四角く切り取られた画面上に、赤い瞳の小さな黒ウサギがいる。黒ウサギは狭い真四角の部屋の中を行ったり来たり、ときおり毛繕いをしたりしていた。
この黒ウサギは、スマートフォン向けSNSアプリ『HAKONIWA』のアバターである。
このアプリでは、アカウントを作成すれば自分のアバターを自由に作ることができ、同じアプリを使用する日本中の人たちとコミュニケーションをとることができるのだ。
『HAKONIWA』上で黒ウサギを名乗るその人物は、くるぶしまである黒のロングパーカーワンピースを着て、ソファに寝そべっていた。パーカーのフードには、画面の黒ウサギと同じふわふわのうさ耳がついている。
アプリ画面とよく似た真四角の空間を支配するのは、大音量で流れるラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』。
音楽に紛れて、ピコン、という機械音がした。見ると、黒ウサギの元に一件のメッセージが届いていた。
『ミカワさんにフォローされました』
細く長い指先が、通知をタップする。画面が切り替わり、泣き顔のピエロのアバターが現れた。すぐに新たなメッセージが届く。
『あなたが噂の黒ウサギさんですか?』
その問いかけに、黒ウサギは『いかにも』と、短く答える。
会話は続いた。
『実は、お願いがあるんです』
その文字を見て、黒ウサギはにんまりと口角を上げて笑った。
数度のやり取りを終えると、泣き顔のピエロは退室した。
それまで画面上でくつろいでいた黒ウサギの耳が、ぴんと立った。赤い瞳が怪しげにすうっと細められる。
『さぁ、ショータイムの始まりだ』
黒ウサギは、部屋の隅にあったカラフルなおもちゃ箱を漁り、真っ赤なボウリングボールを取り出した。黒ウサギの赤い瞳によく似た、深い色をしている。まるで、動脈から抜いたばかりの鮮血のような。
黒ウサギは、まんまるの手でボウリングボールを掴み、かまえる。
画面上には、『LADY』の文字。
黒ウサギは、持っていたボールを素早くスライドさせた。
『COROCOROCORO……』
黒ウサギの手から離れたボールは、画面上をまっすぐに滑り、やがて……。
『BAN!!』
ビィーッというけたたましいアラーム音とともに、画面上に真っ赤な文字が浮かび上がった。
『おめでとう! ジャックに成功したよ!』
黒ウサギは赤い瞳を嬉しそうに細めて、ぴょんぴょんと跳ねて喜んでいる。
直後アラーム音は消え、画面は真っ暗になった。
『えー速報です。昨日深夜、東京都蒲田区のマンションで火災が発生し、焼け跡から一人の遺体が発見されました』
ノイズ混じりの声が、狭い車内を満たしている。東京都港区の国道を、可愛らしい赤色の軽自動車が駆けていく。
運転席では、一見すると子どものようにも見えるほど華奢な少女がハンドルを握っている。その隣の助手席では、さらさらの黒髪の二十歳前後の男性が腰を沈めていた。
男性は窓枠に肘をつき、外を眺めていた。
『被害者は火元の部屋に住むミノリ・トガシさんと見られています。ミノリさんは今年の一月十日、港区のタワーマンションに爆薬を積んだ遠隔操作型の小型ドローンを突入させ、マンションの損害に加えて、住人・通行人合わせて七百人が死亡・負傷した事件に関与した国際テロリスト集団である赤色オオカミの実行犯のひとりと見られており、警察が事情を聞きに自宅を訊ねたところ、火災に気が付いたということです。この火災でミノリさん以外の被害は出ていないとのことですが、警察は第三者の関与もあるとみて、火災の原因を調査しているとのことです。続いてのニュースです。都内の養護施設に、黒ウサギを名乗る人物から五千万円の寄付があったとのことです。黒ウサギは、今若者を中心としたSNS『HAKONIWA』で話題の正体不明の人物で、一部ではダークヒーローなどとも呼ばれ……』
ラジオの速報を聴き流しながら、助手席に座っている男――サツキは車窓に映った運転席の彼女をちらりと見た。
「どうかしましたか?」
彼女はハンドルを握ったまま、首をこてんと傾げて訊ねてきた。視線は前に向いたままなのに、ガラス越しに見惚れていたことがバレていたらしい。
「あ……いや、可愛いなと思って」
サツキは慌てて車窓に写る彼女から視線を外し、姿勢を正した。すると、運転席の彼女――スズカもサツキの緊張が移ったように、陶器のように白い頬を桃色に染め、目を泳がせ始めた。
「な、なんですかいきなり。運転中に変なこと言わないでくださいよ。ハンドル操作間違っちゃったら、サツキくんのせいですからね!」
ごにょごにょと口の中で文句を言いながら、スズカは落ち着きなくハンドルを握ったり離したりした。
「はは……ごめんごめん」
サツキは謝りながらも、スズカの横顔を見つめた。
なんと可愛い反応だろうか。新鮮過ぎる。新鮮過ぎて、ずっと見ていたい。
相変わらず照れた表情も可愛らしいスズカに、サツキはしみじみと幸せを感じたのだった。
しかし次の瞬間、視界がぐるりと廻った。
キィッ!
車内に、大きなブレーキの音が響く。急に全身に重力を感じ、前のめりになってしまう。シートベルトが身体にめり込み、ぐっと息が詰まった。
「うぐっ!」
「あわわっ、すすすみません!」
スズカは慌てて謝り倒しながら、サツキを見た。
「だだ、大丈夫ですか? サツキくん!」
「う、うん、大丈夫。話しかけた俺が悪かったよ。スズカは運転に集中して」
「はい……。ご配慮、痛み入ります」
スズカはもう一度申し訳なさそうに謝ってから、ハンドルを握り直した。
二人を乗せた車は、とある建物の駐車場へ入っていく。
* * *
「――では、行きます!」
狭い車内に、気合いの入った声が響く。サツキはごくりと唾を飲んだ。
赤いランプとハザードのランプがちかちかと点灯する。弱々しくギアを引く音のあと、ゆっくりと鉛の塊が静止した。
ふぅ、とスズカが深く息を吐く。同時に、隣でサツキも息を吐いた。どうやら無意識のうちに息を止めていたらしい。
「お疲れ様でした」
サツキが労うと、
「いえ、気を抜くのは早いですよ」
スズカはまだ眉間に皺を寄せたままだった。スズカはシートベルトを外して降車する。見ると、白線との平行具合を確認しているようだった。意図を理解し、サツキも降車した。
スズカは自分で確認したあと、
「ど、どうでしょうか、サツキくん」
と、オドオドとした様子で背後にいたサツキを振り返った。
サツキは駐車された車を見て、柔らかく微笑む。
「……うん。いいんじゃない」
スズカはサツキの言葉に、ぱぁっと花が咲いたような笑顔になる。
そして、「本当ですか!?」と声を弾ませた。
「あ、でも運転に関してはちょっと言いたいことがある。スズカは全体的に判断が遅いし、少し左側に寄り過ぎてる。歩行者とか動物が飛び出してくることを想定して、対向車がいないときは基本中央線寄りに走った方がいい。それから、止まるときはもう少し早めに穏やかにブレーキを踏めるようになるとなお良し」
サツキのアドバイスに、スズカは真剣な眼差しで大きく頷いた。
「でもまぁ、バック駐車に関しては合格かな。運転お疲れ様。頑張ったね」
えらいえらい、とサツキはスズカの頭を撫でた。
「やった! ようやくサツキくんに褒めてもらえました。感激です。今日はお祝いしましょう!」
はしゃぐスズカにサツキは思わず頬を緩めた。
「大袈裟だってば。ほら、映画始まっちゃう。そろそろ行くよ」
サツキはスズカの手を優しく引き寄せると、そのまま歩き出した。
「はい!」
スズカは自身の手を包み込む大きな手をしっかりと握り返すと、サツキの隣に肩を並べる。
歩きながら、スズカはおもむろにくすりと笑った。サツキは首を傾げ、スズカを見下ろす。
「なあに? その顔」
訊ねると、スズカはえへへっとふやけたような笑みを見せた。その顔は、とても成人を迎えた大人の女性には見えない。
「なんだか、とっても幸せだなって思ったので」
にこにこといつまでも嬉しそうなスズカの横顔に、サツキは目を細める。僕だって、と心の中で思いながら、サツキはスズカの小さな手を握り返した。
* * *
今日は、二人が付き合ってから初めてのデートだった。
同じ大学に通うサツキとスズカは、ゼミの先輩後輩という間柄だ。
二週間前、サツキの告白により二人は晴れて付き合うことになった。
記念すべき初デートの今日はまず、スズカが以前より観たがっていた恋愛映画を鑑賞することになっていた。その後は軽くランチを済ませて美術館へ。
夜はすぐ近くの眺めのいい展望デッキのフレンチレストランを予約して、帰り際にスズカの好きなチョコレート屋で買っておいた期間限定のチョコレートとハグならびにキス(できれば)をプレゼントするという、これ以上にない完璧なデートプランを遂行する予定なのである。
もちろん、今日のデートではサツキ自らが運転するつもりだった。理由は、スズカをもてなしたいからともうひとつ。スズカの運転テクニックがなかなか恐ろしいからだ。
初めて彼女の運転する車に乗ったとき、急ブレーキに急ハンドル、サツキは安全保証のないジェットコースターに乗っている気分になった。何度嘔吐しそうになるのを堪えたか分からない。
しかし、運転免許を取り立ての彼女にバック駐車の練習を見てほしいと頼まれ、サツキは仕方なく助手席に腰を沈めることにしたのだった。
映画館に入り、無事チケットを入手すると、ふたりはそのまま売店に並んだ。
「ポップコーンは何味にする?」
サツキが訊ねると、スズカは満面の笑顔で迷わずに言った。
「キャラメル一択!」
可愛らしい、とサツキは表情をほころばせる。
「飲み物は?」
「絶対コーラ!」
スズカは童顔だ。年齢よりも、ずっと子供っぽい。それがこの言動のせいで、さらに幼く見える。まぁそれも可愛いのだけれど、なんて思いながら、サツキは店員に注文をする。
「……キャラメルポップコーンと、コーラとコーヒーで」
隣から、スズカの視線を感じた。
「ん?」
「……今ちょっと呆れましたよね?」
見ると、スズカは少し不貞腐れたような顔をして、サツキを睨んでいた。睨んでも迫力が出ないところがこれまた可愛らしいところだ。
「……まさか。可愛いなと思っただけだよ」
もちろん、本心だ。サツキはスズカが可愛くて仕方ない。
「……むぅ。それならいいですけど」
スズカの頬が、ぽっと桃色に染まる。
ふたりは、大学では先輩後輩の間柄である。しかし、今日は別だ。今日このときばかりは、スズカはサツキだけの女の子なのだ。
小さな手も、大きな黒目がちの瞳も、つやつやの長い髪も。いや、それだけじゃない。彼女の華奢な体を彩る白いワンピースも、なにもかもがサツキのためだけに揃えられた極上のプレゼントなのだ。
今日は間違いなく、二人にとって最高の記念日になるはずだ。今日という日を彼女にとって人生最高の日にしてやる、と意気込みながら、サツキはスズカの手を握り直した。
スズカはきょとんとした顔でサツキを見上げた。黒々とした大きな瞳が、不意にとろりと揺れる。スズカはサツキの笑みにつられたように微笑むと、サツキの手をきゅっと握り返した。
いつにも増して距離が近いスズカを噛み締めながら、サツキは激甘の恋愛映画を鑑賞するのだった。
「はわぁ……映画すごくよかったです! 私、めちゃくちゃ感動しました!」
「案外作り込まれてたね。最後は僕もすごく感動した」
「ですね! 続編も楽しみです! また見に来ましょうね!」
「もちろん」
二人は、仲睦まじく感想を言い合いながら駐車場へ戻った。
車に乗り込み、シートベルトを締めながらも、スズカはまだ映画の話をしていた。
「最後の最後、白ウサギがラッパを吹くシーンなんてもう……私、感動で涙が……」
余程映画の内容が気に入ったらしい。
スズカは興奮したままエンジンをかけ、ハンドルを握る。サツキは苦笑しながら、何気なく車窓へ視線を向けた。ちらり、となにかが視界の隅を過ぎったような気がして、サツキは首を傾げた。
しかし、スズカは気付かずに前進する。動き出した車に、サツキがハッとして声を上げた。
「待って! スズ……」
車が動き出した瞬間、サツキははっきりと人影を認識した。
「危ないっ!」
サツキが叫ぶとほぼ同時に、ドン、という鈍い音がした。
「きゃあ!」
慌てて、スズカが急ブレーキをかける。ガクンと車が揺れ、サツキは前のめりになってダッシュボードに手をついた。
今まで存在すら忘れていた心臓が、突然ばくばくと激しく鳴り出した。
車が止まると、恐ろしく深い静寂が車内を満たした。呼吸が止まるほどの恐怖が二人を襲う。
「ど……どうしよう。私、もしかして……轢いちゃった?」
スズカは顔を真っ青にして、呆然とハンドルを握っている。その横顔は、心配になるほど真っ青だった。
「と、とりあえず、ギアをパーキングに入れて。外に出よう」
「う、うん」
サツキに言われた通りにスズカはギアをパーキングに入れると、ドアを開けた。車体の前方に出る。
そこにはやはり、スーツ姿の男性がうずくまっていた。
「あ……あの、大丈夫ですか? ごめんなさい、私、周りをよく見てなくて」
スズカがおずおずと声をかける。サツキも慌てて男性に駆け寄った。
「どこ打ちました? すぐに救急車と警察呼びますから」
サツキが声をかけると、男性は額を押さえながらよろよろと鈍い動きで立ち上がる。
「……いえ」
骨折はしていないようだが、頭や腰は大丈夫だっただろうか。サツキは、男性の顔色をのぞき込みながら訊ねる。
「あの、大丈夫……ですか?」
「えぇ、まぁ」
男性が答える。意識ははっきりしているようだ。
「良かった……生きてる」
サツキの隣にいたスズカが、あからさまにホッとした様子で息を吐いた。サツキは眉間に皺を寄せ、スズカを見る。
「こら、スズカ。こんなときに不謹慎だろ」
「あ、そうだよね。ごめんなさい……」
スズカは仔犬のようにしゅんと肩を竦めた。
「あの、大丈夫でしたか? お怪我はしていませんか」
スズカは男性にそっと訊ねた。サツキは男性へ視線を戻した。
男性は上質の紺色のスーツを着ていて、立ち上がるとサツキと同じくらいの長身をしていた。ひょろりと縦に細長く、おまけに細面で、一見人当たりの良さそうなサラリーマンに見える。
「あーうん、足をちょっとやっちゃったみたいだけど、まぁ大丈夫ですよ、このくらい」
男性は言いながら少し足を動かして、一瞬、苦悶の表情を浮かべた。その一瞬の顔に、スズカが気付く。
「私がよそ見していたばっかりに、本当にごめんなさい! 今すぐ救急車呼びますから」
スズカは男性に深く頭を下げ、スマホを取り出した。しかし、男性は困ったように笑って両手を振る。
「いえいえ、大丈夫ですよ。実は今、会社に戻る途中でして、あまり時間がないんです。僕の方は本当に大丈夫ですから、あなた方はもう行ってください」
「いえ、でもそういうわけには……」
スズカは、困ったようにサツキを見た。とはいえ、サツキも初めての状況に困惑を隠せない。
サツキは人身事故など起こしたことはないが、こういうとき、この人の言うままになにもせずこの場を去るのが正しいことだとは思わない。
とはいえ本人は大事にしなくていいと言っているし、こういう場合はどうするべきなのだろう。
警察と救急車がまず一番に頭に浮かぶが、本人がそれはいいと言っている。法を守るべきなのか、それとも被害者の意志を優先させるべきなのか……。
そのとき、サツキは閃いた。
「あ、では、会社までお送りします。その足じゃ歩くのは大変でしょうし。それで、もし良ければ、お仕事が終わったら一緒に病院に行っていただけませんか」
「え……」
サツキの申し出に、男性は困ったように眉を下げた。
「お願いします。せめて、そうさせてください」
スズカも男性に頼み込む。すると、男性は困惑気味に眉を下げてサツキとスズカを交互に見た。
「……分かりました。でも僕の職場、本当にすぐ近くなんですけどね。ほら、あのビルだから」と、男性は駐車場から見えるすぐ近くのビルを指さした。
「良かった。あそこなら案内してもらうまでもないですね。乗ってください」
サツキは後部座席のドアを開けた。男
「あの……サツキくん」
男性に肩を貸しながら車の後部座席に乗せていると、スズカが控えめにサツキの袖を引く。
「ん?」
見ると、スズカの手は小刻みに震えていた。
軽傷であったとはいえ、人を轢いてしまったのだ。無理もない。
サツキはスズカへの配慮が欠けていたことに申し訳ない気持ちになった。
「いいよ、スズカは助手席に乗って。俺が運転するから」
優しく言うと、スズカはホッとしたようにこくりと頷いた。
* * *
「――あの、本当に気にしないでください」
サツキの運転で車が動き出すと、後部座席から男性が言った。
「僕、全然元気ですから。本当に。スピードもなかったですし、こんなの、青あざくらいで済みますよ」
「はい……ありがとうございます。本当にすみませんでした」
男性が気を遣ってスズカに話しかけるが、スズカは小さく謝罪の言葉を返すだけで口を閉ざしてしまう。
「スズカ……」
サツキはスズカの落ち込んだ声に、胸を痛めた。
規模によらず、他人を巻き込む事故を起こしてしまったのだから、相当ショックだったはずだ。
「大丈夫だよ、スズカ。俺もいるから」
サツキの言葉に、スズカはかすかに「うん」と頷いたものの、そのまま俯いてしまった。
サツキはちらりとバックミラーを見た。
「あの……失礼ですが、お名前をお伺いしても?」「あぁ。僕は、タカミといいます」
「タカミさんですね。俺はサツキです。こっちはスズカ。あの、あとで連絡先を聞いてもいいですか? 治療費とか、お支払いしますので」
「あ、はい。もちろん。あ……えっと、お二人は学生さん?」
「はい。この近くの聖和大学の学生です。今日は彼女と映画を見に来ていて」
サツキはちらりとスズカを見るが、スズカの反応はない。
「そうでしたか。実は僕も、今日ちょっと映画館に行っていたんですよ」
「え? でも仕事って……」
「はは。バレちゃいましたね。サボってたんです。どうしても見たい映画があって」
タカミはぺろりと舌を出した。茶目っ気たっぷりなその仕草に、サツキはくすっと笑う。
「真面目そうに見えたのに、意外ですね」
「たまにはいいんですよ」
「ですね」
「それより、せっかくのデートを台無しにしてしまいましたね。すみませんでした」
「いえ、とんでもない。こちらこそ、危険な目に遭わせてしまって申し訳ありませんでした」
タカミは人当たりの良い好青年だった。サツキは、人身事故の相手が変な人ではなくて本当に良かった、と内心で安堵するのだった。
ほどなくして、タカミが勤務するというビルの地下駐車場に入る。建物は近くで見るとかなり古く、ところどころヒビが入っている。耐震などの基準は大丈夫なのかと心配になるようなビルだった。
駐車場に車を停め、エンジンを切る。
「結構暗いですね」
昭和の建物といった雰囲気を感じる。タカミはこのビルで、一体どんな仕事をしているのだろう。
「あぁ……そうでしょう。古いんですよね、このビル。地震とか起きると、結構揺れるから怖くて」と、タカミは苦笑する。
「たしかに、これは結構揺れそうですね……ね、スズカ」
タカミと会話をしつつ、サツキは隣に座るスズカを見た。ずっと黙り込んだままのスズカに気が付き、サツキは訝しげに声をかけた。
「スズカ?」
シートベルトを外し、スズカの肩を揺する。
「どうし……」
すると、かくん、とスズカの首が折れた。長い黒髪が垂れ、顔は見えない。
「スズカ……?」
サツキは恐る恐る、スズカの髪をかきあげた。そして、その顔を見てサツキは息を呑んだ。スズカはまるで死人のように青白い顔をして、目を固く閉じていた。
心臓が、どくん、と大きく音を立てた。
「スズカ? おい、スズカ!」
スズカの肩を揺すり、声をかける。
「どうしました? サツキさん」
サツキの声に驚いたタカミが、なにごとかと乗り出してきた。
「スズカの様子がおかしくて……」
動揺しながらサツキはタカミを見る。
そのときだった。
ちくりとサツキの首元に鈍い痛みが走った。
次の瞬間、ぐらりと目が回り、平衡感覚が分からなくなる。
「なっ……ん……?」
ぐわんぐわんと目が回り、急激に眠気が襲ってきた。声を出そうにも、舌が上手く回らない。身体が突然鉛に変わってしまったかのように、ゆっくりと重くなっていく。瞼すら重い。
サツキは、助手席でぐったりとしたスズカに寄りかかるようにして倒れ込んだ。
タカミは、倒れた二人をじっと見下ろして呟いた。
「……よし。これで二千万」
いつの間にかタカミの顔からは、表情が消えていた。
トントントン。扉を叩くような音がして、スズカは目を覚ました。
開いた瞼の隙間から唐突に差し込んできた光に眩暈を感じ、思わず額を押さえる。
もう一度、今度はゆっくりと目を開く。光に慣れてきたことを確認しつつ周囲を見て、眉をひそめた。
スズカは、見知らぬ部屋にいた。
広さは、六畳くらいだろうか。小さな格子窓が上の方にひとつと、天井の隅に監視カメラが付いているだけの簡素な部屋だ。
スズカはその場所を、まるで刑務所の個室のようだと思った。いや、それより酷い。刑務所だって、簡単な洗面所と布団くらいはあるだろう。
何度か瞬きをしてから、スズカは立ち上がろうと下半身に力を入れた。すると、かしゃりとなにかが擦れる音がした。そういえば、さっきから左足首がずっしりと重い気がする。
スズカは足元を見て、息を呑んだ。
足首には、金属の輪が嵌められていた。金属の輪からは鎖が伸びていて、壁際のコンクリートの柱にがっちりと括りつけられている。
不意に、ガタンガタンという聞き慣れた音がスズカの耳朶を叩く。近くに線路でもあるのだろう。格子窓から外を覗きたいところだが、スズカの身長ではとても無理そうだった。
サツキがいれば……と思考を巡らせたところでハッとする。
「サツキくん!」
スズカの声が閉鎖された部屋に響いた。
サツキは今どこにいるのだろう。気を失う前まで一緒にいたはずだが。
立ち上がり、鎖ごと引きずって扉へ向かう。
ドアノブを回してみるが、鍵が閉まっているらしく扉はビクともしない。
続いて扉の向こうに人の気配がないか、スズカは耳を扉につけてじっとすましてみる。音はなかった。
どうやら、スズカは完全に閉じ込められてしまったらしかった。
壁にもたれ、そのまま座り込む。
スズカは黄ばんだ壁を眺めながら、記憶を辿った。
今日、スズカはサツキとデートに来ていた。スズカの運転で映画館まで来て、恋愛映画を鑑賞して、その後ランチに向かおうとした矢先、車で接触事故を起こしてしまったのだ。
相手はタカミという男性で、警察も救急車も呼ばなくていいと拒んだ。
代わりにタカミを会社まで送ることになり、サツキの運転ですぐ近くのビルへ向かったはずだった。
車に乗ってすぐ、タカミに話しかけられたことを思い出す。けれど、そのあとの記憶がない。
徐々に記憶が蘇ってくる。
そうだ。あのとき、なにか首に痛みを感じた。虫に刺されたような、なにかが入ってくるような鈍い違和感。
スズカは首元をさすった。鏡がないから分からないが、多分、あのときタカミになにかを打ち込まれて気を失ったのだ。
となると、スズカを監禁したのはあの男――タカミということになる。
サツキのことも気になるが……今はとにかく、この部屋から出ることを優先しなくてはならない。
スズカは監視カメラを睨んだ。
そのときだった。
ガチャリと扉の鍵が解除される音がして、スズカは扉に視線を向け、咄嗟に身構える。
開いた扉の隙間から顔を出したのは、上質な紺色のスーツを身にまとった例の男――タカミだった。
「タカミさん!」
スズカは弾かれたように立ち上がる。
「あぁ、起きました? スズカさん」
タカミは相変わらず、出会ったときのような穏やかな笑みを浮かべて、スズカを見下ろしている。
スズカは声を震わせて、タカミを見つめた。
「あの、ここはどこですか? 私はどうしてこんな……」
「いやぁ、助かったよ。君のおかげで首が繋がったからさ」
「は……?」
「俺、今借金で首が回んなくてさぁ。とうとう闇金に見つかって殺される、ってとき、いい仕事紹介してもらったの」
「仕事……?」
「そう、仕事」
タカミは、すうっと不気味に目を細めてスズカを見た。
「臓器移植って儲かるんだよねぇ。こんな楽な商売があるなら、もっと早く知りたかったぜ。今まで馬車馬みたいに働いてたのが馬鹿みたいだよ。ハハ」
タカミはまるで人が変わったように軽い口調で、わけのわからないことを言う。初対面のときの誠実そうな印象とはまるで違う、下卑た笑みをその顔に浮かべて。
「臓器移植……? あの、言ってる意味がよく分からないのですが」
タカミはひどく歪んだ笑顔を浮かべて、スズカの頭をよしよしと優しく撫でた。
「あぁ、分かんないかぁ。まぁそうだよね。普通は分かんないよねぇ」
タカミはゆらりゆらりと身体を揺らしてスズカに歩み寄った。スズカはタカミが近づくたび、同じ間隔で後退る。
しかし、がしゃんと足首の鎖がスズカをその場に留めた。足元へ視線を落としたスズカを見て、タカミは嬉しそうに笑った。
「いいよ。スズカちゃん可愛いから、特別に教えてあげる」
タカミはスズカの耳元に口を寄せる。
「君はこれからね、ミイラになるんだよ」
「ミイラ……?」
スズカは眉をひそめ、タカミを見上げる。
「そう。君の内臓は、これから全部取り出されるんだ。君は干からびて死ぬけど、代わりにその内臓は金に変わる。そしてそれは、俺のところに入るんだよ」
タカミはスズカの横をすり抜け、部屋の奥へ入って行く。
鎖を柱から外してその手に握ると、スズカを振り返った。
「さてと。行こうか」
「行くって、どこに……」
スズカが訊ねると、タカミはけらけらと笑った。
「えぇ……さすがにどんなバカでも、今の話聞いたらどこに行くかくらい分からない?」
スズカはその場にうずくまった。
「おおっと、大丈夫?」
うずくまったスズカを、タカミが抱き寄せる。直後、スズカが叫んだ。
「離して!」
スズカは、弾かれたようにタカミから離れる。しかし、鎖につまずき、派手に転んでしまった。
「痛っ……」
床に転がったスズカを表情もなく見下ろしながら、タカミは冷ややかに告げた。
「こらこら、そんなに怯えないでよ。怪我でもしたらどうするの。俺は君に危害を加えたりしないよ? だってさ」
タカミがぐいっと鎖を引き寄せる。スズカは再びタカミの腕の中に囚われた。
「だって君は、大事な大事なお金なんだからさ」
タカミの言葉は、スズカの脳裏にこびりついた。
スズカは目を見開き、タカミを見た。
「サツキくんはどこ?」
スズカが訊ねると、タカミはまるで明日の天気でも答えるように軽い口調で言った。
「あぁ、安心して。今から彼に会わせてあげるから。さあさあ、そういうことだから行こうね」
タカミがスズカの腰に手を回し、無理やり歩かせる。
「離してっ」
スズカが暴れる。しかし、タカミはスズカを脅すように低い声で言った。
「ダメだよ。急がないとサツキくん死んじゃうよ?」
「え……?」
「今からサツキくんの臓器摘出が始まるんだから。ちょうどサツキくんみたいな若い男の子の心臓が欲しいって言ってる依頼人がいてね。現法務大臣がよそで作った子どもなんだけど。彼、心臓疾患で余命わずからしいんだ。けど、ドナーなんて待っていられないからってことで、今回依頼してきたんだってさ。まったくタイミングいいよね」
タカミはスズカの足に嵌められた金属の鎖を手首に絡めると、「さ、おいで」と部屋を出ていく。
スズカは静かにその後をついていいった。
廊下に出ると、薄汚れたクリーム色の細長い空間が続いていた。数メートルごとに扉があり、スズカが閉じ込められていたような小部屋がいくつもあった。扉には数字が印字されていて、スズカが出てきた部屋には大きく『五』とあった。
「もしかしてこの部屋全部に、臓器売買用に拉致した人たちがいるの?」
スズカの声が、寒々しい廊下に響き渡る。
「そうだよ。ここにいるのは、みんな俺たちエコライフの人身御供になってくれる人たち」
「エコライフ?」
「そう。言ってなかったっけ? 俺が勤めてる会社だよ」
スズカは驚愕の表情を浮かべた。
「エコライフって、有名なネットコミュニケーションアプリの会社ですよね……?」 エコライフは、若者向けのSNSアプリやゲームアプリを開発している会社だ。日本限定ではあるが、国内のユーザーは総数八千万人を超えているという。
国内で知らない者はいないほどの大会社が、裏で臓器売買をしていたということなのか。
「アプリ開発なんて表向きだよ。実際はサイト管理の裏で自殺志願者を集めて荒稼ぎしてる。だけどこの前、不具合が起きてネットが機能しなくなっちゃったから、地道にこうやって若者をひっかけてたってわけ」
「なにそれ、ひどい……」
スズカはキッとタカミを睨みつけた。
「ひどいのは君でしょう。君、俺を轢いたんだよ? 俺は下手したら君に殺されてたかもしれないんだ。こっちも命かけてんだよね。結構怖いんだ、動き出しの車の前に飛び出すのってさ。だって気付かれなかったら、そのまま轢かれるじゃん?」
スズカはタカミを糾弾するように叫んだ。
「じゃあ、わざと飛び出したってことですか……? 私たちを拉致するために? 信じられない。あなた、命をなんだと思ってるの?」
すると、タカミは肩を揺らして笑い出した。目の縁に滲んだ涙を拭いながら、スズカを一瞥する。
「それ、俺を轢いた君が言えること? そもそも悪いのは君だよね? 君が俺を轢かなきゃ、君はここにいないんだからさ。それなのに俺が悪いみたいに言われても困るよ」
タカミの言葉にスズカは唇を引き結び、俯いた。
「それは……たしかに私の不注意が原因かもしれませんけど……けど、だからってこんなこと」
「君、馬鹿だよねぇ。普通おかしいでしょ? 警察呼ばないでーなんて言う被害者。絶対わけアリじゃん。疑わなかったの?」
タカミの言う通りだった。
スズカが黙り込むと、タカミは強引にスズカの肩を組んだ。
「まぁ、俺は生きてるから安心してよ。大丈夫大丈夫。君は人を殺してないよ。むしろ、俺の命を救ってくれるんだ。実はさ、一人拉致すると一千万もらえるんだよね。今日は君の彼氏もゲットできたから、売り上げは二倍! 二千万だよ。助かるよー、ありがとうね、スズカちゃん」
タカミは軽い足取りで歩き続ける。鎖がコンクリートに擦れるしゃらしゃらとした音が響いた。古びたエレベーターに乗り、タカミは慣れた手つきで七階のボタンを押す。
二人の足元が心許なく揺れ、ゆっくりと上昇していく。機械音だけが響く静かな空間で、スズカはタカミを見上げ、訊ねた。
「……車の中で私に打ち込んだのは、なに?」
「ただの鎮静剤だよ。君は少量で眠ってくれちゃったから助かったよ。もともと依頼人は男だし、彼から先に臓器摘出する予定だったから」
タカミは振り返ることなく答えた。
エレベーターが静止し、扉が開く。
タカミに引きずられるようにエレベーターを降りると、目の前にはさらに大きな扉があった。
目の前の扉の他に、両サイドにも扉がある。このフロアには、ざっと見たところ、三室あるようだった。
扉の頭上には、『手術中』という、テレビで見慣れた赤い表示看板がある。タカミがフットペダルを踏むと、扉が静かに開いた。空気が動き、独特の薬液の匂いが鼻を掠める。
室内の雰囲気は手術室を連想させる造りになっていた。だが、清潔感はあまり感じられない。薬液の匂いに混じって、獣臭いような、若しくは腐敗臭のような嫌な匂いが立ち込めている。
取り込んだ瞬間、肺の中にまとわりついて離れない。ひどく胸焼けする匂いだった。
壁にはところどころ黴がこびりついていて、床には血痕のようなものもあった。
「サツキくんはこの奥だよ」と、タカミが笑う。
スズカは鎖を引かれ、奥へ進んだ。
パーテーションの奥には、中央にひとつの手術台と、ベッドの真上にある大きな手術用の照明灯があった。そのサイドには、手術用の備品が置かれた器具台やモニター装置、麻酔ガスの配管など、細かな機械が揃っている。
スズカはその手術台を見て、目を瞠った。
手術台には、透明な酸素マスクをつけられたサツキが横たわっていた。点滴スタンドから伸びた管は腕に繋がれ、モニターにはサツキが生きている証拠の波形が規則的に波打っている。
「サツキくん……? サツキくん!!」
スズカは、叫びながら駆け寄ろうとする。
しかし、
「じっとして」
タカミに鎖を引かれて思うように動けない。
スズカは何度もサツキを呼ぶが、いくら呼びかけてもサツキは固く目を閉じたまま、微動だにしない。タカミがねっとりとした手つきでスズカの肩を抱く。
「これから君は、恋人の臓器が取り出されていくところを見るんだよ。ひとつひとつ、中身を空っぽにされて死んでいくところをね」
スズカの耳元で、まるで愛を囁くようにタカミが言う。
次第にスズカの呼吸が浅くなっていく。
「可哀想にね。君と付き合ったばっかりに、サツキくんは死ぬんだ」
目を見開いたまま、スズカはサツキを見つめていた。
空間に響くのは、サツキが生きていることを知らしめるモニター音。時計の音すらしない。スズカは視線を動かし、時計を探した。
「……ここ、時計ないの?」
息を吐くように訊ねる。
タカミはスズカを見て、一瞬眉を寄せた。
「時計? あぁ、言われてみればないかも。よく気付いたね」
「今……何時?」
スズカが訊ねる。タカミは眉を寄せながらも、ポケットの中をまさぐった。スマホを取り出し、画面を見ながら「午後五時七分だけど」と告げる。
「……そう」
スズカは床に視線を落とした。
それからどれくらい経ったのか分からないが、間もなく扉が開き、術衣を着た数人の男が入ってきた。
開いた扉の向こうからは、サイレンの音がかすかに漏れ聞こえている。
「なんだぁ? その子。見学か」と、一人の男が目を細めてスズカを見る。
「はい。この男の連れっす。死ぬとこ、見せてあげようと思って」
タカミがへらへらとした口調で答えた。
「鬼畜だな」
男たちの数人が笑う。
「ちゃんと鎖握っておけよ。その女が邪魔したらお前の臓器も引きずり出してやるからな」
「分かってますよ、まったく、カワイさんはおっかないなぁ」
スズカは男たちを見た。手術台を取り囲んでいるのは五人だ。タカミに脅しをかけたカワイという男は執刀医なのか、サツキの腹の辺りに立っている。
「依頼人は、もう来たんすか?」
「あぁ。今、隣で麻酔打ったとこ。効きが悪い奴らしいから、少し時間がかかると思って早めに入れたんだよ」
臓器提供の相手だろうか。スズカはじっとカワイを見つめた。
「そんじゃ始めるぞー」
カワイがメスを握る。
――と。
「待って!」
スズカが叫んだ。
カワイが面倒そうに、ゆったりとした仕草で顔を上げた。
「なに、おじょうちゃん」
スズカはカワイを睨みつけ、訊ねた。
「あなたたち……いつもこんなことしてるの?」
「え、うん、まぁ、そうだけど?」と、カワイが鼻で笑う。
「なんでこんなこと……あなた、臓器を取り出せるってことは、医者なんでしょ!? そんなに頭良いのに、どうして……」
すると、サツキを取り囲んでいたカワイたちは、げらげらと大きな声を上げて笑い出した。
「いやぁ君、面白いね」
「小学生みたいなセリフなんだけど」
「カワイさん、答えてあげたらどうですか?」
カワイは笑いながら、「そうだなぁ……」と息を吐く。
「医者ってさぁ、馬鹿げてると思わない? あんなに必死に勉強して、死に物狂いで患者助けてさ。でも、たった一回ミスしただけで犯罪者扱いなんだよ? おかしいよね。命を扱ってんのに、誰も労ってくんねーの。失敗したら人殺しで即裁判」
カワイは目を細めて、手に持ったメスを睨む。
「これは人助けだよ?」
「人助け……?」
「君、知ってる? 日本の臓器移植希望者は約一万六千人。そのうち、一年間に何人が移植を受けてると思う?」
スズカは口を噤む。男は首を傾け、立ち尽くすスズカをじっと見つめた。
「たった四百人だよ。この世は無常だよね。残りの一万五千六百人は、縋る藁すら与えられずに死んでいくんだよ」
スズカは眉を寄せた。
「でも、それは仕方がないことでしょう!? 誰が悪いわけでもないです!」
「それなのにさ、毎年日本の自殺者数は二万人を超えてるんだ。勿体ないと思わない?」
スズカは睨むようにカワイを見た。
「でも、私もサツキくんも自殺志願者じゃない」
「そうなんだよねぇ。これまではネットで自殺志願者を集めて臓器を拝借してたんだけど、この前、ちょっと不具合があったみたいでさ。集められなくなっちゃったんだよ」
今流行りの黒ウサギとやらにちょっかいかけられちゃってね、と、カワイは言う。
「……だから、道端で私たちみたいな人間を拉致してたっていうの?」
カワイは冷たい目をスズカに向けた。
「日本人は規律を守り、順番に従う? 馬鹿じゃないの? そんなことは命を前には通用しないよ。お金はいくらでも払うから、どうにか他の奴より自分を優先して助けてくれっていう患者は多い。だからこの商売が成立してるんだ」
「だからって、こんなこと間違ってる!」
「合ってるんだよ」
カワイはスズカの声に被せるように言う。
「……少なくとも、俺にはね。非合法だから失敗しても俺は訴えられないし、俺自身も守られる。ちまちま医者をやってるより全然金になるし、おまけに金持ちとのコネクションもできるし、最高の仕事だよ」
カワイはにっこりと目を細めて、身体ごとスズカに向き合う。
「君たちって、社会のゴミでしょ? 馬鹿で無知で、生きてるだけ酸素の無駄遣いなんだよ。君たちが今後、国のためになにかをするとも思えないし、生きてても意味はないでしょう。有能な金持ちたちの臓器になった方がよっぽどエコだよね」
「勝手過ぎる……」
スズカは、自身の足首にがっちりと嵌められた金属を見つめた。
「勝手なのはこの国だ。命には、序列があるんだ。絶対に死んではいけない命と、死んでもかまわない命。金は正義で、結果しか見られない人間はみんなゴミだ」
スズカはカワイを睨みつけた。
「もういいかな」
スズカは黙り込んだまま、口元を手で押さえた。
もはや、なにを言っても無駄だと思ったのだ。この人たちに正論は通じない。ネジが飛び過ぎているのだ。
「もう邪魔しないでね。これ、君の彼氏なんでしょ? 失敗したら無駄死にになっちゃうからさ。せめて臓器くらい、生かしてあげたいだろう?」
カワイは大きなマスクをしているというのに、下卑た笑みを浮かべているのがはっきり分かるほど目元を歪めて言った。
沈黙が落ちる。静止した空気を、とある音が震わせた。
「……もういいわ」
小さな声だった。
「あ? なんか、言ったか?」
男たちは顔を見合わせる。
「あんたたちが救いようのないクズだって、はっきり分かった」
その声は、これまでのスズカの声とは少し違った。異変に気付いたタカミとカワイが、スズカを見て眉を寄せる。
「そんなに誰かを救いたいなら、あなたたちが身を差し出せばいいわ」
冷たく言い放ちながら、スズカは口の中に手を入れた。
口蓋から透明のポリ袋に入った銀色の針のようなものを取り出すと、素早く真横にいたタカミの首に突き刺した。
「うがっ!」
防衛姿勢をとる間もなかった。タカミは目を白黒させて、呆気なくその場にひっくり返った。
カワイは驚きを露わに息を呑み、叫ぶ。
「なっ……なんだ、お前! タカミになにをした!」
「悪人は嫌い……。でも、善人ぶったあんたみたいな極悪人は、もっと嫌い。そろそろ殺していいかな? いいよね? もう我慢できないや」
スズカはゆらりと怪しげな動きで、自身の足首に繋がる長い鎖を拾い上げた。そして、それをぶんぶんと思い切り振り回すと、カワイへ向けて勢いよく放つ。
――ガシャァァン!!
けたたましい音がして、器具台がひっくり返る。肩に振り下ろされた鎖の重みに、カワイが呻き声を上げ、うずくまる。
「このクソアマ……」
カワイが落ちたメスを握り、スズカを睨んだ。
「ぶっ殺してやる!」
カワイが地面を蹴り、メスを振り上げスズカに向かってくる。
スズカはにやりと笑って、向かってくるカワイを軽々と身をひるがえして避けた。
「なっ……!?」
振り返り、首元に針を打ち込む。
「がっ……!」
カワイは呆気なく白目を剥き、スズカの足元に転がった。
「うわぁ、口ほどにもない」
カワイがばたりと倒れると、その振動で床が少し揺れた。
スズカはゆっくりと振り返る。そして、棒立ちになっている男たちに訊ねた。
「あんたたちの臓器も、私に提供してくれる?」
一歩、また一歩とにじり寄ってくるスズカに、四人の男たちは青ざめながら、後退る。
「なんだ……何者なんだよ、お前」
「け、警察じゃないよな……?」
すっかり怯えた顔つきの男たちに、スズカはころころと笑った。
「警察じゃないよ。私、正義感とかぜんぜんないもん」
スズカはくすりと笑って答えた。
「じゃあ、何者なんだよ!」
男が震える声で訊ねると、スズカはにやりと笑った。
「私はスズカ・クロキ。そこで伸びてるのは私のバディのサツキ・ツキノ」
「バディだと……?」
男たちは、呆然と口を半開きにして固まっている。どうやら、頭が回らないようだ。
「私たち、黒ウサギって名前で活動してるんだけど、知ってるかしら?」
「黒ウサギ……? 待てよ。それって、この前俺たちが活動拠点にしてるSNS、『HAKONIWA』をジャックしたハッカーか?」
「嘘だろ、そんな……お前が?」
「そうよ。ま、あんたたちの同業者ってところね」
「同業者ぁ?」
男たちは顔を見合わせ、困惑の表情を浮かべた。
「私は『HAKONIWA』で依頼を受けて、報酬を貰ってる便利屋。今回の依頼人は、今日の私たちみたいにあんたたちに拉致られて殺されちゃったシオン・ミカワさんのお姉さん」
スズカの告白に、男たちは未だにピンときていないようだった。
「シオン・ミカワ……? し、知らない! そんな奴」
「あぁ! 俺も知らない!」
揃って首をぶるぶると振る男たちに、スズカはもともと大きな瞳をさらに大きくした。
「うっそぉ。もう忘れたの? たった二ヶ月くらい前の話よ?」
と、スズカはわざとらしい口調で言う。
「シオン・ミカワは、今回の私たちと同様の手口で臓器提供の被害にあって亡くなった女性のうちのひとりも。今回、私たちが依頼を受けたのは、彼女の姉からだから間違いないはずなんだけどね」
「嘘だ! 俺たちは、拉致した人間のリストをちゃんと作ってる! その中に、そんな名前はなかったはずだ!」
「あらそう。それならぜひ、目視で確認させてもらいたいところね。そのリスト、どこにあるの?」
「それは……」
スズカは冷ややかな笑みを湛えたまま、男たちに訊ねた。
男たちは黙り込む。スズカはふっと笑った。
「まぁいいわ。それより知ってた? あなたたちが殺した彼女のお姉さん、実は東大医学部卒の優秀なお医者さまらしいですよ?」
やけに落ち着いたその声が、男たちの正常な判断をじわじわと奪っていく。
「な……それがなんだって言うんだよ!」
スズカは光を通さない無機質なガラス玉のような瞳で、男たちを見下ろす。
「彼女の依頼、特別に教えてあげましょうか……」
男たちの誰かが、喉を鳴らした。
鎖が擦れる音が響く。まるで時が止まったかのように、部屋の中に深い静寂が落ちた。
「彼女、今都内の臓器移植センターに勤めていて、臓器提供の実績が欲しいんですって。だから、妹を殺した奴を生かしたまま連れてきて、そいつをその実績に使わせてほしいんですって」
スズカはぺろりと舌を出した。赤く可愛らしい舌の上には、銀色の針がキラリと光っている。
スズカの言葉の意味を理解した男たちは、さらに顔を真っ青にした。汗でマスクが変色している。スズカの気分次第では、今すぐにでも殺されかねないと感じているのだろう。
「た……助けてくれ! 俺はなにもしてない! 主犯はカワイだ! 俺は付き合わされてただけで……」
「ふぅん?」
「俺だってそうだ! 頼む! 見逃してくれ!」
スズカは男たちの必死の命乞いをつまらなそうに聞きながら、手に持った鎖をぐるぐると振り回した。そして、不意にその鎖を思い切り振り上げる。
「ひぁぁっ!」
男たちは情けない悲鳴をあげながら、金属の鎖を避けた。
スズカの笑い声が響く。
「……あのさぁ、あんたたちなにか勘違いしてない? あんたたちは人殺しなのよ? そこに転がってる二人と同じ人殺し。見逃してあげてもいいけど、たとえ私が見逃したとしても、警察に捕まるのは時間の問題よ。それに……隣に寝てるのって、法務大臣の隠し子なのよね? あの人が死んだらあなたたち、どっちにしろ法でも守ってもらえないんじゃない?」
「そ……それは」
男たちの顔が凍りついた。今さら状況に気付いたらしい。
スズカは一度ふぅ、とため息をつき、男たちに微笑んだ。
「さて問題です。今の状況、どうしたら好転するでしょう?」
まるで小学生に問題を説く教師のように、スズカは柔らかな笑みを浮かべて男たちを見た。
男たちは戸惑うように顔を見合わせている。
しばらく考えるような沈黙が続いたのち、ひとりが言った。
「よ、予定通り、臓器移植すれば問題ないんじゃないか……」
周りの男たちも、ハッとしたように手術台で眠るサツキを見る。
「そ……そうだ。今はとにかく、防衛大臣の息子を助けなければ……」
男たちが絞り出した回答に、スズカは小さく笑った。
「さすが腐ってもお医者さん。頭がいいですねぇ」
鎖がずるり、と床を流れて音を立てた。
「でももちろん、そこで寝てる男の臓器はダメよ? サツキくんは使えないけど、一応私のお使いウサギだから。となると大変! また新たな問題が出てきちゃったね……?」
恐ろしく冷静な顔で声を弾ませるスズカに、男たちはごくりと息を呑んだ。
「さて、代わりに誰の心臓を差し出すの?」
「そ、それは……」
男たちはすべてを見透かしたような瞳で見つめてくるスズカに、顔を引き攣らせて視線を惑わせた。そしてその視線は、上流から下流へ流れる川のごとく、床に転がっている男に向いた。
カワイだ。
「……こ、この男でいい! こいつはいつも、誰よりいい思いをしてた! 当然の報いだ!」
「そ、そうだ!」
「カワイの心臓をやる!」
スズカの口角がゆっくりと上がっていく。まるで、待ってましたとでも言わんばかりに。
「そう? じゃあ、あなたたちにはこのまま執刀を頼みたいんだけどいいかしら?」
「わ……分かった。分かったから、その代わり、俺たちのことは助けてくれるよな?」
男は乞うような眼差しでスズカを見つめた。
「うんうん。私は、見逃してあげるよ。あ、でもその男はもらってくね。依頼人のために実行犯一人は持って帰らないといけないからさ」
スズカはにこにこしながら、床に転がっているタカミを指さした。
「あ、あぁ……それはかまわない」
誰ひとりとして、タカミをかばおうという者はいなかった。
「あ、それからもうひとつ」
男たちは、スズカの笑みにびくりと肩を揺らして怯えた。
「な……なんだよ、まだなにかあるのかよ」
「まあね」
スズカは男たちを見つめ、にやりと意味深に笑った。
「――さてと」
ひと仕事を終えたスズカは、手術台の上で眠るサツキの腕に巻きついたドレッシングテープを剥がし、留置針を引っこ抜く。
そして、自分の頭ひとつ分は大きいであろう体格差のサツキを、片手でひょいっと持ち上げた。
小柄なスズカの驚異的な力に、部屋の隅で様子を窺っていた男たちはぎょっとして怯えた目を向けた。
スズカはぐったりとしたままのサツキを抱え、もう片方の手で、足元に転がっていたタカミの片足を持つ。
「よし。そんじゃそろそろ帰ろうかな」
スタスタと扉へ向かうスズカに、男たちは安堵の息を吐いた。
「あ、そうだ」
スズカの足がピタリと止まる。男たちは息を呑み、身構えた。
ゆっくりと、スズカが振り向く。
「今回私は、あなたたちを逃がすとは言ったけどね。ドローンカメラで移植の様子は見てるから、ちゃんとやってね? 逃げたらどこまでも追いかけて、あなたたちの臓器引きずり出してやるから、そのつもりで」
笑顔で脅しの言葉を吐くスズカに、男たちは悔しげに奥歯を噛んだ。
そして最後に、スズカは形のいいアーモンド形の瞳をすうっと細めて、
「残念だったね、あなたたちの言うお馬鹿な若者にハメられて」
男たちは、その場にへなへなと座り込んだ。
「この半年、あなたたちのおかげで良い暇つぶしになったわ。ありがとね、遊んでくれて」
男たちは膝から崩れ落ち、しばらく呆然としていた。
「じゃ、執刀頑張ってね。バイバーイ」
スズカは笑顔で手術室を後にした。
スズカが去った室内に、再び静寂が落ちた。しかし、静寂が落ちたのはほんの一瞬で、直後、扉からぞろぞろと全身黒ずくめの人物が複数人なだれ込んできた。
呆然としていた男たちは、再び慌てて身を縮めた。
「ひっ……!?」
上擦った声で尋ねる。
「だ、誰だお前ら……!?」
黒ずくめの人物は、全員くるぶしの長さまである漆黒のロングパーカーをまとい、うさ耳付きのフードを目深に被っている。さらに、顔には目元を隠すウサギ型の仮面をつけていた。
どの仮面の人物も小柄で、華奢だった。彼らは男なのだろうか。というか、大人なのかすら分からない。
「これより、速やかに臓器摘出の準備に入ります」
妙に高い声――というか、子供の声だった。
男たちはそのちぐはぐさに、余計に恐怖を抱いた。
「急げ急げ!」
「手分けしないと!」
「こっちはボクが、あっちはキミが」
「ボクは文書の差し替えを」
「名簿はどこかな、こっちかな」
手術室の中に大人か子供かも分からない、いや、性別すら不詳の仮面のウサギたちの声が、不気味に響く。
「だから……お、お前らは一体誰なんだって聞いてんだよ!」
男は堪え切れなくなったのか、とうとう怒鳴った。すると、ウサギたちは動きを止め、一斉に男たちを凝視した。
「ひっ!」
男たちは引き攣った声を上げる。
「ボクらは黒ウサギの親衛隊。お使いウサギだよ」
「これより、速やかに臓器摘出の準備に入るよ」
再び動き出したウサギたちは、とことことカワイに群がっていく。
「一、二、三」
あっという間に手術台にカワイが乗せられる。仮面の人物は慣れた手つきで留置針をカワイの静脈に打ち込み、ドレッシングテープで固定する。流れるような手つきだ。とても素人とは思えない。
もうひとりが麻酔用マスクをカワイに被せ、さらにもうひとりが点滴スタンドを準備する。
手術台の脇には、新たに清潔な器具台が運び込まれた。
「よし!」
「これにて準備完了」
「では」
手術の準備が整うと、ウサギたちは最後にドローンカメラをセットした。
「これ、勝手にいじらない方がいいよ」
「どういうことだ……?」
「いじると、バーンってなっちゃうかも」
「そうそう。BAN! BAN!」
男たちはドローンを見て、ごくりと唾を飲んだ。
「キャハハハハ」
「じゃあまたね」
それだけ言い残すと、ウサギたちはさっさと消えていった。
数時間にも思えるような数分だった。
「な……なんだったんだ……?」
「さぁ……」
もはや男たちは、今の光景が果たして現実に起きた出来事だったのかすら、判断できなくなっていた。
妙に冷静で怪力の女のことも、妙な仮面を被った大人か子供かも分からない黒子のような人物たちも。
すべてが悪い夢だったのではないかと思えてしまう。
不意に、誰かが口を開いた。
「このまま……」
逃げてしまえばいいのではないか、と、言おうとしたときだった。
ドローンが機械音を上げて動き出す。ハッとして、男たちは互いを見つめ合う。
お互い、顔面は脂汗でぎとぎとだ。手術台の上では、カワイが眠りこけている。
――ヴィィィイン……。
ドローンのカメラがじっと自分たちを見ているからだろうか。男たちは、変なプレッシャーを感じていた。
それぞれ声もなく立ち上がり、無言で何度か頷き合う。
そして――男たちは、手術台に無防備に横たわったカワイの腹にメスを突き立てた。
* * *
スズカはエコライフのビルの地下駐車場にいた。車の後部座席の下に隠してあったいつものパーカーワンピースに着替えると、地べたで眠りこけているサツキの傍らに寄った。
「おーい、サツキくん。いつまで寝てるのー?」
ぱちぱちとサツキの頬を叩く。
「ん……」
数度頬を叩いたところでようやく、だらりと緩み切っていたサツキの表情筋が、ぴくりと反応する。
「んん……?」
眉がひそめられ、うっすらと目が開いた。濡れた瞳がスズカを捉える。
「お。やっと起きたか、僕ちゃん」
スズカがサツキから手を離すと、サツキの身体がずるりと地面に落ちた。
「あだっ!!」
サツキは素っ裸のまま、古びたビルの地下駐車場に転がった。
「たた……って、もう! なにするんですか、スズカさん!」
サツキが情けない声を上げる。そんなサツキをスズカは呆れ気味に見下ろした。
「いや、なにするんですかって……こっちのセリフなんだけど。サツキくんさぁ。そろそろクビにしてもいいかな? 君、今回もずっと素っ裸で伸びてただけでなんの役にも立ってないんだけど」
「はっ! そうでした!? って、きゃあ!?」
ぼんやりしていたサツキはようやく自分の置かれた状況を思い出した。そして、自分が布一枚もまとっていないことに気付き、慌てて手で大事なところを隠す。
サツキは瞳に涙を溜めて、スズカを睨んだ。
「すっ……スズカさん!! 見た!? 僕のその……見た!?」
「ないない」
スズカは真顔で手を振った。あからさまにホッと息を吐くサツキに、スズカはぴしゃりと言った。
「そもそも使えない後輩には興味がない」
「がーん! そんなぁ」
「バイトのお使いウサギたちの方がよっぽど使えるよ」
「はは。まぁそう言わないでくださいよ、スズカさん」
スズカの辛辣な言葉に、サツキは苦笑を漏らした。
「それにしても無事でよかったです。そういえば、タカミは……アイツら、どうなりました?」
「まったく、起きたら起きたできゃんきゃんうるさいなぁ……」
スズカはサツキを無視して軽自動車に乗り込むと、グローブボックスの中に隠しておいたもう一台のスマホを取り出し、いじり出した。
タカミの前で使用したスマホは、彼に拉致されたときに奪われたままである。あれはダミーで、スズカの情報はなにひとつ入ってないからいいのだが。
ほどなくして、液晶画面にドローンの映像が映し出された。
「おっ、もう臓器摘出始まってる」
「えぇっ!? 嘘、なに!? 誰の臓器!? え、僕生きてる?」
パニックになっているサツキを冷ややかに一瞥し、スズカはスマホに視線を戻す。
サツキはスズカの背後からスマホを覗き見た。
「うわぁ……マジか。これマジもんの臓器……うぇぇ、グロ」
サツキは眉を寄せ、スズカに抱きつきながらスマホ画面を凝視している。
「……サツキくん、苦しいってば」
「あ、ごめん」
スズカは絡みついてくるサツキをひと睨みしつつ、まだ伸びているタカミへ視線を移した。
まだ、仕事は終わっていない。
スズカはフードを被った。
「とにかく今はそいつをミカワさんとこに届けにいくよ。サツキくん、ぼさっとしてないで早く着替えて。タカミを拘束したら車に乗せて」
「了解です!」
元気よく返事をして、サツキは速やかに黒のロングパーカーに着替えた。スズカと同じデザインのものである。
続けてタカミの手足を拘束して荷台に詰め込むと、サツキは運転席に乗り込む。
シートベルトをしっかり締め、エンジンをかけながらサツキはちらりとスズカを見た。
「なに?」
サツキの視線に気付いたスズカが、スマホから顔を上げずに聞く。
「……いえ、あの……すみませんでした。僕、また役に立てなくて」
「……べつに。サツキくんにはハナから期待なんてしてないし」
「はは……そうですか……」
サツキはぽりぽりと頬をかいた。
「……でもまぁ、演技自体は上手かったよ。タカミ、全然疑ってなかったし」
スズカはスマホを操作しながら、淡々と言った。
不意に褒められたサツキは、嬉しさに頬を緩ませる。
「本当ですか!?」
スズカはちらりとサツキを見て、ため息を漏らした。
「……いや、なににやけてんのよ。演技以外はダメダメだったんだから喜ばない」
「はぁい」
サツキはにやけながら車を走らせる。
「まったく、単純ね」
「だって今日は運転するスズカさんも見られたし、デートできたし」
バカなのだろうか。スズカは呑気なサツキを殴りたくなった。スズカはスマホの画面を消し、車窓に肘をついてサツキを見た。その視線は冷凍ビームのごとく冷たい。
「へぇ……? 君、ちゃっかり擬似デート楽しんでたんだ? 随分余裕があったのねぇ? まあそうよね。君、私がカワイたちと対峙してる間、麻酔用マスク付けてぐーすか寝てたんだもんね」
恐ろしく低い声に、サツキは身震いした。車内の空気が五度くらい下がった気がする。
「……いや、あの……ハイ、すみませんでした」
サツキは内心しょんぼりとしながら、ハンドルを握り直した。二人を乗せた赤色の軽自動車は、すっかり薄闇に染まった街を滑っていく。
スズカは再びスマホをいじり出した。
運転しながらちらりと画面を覗くと、スズカはSNSアプリを開いているようだった。黒ウサギのアカウントがある『HAKONIWA』だ。
「もしかして、また新たな依頼ですか?」
「いや」と、スズカは首を横に振る。サツキは首を傾げた。
「それよりサツキくん、ラジオつけて」
スズカは、スマホから目を離さずにサツキに指示した。
「あ、はい」
サツキは言われるまま、ラジオをつける。ジリジリというノイズ音の隙間から、かすかに女性パーソナリティーの声が聞こえてきた。
『――えー、ここで速報です。たった今、国営放送チャンネルが黒ウサギを名乗るアカウントに電波ジャックされました』
「えっ!」
サツキは思わずラジオの音量を上げ、耳をすませる。
『電波ジャックの影響により放送は中止、突然手術中の映像に切り替わったとのことです。同時刻、黒ウサギを名乗る人物から通報を受けた警察が、現場と思われる都内のビルに向かったところ、映像にあった手術は実際に行われており、映像内で執刀されていたエコライフ代表のケンタ・カワイと思われる男性はその後死亡が確認されたとのことです。なお、ケンタ・カワイ氏は臓器摘出術をされていたとみられ、隣室でケンタ・カワイ氏からの臓器移植を受けたと思われる二十代男性が発見されました。男性は近くの病院に救急搬送されましたが、搬送後、命に別状はないとのことです。同ビルには複数人の若い男女が鎖で拘束されていたとの情報もあり、詳しい状況は未だ分かっていないとのことですが、警察は未成年監禁、殺人、及び違法臓器売買の疑いがあるとみて捜査を進めて……』
あまりにも早いスズカの仕事に、サツキは文字通り目を丸くした。
「嘘! もうこんな進んでんの!? スズカさんすご! 手回し早!」
まだ車が動き出して一時間も経っていない。いくら警察に先に根回ししていたとしても、あまりにも仕事が早い。
サツキは関心を通り越して感動した。
「もともとやることは決まってたし、予定通りに進めただけだよ」
「はぁ……」
サツキはちらりとスズカの横顔を見た。
スズカは現在、大学七年生である。対してサツキは四年生だ。
清楚で可憐なスズカに一目惚れして同じゼミに入り、少しでもスズカに近付くべく身辺調査という名のストーカー行為をしていたところ、スズカ本人にバレたのである。もちろん、スズカがストーカー男を許すはずもなく、問答無用で殺されかけたのだが、まだ死にたくなかったサツキは、ただひたすら謝り倒したのである。
サツキの必死な命乞いとまっすぐな好意に、さすがのスズカも気の毒に思ったのか、裏の仕事を無償で手伝うという取引をして、サツキはなんとか命を繋ぎ止めたのである。
仕事を手伝い始めて、スズカがハコニワの黒ウサギであるということを知ったときはさすがに驚いたが、それでもサツキの気持ちは変わらなかった。
たとえスズカが、その小さな手で何人もの人を殺めていたとしても、たぶんサツキは彼女を愛することは止められない。
スズカはサツキに目を向けずに言った。
「いい? これからも私のバディでいたいなら、これくらいのことは朝飯前にやってくれないと困るからね」
「頑張ります……」
スズカは、可愛らしく健気な女の子などではない。意地が悪いし、可愛い顔をして言うこともやることも残虐だ。
「……あの、スズカさん」
「なに」
「ひとつ、聞いてもいいですか?」
「くだらないこと聞いたら海に捨てるからね」
「スズカさんは、どうしてこんな危険なことしてるんです?」
「……さぁ、なんでだろうね?」
スズカは意味深に笑った。不意に向けられたその笑みに、サツキはうっかり頬を染める。そして、小さく息を吐いた。
やっぱり、どう頑張ってもサツキはスズカへの想いを諦めることはできないらしい。
その後、スズカとサツキは臓器医療センターの駐車場に入ると、車を停めた。
「じゃあ、コノミさんへの報告とタカミの引渡しはサツキくんに頼もうとしよう」と、スズカが言う。
「えっ、いいんですか!?」
サツキは驚いた顔をしてスズカを見た。
まさか、失態ばかりのサツキにそんな重要な仕事を任せてもらえるとは思わなかったのだ。
「ま、成長してもらうためにも、少しは働いてもらわないとね」
「任せてください!」
サツキは白衣とウサギの仮面を手に、笑顔で車から降りた。
ストレッチャーにタカミを乗せ、職員通用口の前で仮面を付けて白衣を羽織ると、使用中と書かれたプレートがぶら下がった会議室にこっそりと入った。
中には、白衣姿の若い女性がいた。サツキがストレッチャーを押して中に入ると、女性はハッとしたように顔を上げた。今回の依頼人であるコノミ・ミカワである。
「お待たせしました」
「……あなたが『HAKONIWA』の黒ウサギ?」
サツキはそれには答えず、ストレッチャーを彼女の前に差し出した。
「こちら、約束の臓器です」
「本当に……やってくれたのね」
仮面越しに視線を感じる。
「テレビ、見ました。エコライフの件、約束通り表沙汰にしてくれてありがとうございました。それに、この男も……妹を殺した奴だけは、どうしても私が殺したかったので。とても満足です」
と、コノミはストレッチャーの上のタカミを見て冷ややかに笑った。
その笑みに、サツキは平静を装いながらも背筋がひやりとした。
「この男が、私の可愛い妹を殺したの?」
「えぇ。それとこちら、この男が拉致した人間のリスト表になります」
スズカから渡されていた紙をコノミに差し出す。コノミはそれを見て、苦しげに眉を寄せた。
「こんなにたくさん……許せない」
その顔は、どこかスズカに似ているような気がした。
サツキは静かに口を開く。
「では、これで依頼は完了ということで」
コノミは頷いた。
「はい。お金は必ず振り込みます。本当に、ありがとうございました」
「ご利用ありがとうございました」
サツキはタカミをコノミに引き渡すと、スズカが待つ車に戻った。
無事、依頼を遂行したサツキは、駐車されている赤色の軽自動車に乗り込んだ。
「おつー。どうだった?」
助手席から呑気な声が返ってくる。
スズカは未だにスマホをいじっていた。サツキを見ようともしない。少しは褒めてくれるかと思ったのだが、甘かった。
「無事、依頼完了です。ちゃんとコノミさんに渡してきましたよ」
「そう」
サツキはちらりとスズカを見た。
「……あの、スズカさん。さっきからその……なにしてるんですか?」
「んー?」
さっきからずっとスマホをいじっているスズカのことが、サツキは気になって仕方がない。
サツキはハザードを消してウインカーをつけた。雨上がりの空の下に、ちかちかとオレンジ色のライトが点滅する。
アクセルを踏み込むと、車がすうっと滑り出す。
ふたりを乗せた軽自動車は、ビルの明かりの隙間を縫うように薄闇の街に溶け込んでいく。
「スズカさん、夕飯フレンチ予約してあるんですけど食べていきません?」
「んー……そうねぇ」
心ここに在らずの返事に、サツキはムッとしてスズカの手元を見た。
「いったい、さっきからスズカさんはなにを……ねえってば」
サツキはスマホを覗いた。スマホ画面の中では、例のアバター、黒ウサギが狭い部屋の中でくつろいでいる。しかしそこにもう一体、サツキの知らない不気味な生き物がいた。
「……って、なんですか、そのピエロ。キモ!」
「さっきからうるさいなぁ……。残務処理済ませたら相手してあげるから、少し黙っててよ」
スズカの言葉に、サツキはきょとんとした。
「残務処理って、それならさっき僕が……」
すると、スズカの指先がぴたりと止まった。顔を上げ、サツキを見る。
「あ、もうひとつの依頼の方。というか、ぶっちゃけそっちが大元」
「……は?」
「あぁ、そういえば、サツキくんは途中参加だったっけね」
「ちょ、その大元の依頼って、誰からですか!?」
「シオン・ミカワ」
「シ、シオン・ミカワ……」
どこかで聞いたはずのその名前。
「え、それって」
サツキは視線を彷徨わせた。
「半年前、黒ウサギのアカウントに依頼メッセージが来たのよ。それがこの人。シオン・ミカワ」
スズカはとんとん、と指先でスマホの液晶画面を叩いた。そこには、スズカのアバターである黒ウサギと、泣き顔のピエロがいる。ピエロの方がシオンのアバターなのだろう。
スズカは話を続ける。
「コノミさんの異常な束縛から解放してほしいっていうのが、シオンさんからの依頼だった。コノミさんの今回の依頼、かなりぶっ飛んでたからお気付きでしょうけど、彼女、なかなかネジが飛んじゃってる人でね。妹を溺愛するあまり、平気で法に触れることもしてたらしいの」
「法に触れるって……?」
「たとえばそうね。シオンさんにうっかり惚れちゃった人を魚の餌にしちゃったり?」
サツキは青ざめた。たった今、その当人と会ってきたばかりである。
「それ、殺人っていうんじゃ……?」
「彼女の依頼を完璧に遂行するには、シオンさんが死んだことにする必要があった。それで、前々から目を付けてたエコライフの違法臓器売買を利用させてもらったってわけ」
「そ、それってつまり……今回の臓器移植の被害者のひとりを、シオンさんと差し替えたってことですか?」
「簡単に言えばそういうこと。そしたら、今度はコノミさんからエコライフへの復讐の依頼が来たんだよ」
「な……なんという……」
サツキは驚愕した。
つまり、スズカの言うところによるとこういうことだ。
半年前――サツキがスズカの正体を知る前の話だが――シオン・ミカワから、黒ウサギ宛に依頼が来た。
依頼の内容は、束縛の強い姉・コノミからの解放。
両親を早くに亡くしたコノミは、シオンを娘のように大切に育てたせいもあってか、昔からかなり束縛が強いらしかった。
シオンがもし自分の元から逃げたとすると、しつこく追ってくるのは間違いないと言う。
「そ、そんなに……?」
サツキが口を挟んだ。スズカは冷めたように笑った。
「そもそも妹を殺した人間の内臓を自分の患者に移植するっていう考え自体、結構ヤバくない?」
「まぁ、たしかに……」
それについては、サツキもスズカの意見に同意する。
「ま、そういうことで今後の彼女の安全面を考えた結果、死の偽造が一番かなって」
その際スズカが利用させてもらったのが、かねてより黒い噂のあったエコライフだった。
これを機に調べてみると、エコライフはSNSで自殺志願者を募り、違法な臓器売買で荒稼ぎをしていた。
「ご丁寧に拉致した人間のリストを作っているようだったから、その中にシオン・ミカワの名前を入れて、代わりに適当な戸籍を入れ替えたってわけ」
シオンをコノミの呪縛から救うというのが今回の真の案件である。
今回スズカは、コノミから逃れたいというシオンをエコライフが殺したということにして、シオンの依頼を叶えた。そして、シオンをエコライフに殺されたと思い込んだコノミが、今度は彼らへの復讐を企ててスズカに依頼をしてきたのである。
結果、スズカはその両方の依頼をきちんと叶えたのだ。
「で、でも、ずっと監禁されてた人がスズカさんに依頼を頼めるほどの大金を持ってるとは思えないんですけど……」
「あぁ。それはね、私がテストに合格したら依頼を受けるって言ったの」
「テスト……?」
サツキは眉を寄せ、首をひねった。
「私のアカウントを乗っ取れるかどうか試してみたのよ。話してみたらなかなか切れ者だったし度胸もあるし、サイバー関係に強そうだったからね。結果……一瞬で私のスマホ乗っ取って合格。今回のドローン操作と国営放送のハッキングは私じゃなくて彼女。ついでに、裏で奴らの行動を見張って指示をくれてたのも彼女ね」
「なっ……」
サツキは開いた口が塞がらなかった。
「ま、お利口さんなお使いウサギが一羽増えたってとこかしらね」
「な……なんでそんな重要なこと黙ってたんですか!?」
「あは。ごめん、言ったと思ってたよ」と、スズカは軽く笑った。
「いやいやいや。笑いごとじゃないんですけど!?」
サツキは狐につままれた気分だった。
「まぁいいじゃない。結果全部上手くいったんだし」
「それはそうですけど……」
納得がいかない。
「さて、そういうわけでこちら、依頼人の泣き顔ピエロさんでーす」
と、スズカは後部座席へ手をやった。
「は……?」
サツキはバックミラーを見た。そして、ぎょっとした。
後部座席には、見知らぬ女性がいた。
ショートカットで切れ長の瞳の美しい人だ。
「だれ!?」
「はじめまして。シオン・ミカワ改めリコ・クラナです。これからよろしくね! サツキくん」
リコは涼し気な笑みを浮かべてサツキに自己紹介をした。
「あなたがシオン!? イメージと違うんですけど!!」
コノミが溺愛するなら、もっと幼くて、スズカのような可愛らしい外見かと思っていたのだ。シオンはどちらかというとボーイッシュで中性的な雰囲気をしていた。
サツキはバックミラー越しにリコを見つめ、深いため息をついた。
「なんか騙された気分……」
「敵を騙すには味方からって言うからね」と、スズカ。サツキはすかさず反論した。
「いや、今回僕を騙す理由なかったですよね!?」
後部座席では、リコが肩を揺らして笑っている。
「おふたりは仲良しなんですね」
「いやいや」
「ないない」
スズカとサツキは即否定する。
「私も早くサツキさんみたいに一人前になれるよう、頑張ります!」
「リコさんは既にサツキくんより全然できるから安心して」
「なっ!」
「本当ですか!?」
サツキはムッとした顔で、わざと大きなため息をついた。
「はぁ……午前中のスズカさんは可愛かったのになぁ」
「は? なによいきなり」
「スズカさんはちょっと外面が良過ぎですよ。僕、出会った頃からすっかり騙されてます」
「あのね、サツキくん。言わせてもらいますけど、騙されるって言う言葉ほど身勝手なものはないのよ。そもそも、サツキくんは私のなにを知ってたっていうの? なにも知らずに私に理想を抱いて、それと違ったら騙されたとかいって好き勝手騒ぐ。私からしたらたまったもんじゃないんだけど?」
「……た、たしかに」
スズカの言葉はまさにその通りだった。
「それより私、お腹減った。このままフレンチ食べて帰ろ」
「行きます! やった! スズカさんとデート!」
「がーん。つまり私はお留守番ですか?」
「まさか。私とリコちゃんで行くんだよ」
「えっ!?」
スズカは極上の笑顔を浮かべて、サツキを見つめた。
「当たり前でしょ? 新入りを置いてくつもりのひとは置いてくわ」
「……いや、あの本当にふたり分しか予約してないんですよ。意地悪とかでなく」
「どうにかしよう? せっかく依頼完了したお祝いなんだから」
「あ、それなら私、お店の予約改竄しましょうか?」
「おぉ! いいね、それ」
「いやダメでしょ!」
さらっと賛同するスズカをサツキが止める。
「じゃあ別の店行こう。私の行きつけの会員制のバーとかどう?」
「スズカさんの行きつけ!?」
サツキの瞳がきらりと輝く。
「三人でざっと二百万くらいいくと思うけど、もちろんサツキくんの奢りだよね?」
「すみません、今金欠なのでそれだけは勘弁してください」
サツキは即座に真顔で謝った。
「あら、お金ないの? それならいいバイト教えてあげようか。単発で一千万稼げるらしいよ」
一瞬きょとんとしたサツキだったが、すぐにスズカの言葉の意味を理解した。
「……いや、それ俺死ぬじゃないですか!」
「はは」
「まったくもう……分かりましたよ」
サツキはぶつくさ文句を言いつつも、数日前に予約していたフレンチの店へ向かってハンドルを切る。
「惚れた弱みですね、ドンマイです」
リコのひとことに、サツキは苦い顔をした。
はてさて、半年がかりの大仕事を終えたラパンは、新たな仲間を迎えて、東京の夜景の海に消えていくのだった。
四角く切り取られた画面上に、赤い瞳の小さな黒ウサギがいる。黒ウサギは狭い真四角の部屋の中を行ったり来たり、ときおり毛繕いをしたりしてくつろいでいる。
空間には、大音量でラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』が流れている。
画面上にドーナツのアバターが現れた。それまで画面上でくつろいでいた黒ウサギの耳が、ぴんと立った。
『黒ウサギの君に依頼したい。家族を奪ったテロリストを殺したいんだ。赤いオオカミの本拠地を突き止めてくれ』
赤い瞳が、怪しげにすうっと細められる。黒ウサギはカラフルなおもちゃ箱を漁り、真っ赤なボウリングボールを取り出した。
『さぁ、ショータイムの始まりだ』
黒ウサギは、まんまるの手でボウリングボールを掴み、かまえる。
画面上には、『LADY』の文字。
黒ウサギは、持っていたボールを素早くスライドさせた。
『COROCOROCORO……』
黒ウサギの手から離れたボールは、画面上をまっすぐに滑り、やがて……。
『BAN!!』
ビィーッとけたたましいアラーム音が鳴り響いたあと、画面が暗転した。
黒ウサギは今日も、『HAKONIWA』の中で暗躍している。
* * *
――赤い瞳を持つ黒ウサギを見つけたときは、よく目を凝らすべきだ。
それが敵なのか味方なのか、はたまたそのどちらでもないのか、きちんと見定めなくてはならない。
見定めるには、影を見ればいい。黒ウサギが微笑んでいるのか、それとも嘲笑っているのか、きちんとその影を見て判断するのだ。
もしも影が嘲笑っているのなら、追いつかれる前に必死に逃げた方がいい。
その赤い瞳にとらわれてしまったら、もうおしまいなのだから。
黒ウサギは、可愛い草食動物などではない。愛でるべきものでもない。それは、笑顔で誰かの血肉を貪り喰らう、冷酷で獰猛な獣なのだ。
みなさん、街中で美しい瞳の黒ウサギを見かけたら、くれぐれも気を付けて。