメだ。自分が大志の活躍を無駄にしてしまう。雪野は申し訳なさから、大志の顔も見られずうつむいた。
すると、大志が雪野の肩をポンと叩いてから言った。
「ボールを良く見て、リラックスして打て。なっ」
大志は二度、雪野の肩を叩き微笑んだ。
この人、こんな顔するんだ。胸のズキッとした痛みが、ドキドキに変わった。
雪野はバッターボックスに向かいながらヒットを打ちたいと思った。
打ちたい。今までそんなことを思ったことはなかったけど、強く思った。
神様、どうか奇跡を起こしてください。
そう思って相手ピッチャーと向き合った。
ボールをよく見て、思いっきりバットを振った。
どんよりした気持ちで帰宅した。
最後のバッターボックス。大志からはリラックスとアドバイスされたのに逆に肩に力が入ってしまった。結果、三振に終わり、雪野が試合を終わらせてしまった。
クラス中のためいきが家に帰った今も耳に残る。雪野が三振してすぐに、一軍が頭を抱えて落胆する姿がたまたま視界に入ってしまい、そこから雪野は顔を上げることができなかった。スポーツなんか興味なさそうな一軍の女子ですらあんなにもガッカリするんだ。それくらい熱い試合だったんだと思うと余計気分が沈んだ。
こんな嫌な気持ちは自分の中だけでとどめておきたくない。こんなときは、ピンキーにDMだ。雪野はスマホを操作し、RE:SOを開いた。すると、ピンキーからDMが届いていた。ピンキーも何か嫌なことがあったのかもしれない、雪野はDMのアイコンをタップした。
「リイナちゃん。今日凄く胸が熱くなったことがあったからお裾分けするね。今日、クラスマッチで野球大会があったんだけど、すごく接戦でいい試合だったの。まるでサッカーのW杯を見ているみたいだった。(ちなみにW杯は見ていませんwww)
特に、普段は不貞腐れている男子が大活躍してさ、思わず「かっこいい」って呟いちゃったよ。最後は結局負けちゃったんだけどね。それでも普段スポーツに興味のないわたしでもそう思うくらい、すごく良い試合だったんだ」
ピンキーのDMを見て、雪野の手が震えた。これってどう考えてもうちのクラスの話だ。ということは、ピンキーはクラスメイト。でも、誰だろう。まったく見当がつかなかった。でも、クラスメイトだとわかってしまった以上やり取りがしづらい。雪野はピンキーからのメッセージをそのままにして、タイムラインを見た。
そこで雪野は、山男の投稿を見て息をのんだ。その投稿には、「クラスマッチがあって、接戦だったけど負けた。負けたけど熱い試合だった」と、ピンキーとまったく同じ状況が綴られていた。
その投稿と一緒に添えられているのはジャージを着た男子がバットを持つ姿。顔は隠されているけど、同じ高校なのは間違いないし、文章から同じクラスだというのはわかる。やはり山男の正体は、雄太なのだろうか。でも、写真に写っているジャージ姿を見ると、雄太ではない気がする。山男は腕まくりをしているから腕が良く見えるけど、雄太ならもっと黒く焼けているし細い。いや、そもそもこの腕の血管の浮き出方に見覚えがある。
「あっ」
雪野は思わず声をあげた。この腕は大志の腕だ。雪野は肩をポンと叩かれたときのことを思い出した。間違いない。心臓は激しく動き出した。胸のドキドキもこの腕が大志のものだと証明しているようだった。
ということは、山男の正体は大志? 信じられないけど、一度そう思うと、そうとしか考えられない。つまり、大志は野球部で活躍するのが理想の姿だということだろう。
でも、さっきの試合を観た人は、大志が野球部以上の実力者であることはわかったと思う。あれだけ上手いんだから野球部に入ればいいのに。
雪野と違って、手を伸ばせば理想の自分を手に入れられる。それなのにどうしてなんだろう。雪野には理解できなかった。
翌日、雪野は登校すると授業中にもかかわらず大志のことが気になって仕方がなかった。昨日の輝かしい活躍と爽やかな笑顔とは打って変わって、いつも通りクラス中に殺気を振りまいていた。
だけど、昼休みに状況が変わった。雪野がいつも通り自分の席で一人弁当を広げると、後ろの席が騒がしくなった。
振り向いてみると、大志の周りを坊主頭が囲んでいた。六人ほどいたがその中には雄太の姿もあった。雪野は耳を澄ませた。
「なあ、俺らと一緒に野球やろうぜ」
坊主頭の誰かが言った。
そうか、昨日の活躍を見て野球部員がスカウトしにきたんだ。あの活躍を見れば当然だろう。
しかし、大志は答えない。
雪野はちらっと大志を見ると、むしゃむしゃと弁当を食べている。よくこんな暑苦しい連中に囲まれた状況で食べられるな。少し呆れた。
「牧野さあ、もう肘は治ってるんだろ? だったらいいじゃないか」
別の部員が言った。肘? 肘に怪我をおっている? それで野球部に入らなかったのか。雪野は腑に落ちた。
それでも、大志は答えない。そのことにしびれを切らしたのか雄太が「おい、牧野」と声を上げた。
クラス中が雄太を見た。
「お前さあ、それほどの才能がありながらなんであきらめるんだよ。俺はお前の才能が羨ましい。むしろ憎い。お前のことは中学のころから知ってたよ。ものすごく曲がるカーブを見て感動したんだ。だから同じクラスになれて嬉しかったのに。なんなんだよ。今のお前は」
雄太の言葉には切実さがすべて詰まっていた。気持ちはわかる。情熱はあるのに上手くなれない雄太にとって、大志の態度は歯がゆいのだろう。
「っるせえな。弁当がまずくなる」
やっと大志が口を開いた。
「まずくなるって全部食べ終わってるじゃないか」
雄太の突っ込みに少し笑ってしまいそうになる。しかし、すぐに張り詰めた空気が戻ってきた。
「もう、投げられないんだよ。普通にしていればなんともないけど、カーブを投げると肘が痺れるんだ。中学の時と同じ球が投げられないのは耐えられない」
「そっ、そうなのか。でも、それだったら打者になればいいだろ。昨日のバッティングだったら十分通用するだろ」
雄太はなだめるように言った。
「というか、もう野球に興味がなくなったんだよ。だから帰れよ」
小さな声で言った後、「帰れよ」と大志は怒鳴った。その迫力に負けて、野球部員たちは教室を出ていった。でも、雄太だけは「俺はあきらめないからな」と声をかけた。それに対して大志は返事をしなかった。
野球部員が去っても、大志の機嫌が最悪なのはクラス中がわかった。その証拠にお昼休みなのに、誰も笑顔で会話をしていない。昨日のスターが一転、厄介者になっている、
野球に興味がなくなったとは言っていたけど、昨日の活躍を見た人はみんなそれが嘘だとわかっているはず。それくらい野球をしている大志は輝いていた。
教室が重苦しい空気に包まれている中、一人の生徒が大志の前に立った。美香だった。
「ねえ、ちょっと話があるから来て」
美香は親指で廊下を指さした。かっこいい。その姿も絵になる。まるで宝塚の男役みたいだ。
その圧倒的なオーラに負けたのか、「なんだよ」と凄みながらも大志は立ち上がった。
一体なんの話があるんだろう。気になりすぎた雪野は立ち上がった。そして静かに廊下を出た。
美香と大志は、少し離れた場所で向かい合っていた。雪野は陰から覗き見た。
「あんたさあ、山男って名前でRE:SOやってるでしょ?」
美香が言った。
雪野の心臓が止まりそうになった。自分以外にも気づいている人がいた。しかも一軍のリーダーの美香だ。
ということは美香もRE:SOの利用者なのか。でもおかしいな。美香みたいな人がRE:SOをやる必要があるだろうか。こんなに理想的な女子が。
「だったらなんなんだよ」
大志が美香を睨みながら答えた。
「なんなんだよじゃないよ。野球やりたいんでしょ? だったらやればいいじゃん。なんなの?」
美香もにらみ返した。二人を見ていると今にでも取っ組み合いになりそうでヒヤヒヤする。
「お前に関係ないだろ」
大志がけだるそうに言った。
「うん。たしかに関係ない。でもね、あんたみたいな理想の自分が目の前にあるのにウジウジしているヤツ見ているとイライラするんだよ」
「そんなの知るかよ」
大志が怒鳴った。廊下を通る生徒はみんなその言い合いに気づいているのに見て見ないふりをして通り過ぎる。
「とにかくさあ、やりたいならやれよ。これが私の意見。じゃあね」
美香は大志に背をむけて教室に戻ろうとした。そのとき「おい」と大志が美香を呼んだ。
美香は振り返る。
「人のこと散々言ってくれたけど、お前だってRE:SOやってるってことは、今は理想の自分じゃないってことだろ? 人のこと言えるのかよ」
大志は歪んだ笑みを見せ、挑発的に言った。
たしかに雪野もそう思う。RE:SOの登録者は現実の自分に満足していない。美香だってそうなんだ。
「そうだよ。私も今の自分は理想とは程遠い。だけど本当の自分になりたい」
悲し気な顔でそう言うと、美香は前を向いて歩き出した。
本当の自分になりたい。それは雪野も心から思う。でも、理想の自分になるのは簡単じゃない。美香がどんな理想を求めているかわからない。でも少しでも近づくといいなと思った。
家に帰ってからRE:SOを開いた。ピンキーからのDMにいまだに返信していないことでずっと気が重かった。そろそろ返さないと、そう思っていると逆にピンキーからメッセージが届いた。雪野はスマホに目を落とした。
「リイナちゃん。昨日は返信なかったけど忙しいのかな? もし時間が空いたらまたメッセージください。
わたし、今日は学校で言い争いをしてしまいました。その相手は昨日メッセージに描いた野球で大活躍した男子です。その男子はすごく野球が上手いのに意地を張って野球部に入ろうとしません。だから余計なことだと思ったけどビシッと言いました」
ここまで読んで心臓が暴れだした。心臓の音が外にまで漏れそうだ。これってつまり……
雪野は震える右手を左手で押さえて再びスマホ画面に目をやった。
「そしたら、その男子から確信をつくことを言われてしまいました。『お前だって理想の自分じゃないんだろ』って。たしかにその通りです。リイナちゃんは私の悩みを聞いているから知っていると思うけど、私も本当はもっと女の子らしい女子高生になりたいです。でも、昔から背が高くて、気も強いから、なにかと人に頼られてしまい、いつのまにか頼りになるかっこいい女のイメージがついてしまいました。そのイメージに自分が一番振り回されてきました。好きな洋服も着られないし、アニメのグッズも人前では持ち歩けません。そんな自分をその男子から指摘されてしまいました。でも指摘されて吹っ切れました。自分から吹っ掛けたケンカだし、まずは自分から変わろうと思います。明日、私はアイコンのようなツインテールで学校に行きます。バッグには好きなアニメのキャラクターのキーホルダーも付けます。あとスマホケースも苺模様に付け替えます。クラスのみんなは驚くと思います。それでもいい。これが本当の私だから」
ここまで読んで心が震えた。美香はやっぱりかっこいい。本人はかっこいいより可愛いと言われたいようだけど、やっぱりかっこいい。
こんな心を打つようなメッセージを見ると、ますます返信ができなくなる。しかも相手は一軍の美香だ。クラスで孤立している雪野とではつり合いが取れない。でも、ピンキーとはこれからも仲良くしたい。やっぱり返信したい。今までどおり本音で話したい。
悩みながらも雪野は返信できずに夜が更けていった。
翌日、教室に入ると教室がざわついていた。理由は、宣言通り美香がツインテールにしてきたからだ。見てみるとバッグにアニメのキーホルダーも付いている。このキーホルダーは前にRE:SOにも写真をアップしていた。なんだか感慨深い気持ちになる。
「ねえ、どうしたの美香? なにかの冗談?」
美香の仲間が驚きながらそう言った。驚くのもわかる。今までの美香とは雰囲気が違いすぎる。
「どうしたのもなにもないよ」
美香はさっぱりと答える。
「あっもしかしてハロウィン? 仮装? でもまだハロウィンじゃないか」
別の一軍女子が冗談めかして言った。
「全然、そんなんじゃないよ。これが私の好きな髪型。それよりこのスマホケース可愛くない?」
美香は周りにスマホを掲げた。苺の可愛らしいスマホケースだった。
雪野は、ふと、後ろの席を見ると、大志が美香の変わりようをじっと見つめていた。
その翌日も、その翌日も美香はツインテールで登校した。性格は相変わらず男前の美香だったけど、見慣れてくると女の子らしい雰囲気も似合う。結局美人は何をやっても似合うんだ。思い切って行動をしてよかったねピンキー。黒板を見ながら、心の中で祝福した。
「えっ、マジかよ。本当だな」
大きな声がして後ろを向くと、雄太が大志の机の前で叫んでいた。
「本当に入部するんだな。本当だな?」
雄太が大志の肩を掴み、体を揺らす。
「本当もなにも、もう顧問に入部届け出したよ」
大志は雄太の手を払いながら言った。
「そうか。そうか。一緒に頑張ろうな」
背中しか見えないけど、雄太の背中が嬉しそうだ。大志も大志で「うざっ」と言いながらも表情が柔らかい。もう以前の殺気は消えていた。
気になって美香を見ると、美香も優し気な目で大志を見ていた。
家に帰ってからRE:SOを開く。いつも通りタイムラインを見ると、ピンキーも山男も投稿がない。調べてみると、山男のアカウントが消えていた。それはそうだ。もう大志は理想の自分を手に入れたんだ。RE:SOは必要ない。
もしかしたらピンキーもアカウントを削除してしまったんじゃないか。そう思って調べてみた。幸いピンキーのアカウントはまだ存在していた。それにはホッとした。アカウントを消してしまえばもうDMのやり取りもできない。返信できないままサヨナラは嫌だ。でも、理想の自分の姿で学校に行きはじめた美香だから、いつアカウントを消しても不思議ではない。今すぐにでも自分の気持ちを美香に伝えないと。
でも、中々本心を語る勇気がでない。それでも雪野は指を動かした。理想の親友に想いを伝えるために。
結局、言葉を選びすぎて雪野は徹夜をしてしまった。うたた寝して目が覚めると八時になっていた。これでは遅刻してしまう。雪野は慌てて家を出ようとした。しかし、洗面台の前で足を止めた。
※
学校に向かって走りながら雪野は朝方にやっとの思いで美香に送ったDMを思い出していた。自分の素直な気持ちを吐き出せたと思う。
「ピンキーへ。返信できなくてごめんなさい。ちょっと自分の気持ちに整理をつけるのに時間がかかりました。ピンキーにも伝えていたけど、私も可愛いものが好きです。アニメも、スイーツも、洋服も、髪型も、アイドルも可愛いものはすべて好きです。だけど、自分には似合わないと思って避けてきました。前に、自分の好きな猫が書かれたノートを学校に持っていったことがあります。そのときはクラスの男子に「キモイ」と馬鹿にされました。それ以来、自分を出すことはやめました。好きなものを好きだといえない。そんな自分のことは正直好きではありませんでした。でも、ピンキーの話を聞いていて私も人に何と言われようと自分の好きな自分になりたいと思うようになりました。
今日、わたしもピンキーとおそろいのツインテールで学校に行きます。ツインテールと言ってもまだ髪が短いのでピンキーのとはまったく違います。それでも笑わないでね。教室で会いましょう」
このメッセージを出したあと、雪野は後悔した。でも送ってしまったものはもうどうしようもない。そう思いながら学校に向かって走った。
でも、教室の前で足がすくんだ。この頭を見たらみんなに馬鹿にされるだろう。それに美香にリイナの正体がバレてしまう。そーっと教室の中を見ると、数学の山谷先生が出席簿をつけるために生徒の名前を呼んでいた。
耳を澄ますと、「山田真美」と名前を呼んだ。ヤ行ということは、次は雪野の番だ。でも、中々教室に入る勇気がでない。でも、美香と大志みたいに一歩踏み出さなきゃ。
「雪野大輔」
山谷先生が読み上げた名前に「はい」と言いながら雪野大輔は教室に足を踏み入れた。