盲目の王弟は青痣令嬢に愛を乞う~見えないあなたと醜い私~

 王城を通り過ぎ、少し森に分け入ったところで馬車は止まった。

 王城の後ろに隠れるように、こじんまりとした離宮があった。

 落ち着いた色の屋根と外壁が、森の色合いによく馴染んでいる。

 森と邸、ふたつでひとつ、そんな感じがした。

 出迎えに立っていた侍従が、庭に続く道を案内する。

 邸には入らず、直接お茶会の場である庭に向かうようだ。

 邸の内装も見てみたかったなと、少し残念に思いながら、メイベルは後をついていく。

 木々に囲まれた道は、掃いても掃いても落ち葉が重なるのだろう。

 侍従とメイベルが歩くたびに、足元でカサカサと乾いた音を立てた。

 まだ寒くはない。

 今年の冬は、雪が降るかしら。

 メイベルは曇天を見上げる。

 まわりの自然に触発され、メイベルの心は懐かしい領地を思い出していた。

 たくさんの枯葉を集めて、みんなで焚火をしたわね。

 あれは何歳の頃だったろうか。



「どうぞ、メイベルさま。ディーンさまがお待ちです」



 はっとすると、侍従が右手を奥へ伸ばしていた。

 続く小道を進むと、白いテーブルに緑色のテーブルカバー、青と金の縁取りがされたティーセットが見えた。

 そして、その傍に用意されたひじ掛け付きの数脚の椅子、ワゴンの上にはフルーツに飾られたケーキ。

 しかし最も目を引いたのが、テーブル横に立ちメイベルを待っていた王弟ディーンだった。



(美しい人……)



 癖のない長い金髪を背に流し、常緑樹の葉を思わせる深緑色の目は、メイベルの方を向いているのに目が合うことは無い。

 

(本当に目が見えないんだわ)

 

 うっかり立ち止まってしまったメイベルだったが、それではずっとディーンを立たせたままになると気がついて歩を進めた。

 そして近くまでくると、ディーンに向かってカーテシーをする。



「初めまして、リグリー侯爵家のメイベルと申します」

「どうぞ楽にして。ディーン・ウィロビーです。よろしく」



 美しい人は声まで透き通っていた。



「お好きなところへかけて。椅子を引いてあげられなくてごめんね」



 ディーンの手が、お好きなところと言いながらも隣を示したので、メイベルはそこに座ることにした。

 侍従がすぐに椅子を引いてくれる。

 侍従はディーンの椅子も引いて、ディーンの右手に椅子とテーブルの位置を教えながら、ゆっくりと腰かけさせた。

 あまり慣れていないようだったので、きっとこの庭で日頃からお茶会をしているわけではないと分かる。

 ワゴンからケーキが運ばれ、温かいお茶が供される。

 お茶の香りもすばらしいが、瑞々しいフルーツがたっぷり載ったケーキの艶やかさに目が釘付けとなる。

 メイベルはさっそくカトラリーを取った。

 フルーツが落ちてこないように、そっと側面にフォークすべりこませる。

 およそ一口で食べられるだろう大きさの欠片にし、零さないよう口に運んだ。

 噛み締めるまでもなく、ほどけるようにスポンジが舌の上に散った。

 追ってフルーツの香りとクリームの甘さ、それらが一体となる幸福。

 あまりの美味しさにメイベルの口角が上がった。

 すぐに、二口、三口と食べ進めた。

 

(いけない、私ばかり食べているのではないかしら?)

 

 ふと気になったメイベルはディーンに視線を移す。

 そう言えば、目が見えないのにどうやってケーキを食べるのだろう?

 目が見えているメイベルでさえ、ケーキというのは品よく食べるのに苦戦する。

 不思議に思ってディーンの手元を見ると、ケーキがすでに一口大にカットされ、フォークに載せられていた。

 ディーンは危なげなくフォークを摘み上げ、ゆっくりと口に運ぶ。

 咀嚼する様は絵画のようだった。

 メイベルの手が止まったのが分かったのか、ディーンが話しかけてきた。

 

「ケーキは口に合った?」

「ええ、とても美味しいです」



 最初の滑り出しとしては、いいように思った。

 しかし、男性とお付き合いした経験がないメイベルは、こういうときに何を話せばいいのか分からず、ケーキを食べてしまったあとは口ごもることがしばしば。

 それはディーンも同じようで、二人の会話は弾んでいるとは言い難かった。

 では空気が悪いかというと、そうでもなく。

 なんとなく二人で一緒にいる空気に、メイベルは和むものを感じていた。

 ディーンも最初は緊張していたようだが、そのうち森の方に視線を向けるようになった。

 耳を澄まして何かの音を聞いていたり、すっと鼻をあげて深呼吸をしていたり。

 決して退屈だからという訳ではなく、ディーンは日頃からこうして森を楽しんでいるのだろうな、とメイベルは感じた。



「もう秋の香りがする。森は紅葉してる?」

「まだ紅葉とまではいきません。少し葉が黄色味を帯びてきたところはあります」



 もしかしたらディーンの独り言だったかもしれないけれど、メイベルは返事をしてみた。

 ディーンは嬉しそうにメイベルの方に顔を向けた。

 やっぱり目は合わないけれど、メイベルをしっかり捉えている。



「黄色……メイベル、黄色はどんな色?」

「どんな……?」

「みんなは色々な表現をするよ。夏の太陽の色だとか、酸っぱい果実の色だとか」



 メイベルは考えた。

 目の見えない人にとって、色とはなんだろうかと。

 

「そうですね……春の日差しの中で咲く、野花の花弁のような色だと思います」



 メイベルは、なるべく感覚に訴える表現をした。

 指で触ったり、肌で感じたり、目が見えなくても分かるような。

 ぽかぽかした温かい春、そよ風にゆれる花々のしっとりとした柔らかい花弁。

 それが黄色、メイベルはそう思ったのだ。

 

「花弁か。いい表現だね」



 ディーンは嚙みしめるように答えた。

 そして、まるでそこに花弁があるかのように指をこすり合わせる。



「春が待ち遠しくなったよ」



 ディーンとのお茶会は日が傾く前に終わった。



「また誘ってもいい? メイベルと一緒にいるのが楽しかったから」

「もちろんです。いつでも誘ってください」



 どうせメイベルは家にいるばかりで出かける予定もない。

 いつ誘われても問題のない身の上だった。

 

「嬉しいよ。じゃあ、また」



 ディーンがはにかむように笑ったので、メイベルは頬が赤くなるのを止められなかった。

 でもメイベルがいくら頬を赤くしても、ディーンには見えていない。

 それに安心して、メイベルは思うさま頬を赤くした。



 ◇◆◇



 メイベルを庭へ案内した侍従は、王の執務室にいた。

 初顔合わせとなった今日のお茶会の内容を報告するためだ。

 ジョージは前のめりになり、侍従の話に耳を傾ける。



「では、ディーンからその令嬢に、次回の誘いをしたというのだな?」

「はい、その通りです。会話はあまり弾んでいるようには見えなかったのですが……」

「それはそうだろう、ディーンも令嬢も、人見知りの引きこもりだ。会話が弾む方が不自然なのだ。しかし……これはいい兆候だな。臣下たちにもしっかり伝えておかねば」



 魔力量の多いディーンに婚約者ができた。

 しかも、相手のことを好ましく思っているようだ。

 相手が魔力量の多い令嬢と知れば、臣下たちは歓喜するだろう。

 そしてジョージに側妃を娶れなど、言ってこないはずだ。



「なんとしてでもこの婚約、結婚まで持っていかねばならぬ」

 

 ジョージは保身のために強く決心する。



「お前には引き続き、ディーンの侍従として二人の様子を観察し、報告する義務を申し渡す。どんな小さなことでも、漏らさずに言うように」

「かしこまりました」



 侍従は深く頭を下げ、王の前を辞した。

 それからも、お茶会が開催されるたび、侍従はこうしてジョージへ報告を持って上がった。

 しかし数回目のお茶会で起きた出来事については、王であるジョージだけでなく先代王にも報告をしたほうがいいと判断した。

 この侍従の判断が、このときは吉と出た。
 秋も深まってきた。

 ディーンとメイベルのお茶会は、すでに数回目となっており、二人の間に漂う雰囲気もずいぶんと気安いものになった。

 お互い、あまり話すことを好むタイプではないと分かってからは、黙っていても苦にならず、むしろ静けさが居心地よかった。

 今日も森のそばの庭で、穏やかに時が進む。

 このまま、ディーンとの婚約が続けば、その先には結婚が待っている。

 こんなにも美しい人が夫になるなど、想像ができない。

 メイベルはディーンの横顔を見た。

 ディーンは目をつむり、森で鳴いている鳥の声を聞いていた。

 だんだんと冷えてきた空気をつんざくように、時折鋭く高い声がする。

 閉じた瞼に生え揃う金色のまつ毛が、顔に長い影を落としていた。

 

(そう言えば、治癒の魔法は盲目にも効くのかしら?)

 

 怪我や病気の類であれば、メイベルの治癒魔法はその効果を示す。

 ディーンにはまだ、メイベルが何の特殊魔法持ちなのかを話していない。

 それは親族間だけの秘密だからだ。

 だが、いずれ夫になるのならば、もう親族と見なしてよいのではないか。



「あの、ディーンさま。もし良かったら目を診てもいいでしょうか?」

「ん? 僕の目を? どうぞ、好きなだけ」



 メイベルは『診る』つもりだが、ディーンは『見る』と受け取ったようだ。

 そこでもう少し説明を付け加えた。



「実は私、治癒魔法の使い手なのです。それで、ディーンさまの目に魔法をかけてみてもよいでしょうか?」

「え? 治癒魔法の?」



 ちょっとディーンは驚いたようだ。

 確かに治癒魔法の使い手は珍しい。

 国にも数人、いるかどうかだ。

 メイベルのように名乗り出ていないだけかもしれないが。

 

「僕が小さなときに、治癒魔法をかけてもらったことがあるよ。そのときは何も起こらなかったんだ」

「その使い手の方は、どれほどの魔力量だったのでしょう?」

「どうだったかな? 治癒魔法というだけでかなり稀有だからね。魔力量はあまり問題視されていなかったように思う」

「そうですか――自分で言うのもなんですが、私の魔力量はとても多いのです。もしかしたら以前の使い手の方が出来なかったことも、出来るかもしれません」



 あまり期待を持たせてもいけないと思ったが、どうしてもやらせてもらいたくてメイベルは強く出た。

 そんなメイベルの様子が珍しかったのか、ふっとディーンは笑った。



「いいよ、好きにして。僕は目を閉じたほうがいい?」



 ディーンがメイベルの方を向いて、目を閉じて見せた。

 そこへメイベルはそっと近寄り、ディーンの目に手をかざす。



「そのまま、しばらくジッとしていてくださいね」

「わかったよ」



 ディーンの瞳にメイベルは治癒魔法をかける。

 自分の魔力がディーンの目に浸透し、怪我や病巣を探している。

 しかし、何も見当たらず魔力はそのまま通り抜けていった。



(おかしいわ。――もう一度やってみましょう)



 メイベルは繰り返した。

 だが、何度やっても、結果は同じだった。

 

(目は健康だわ。でも実際には見えていない……)



 メイベルはかざしていた手を下ろす。

 手が離れたのが分かったのか、ディーンは目を開いた。



「ディーンさま、目にはどこにも異常がありません。とても健康です」

「健康だけど見えない?」

「そうです、おかしいんです。ディーンさまは先天性の盲目ということですが、これは病気ではありません。何か他の、違うものによって見えなくされているんだと思います」

 

 メイベルに分かるのはそこまでだった。

 絶対に病気ではない。

 自信を持って言える。



「そうか……僕の目は、どうしてしまったんだろうね」



 ディーンは少しうつむいた。

 治癒魔法が使えると豪語したことで、期待をさせてしまっただろうか。

 メイベルは強気に出た自分のことを後悔した。



「違うよ、メイベルの気持ちはありがたかった。どうか萎れてしまわないで」



 見えるはずがないのに、ディーンはメイベルの心を読む。

 空気から何か伝わっているのだろうか。

 ディーンは手すり付きの椅子の線を辿り、メイベルの手を見つける。

 そっと握りしめて、温もりを分け与える。



「嬉しかったよ。僕のためを思ってくれたことが。そして治癒魔法が使えることを、告白してくれてありがとう」



 本当は隠しておくはずだったのでは? とディーンは聞いた。

 メイベルの答えは決まっている。



「親族には話してもいいのです。ディーンさまは……」



 顔が熱い。

 きっと真っ赤になっている。

 メイベルはディーンの手を握り返す。

 

「私の夫となる方ですから」



 メイベルが言い切ると、ディーンはハッと目を見開き、そしてメイベルに負けない勢いで顔を赤くした。

 また森から鳥の鳴き声が聞こえる。

 秋の高い空に吸い込まれていく。

 しかし、二人はもう寒くはなかった。



 ◇◆◇



 侍従は王への報告のあと、先代王の執務室へ向かった。

 今日のディーンとメイベルのお茶会の中で、不思議に思ったことがあったからだ。

 ジョージはそんなこともあるんだなと、軽く流していたが。

 ディーンの父親である先代王は、違う反応をする気がした。

 事前に面会の約束をとっていなかったので、侍従はかなり待った。

 それでも伝えるべきことだと判断した。

 ジョージが即位してからも、先代王はある程度の権限を握り、執務を行っている。

 その仕事の隙間時間に、なんとか謁見の許可が出た。

 

「話を聞こう。ディーンのことだな」

「はい、本日ディーンさまは、婚約者のリグリー侯爵家メイベルさまとお会いになりました。そのときにメイベルさまが治癒魔法をディーンさまの目にかけられたのです」

「何? メイベル嬢は治癒魔法の使い手か?」

「そのようです。しかし、ディーンさまの目が見えるようにはなりませんでした」

「そうか。以前も治癒魔法の使い手を探し出し、試したことはあった」

「ところがメイベルさまは、不思議なことをおっしゃったのです。ディーンさまの目はとても健康である。これは病気ではなく、他の何かによって見えなくされていると」

「病気ではない?」

「メイベルさまはとても魔力量が多い方です。きっと以前の治癒魔法の使い手よりも、分かることがあったのではないでしょうか」



 先代王は椅子の背にもたれ、熟考し始める。

 

「分かった。知らせてくれたことに感謝する」



 侍従は深く頭を下げて、先代王の前を辞した。

 先代王の言葉を聞く限り、伝えて良かったことのようだ。

 侍従はホッと胸をなでおろし、ディーンの住む離宮へと戻る。



 先代王はすぐに魔法師団長を呼んだ。

 魔法師団長とは、この国の魔法使いのトップを意味する。

 国に所属する魔法師、魔法剣士、魔法研究員などを率いて、統括している。

 当代の魔法師団長は若く、しかし才能にあふれた人物だ。

 長い白髪をたなびかせ、溶岩のように赤い目を光らせ執務室へやってきた。

 

「お呼びと伺いました」

「相談がある。ディーンのことだ」



 先代王は侍従の持ってきた話を魔法師団長に伝えた。



「儂はこれまで、ディーンの盲目は病気だと思っていたので、最先端の医療ばかりを試していた。しかし、もっと先に思いつかねばならないことがあった。――呪いの可能性だ」

「光属性よりも珍しい闇属性の使い手がかける呪い、のことですね?」

「もしかしたらディーンの目が見えないのは、呪いのせいかもしれない。なんとか出来ないか」

「……呪いは発動させた者を見つけるのが解呪のためには必要不可欠。先代王、呪われる心当たりがおありのようですね?」



 苦渋にゆがむ先代王の顔を見て、魔法師団長は問いかける。

 先代王にとって、それはずっと背負ってきた業だった。



「そうだ、心当たりがある。側妃フロリタの生んだディーンを呪うほど恨んでいる人物……」



 小国出身であったがゆえに、先代王の側妃になることを拒めなかった王女フロリタ。

 だが、フロリタには恋人がいた。

 無理やり別れさせられた幼馴染の護衛騎士、名前はセリオ。



「きっと彼だろう」
 先代王は正妃と愛し合って結ばれた。

 しかし正妃には魔力がなく、生まれた王子ジョージの魔力量は少なかった。

 これを危惧した臣下たちから、魔力量の多い側妃を娶り、魔力量の多い王族を残すべきだと意見が上がる。

 そもそも臣下たちの反対を押し切って、魔力のない正妃と結婚した先代王だった。

 そう何度も意見に反対することが出来ず、臣下たちが選んでつれてきた小国クルス国の王女フロリタを側妃として迎えた。

 正妃を愛していた先代王は、義務として嫌々フロリタを抱いた。

 子が出来るまでの我慢だと思った。

 

 そしてフロリタは子を孕む。

 やっと解放されると先代王は喜んだ。

 きっと正妃も長らく苦しんだだろう。

 もう魔力のない自分を責めなくていい。

 これまで以上に正妃を大事にし、決して生まれる子に嫉妬しないよう配慮した。

 魔力量が中ほどの先代王と、魔力量が多いフロリタとの子だ。

 ジョージよりも魔力量が少ないことは考えられない。

 そして実際に、魔力量の多いディーンが生まれたのだが。



 先代王はディーンの生まれた夜を思い出す。

 外は大雨で、雷も鳴っていた。

 出産日を過ぎても陣痛がこなかったフロリタに、その日、無理やり人の手で陣痛を起こしたのだ。

 かなり母体が危険であると先代王に声がかかったのは、陣痛が始まってずいぶん経ってからだった。

 ジョージのときが安産だったので、先代王には危険という言葉がピンときていなかった。

 取りあえず向かった側妃の部屋で、先代王は大量の血にまみれたフロリタの姿を見ることになる。



「なんだ……これは?」



 お下がりください、血で汚れます、と注意する産婆を押しのけ、先代王はフロリタへ近づいた。

 うめき声をあげ苦しむフロリタが、しきりに誰かを呼んでいた。



「気をしっかり持て!」



 先代王は手を握り、意識がもうろうとしているフロリタを励ます。

 握り返された先代王の手は、骨が折れるかと思うほど軋んだ。



「うぅ……セリオ……セリオ……ごめんなさい」



 涙を流しフロリタは繰り返し謝っている。



(誰だ、セリオとは?)



 疑問に思ったが、事態は一刻を争う。



「すぐに生まれる、大丈夫だ!」



 先代王は正妃のときのように、とにかく安心させなくてはと思った。

 しかしすでに、フロリタは死出の旅路へ向かっていた。

 焦点の定まらぬ瞳で、空を見つめる。



「セリオ、愛しい人……どうか幸せに……」



 先代王の手を力強く握っていたフロリタだったが、その手がパタリとシーツへ落ちる。

 先代王を一度も見なかったフロリタ。

 その瞳が最期に見ていたのは、己の愛する人だったのだろうか。

 そして先代王は初めて、フロリタに恋人がいたことを知る。

 魔法大国であるウィロビー王国から側妃の打診を受けて、小国クルス国が断れるはずがない。

 フロリタは恋人セリオと別れさせられ、嫁いで来たのだ。

 それを、先代王は義務だけで抱いた。

 子さえ孕めばいいと、いい加減な抱き方をした。

 フロリタも感情を持つ人間であると、どうして気がつかなかった。

 悲劇の主人公は自分たちだと、正妃と慰め合っていたが。

 悲劇の主人公はここにもいたのだ。

 フロリタとセリオ。

 引き裂かれた二人。

 先代王が愛を貫いたせいで、フロリタの愛は壊された。



 おぎゃああああ!!



 フロリタが息を引き取ったことで、産婆が容赦なく赤子を引っ張りだした。

 血だらけの体を湯に浸けられ、ほわあほわあと泣く赤子。

 魔力量の多いことはすぐに分かった。

 臣下たちは王子であることを喜んだ。

 もしジョージに不都合があっても、替えがあると。

 しかし、そう上手くはいかない。

 医師により、赤子は目が見えていないと診断された。

 そして産んだフロリタも、もうこの世にはいない。

 臣下たちは静まり返った。

 ザアザアと振り続ける豪雨と、血だらけで死んだフロリタの体を照らす雷光。

 白い御包みの中で、ぽっかりと開いた赤子の瞳は、先代王と同じ緑色だった。

 先代王はその光景が、いまだに脳裏から離れない。

 自分たちの犯した罪の末路がそこにあった。

 

 先代王はその後、臣下にセリオについて尋ねた。

 臣下はしぶしぶ、フロリタの元婚約者だったと口を割った。

 ウィロビー王国に側妃としてフロリタを連れてくるため、セリオとの婚約を解消させたのだ。

 フロリタとセリオは幼馴染として小さな頃から仲良く育ち、自然とお互いを思い合うようになった。

 セリオはクルス国では高位の貴族であるにも関わらず、いつもフロリタのそばに居たいからと護衛騎士になった。

 国中がそれを知っていて見守っている、そんな恋仲だったという。

 まもなく結婚という幸せな時期に、二人は引き裂かれた。

 セリオはフロリタを連れて国外へ逃げようとしたところを、捕まえられて牢に繋がれた。

 その隙に、臣下たちはフロリタをこの国へ連れてきたのだ。

 それからセリオがどうなったのか、臣下にも分からないという。

 先代王は頭を抱えた。

 なんてことをしてしまったのかと。

 自分が適当に扱ったフロリタは、セリオの大切な人だった。

 王女であることも高位貴族であることも捨てて、二人は駆け落ちするほどに愛しあっていたのだ。

 罪の深さに震えた。

 

 フロリタが生んだ王子は、ディーンと名付けられる。

 先代王はせめてもの罪滅ぼしに、ディーンの目が見えるよう手を尽くした。

 国に数人いるかいないかという治癒魔法の使い手を探したり、医療の発達した国から医師団を招いたり、最先端の医薬品にだって惜しみなく金を注いだ。

 だが違ったのだ。

 ディーンの目は健康で、見えないのは呪いのせい。

 そう、自分たちのせいだった。



「魔法師団長、セリオの行方を追ってくれ」

「かしこまりました」

 

 魔法師団長は特殊魔法持ちだ。

 それも世になかなか生まれない、千里眼の使い手だった。

 見たいと思うものを、望む限りあまねく見ることが出来る。

 セリオの探索にはおあつらえ向きだった。



「探す地域を絞るために、もう少し情報を集めます。どうか今しばらくのお時間をいただきたく思います」

「分かった。なるべく早く頼む」



 魔法師団長が執務室を出ていったあとも、先代王は考えに沈んだ。

 セリオ――どんな気持ちで愛する女が生む子を呪ったのか。

 その子には確かに、愛する女の血も流れているというのに。

 ディーンは、真っ直ぐな金髪だったフロリタとそっくりの髪を持つ。

 瞳の色こそ先代王と同じだが、顔つきは繊細で美しく、フロリタを彷彿とさせた。

 

「もし、正妃が儂以外の男に嫁ぎ、子を孕んだとしたら……」



 子を呪うだろうか?

 それともその子に流れる、正妃の血を愛することが出来るだろうか?

 答えは永遠に出そうになかった。



 ◇◆◇



 魔法師団長は魔法師たちを集め、諜報活動を命じる。

 クルス国の王女だったフロリタの元婚約者、セリオについての情報を得るために。

 透視、読心、遠耳……。

 ありとあらゆる特殊魔法の使い手が、一気にクルス国を調べ上げる。

 セリオが表舞台にいたのは20年以上も前だ。

 王女の恋人として、庶民にも恋物語が伝わっていた護衛騎士の身分は、駆け落ちをしようとしたことではく奪されただろう。

 元々は高位貴族だっただろうが、一族からは犯罪者として放逐されたかもしれない。

 だが、呪いが継続しているのなら、必ず発動させた人物は生きている。

 セリオの親族を辿り、当時の裁判記録を見直し、こぼれる噂話を拾う。

 優秀な魔法師たちにより、牢に繋がれた以降のセリオの、20年の溝が埋められていく。

 おそらくこの地域にいるだろうと絞られてからは、魔法師団長が千里眼でしらみつぶしに捜索した。

 セリオが闇魔法の使い手であることは発覚している。

 あとは本人の居場所さえ分かれば――。



「いたぞ。すぐに遠距離移動ができる魔法師を呼んでくれ。現地へ向かう」

 魔法師団長がセリオを発見したのは、先代王が依頼をしてから3週間後のことだった。
 遠距離移動の使い手と一緒に、魔法師団長もセリオのもとに向かう。

 現地で緊急事態が発生したときにも、自分がいれば迅速に指示が出せるからだ。

 魔法師団長たちが飛んだ先は、田舎の小さな病院の入院患者専用病棟だった。

 そこに、20年前は時の人だったセリオが、静かに横たわっていた。



「話せますか?」



 魔法師団長はベッドに近づき、やせ細って老いたセリオに尋ねる。



「……誰だ?」



 か細いながらも返事が来たので、魔法師団長は話せると解釈する。



「フロリタさまの生んだ赤子を、呪いましたか?」



 名乗りもせずに単刀直入に質問する魔法師団長に、ちょっとセリオは面食らったようだ。

 しかしその内容に心当たりがあったのだろう。

 少しだけ顔を歪めた。



「遅かったじゃないか。もっと早くに、捕まえに来てくれると思っていたのに」



 ぼそぼそとした気力のないしゃべり方。

 もしかしたら、かなり重い病気なのかもしれない。

 ますます魔法師団長は切り込んでいく。

 早くこの会話を終わらせた方が、セリオのためだと考えたからだ。



「もう十分でしょう。解呪してください」



 せっかちな魔法師団長に、セリオが小さく笑った。



「誰かは知らないが、ウィロビー王国の人だよな? どうか俺の話を聞いてくれ」



 長く話せるとは思えない、しわがれた声で願われた魔法師団長は、取りあえずうなずいた。

 それを見て、セリオはごくりと唾を飲み込み、乾いた唇を舐め、話し出す。



 ――それは長らく苦しんだセリオの、懺悔だった。

 順風満帆だと思われたフロリタとの将来に、ある日突然大きな影が覆いかぶさった。

 己の力ではとても太刀打ちできない魔法大国に、愛するフロリタを奪われたのだ。

 一時は牢で囚われていたセリオだったが、悲恋を知った国民の嘆願もあり、フロリタには手を出さないという契約魔法を結んで釈放される。

 フロリタからは、どうか私を忘れて幸せになってと、一言だけ書かれた手紙が残されていた。

 だが聞くつもりはなかった。

 セリオは一矢報いたかった。

 大国という権力に物を言わせて、フロリタとセリオを引き裂いたウィロビーの王族に。

 幸いなことにセリオは闇魔法の使い手だ。

 誰の力を借りずとも、呪うことが出来る。

 しかし、セリオの魔力量は少なく、単独では呪いの効力も弱い。

 そこで、かけた呪いを保持し続ける魔道具を用意した。

 湾曲した万華鏡のような形をしたそれに、セリオは数か月かけて魔法を重ねてかけ続けた。

 呪いの発動条件は血を捧げること。

 万華鏡のレンズに、血をこすりつけるだけでいい。

 だがセリオは、魔道具が完成してから迷い出した。

 魔道具にかけた闇魔法は、王族の血が流れる赤子への呪いだ。

 フロリタが妊娠したことを知り、頭に血が昇った結果だった。

 これを発動させることで、フロリタは悲しむだろうか。

 フロリタはどんな赤子であれ、きっと愛するだろうから。

 それを思うとセリオはつらかった。

 本来ならば、フロリタはセリオの子を生むはずだった。

 この国で、温かい家庭を築くはずだった。

 セリオはさんざん泣いたあと、魔道具に血を捧げた。

 呪いに気がついたウィロビーの魔法剣士に、殺されることを夢見て。



 フロリタが、赤子を生むと同時に世を儚んだと知らされる。

 ウィロビー王国からは多額の弔慰金がクルス国に贈られた。

 愛する女の死が、クルス国を潤す金になった。

 セリオはますます希死念慮に囚われた。

 手っ取り早く解呪するには、呪いを発動させた者を殺せばいい。

 セリオが死ねば、フロリタの生んだ赤子にふりかかった呪いは解ける。

 早く、早く、俺を殺してくれ。

 実は魔道具に再度セリオの血を捧げれば、呪いは解ける。

 だがセリオはフロリタのもとに逝きたくて、その頃に魔道具を手放してしまった。



 待てど暮らせど、ウィロビー王国からの追手は来ない。

 セリオは自死だけは出来なかった。

 もし自死を選べば、死後にフロリタと同じ世界へ逝けない。

 自死を選んだものは、次の生の輪廻から外されるのだ。

 この世では結ばれなかったフロリタと、せめて来世で結ばれたかった。

 だからセリオは待ち続けたのだが。



「ようやくか、遅いんだよ」



 セリオは病魔に侵され寝たきりとなり、このベッドの上で死を待つだけとなっていた。

 もうすぐフロリタのもとへ逝ける。

 その希望だけが頼りだった。

 それなのに、そんなときになって、ようやく追手が現れたのだ。

 笑いたくもなる。

 どうしてもっと早くに来てくれなかったのかと。

 これまでに、さんざん後悔した。

 フロリタの生んだ赤子は、大きくなった今も呪いに苦しんでいるだろう。

 こんなに長く呪いが続くのなら、セリオは呪わなかったかもしれない。

 きっとフロリタには怒られる。



「あなたは死ぬことを望んでいるのですね」



 話を聞き終わった魔法師団長はそう判断した。

 間違ってはいないだろう。

 しかしこれは難しい問題だ。

 魔法師団長は先代王の判断を仰ぐことにした。

 このまま、セリオの望むように死を与えるのか、それともセリオが手放した魔道具を探すか。

 どちらにしても、セリオの命はそう長くないように思えた。



 ◇◆◇



 魔法師団長からの連絡を受けた先代王は、深いため息をついた。

 やはり、そうだった。

 呪ったのはセリオだった。

 しかし話を聞いてみると、セリオも苦しんだようだ。

 すぐに追手が来て殺されるものと思っていたのに、予想以上に長生きしてしまったのだ。

 その間、自分がかけた呪いを後悔し続けて、魔道具を手放したことを後悔し続けて。

 呪いは不幸しか生まなかった。



「出来れば魔道具を探し出し、セリオの血を捧げ解呪してもらいたい。しかし、その前にセリオの寿命が尽きるというのならば仕方なし」



 魔法師団長にはそう伝えた。

 死にたがっていたセリオには申し訳ないが、魔法師団長の手を汚させるのも酷だ。

 本当に罪深いのは自分たちなのだから。



 先代王からの指示を受け、魔法師団長たちは魔道具を探し始める。

 セリオから魔道具の特徴を聞き出し、誰もが分かるよう絵にした。

 手分けをして聞き込みさせるため、魔法師だけでなく魔法剣士や魔法研究員にも声をかけた。

 そしてセリオには監視をつけた。

 刻一刻と手がかりのないまま時間は進む。

 

 魔法師団長たちがセリオを訪問してから8日後、セリオが息を引き取った。



「フロリタ……待たせたね」



 そう呟き、逝ったのだという。



 ◇◆◇

 

 セリオが逝った瞬間に、呪いは解けた。

 そしてそれは、ディーンとメイベルが向き合い、ちょうどお茶を飲んでいるときだった。



「え? 見える?」



 ディーンの言葉にメイベルは顔を上げる。

 それまでケーキに夢中になっていたのだ。

 いつもは合わない二人の視線がぶつかる。

 ディーンの緑の瞳が、しっかりとメイベルの青い瞳を捕まえた。

 何が起きているのか。



「メイベル、唇にケーキがついてる」



 ふっと笑ったディーンが、自分の左端の唇をトントンと指さして教えた。



「え? 見えてるんですか?」



 メイベルは混乱した。

 慌て過ぎて、持っていたフォークをケーキ皿に落としてしまう。

 カチャンと耳障りな音がした。

 しかしそれに気を取られるでもなく、ディーンの腕がゆっくり伸びてくる。

 そっとメイベルの唇をなぞり、ついたクリームを指ですくう。

 そしてディーンはそれを舐めた。

 

「これはキャラメルソース……キャラメルってこんな色をしていたんだ」



 感心しているディーン。

 それどころではないメイベルと侍従。

 侍従は転びそうになりながら、王城へ向かって走っていった。

 おそらく誰かに報告をするのだろう。

 メイベルがその姿を目で追っていると、離れたはずのディーンの腕が戻ってきた。



「メイベル、こっちを見て。もっと顔を見せて」



 そんな甘い言葉に、メイベルが逆らえるはずもなかった。
 ふわふわの茶髪にディーンの指が絡む。



「メイベル、思っていた通りだ。君は美しい。そして温かい……」



 ディーンは得難いもののように、メイベルの髪に唇を寄せる。



「これが茶色――キャラメルソースと似ている」



 しげしげと髪を見られて、メイベルは顔が赤くなる。

 お手入れはしているつもりだけど、ふわふわの髪はパサつきがちだ。

 ディーンの艶やかな金髪には、とても及ばない。



「ねえ、メイベル、瞳も見せて。それが青色なんでしょ?」



 椅子は隣り合っているので、顔を近づけられると逃げ場がない。

 まるでキスが出来てしまう距離に、ディーンの顔がある。

 急にディーンの目が見えるようになったことといい、この距離感といい。

 メイベルの脳はこの状況を処理できないでいた。

 しかし、ハッと気がつく。



(化粧は? 青痣はきちんと隠れてる? もし汗で化粧が薄れていたら?)

 

 この距離では誤魔化すことは難しい。

 どうしたら……!



「ディーン! 目が見えるようになったのか!?」



 離宮の庭に、男の人の声がこだました。

 ドタドタと忙しない靴音と共に現れたのは、王のジョージだった。

 メイベルはすぐに椅子から立ち上がり、深く礼をする。

 それを残念そうにして、ディーンも椅子から立ち上がった。



「その声は、兄さん?」



 ディーンの緑目は、短い青髪を乱れさせているジョージを見つめる。

 走ってきたのだろう。

 ジョージは肩を上下させ、状況を理解しようとしていた。



「本当だ、本当に見えている。なぜだ? 何があった?」



 先代王のしていたことを知らないジョージ。

 突然のことに驚くしかなかった。

 ディーンに近づき、緑目を食い入るように見ている。



(父にそっくりなこの緑の瞳、それが確かに俺に合わさっている。間違いない、見えているんだ――)



 ジョージは頭の中で必死に算段する。

 青痣令嬢をあてがって、魔力量の多い王族を産ませようとした。

 しかし目が見えるようになったのなら、このままではまずい。



 そしてそこへ、もう一人、慌ててきたのだろう人物が現れた。



「ディーン、見えるようになったのか?」



 低い声は威厳に満ち、そして期待にも満ちていた。

 先代王だった。

 ディーンと同じ緑の瞳を、しっかりディーンの瞳に合わせる。

 視線が交わることを確認して、大きく肩で息をついた。



「そうか、ようやく……呪いが解けたか」



 良かった、と呟き、侍従が引いた椅子に腰かける先代王。

 先代王によって人払いがされたので、メイベルはディーンに「目が見えるようになって良かったですね。おめでとうございます」と一言伝えるのが精いっぱいだった。

 ディーンからも、「すぐに次のお茶会の誘いを送る」と返された。

 そしてメイベルはその場を辞して、用意された馬車に乗り邸に帰った。



 ◇◆◇



 離宮の庭に残った王族たちの間で、呪いについての情報が共有されている頃、メイベルは自分の部屋にそなえつけられた浴室の中で、素っ頓狂な声を上げていた。



「え? 青痣が無い?」



 外出から帰ってきて、湯を浴びようとしていた。

 メイベルは化粧を落とした顔を、鏡越しに覗き込む。

 いつもこの鏡で、青痣がある自分の顔を見ていた。

 少女のころは何とも思っていなかった青痣。

 それを化粧で隠すようになってもうずいぶん経つ。

 だが今のメイベルの顔には、それが無い。

 

「どうして……?」



 今日はおかしなことがよく起きる。

 ディーンは目が見えるようになり、メイベルは青痣が消えた。



「先代王が、呪いが解けたと仰っていたけれど」



 そのこととメイベルの青痣に、何か関係があるのだろうか?

 メイベルは何度も左目の周りをこする。

 青痣はその後も現れず、メイベルは夕餉のときに叔父に青痣が消えたと報告した。

 リグリー侯爵は、豆鉄砲を食らった鳩のような顔をした。



 ベッドに横になるが、メイベルの目は冴えていた。

 メイベルとディーンのこれからを考えていたのだ。

 盲目のディーンに、青痣のメイベル。

 おそらく二人は障害があるから婚約が成り立っていた。

 ディーンは王弟だ。

 盲目でなければ、王族や公爵家と縁を結ぶのが普通だ。

 それが侯爵家まで話が下りてきたということは、王族や公爵家に断られたに違いない。

 しかし、もうその障害は消えた。

 ディーンは盲目ではなくなり、メイベルの青痣も消えた。

 これから二人の関係が変わってしまうのではないか。

 メイベルはそんな恐れを抱いた。



 ◇◆◇



 メイベルの予感は的中していた。



 ジョージは、王の執務室にホイストン公爵を呼び出す。

 後ろに撫で上げた緑髪と猛禽類のように鋭い茶色の瞳が、長身とも合わさってホイストン公爵に威圧感を与えている。

 年齢は先代王と同じか、少し若い程度。

 ホイストン公爵は、ウィロビー王国の高位貴族の中でも、力のある貴族だ。

 ウィロビー王国と双璧をなす大国、アバネシル皇国の皇女を妻として娶っていることからも、それはうかがえた。

 やや皇国寄りの考え方をする皇国びいきな部分はあるが、アバネシル皇国とは今後もつつがなくやっていきたいと思っているジョージにとっては、最も囲い込みたい貴族であった。

 

「わざわざ来てもらって悪かった。実は相談があってな」

「いえ、いつでも馳せ参じますよ」



 ホイストン公爵は形だけの礼をする。

 ジョージのことなど若造だと思っているのだろう。

 

「以前、クラリッサ嬢とディーンの婚約の打診を断ったが、今ならどうだ?」



 ホイストン公爵の娘クラリッサは、アバネシル皇国の血が流れる高貴な令嬢だ。

 ジョージは、王弟ディーンの目が見えるようになったことを明かす。

 ホイストン公爵は目の前のジョージを、注意深く眺める。



(魔力量の多い王弟の目が見えるようになったのならば、魔力量の少ない王を蹴落とすことも可能かもしれん)



 いまだ王には正妃との間に子が出来ぬ。

 もしかすると自分の娘が国母になるかもしれないと、ホイストン公爵はにんまりと笑った。



「いいでしょう。婚約するかどうかは娘の意思次第ではありますが、顔合わせをさせてみましょうか」

「そうか、考えてくれるか!」

「しかし、ディーンさまには婚約者がすでにいらっしゃるのでは? 確か青痣のある――」

「ああ、それなんだが……実はディーンの目が一生見えないと思って、俺が勝手にあてがった令嬢なんだ。もうディーンは盲目ではないからな、顔に青痣など無い令嬢のほうがいいだろう?」



 ジョージは、ディーンがメイベルを気に入っていたことなど、すっかり忘れている。

 目が見えるのならば、美しさを誇るクラリッサ嬢を選ぶと疑っていないのだ。

 

「クラリッサ嬢がディーンとの話を進めてもよいなら、いつでも二人の婚約は解消させる。あの二人は顔を合わせてまだ一か月ほどだ、お試し期間が終わったと言えばいい」



 ジョージは自分の思い通りになる未来しか見えなかった。

 なにしろクルス国の血が流れるディーンの顔は、聖騎士像のごとき精悍さと優美さを兼ね備えている。

 あの美貌を見て、一目惚れしない令嬢はいないだろう。

 いくら高貴な血筋を持つクラリッサ嬢でもだ。

 

「さっそく次のディーンのお茶会に、クラリッサ嬢も招待しよう。青痣令嬢の横に並べば、クラリッサ嬢が引き立つこと間違いなしだ」

「分かりました。私からもクラリッサに話をしておきましょう。今は婚約者を名乗る別の令嬢がいるが、クラリッサが望めばその座は明け渡されると」



 ジョージとホイストン公爵は、うなずきあう。

 

 こうしてディーンとメイベルの知らないところで、また運命が書き換えられた。

 盲目であろうと、青痣があろうと、二人には互いを思う気持ちがあったというのに。

 

 そして次のお茶会の日が訪れる。
 もうすぐ庭でのお茶会も厳しくなりそうな季節となった。

 ディーンとメイベルは、いつもの椅子に座り、穏やかな時間を過ごしていた。



「実は、ディーンさまの目が見えるようになった日、私も顔にあった青痣が消えたのです」

「青痣があったの? どこに?」

「この辺り、左目の周辺に、葉脈のように……」



 メイベルは説明するのに一生懸命で、思っていたよりもディーンに近寄っていた。

 それをいいことに、ディーンはメイベルの顔を至近距離から覗き込む。



「ここ?」

「ええ、そこからこう、目の下まで……」

「全然ないよ?」

「そうでしょう? 嘘のように消えてしまったのです」



 説明が終わったメイベルは、今更ながらにディーンの顔の近さに気がついて、慌てて離れようとした。

 そんな顔を赤くしているメイベルを、抱き寄せようか迷っているディーンに声がかけられた。



「ディーンさま、ホイストン公爵家のクラリッサさまがいらっしゃいました」



 いつも案内をしてくれる侍従だ。

 その後ろに、緑の髪をたなびかせた美しい令嬢を連れている。

 令嬢はツカツカとテーブルに近寄ると、ディーンの前で完璧なカーテシーをしてみせる。



「初めまして。ディーンさまにお会いできて光栄です。ホイストン公爵家クラリッサと申します」

 

 クラリッサの柔らかい茶色の瞳からは、ディーンへの親愛の気持ちが見て取れた。



「ああ、よろしく。君が兄さんの言っていた人だね。ディーン・ウィロビーです」



 どうぞ椅子にかけて、とディーンは真向かいの席を指し示す。

 そしてメイベルに向き直り、クラリッサを紹介した。



「目が見えるようになったのだから、もっと世の中と交流を深めるようにと兄さんから言われたんだ。クラリッサ嬢は社交界に明るくて、貴族の中でも情報通なんだって。いろいろなことを教えてもらって、今後は僕もパーティに参加することになるみたい」

「パーティに、ですか?」



 そこは、メイベルとは棲み分けられた世界だ。

 さっそく抱いていた不安が芽吹く。

 盲目ではなくなったディーンと、別れさせられるのではないか。

 華やかで美しい公爵令嬢を、このお茶会に呼んだ王の意図を感じる。

 いつもはあまり話さないディーンだが、興味があるのかクラリッサに質問をしている。

 それに軽快な答えを返し、ときにディーンを笑わせるクラリッサ。

 メイベルから見ても、会話慣れしていると感じた。

 いつもはひっそりと静かな庭が、鈴を転がすようなクラリッサの声に彩られる。

 さっきまでは冬が近づく森から、鳥の声が聞こえていたのに。

 

「まあ、それではディーンさまは是非とも絵画展に行かれるべきですわ。今、貴族たちが夢中になっている画家の個展があっていますの。彼は七色の魔術師とも呼ばれているのですよ。繊細な筆のタッチで、立体感のある風景を描くのです」

「七色か。僕は盲目だったとき、ずっと色って不思議だなと思っていたんだ。形は触れば分かるし、味は食べれば分かる。温かさとか匂いとかも。でも、どうしても分からないのが色だった」

「目が見えるようになったのは、最近だとお聞きしましたわ。もしかしたら、ディーンさまはまだ虹を見たことがないのでは?」

「そうだ! 虹も見てみたいもののひとつだった。七色の光の輪が空に浮かぶのだろう?」

「ふふふ、完全な輪ではないのですが。どうでしょう、私がつくってみましょうか? 私は水魔法の使い手なんですよ」



 クラリッサは椅子から立ち上がると、少しテーブルから離れた位置に立った。



「ディーンさま、こちらにいらして。太陽を背にして立っていただけます?」



 ディーンは素直に席を離れ、クラリッサに近づいた。

 クラリッサは当たり前のようにディーンの腕を引き、太陽に背を向けたディーンの位置を調整する。

 そのときにメイベルと目が合った。

 クラリッサが妖艶に笑ったのを見て、メイベルはゾッとした。

 クラリッサは分かっているのだ。

 自分の役割を。

 メイベルからディーンを離し、婚約者をすげ替える。

 きっとそれが、王であるジョージがクラリッサに与えた任務だ。

 正しくは、クラリッサがディーンを気に入れば、という条件がつくのだが、メイベルはそれを知らないし、すっかりクラリッサは美しいディーンの顔に夢中だ。

 メイベルはキュッと唇を噛んだ。

 ディーンとメイベルの婚約は、ジョージからの打診で成り立った。

 そのジョージの気持ちが変わったのなら、婚約が覆されても仕方がない。



「見ていてくださいね、ディーンさま」



 ディーンの隣に身を寄せて立つクラリッサが、手のひらからたくさんの霧を生み出した。

 ディーンの服が少し湿るほどの霧が辺りを覆う。

 そこに曇天だった冬空の、雲間から太陽が顔を出す。

 霧に、七色の虹がかかった。



「すごい……これが虹……」



 産まれて初めて虹を見たディーンは、声を失くして感動している。

 触ろうとして手を伸ばし、すり抜ける。

 それが面白いのか、何度もしている。

 顔は、これまで見たことがないほどの喜色満面だった。

 メイベルは静かにお茶を飲みながら、それを見守った。

 完全にそこには、二人の世界が出来上がっていたから。



「ディーンさま、じゃあ次は雪ですよ。冷たいということはご存じでも、その形まではご存じないでしょう?」

「雪の形? 六角形だと聞いたことはあるが」

「雪は全て異なる形をしているのです。ひとつとしてこの世に同じ形の雪はありません。まるで人みたいで、なんだか素敵でしょ? 私の魔法で、大きな雪の結晶を作ってご覧にいれますわ」



 今度は、クラリッサは雪の結晶を作るようだ。

 クラリッサの両手の中を、ディーンがジッと見つめている。

 大きな結晶と言っていたが、顔を近づけないといけないくらいの大きさらしい。

 もしかしてわざと、小さく作っているのかもしれないが。

 息を殺して待つディーンと、両手を自分の顔の前に持ってくるクラリッサ。

 二人の顔の位置が近づく。



「どうですか? 素敵でしょう?」

「美しいな……」



 もっと近くで見たくて、ディーンが顔を寄せた。

 こつんとクラリッサと額がぶつかる。



「ああ、ごめんね。近づきすぎたよ」

「いいんですよ、ほら、もっと見てくださいな」



 クラリッサの両手には、どんどん雪の結晶が作り出されているのだろう。

 近づきすぎたのも忘れて、ディーンはまたそれに見入る。

 そんなディーンを眺めていたメイベルに、クラリッサが流し目を送ってきた。

 それの意味するところは、きっとこうだろう。



『どっちが勝者か分かるでしょう?』



 メイベルは正しく受け取った。

 うつむいて、飲み干したティーカップをテーブルに戻す。

 みじめだったが、そんな感情には慣れている。



「お茶のお代わりをお持ちしましょうか?」



 侍従が気を利かせて聞いてきた。

 だが、もう飲む気にはならなかった。



「ありがとうございます、私はもう大丈夫です。ディーンさまとクラリッサさまが戻られたら、温かいお茶を差し上げてください。きっと二人とも、雪の結晶だらけで寒いでしょうから」



 クラリッサの両手からあふれた雪の結晶が、二人の周りをふわふわ飛び回っている。

 それを見て、微笑み合うディーンとクラリッサ。

 寒さのせいか、二人とも頬が赤い。

 まるで恋人同士ね。

 その光景を、メイベルは無表情に眺めた。

 自分がここにいる意味を探しながら。



 ◇◆◇



「ディーンさまはどうだった? お前のお眼鏡に適いそうか?」



 お茶会からご機嫌で帰ってきた娘を見て、答えは分かっているだろうにホイストン公爵は尋ねる。



「ええ、とっても素敵な人! あんなに美しい人は、今までに見たことがないわ! お父さま、私は絶対にディーンさまと婚約するわ!」



 クルクル回り出しそうなほど、軽やかにステップを踏むクラリッサ。

 もう心はディーンと一緒に、舞踏会でダンスを踊っているのだ。

 なにしろお茶会にいたディーンの婚約者は、なんの取り柄もなさそうな、暗いだけの令嬢だった。

 思わずその場で勝利宣言をしてしまうほど、クラリッサには負ける気がしなかった。

 話題の提供にも成功して、ディーンさまとの会話も弾んだ。

 二人が最初に出会った日として、ロマンティックな思い出も作った。

 クラリッサは勝利の美酒に酔う。

 

「次にお会いするのが楽しみだわ。きっとディーンさまも、そう思っているはずよ」
 その次のお茶会までは参加したが、次の次のお茶会からは欠席するようになった。

 肩身が狭くなったからだ。

 クラリッサとばかり話すディーン。

 メイベルが隣にいるにもかかわらず、ずっと真正面を向いている。

 真正面の椅子にクラリッサが座っているからだ。

 身振り手振りを使ってディーンが話すとき、腕がメイベルと触れるときがある。

 そのときになって初めて、メイベルの方を向くのだ。



「ぶつかってしまったね、ごめん」



 最後のお茶会でディーンと交わした会話は、それだけだった。

 それまでも、あまり会話をする二人ではなかったが、森から庭に出てきた小動物の足音で、ディーンが今のはウサギだと言い当てたり、雨の日は図書室の中で、メイベルが詩を朗読したりすることもあった。

 静かながらも交流があったと思っていたが、クラリッサのそれを目にすると、今までのが交流と言えるのかメイベルには自信がなくなる。



 次の次の次のお茶会をメイベルが欠席した日、侍従が王に報告をあげる。



 ◇◆◇



「そうかそうか、ディーンはクラリッサ嬢と会話が弾んでいるのだな」



 ジョージは笑いが止まらないといったふうだ。

 侍従は首をかしげる。

 以前は会話が弾むのは不自然だと言っていたはずだ。

 侍従はメイベルが続けてお茶会を欠席したことも伝える。

 

「青痣令嬢も気がついたのだろう。クラリッサ嬢のほうがディーンにふさわしいと」

「しかし、婚約者であるのはメイベルさまです。クラリッサさまのディーンさまへの距離感は、ご友人にしては近すぎます」



 侍従はクラリッサの目的を知らない。

 あまりにもないがしろにされるメイベルが憐れと思い、こうしてジョージに報告に来たのだ。

 しかしジョージの口から飛び出した言葉に、驚愕する。



「それでいいのだ、ディーンの婚約者はクラリッサ嬢に変わる。そろそろ青痣令嬢には退場してもらわんとな」



 侍従は、盲目であったころのディーンを長く見てきた。

 だからこそ、分かることがある。

 ディーンが心を許しているのはメイベルだ。

 目が見えないときから変わらず、メイベルの存在感に安堵している。

 今は目の前の新しい玩具に夢中になっているが、遊び尽くせば飽きるのが早いのも知っている。

 そうなったときに、隣にメイベルがいないと分かればどうなるのか。

 メイベルのいないお茶会では、何度もメイベルが座っていた左側の腕をさすっている。

 そこにメイベルの気配を感じないからだ。

 ディーンのそんな仕草まで見ていた侍従は、ジョージの決定に顔を青くする。

 しかし、王には逆らえない。

 侍従の報告を聞いて、さっそくメイベルの父親であるリグリー侯爵に婚約解消の通達をしたため始めたジョージに礼をし、侍従は王の執務室を後にした。

 とてもディーンには伝えられない。

 今回の侍従の判断は、凶と出てしまった。



 ◇◆◇



 リグリー侯爵家に、王からの通達が届いた。

 目が見えるようになったディーンは、ホイストン公爵家のクラリッサと婚約を結ぶという内容だった。

 つまり、一方的なメイベルとの婚約解消だ。

 ただ解消されるだけならば納得がいかなかったが、ジョージとホイストン公爵家の執り成しで、メイベルに新たな婚約者を用意してくれるという。

 せっかく繋がった王族との縁がなくなってしまうが、王と公爵家の意向には逆らえない。

 しぶしぶではあったが、リグリー侯爵は承諾の返事をした。

 またしても、メイベルには何の相談もなかった。



 そのとき、メイベルは自室でひっそりと過ごしていた。

 これまでも、ディーンにお茶会へ誘われる以外は、ずっと引きこもっていた。

 本を読んでいることが多かったが、読む本がないときは手慰みで編み物をした。

 本当の母親が亡くなる前、赤ちゃんのために一緒に何か作りましょうと、編み方を教えてくれたのだ。

 手袋、靴下、帽子、マフラー。

 小物は一通り、編むことが出来た。

 使い道のないそれらは、ある程度の量がたまると、メイドが孤児院へ寄付してくれた。

 そのまま使ったり、バザーで売ったり、何らかの貢献にはなっているようだ。

 迷惑ではないようで、メイベルはホッとしている。

 メイベルがもっぱら一人でいるのは、これといった友人がいないからだ。

 それは社交界から距離を置いて、もう長いせいでもある。

 そのきっかけとなった事件があった。

 メイベルが15歳、義妹のシェリーが14歳のときの話だ。



 ――小雨の降る日だった。

 メイベルにとって義母である、リグリー侯爵夫人の墓参りに来ていた。

 先月、急逝してしまった義母。

 それを治癒魔法で助けることが出来なかったメイベルは、まだショックを引きずっていた。

 メイベルを役立たずと激しく罵ったシェリーとの関係も、ギスギスしたままだ。

 リグリー侯爵は仕事で行けなくなったので、メイベルとシェリーの二人だけを乗せた馬車は、人通りの少ない道をゆっくりと走っていた。

 もうすぐ墓場というところで、馬のいななきが聞こえ、馬車ががくんと揺れて止まった。



「なあに? どうしたの?」



 シェリーがのんびりと、御者側の小窓を開ける。

 しかし、そこに御者の姿はなかった。

 何かが起きたのだと察したメイベルは、すぐに扉に鍵をかけた。

 かけた瞬間、何者かが扉を開けようとガンッと取っ手を引いたが、鍵のおかげで振動だけが車内に伝わった。

 間一髪だった。



「なによ? なにが起きてるの?」



 シェリーもようやく異変に気がついたようだ。

 開けた小窓を閉めようとして、そこから覗いていた誰かを見つけ、シェリーが叫び声を上げる。



「きゃああああああ!!」



 顔を黒く汚した男が、車内を観察していた。

 小窓から腕を入れシェリーを捕まえようとしたが、メイベルがシェリーを引っ張って反対席側へ寄せる。



「へへっ。小娘だけか、ちょうどいい。ちょっと俺たちに攫われてくれよ」



 男は小窓からなんとか扉の鍵を外せないか試していたが、どうにも届かないと分かると腕を引っ込めた。

 その隙にメイベルは小窓を閉める。

 諦めてくれればいいと思ったが、相手は複数人のようだ。

 それに対してこちらは力もない少女が二人、身を寄せ合うだけ。

 小雨が降る中、人通りの少ない道を走ったことが災いした。

 とっくに御者はやられてしまったのだろう。

 男たちの話声が聞こえる。

 扉を開けるために何かを準備しているようだ。

 

「助けて!! 誰か助けて!!」



 シェリーが叫び声を上げる。



「うるせえ! 静かにしてろ!」



 男たちの乱暴な言葉遣いに、シェリーが震えあがる。

 このままではいけないが、どうしていいかも分からない。

 メイベルも、カタカタと怖気づく自分の体を、抱きしめるしかなかった。



「よおし、ぶつけろ! これで扉が壊れるはずだ! お嬢ちゃんたち、怪我したくなければ扉から離れているんだな!」



 笑い声と共に、ドゴッと扉に何かがぶつかる音がした。

 同時に馬車も大きく揺れる。

 

「いやああああ!」



 シェリーが恐慌をきたしたように泣き喚く。



「もう一度だ! 早くしろ!」



 ドゴッドゴッ!

 何か大きなものを抱えて、扉に突進している。

 扉の蝶番が軋み、鍵の掛け金も扉から浮いた。

 このままでは今にも開いてしまう。

 メキィッ!

 掛け金が曲がり、木製の扉が車内にめり込む。

 わずかに開いた扉の隙間に、大きな男の手がかかる。

 そこからは、あっという間に扉が剥がされた。



「手間取らせやがって、ほら、さっさと降りるんだよ!」



 メイベルは二の腕を引っ張られ、車外へと放り出された。

 道端へどさりと腰を打ち付けたメイベルに、しとしと小雨が降り注ぐ。

 男は泣き喚くシェリーも容赦なく馬車から引きずりおろした。



「いやよ! いやよ! 放して! 誰かああ!」



 涙でぐしゃぐしゃの顔を上げて、叫びまくるシェリー。

 苛立った男が、大きく手を振りかぶった。

 シェリーが叩かれる。

 そう思った瞬間、メイベルは飛び出していた。



「止めて! シェリーには手を出さないで!」
 メイベルは、賊に歯向かった。

 シェリーを叩こうと、大きく手を振り上げた男の脚にしがみつく。



「なんだあ? この娘、顔に気持ちの悪い痣がある!?」



 メイベルの顔を見た男が、ぎょっとしてメイベルから離れた。

 降り続く小雨に、青痣を隠していた化粧が落ちていた。

 男が離れたのをいいことに、メイベルはシェリーを馬車に近づける。

 少しでも男たちからシェリーを隠そうとしたのだ。



「シェリーは見逃して! 妹はまだ幼いの!」



 えっぐえっぐと嗚咽をあげるさまは、よりシェリーを幼く見せた。



「そうは言ってもねえ、お前さんの顔がそんなんじゃあ、売れるのは妹だけになっちまう。見逃すわけにはいかねえなあ」



(売る? どこに?)



「身代金を取るのではないの? それなら私でもいいはずよ?」



 メイベルは身代金目当てで誘拐されるのだと思っていたが、どうやら男たちの目的は違うようだ。



「身代金? そんなまどろっこしいこと、しやしねえよ! かっさらった見目のいい女は、娼館に売るのが一番だ。すぐ金になるからな!」

 

 ガハハと大口を開けて笑う男たち。

 その前の味見がたまんねえんだよ、とシェリーをジロジロ見る。

 シェリーは泣きすぎて呼吸困難を起こしていた。

 メイベルは葛藤した。

 義母に続いて、義妹までも私は救えないのか。

 

「わ、私では駄目なの? その、ショウカンに売るのは? 青痣は化粧で隠せるのよ」



 メイベルは手提げの中から震える手で白粉を出してみせる。



「これで隠せるわ。それでも駄目?」



 男たちは相談をし始めた。

 そして二人とも攫うことにしたようだ。



「待って! お願い! 妹は放して!」

 

 ほとんど気を失っているシェリーを、男が肩にかつぐ。

 そしてメイベルも肩にかつがれそうになった。

 メイベルは最後まで抵抗しようと、手提げを大きく振り回した。

 先ほどの白粉のほかに、手提げの中に入っていたものがバラバラと飛び出す。

 そして、振り回し過ぎて手からすっぽ抜けた手提げが、馬車の馬の横面にビタンッと当たった。



 ヒ、ヒヒィィイン!



 それまで静かに佇んでいた馬が、驚いて暴れ出す。



「うわ、誰か押さえろ! 馬車が走り出すぞ!」



 先ほど扉を無理やり開けるときは、誰かが馬を押さえていたのだろう。

 大人しかった馬だが、メイベルに物をぶつけられて怒っていた。

 前足を振り上げ、押さえようとする男たちを寄せ付けない。

 そしてガラガラと馬車を引いて走り出した。

 めちゃくちゃに走る馬は、馬車をあちこちにぶつけて人通りの多い方へ向かう。



「まずいぞ、人が来る! 逃げろ!」



 抱えていたシェリーを放り投げ、男たちは墓場へ走って逃げた。

 奇しくもメイベルとシェリーの目的地だった墓場は、男たちにとっては逃走経路だったようだ。

 馬と馬車に隠れていた道端には、賊にのされた御者がいた。

 殴られた頬が痛々しいが、死んではいないようだ。

 メイベルは、放り投げられた痛みで意識を取り戻したシェリーに近寄る。



「もう大丈夫よ、賊は逃げたわ。……怖かったわね」



 メイベルは自分も怖かったのだが、自分は姉だからと気丈にふるまうことで義妹を安心させようとした。

 しかしそれはシェリーにとっては逆効果だったらしい。



「そんな気持ちの悪い顔で近づかないで! 娼館に自ら行こうとするなんて、レディとしての誇りがないのね!? リグリー侯爵家の一員が、恥を知りなさいよ!!」



 顔は涙と洟でぐちゃぐちゃなのだが、シェリーは威勢だけはよかった。

 メイベルは言われたことには納得がいかなかったが、それだけ元気があるならいいかと、御者の方に近づいた。

 左頬が顎にかけて腫れて、青紫色に内出血している。

 メイベルは手をかざし、治癒魔法をかける。

 左頬はよくなったが、まだ御者の意識は戻らなかった。

 メイベルが治癒魔法の使い手だとバレないためにも、都合がいい。

 メイベルはホッと一息ついて、馬車が走り去ったほうから人のざわめきが聞こえるのを待った。



 幸いなことに、間もなくしてメイベルとシェリーは救助された。

 暴れて走る馬が引きずる半壊した馬車に、誰も乗っていないことを不審に思った人が、振り落とされた人がいるのではないかと道を辿ってきてくれたのだ。

 倒れる御者と、しゃがみこんだ少女二人を見つけ、すぐに警備隊に知らせてくれた。

 警備隊からリグリー侯爵家に連絡が入り、リグリー侯爵は真っ青な顔をして駆け付けた。

 シェリーはそこで初めて安心したとでも言うように、父親に抱き着き大声で泣き出した。

 何があったかの説明はメイベルがした。

 そして警備隊によって賊の追跡が行われ、人身売買組織が捕まったのはそれから半月後のことだった。

 リグリー侯爵からは、二人だけでの外出を禁止されてしまったが、メイベルは何も困らなかった。

 なぜならその半月の間に、シェリーが悪し様にメイベルのことを吹聴して、すっかり社交界で孤立してしまったからだ。



「信じられなかったわ! 命乞いをするのに身を差し出したのよ!? 立派なレディならば、自死を選ぶ場面でしょう? ただでさえ気持ちの悪い青痣が顔にあるのに、中身まで汚いのではどうしようもないわ!」



 実際にシェリーがこう言っているのを、メイベルは聞いた。

 リグリー侯爵家に友人の令息令嬢たちを招き、シェリーがお茶会をしていた席でのことだ。

 まだ義母の喪が明けていないので、シェリーは大っぴらには他家のお茶会に参加することが出来ない。

 その代わりに、こうして自邸に気心の知れた友人を招いて、こっそりとお茶会もどきを楽しんでいるのだ。

 今日もシェリーが中庭でお茶会をするというので、メイベルはあまり頻繁に開催するものではないと、たしなめようかと思っていた。

 しかし通りがかりにシェリーのそんな言葉を聞いてしまい、すぐに自室に引き返した。

 あの場に自分がのこのこ登場しては、いい見世物になるだけだ。

 シェリーの友人たちには、顔の広い令息や令嬢もいる。

 きっと、すぐに社交界に話が広まってしまうに違いない。

 メイベルの予想通り、それまで仲良くしてくれていた令嬢たちからの手紙が、ぱたりと途絶えた。

 本人がどう思っているかは知らないが、こういうものは親が真っ先に止めるものだ。

 良くない噂のある令嬢との付き合いは、自分たちの不利益にしかならないからだ。

 そうした貴族の付き合いについて、義母はちゃんと教えてくれていた。

 しかし、それももう役には立たないかもしれない。

 流れてしまった悪評は、なかなか消えてくれない。

 メイベルは、もう自分が誰かと楽しくおしゃべりを楽しんでいる姿を、想像することが出来なかった。

 義母を失った精神的な落ち込みがまだ癒えていなかったこともあり、メイベルはそこから引きこもりになった。

 そうして――メイベルは一人で過ごすことに慣れていったのだった。



 ◇◆◇



「お前の新しい婚約者が決まった。伯爵家の嫡男で魔法剣士だそうだ」



 年は3つ上の22歳、魔力量は中ほど、火魔法の使い手、伯爵家は歴代魔法剣士になる者が多く、できれば魔力量の多い嫁を娶りたがっている。

 そんな叔父の話を、メイベルは上の空で聞いていた。

 やっぱりディーンとの婚約は解消された。

 叔父が話し終えた頃を見計らい、それとなく聞いてみると、ディーンはクラリッサと婚約したそうだ。

 目が見えるようになった美貌の王弟に、評判の悪い侯爵令嬢は不相応なのだろう。

 どう見ても、社交界で華やかに咲く、美しい公爵令嬢がお似合いだった。

 二人の姿を目の当たりにし、予想していたことだったが、メイベルの気持ちは沈んだ。

 そもそもディーンとの婚約は政略だった。

 次の婚約も政略でおかしくはない。

 メイベルは静かにうなずき受け入れる。

 ディーンとの婚約を結んだときも、こうだったと思いながら。
「マシュー・サンダーズです。よろしく」



 短い銀髪は刈り上げられ、襟元には清潔感が漂う。

 日焼けした肌に似合った濃い紫色の瞳。

 腕には魔法剣士らしい、しっかりした筋肉がついていた。

 凛々しい顔立ちのマシューは、案外優しい声をしている。

 これから婚約者となるメイベルは、失礼にならないよう挨拶を返す。



「こちらこそ、よろしくお願いします。リグリー侯爵家メイベルと申します」



 侯爵家にもかかわらず、伯爵家に頭を下げてみせるメイベルに、おや? という顔をしたが、すぐにマシューは腕を差し出してきた。

 

「行きましょう。今日を楽しみにしていました」



 婚約してから初顔合わせとなる今日、メイベルはマシューと絵画展に行くことになっていた。

 クラリッサがディーンに紹介していた、あの七色の魔術師の個展だ。

 長らく社交界から遠ざかっていたメイベルだったが、礼儀作法は完璧に義母に躾けられている。

 マシューの腕に手をそっと乗せ、メイベルは令嬢らしくエスコートを受けた。



 マシューは思っていたよりもお淑やかで気品のあるメイベルに驚いていた。

 メイベルの噂は、あまり社交界に顔を出さないマシューにも伝わってきていた。

 醜い青痣があるとか、簡単に体を差し出すとか。

 それが根も葉もないものだと、マシューは察した。

 きっと、この可憐なメイベルを妬んだ誰かのしわざだ。

 ふわふわした茶色の髪は可愛らしく、吸い込まれそうな青い瞳は神秘的だ。

 落ち着いたしゃべり方も、マシューの好みだった。

 政略で始まった婚約ではあるが、いい関係が築けそうだとマシューは安心するのだった。



 ◇◆◇



 最近、メイベルがお茶会に来なくなった。

 ディーンは左腕をさすりながら、ため息をつく。



「あら、どうされましたの? そろそろ庭でのお茶会は寒くなりましたものね。離宮の中に入りましょうか?」



 クラリッサがディーンを心配そうに見る。

 そして侍従に手をふってみせ、テーブルを片付けるように指示した。

 しかし侍従はクラリッサの使用人ではないので、ディーンの指示を待つ。

 それが気に喰わなかったのか、クラリッサはちょっと眉をひそめた。



「違うんだ、寒いのではなくて。……その、クラリッサは社交の場でメイベルを見かけないか? このところ、お茶会を欠席し続けているだろう? どうしているのかと思って……」



 体調を崩しているのではないか、それならお見舞いに行けないものか。

 これまで離宮を出たことがないディーンが、そこまで考えていた。

 メイベルがいなくなってしまった穴は大きく、精神が落ち着かない。

 いつも左隣から温かな気配を感じ、それに癒されていたディーン。

 侍従がディーンの言葉に、少し居心地が悪そうな顔をした。



「ディーンさま、あの方は婚約者とご一緒に、よくお出かけになっておりますよ。今まで引きこもりだったのが噓のよう! 先日も、絵画展で見かけましたわ。ご心配なさらずとも、お元気そうでしたよ。どうやら仲良くやっているようですから」



 クラリッサの言葉が、ディーンにはよく理解できなかった。



「婚約者? それは誰か別の人のことではないの? メイベルの婚約者は僕だよ」



 戸惑うディーンに、クラリッサは妖艶な笑みを浮かべて告げる。

 それは、ずっと侍従が言い出せなかったことだ。



「ご存じなかったのですね。ディーンさまの婚約者は私に変わったのです」

「え? ……どうして?」

「私がディーンさまのお茶会に呼ばれた日のことを思い出してください。これまでになく会話が弾んで、楽しい時間だったでしょう? それを伝え聞いた王さまが、考えを改められたのです。私とのほうが相性が良さそうだと。もともと婚約の打診をいただいたのは私だったんですよ。ただ、父がちょっと心配性で断ってしまって……私はディーンさまの目が見えなくても、もちろんお傍にいたいと思ってましたわ」

「そんな……」



 ディーンは青ざめる。

 そして自分の態度を思い返した。

 目が見えるようになって、メイベルと話した回数は数えるほど。

 だが、盲目だったころから沈黙が続いても、居心地のいい関係だったのだ。

 会話が弾むとか、そうしたことに重きを置いてはいなかった。

 メイベルの気配を感じられるだけで、幸せだったのだ。

 クラリッサはそういう対象ではない。

 ジョージがクラリッサから交流を学ぶようにと言ったから、ディーンはなるべくクラリッサから多くのことを聞き出そうとした。

 クラリッサがしゃべらないことには、情報が引き出せないからだ。

 なるべく早く学びたかった。

 そしてメイベルと一緒に、パーティへ行ってみたかった。

 もの知らずなままでは離宮から出られない。

 ディーンが離宮に閉じこもっているせいで、メイベルが他の誰かにパーティでエスコートをされているかもしれないと思うと、矢も楯もたまらなかった。

 そうした必死さが、ジョージに異なる解釈をさせた。

 うまくいきそうならば取り替えてしまえと。

 目が見える者には分からないのだろう。

 そこに漂う空気に、それこそ見えない色がついていることが。

 メイベルと一緒にいるときのディーンは、常に恋の色をした空気をまとっていたはずだ。

 初顔合わせのときから、メイベルに惹かれていた。

 こんなに温かい人が婚約者になってくれるのだと、嬉しかった。

 青痣があったことで、盲目のディーンの婚約者になったのだと察しはついた。

 だがディーンの目が見えるようになったのならば、もっと高位の令嬢を娶ったほうが王家のためになる。

 ジョージは他人に容赦なく、自分の考えを押し付ける人だ。

 ディーンにもメイベルにも、気持ちがあるというのに。

 クラリッサがお茶会に参加したときから、これは決められていたゴールだったのだろう。

 会話が弾んだとか、楽しい時間だとか、そういうのは口実だ。

 最初から、クラリッサがディーンの婚約者になるように、仕組まれていたのだ。

 今頃それに気がつくなんて。



(メイベルは、いつ気がついたのだろうか?)

 

 ディーンがクラリッサと会話をしている横で、どんな顔をしていただろう。

 顔色をうかがう習慣のないディーンは、メイベルの顔をあまり見なかったことを思い出した。

 ただ静かにお茶を飲んでいたメイベル。

 そしてお茶会に来なくなったメイベル。

 きっとメイベルも、ジョージの企みが分かったのだ。

 だから自らお茶会を欠席して、身を引いた。

 ディーンの思い違いでなければ、メイベルはディーンを嫌ってはいなかった。

 むしろ心を通わせる瞬間があったし、好意を寄せてくれていたように感じた。

 ディーンはメイベルと結婚するつもりだった。

 二人の未来を想像していた。

 それなのに口実を与えてしまったせいで、メイベルと繋がっていた縁を切られてしまう。

 それだけではない。

 ディーンが熱心にクラリッサと話していたせいで、メイベルにいらぬ誤解をさせたかもしれない。



(君が好きなのに――!)

 

 苦しくてたまらなかった。

 かきむしりたいほど、心が痛い。

 本当に大切にしなくてはいけない人を、放ってしまった自分を悔やむ。

 もうすべてが手遅れなのだろうか。

 すがる気持ちでディーンはクラリッサに尋ねた。

 

「メイベルの婚約者というのは、どういう人だろう? メイベルを……大切にしてくれる人だろうか」

「サンダーズ伯爵家の嫡男で、魔法剣士のマシューさまですわ。とても剣の腕がよいそうですよ。銀髪に濃い紫目の精悍な顔立ちは、令嬢に人気がありますの。お見かけした絵画展では、メイベルさまを丁寧にエスコートしておりましたし、メイベルさまもあれほどの美丈夫ならば満足されているのでは?」

 

 聞かなければよかった。

 メイベルを思って苦悶するディーンと違い、メイベルはもう先を見ているのか。

 ディーンのことは忘れてしまったのか。

 絶望だった。

 ディーンは見えているはずの目から、光が抜け落ちたように感じた。



(メイベル、君が遠い……)



 ディーンは、知らずにまた左腕をさすった。