盲目の王弟は青痣令嬢に愛を乞う~見えないあなたと醜い私~

 改装された劇場の中は、光を乱反射するシャンデリアによって夢の世界のように煌めいていた。

 マシューに手を引かれたメイベルは、こんなきらびやかな場所に、自分がいてもいいのか不安でたまらない。

 いつもは軽装なマシューが、しっかり正装をしているのにも緊張してしまう。

 もちろんメイベルも相応しいドレスを着てきたのだが。

 場所にも衣装にも負けている気がするのだ。

 つい及び腰になるメイベルを、マシューが逞しい腕で引っ張ってくれる。

 それがなければ、とても席まで進めなかっただろう。

 席についたあとも、オロオロと辺りを見渡していたメイベルは、一点に視線が釘付けとなる。

 そこには、堂々と腕を絡めるクラリッサと、並んで歩くディーンの姿があった。

 王族らしい金糸を多用した輝く正装が、金髪のディーンによく似合っている。

 いつもは下ろしている長髪を、邪魔にならないよう後ろでひとつに結っていた。

 隣のクラリッサはエメラルドグリーン色のドレスを身にまとっている。

 クラリッサの髪の色とも言えるが、おそらくはディーンの瞳の色を意識してだろう。

 見目麗しい二人は、劇場のどこからも視線を集め、自ら発光しているかのように目立っていた。

 高位貴族向けの個室に歩いていく二人。

 盲目のディーンは、よく侍従に腕を引かれて歩いていた。

 それが今はクラリッサに代わっている。

 もう目は見えているのに、腕を引かれる癖は抜けないのだろうか。

 そんな仲睦まじい様子を、貴族たちはひそひそと噂していた。



「あれが王弟ディーンさまよ。クラリッサさまが片時も放さないと聞くわ」

「舞踏会でもずっと一緒なのですってね。あの美貌ですもの、奪われるのを警戒しているのでしょう」

「ホイストン公爵家に逆らう家などないでしょうに?」

「まったくだわ。クラリッサさまの意に反することをしてごらんなさい。アバネシル皇国が黙ってはいないわ」

「アバネシル帝国の皇帝は、姪のクラリッサさまを可愛がっていらっしゃるそうね?」

「なにしろ溺愛していた妹の皇女さまにそっくりにお育ちだから」



 それからも貴族たちの噂話は続いたが、メイベルは聞く気になれなかった。

 隣の席にマシューが戻ってくる。

 上司が来ていたからと挨拶に行っていたのだ。

 メイベルは何もなかったように振る舞おうとしたが、その必要はなかった。



「すっかり会場中の話題になっているようだね、ディーンさまとクラリッサさまは」



 マシューにだって耳がないわけではないのだ。

 むしろメイベルが居心地悪くしているのを心配してくれた。



「大丈夫だよ。メイベルは何も卑屈になることはないんだ。今は私が隣にいる。それとも、私では物足りないかな?」

「と、とんでもありません! マシューさまが物足りないだなんて!」

「そうか、安心したよ。ここで物足りないと言われたら、どうしようかと思った。……泣いて帰るしかないよね?」

「ふふふっ、マシューさまったら」



 マシューが泣くふりをして悲しそうに言うので、メイベルは噴き出した。

 さっきまでの気鬱は吹き飛んだ。

 そうだ、ディーンとクラリッサのことを気にしてもしょうがない。

 もう二人とは赤の他人なのだから。

 私は私の将来を見据えないと。

 クラリッサと腕を絡めていたディーン。

 それが現実だ。

 メイベルは心の奥底に沈んでいた恋心に蓋をした。

 もう叶うことは無い。

 それが今日、はっきり分かった。

 笑わせてくれたマシューを見る。

 シャンデリアの光が、銀髪をより美しく見せていた。

 濃い紫色の瞳には、笑ったことで頬が赤らんだメイベルが映っている。

 笑い合い、見つめ合う二人は、誰が見ても仲の良い婚約者同士だった。

 そしてそれを、階上からディーンも見ていた。



 ◇◆◇



 特別に用意された階上の席へ、クラリッサに案内されてディーンはついていく。

 クラリッサはこの劇場が改装する前から、上得意として通っていたのだそうだ。

 

「今日はディーンさまと一緒に来られて嬉しいですわ。ディーンさまは歌劇は初めてなのでしょう? もっとたくさん、二人で初めてのことを体験しましょう」



 個室になった席にクラリッサと共に腰かけると、主要な演者や劇場のオーナーが挨拶に来た。

 クラリッサは上機嫌でそれに微笑む。

 ときおり演者に話しかけては、苦労話を聞きだしていた。

 その間、手持ち無沙汰なディーンは、なにげなく会場を見渡した。

 濃い赤を基調とした座席シートが、眼下にずらりと並ぶ。

 そのほとんどが埋まっていることから、今回のこけら落としが注目されていることが分かる。

 広い舞台にはまだ緞帳が下り、多くの観客が今か今かとそれが上がるのを待ちわびていた。

 その中に、目立つ銀髪の男がいる。

 ディーンの金髪も珍しいが、銀髪も珍しい。

 銀髪は、メイベルの婚約者の髪の色だったはずだ。

 隣には予想通り、ディーンが愛してやまない茶色があった。

 何かを話しているのだろう、周りのざわめきに消されないよう、メイベルが一生懸命に口を開いているのが分かった。

 そして銀髪の男がそれに答えて何かを言った途端、メイベルが頬を赤くして笑った。

 ディーンはたまらずサッと目をそらす。

 心臓がつぶれるように痛い。

 見えないが、絶対に血を流している。

 顔をこわばらせているディーンに気がつかず、劇場のオーナーが挨拶をしてきた。

 それへ対応しながら、ディーンの頭の中はメイベルでいっぱいだった。

 先ほどの笑顔が何度もリフレインされて消えない。



(離宮のお茶会で、一度でもメイベルが笑ったことがあったか?)

 

 長らく目が見えなかったディーンにとって、初めて見たメイベルの笑顔は衝撃だった。

 とても可愛かった。

 とても幸せそうだった。

 そしてそれをメイベルにもたらしたのは、ディーン以外の男。

 あの婚約者が、いずれメイベルの夫になる。

 ディーンが立つはずだった場所に立つのだ。

 ぎりりと拳を握りしめる。

 掌に爪が深々と刺さる。

 胸の痛みに比べれば、取るに足らない痛みだ。

 そろそろ歌劇が始まる。

 観客は舞台へと視線を移す。

 隣に座るクラリッサがディーンに寄り掛かる。

 劇場は舞台を残して暗闇に沈む。

 しかしディーンには銀髪とその隣の茶色が、いつまでも見えるような気がした。



 ディーンもメイベルも、お互いが初恋だった。

 恋がどういうものか知らず、手探りで始めた関係だった。

 始まりは押しつけられた婚約だったが、つたないながらも育んできた思いは本物だ。

 しかし運命は二人を引き裂いた。

 気持ちを残したまま、すれ違ってしまったディーンとメイベル。

 不幸の中にいるのが日常だった。

 だから抗うことを知らなかった。

 そんな二人にとって苦痛とは、撥ね退けるものではなく、ひたすら耐えるものだったのだ。

 

 ◇◆◇



 メイベルとマシューの婚約はつつがなく続いていた。

 そろそろ両家の親族を集めて、婚約披露パーティを開こうとリグリー侯爵が言い出す。

 その日のためにメイベルはドレスを新調した。

 シェリーがそれをうらやましがっていたが、メイベルにはどうすることもできない。

 マシューの瞳の色を意識して仕立てられた濃い紫色の夜用ドレスは、今までになく色っぽくて、メイベルは試着をしたときに肩の露出が気になって仕方がなかった。

 ドレスと同じ生地を使って、マシューはタイを作るという。

 おそろいの衣装を身につけるのは、仲が良い証だ。

 打ち合わせや衣装合わせのために、マシューは何度かリグリー侯爵家を訪問した。

 これまで、マシューとは外でばかり会っていたので、なんだかメイベルはくすぐったかった。

 マシューにお願いされて、編み物を編んでいるところも見せた。

 自分にも作って欲しいと言われたので、メイベルはマシューにマフラーを編むことにした。

 そうして婚約披露パーティの日取りは近づいてきた。

 最後の打ち合わせを終えて、帰るマシューを玄関で見送るメイベル。

 

「次にお会いするときには、マフラーが出来上がっていると思います」

「楽しみにしているよ。次はパーティの日だろう? 正装で巻いては駄目かな?」

「うふふ、マシューさまなら似合ってしまうかもしれませんね」



 和やかに別れのときを過ごしている二人を、不穏な言葉を呟くシェリーが覗き見ていた。



「マシューさま……素敵だわ。メイベルにはもったいないわ。どうにかメイベルと入れ替われないかしら」
 メイベルとマシューの婚約披露パーティが始まる。

 いつも凛々しいマシューだが、今日はひときわ華やかで王子さまのように輝いている。

 そんなマシューにエスコートされ、メイベルは両家の親族に挨拶をして回る。

 リグリー侯爵も、一度は流れたメイベルの婚約が、今度こそはうまくいきそうで歓びを隠せない。

 王家とホイストン公爵に、貸しを作るかたちで整った婚約話だ。

 良い運気の流れが来ている気がする。

 きっと娘のシェリーにもいい縁談が見つかるのではないかと、ホクホク顔だった。

 おめでたい席ゆえに、酒が消費されるスピードも速い。

 あちらこちらで赤ら顔の、ご機嫌な人々が増えてきた。

 そんな中、一人だけむくれているのはシェリーだ。

 メイベルの婚約者のマシューを、ずっと目で追っている。

 シェリーにとっては4つ年上のマシューに、色っぽい大人の男性の魅力を感じているのだ。

 同年代の令息にはそこそこ人気があるシェリーだったが、これまで年上とは付き合ったことがない。

 しかも友人の令息たちとは違って、日焼けした精悍な顔つきや、筋肉で厚みのある体が、シェリーの女の部分を刺激してやまない。



「やっぱりカッコイイわ。どうしてメイベルの婚約者なのかしら。家同士の政略結婚ならば、私でもいいはずなのに」



 リグリー侯爵から隠れて、シェリーはワインをがぶ飲みする。

 いつもより質のいいワインは、口当たりも香りも最高だ。

 もう18歳なのだから飲んでもいいのだが、シェリーは悪酔いするたちなので、今日は控えるよう言われていた。

 それなのにシェリーはしたたかに酔っぱらっていた。



「そうよ、私でもいいのよ。メイベルのやつ、見てらっしゃい。マシューさまは私に相応しいわ!」

 

 そう言うと、おぼつかない足取りでシェリーは会場を後にするのだった。

 それを知らないマシューとメイベルは、人いきれに酔ったため、テラスに出て風にあたることにした。



「マフラーが出来上がったのです。明日、お渡ししますね」

「それは嬉しいな。もうすっかり寒くなったからね」

 

 今夜、マシューはリグリー侯爵家に泊まることが決まっている。

 しかしまだ婚約者の段階なので、用意されているのは客間だ。

 それでも自宅に夫となる男性が宿泊するというのは、メイベルにとって気恥ずかしいものがあった。

 

(朝から顔を合わせるって、どんな気持ちかしら)



 まるで新婚生活の始まりのような、ソワソワした気分を感じているメイベルだった。

 最近は忙しかったこともあって、ディーンを思い出すことが少なくなった。

 これでいいんだ、とメイベルは何度も自分に言い聞かせる。

 いつまでも心にディーンがいては、マシューへの不実になる。

 浮き上がってこようとする心の奥底にある思いを、メイベルは頑なに拒んだ。

 そしてマシューに向き合うことに専念した。

 男性にマフラーを編んで贈るのは初めてだ。

 風邪を引きませんようにと、心を込めて編んだ。

 いつもメイベルの編んだ小物を褒めてくれるメイドが、素敵な包み紙とリボンを用意してくれた。

 誰かに何かをプレゼントする機会があまりなかったメイベルには、思いつかなかったことなので感謝したものだ。

 うっかりそのまま渡すところだった。

 メイベルがマフラーについて思いを馳せていると、マシューの指がつっと伸びてメイベルの肩の線に触れた。

 それはドレスの試着をしたときに、メイベルが出過ぎではないかと気にしていたラインだ。



「あ、あの、マシューさま!」

「素敵だよ、よく似合っている。いつものドレスも可愛いけれど、こんな大人っぽいドレスも着こなしてしまうんだね。メイベル……私はあなたとの結婚を、楽しみにしている。政略で始まった婚約だけれど、終着点も政略である必要はないと思うんだ」



 いつもより饒舌なのは、マシューも酔っているせいなのか。

 肩にあった指をすいと持ち上げ、メイベルの下あごを撫でる。



「メイベルはどうだろうか? 私との結婚を、望んでくれるかい?」



 今まで、接触といっても礼儀正しいものだった。

 それが今夜はマシューに何か含むものを感じる。

 だがそれが、男女のあるべき姿なのかもしれない。

 メイベルが大人に一歩、近づいた瞬間だった。

 

「私も、マシューさまとの結婚を望んでいます。……これから末永く、よろしくお願いします」



 覚悟を決めたつもりだ。

 ディーンとはもう結ばれない。

 マシューと未来を歩むと決めた。

 メイベルの瞳に、そんな意志を見て取ったのか、マシューは嬉しそうにほほ笑んだ。



「じゃあ少しだけ、先に進むことを許してほしい。これ以上はしないから」



 マシューは撫でていたメイベルの下あごをちょっと摘み、その上にあるメイベルの唇にそっと自分のそれを重ねた。

 ワインの香りがするキスだった。

 メイベルはこみ上げる感情を処理しきれずに、固まってしまう。

 マシューはそれを見て、ふっと笑った。



「やっぱり可愛いよ、メイベルは。私は幸せ者だ。こんなメイベルの夫になれるのだから」



 真っ赤になっている頬を、マシューの大きな手が包む。

 こんなときになんて返答をすればいいのか分からず、メイベルはますます体を固まらせた。

 すりすりと頬の柔らかさを楽しんでいるマシュー。

 頭から湯気の出ているメイベル。

 室内からは緩やかな音楽が聞こえてくる。

 半月が二人を優しく照らす。

 婚約披露パーティはもうすぐ終わろうとしていた。



 ◇◆◇



 マシューの眠る客間に、近づく人影があった。

 あれからもマシューはグラスを重ね、メイベルと一緒にパーティから下がった。

 客間に入るまではよかったが、湯を浴びたら酔いが回った。

 明日に残さないようしっかりと水分を補給して、早々にベッドに横になったところだ。

 メイベルほどではないが、マシューも気を張っていたのだろう。

 疲れた体に睡魔はすぐに訪れた。

 しかし剣士としての感覚が、誰かが室内に入ってきたことを知らせる。

 同じく泊まることになった酔客が、間違えたのだろうか。

 たしかに鍵はかけたはずだが、とマシューが考えていると、その人物はベッドのそばまでやってきた。

 間接的な灯りしかない中、マシューは眠い目をうっすら開ける。

 こんなに動作が緩慢なのは、その人物から殺気などを感じないからだ。

 逆光になって顔はよく見えないが、マシューの好きな茶色い髪の毛が近づいてきた。



(メイベル?……どうしてこんな夜更けに)



 メイベルと思しき人物がそっとベッドに入ってきたので、疑わずにマシューは優しく抱き寄せた。

 寒くないよう、肩まで包み込むように上掛けを巻いてやる。

 メイベルはさほどワインを飲んでいなかったようだが、その人物からはかなりワインの匂いがした。

 自室に戻ってから、改めて飲んだのだろうか。

 その匂いにさらに酔ってしまったマシューは、これまで辛うじて保っていた意識を手放す。

 マシューは、自分の腕に囲んだのがメイベルだと信じて疑っていない。

 しかし、大人しいメイベルが、夜這いのような真似をするはずがなかった。

 素面の状態であればあれば、マシューも気がついただろう。

 もっと注意深く目を凝らせば、その人物の顔が見えたかもしれない。

 だがすでにマシューは夢の中だ。

 マシューの腕の中にいる人物は、マシューの胸に顔をすり寄せ、マシューの背中に腕を回した。



「マシューさま、たくましい体……このまま朝まで、一緒に寝ましょうね」



 その呟きがマシューに聞こえることはない。

 くすくすと笑い声を上げて企みが成功したことを喜んでいたその人物も、やがて眠りについた。

 マシューは一体、誰を抱きしめて眠ってしまったのか。
 少し時間がさかのぼる。

 誰よりも先にパーティ会場を抜け出し、よろよろ歩いていたシェリーは、通りかかった執事によって自室に送られた。

 そこでドレスを脱いで湯を浴びて、寝る支度を整えてもらう。

 使用人たちが部屋を出ていったあと、ガウンをまとったシェリーは部屋を抜け出す。

 酔ったふりをして執事に寄り掛かっていたシェリーは、執事の上着から客間の鍵を抜き取っていたのだ。

 その鍵を持ってマシューのいる客間を目指す。

 どうやらマシューは湯を浴びている最中のようだ。

 シェリーは客間にかかっていた鍵を開けると、なに喰わぬ顔をして通りかかった使用人に、落ちていたわよと鍵を返す。

 シェリーが鍵を持ったままではまずいのだ。

 部屋の中の様子を扉の外から伺い、静かになるのを待つ。

 マシューがベッドに横になり、しばらくしてからシェリーは動いた。

 シェリーの持つ特殊魔法は変身。

 ただし魔力量が少ないので、髪の色と眼の色くらいしか変えられない。

 魔力量が多かったリグリー侯爵夫人であれば、全身をメイベルそっくりに変えられただろう。

 茶色い髪と透き通る青い瞳。

 薄暗い部屋の中なら、これで十分だ。

 そう確信して、メイベルになったつもりのシェリーは、マシューの眠るベッドにそっと近づく。

 マシューの隣に潜り込もうとしたら、思いがけず抱き寄せられて声を上げそうになった。

 メイベルとシェリーの声は全然違うので、慌てて口を押えた。

 ここでバレては元も子もない。

 シェリーをメイベルと信じているマシューは、それからすぐに眠ってしまった。

 それまで息を殺していたシェリーは、ホッと安堵の息を漏らす。

 マシューが起きないことを確認して、シェリーは変身を解いた。

 ゆっくり上下する肉厚な胸筋に頬をすり寄せ、温かさに安心した。

 これでマシューはシェリーの物だ。

 マシューの背中に腕を回し、所有権を主張する。

 あとは朝まで眠るだけでいい。

 起こしに来たメイドが抱き合って眠る私たちを見つけて、リグリー侯爵家に泊まった親族たちにその話が伝わって、そういうことなら婚約者をメイベルからシェリーに変えようとなるはずだ。

 なにせ一夜を共にしたのだから。

 既成事実というやつだ。

 シェリーはこらえきれず笑った。

 そしてマシューとの未来を思い描きながら、幸せに眠ったのだった。



 翌朝――。

 メイベルはマシューの客間を訪ねた。

 手には編んだマフラーの包みがある。

 早く渡したくて廊下をウロウロしていたところを執事に見つかり、こうして案内してもらったのだ。

 メイベルはマシューがどの客間に泊まったのか知らなかった。

 だから客間に続く廊下で待ち伏せをしていたのだが――。

 マシューが泊まった客間から、ただならぬことが起きているような声がする。



「どうして君がここにいる!? 昨夜、私の部屋に忍び込んだのは君だったのか!?」



 マシューのこんなに怒った声を聞くのは初めてだ。

 執事も何事かが起きたと分かったのか、上着から客間の鍵を取り出し、扉を開けた。

 そこには――ベッドの中で寝乱れたシェリーと、それを糾弾しているマシューがいた。

 メイベルは、ぽかんと口を開けた。

 腕からは抱えていたマフラーの包みが落ちる。

 何が起こっているのか。

 どうしてマシューの部屋にシェリーがいるのか。

 すぐに執事がリグリー侯爵を呼ぶために客間を出た。

 マシューはメイベルに気づき、駆け寄って釈明した。



「メイベル、誤解をしないでほしい。決して何かがあったわけではないんだ」

「マシューさま、これは……?」



 うろたえたメイベルがたどたどしく聞き返そうとしたとき、バタバタと大きな靴音がしてリグリー侯爵がやってきた。

 そして客室の中を見渡し、頭を抱える。

 しかしすぐに立ち直ると、ベッドに向かって吠えた。



「シェリー! なんてことした!」

 

 メイベルは叔父が義妹を怒るのを初めて見た。

 義母が亡くなってから、叔父は義妹をとにかく甘やかした。

 喪中に勝手にお茶会もどきを開催しても、目こぼしをしていたくらいだ。

 それが今では、顔を真っ赤にしてカンカンに怒っている。



「お父さま! 私をマシューさまの婚約者にして! 私たちは一夜を共にしたのよ!」



 しかしシェリーも負けずに叫んだ。

 その内容に、メイベルは面食らう。

 そしてこの茶番が、シェリーによる仕込みなのだと気がついた。

 よりにもよって婚約披露パーティの次の日に、こんな事件を起こすなんて。

 マシューは巻き込まれたのだ。

 シェリーの幼稚な画策に。

 メイベルの隣に立ったマシューが、足元からマフラーの包みを拾い上げる。



「ごめん、こんなことになってしまって。これを届けに来てくれたんだね」

「いいえ、こちらこそ、義妹が勝手をしたようで……」



 いくぶんか落ち着いたメイベルと、まだ憤懣やるかたないマシューは、リグリー侯爵とシェリーのやり取りを見守った。



「お前がこの客室の鍵を拾ったふりをして、使用人に返したことは知っている。その前に執事から、お前を部屋に送り届けている間に、どこかで鍵を紛失したようだと報告を受けていたからな。執事から盗んだ鍵を使って、この部屋に忍び込んだのだろう!」

「だったら何よ! 鍵なんてどうでもいいじゃない! 一夜を共にした事実は事実でしょ!」

「このバカ娘が! お前が台無しにしたのは、王家とホイストン公爵家が取り持った婚約なのだぞ! ただの政略ではないんだ!」

「そんなの知らないわ! 私はマシューさまの婚約者になるのよ!」



 あまりの大声に、ほかの客室に泊まっていた親族たちが起きてきた。

 その中にはマシューの父親のサンダーズ伯爵もいた。



「リグリー侯爵、これはどういうことですかな? ここは息子が泊まっていた客室のはずだ。なぜ親子が罵りあう場になっているのです?」



 魔法剣士として名をはせたサンダーズ伯爵は、体も顔もいかつい。

 客室の扉を塞ぐようにして立ちはだかり、室内の修羅場を睥睨する。

 リグリー侯爵は咄嗟に言い訳が出てこなかったようだ。

 眉尻を下げて、ぐっと口をつぐんだ。

 リグリー侯爵には分かっていたのだ。

 この厳格なサンダーズ伯爵が、少しの醜聞も許しはしないと。

 だが怖いもの知らずなシェリーが噛み付いた。



「マシューさまと結婚したいの! 政略なんだから私でもいいでしょ!?」



 身の程知らずとはこのことを言うのだろう。

 サンダーズ伯爵はシェリーのあまりに幼い考えに失笑した。



「お嬢さん、政略の意味を知っているのかね? 我がサンダーズ伯爵家は、歴代、魔法剣士を数多く輩出する名門。迎え入れる嫁はすべて魔力量の多い令嬢と決まっている」



 ぎろりとシェリーに視線を合わせ、その真贋を確かめるようにねめつけた。



「お嬢さんは魔力量が多いようには見えない。それどころか微量すぎる。そんな嫁は、サンダーズ伯爵家にお呼びではないのだよ」



 室内の気温があきらかに下がった。

 サンダーズ伯爵の静かな怒りのせいだ。

 無事に婚約披露パーティを終えたと思ったら、この騒動だ。

 許しがたいものがあるのだろう。

 その憤りをそのままに、サンダーズ伯爵はリグリー侯爵に決定事項とばかりに告げた。



「慰謝料については文書で通達します。耳をそろえて用意しておいてください」



 慰謝料と聞いてマシューが慌てた。



「待ってくれ、父さん! 私はメイベルと別れるつもりなど……!」

「黙れ!! 娘一人、満足に躾けることが出来ん家から、嫁を取るつもりはない!!」



 サンダーズ伯爵の怒りは激しかった。

 それでも抵抗しようとするマシューの二の腕を掴み、引きずるように連れていく。



「メイベル! 手紙を出す! 待っていてくれ!」



 巨体になかば抱え上げられながらも、マシューはメイベルを振り返り声を張り上げる。

 メイベルはそんなマシューに素早くうなずくが、声は一言も出せなかった。

 あまりに急展開すぎた。

 客室に続く廊下では、撤収だ! と号令をかけるサンダーズ伯爵の声が響く。

 野次馬をしていた親族たちも、ぞろぞろと客室から引き上げていく。

 残されたのは、しゃがみこんでしまったリグリー侯爵と、サンダーズ伯爵の迫力に泣きだしたシェリー、物事の整理が追い付いていないメイベル、顔を青くしている執事だけだった。
 リグリー侯爵は、王都育ちのシェリーを領地へ追放した。

 シェリーは、田舎は嫌だと喚いていたが、有無を言わさず馬車に乗せられ、あの騒動の次の日には邸を出発したそうだ。

 そしてサンダーズ伯爵家からは、メイベルとマシューの婚約破棄の通達が来た。

 両家親族を集めた婚約披露パーティを済ませた後に起きた醜聞で、貞操観念のないシェリーが義姉の婚約者であるマシューに夜這いをした罪は重い。

 今後一切、サンダーズ伯爵家に関わらないよう念押しされ、リグリー侯爵家の有責として高額な慰謝料の支払いを請求してきた。

 またメイベル宛にはマシューの手紙は入っておらず、サンダーズ伯爵の「鍛え直すため、息子はしばらく魔法師団長に預ける。手紙も出せないだろう。息子のことはもう忘れるように」という直々の文書が添えてあった。

 ディーンと婚約したときも、一か月で婚約解消された。

 まさかマシューとの婚約も、一か月で婚約破棄されるとは。

 メイベルは、どちらも自分のせいではないと分かってはいても、落ち込んだ。

 マシューとの未来を、真剣に考えた矢先だった。

 どこまでも不幸がメイベルを追ってくる。

 メイベルの引きこもり生活が、また始まった。



 メイベルが婚約破棄された事情が、社交界に流れる。

 貴族たちの口をふさぐことはできない。

 短い間に二度も婚約が成り立たなかった話は、さぞかし面白かったのだろう。

 それが元々、青痣令嬢として噂になっていたメイベルだったから、なおのこと。

 リグリー侯爵は焦った。

 せっかく王家とホイストン公爵家の肝いりでまとまりそうだった婚約を、台無しにしてしまったのだ。

 悪評にまみれ、このままでは貴族間での地位も危うい。

 

(いよいよ、切り札を切るときが来たか?)



 こうなったらメイベルの特殊魔法のことをバラしてでも、どこかとの婚約をもぎとるしかない。

 そもそもメイベルに悪い噂がつきまとっていたときも、この切り札があるからリグリー侯爵は安穏としていられたのだ。

 

(いざとなれば治癒魔法の使い手であると公表してしまおう)

 

 メイベルの知らないところで、駒は進められる。



 ◇◆◇



 領地に追放されてシェリーは荒れた。

 王都と違って、領地には娯楽が少ない。

 こんなに何もないのんびりした田舎で、どうやって時間を過ごせというのか。

 王都に居た頃はたくさんの友人に囲まれ、毎日のように遊び歩いた。

 新規オープンした店に入っては店内の物を全部買ってみたり、ちょっと大人のふりをして仮面舞踏会に行ってみたり。

 ワクワクするようなことがいっぱいあった。

 ところが領地では時間がゆっくりとしか流れない。

 まわりにあるのは自然ばかり。

 こんなところで、11歳まで育ったメイベルが芋くさいのも当たり前だ。



「あ~、やってられないわ! どうして私がこんな目にあわなくちゃいけないのよ!」



 シェリーは全く反省していなかった。

 ちょっと魔力量が足りないくらいで、シェリーを役立たずのように言ったサンダーズ伯爵が許せない。

 これでもシェリーは特殊魔法持ちなのだ。

 火魔法しかないマシューの血に、特殊魔法の血が混ざるのに。

 あれだけ怒られても、まだシェリーはマシューを想っていた。

 添い寝をしただけだが、一夜を共にした感覚が忘れられない。

 逞しい筋肉に護られる安心感と、大人の男の色気。

 思い出すたびに熱いため息が出る。

 また、あの腕に囲われたい。

 そんなことばかりを考えていた。



 ある日、下町によく当たる占い師がいると聞いて、シェリーは邸を抜け出した。

 マシューとの未来を占ってもらおうと思ったのだ。

 本当は邸から出てはいけないのだが、そんなことは知ったことではない。

 ドレスだと目立つので、一番地味な部屋着に着替えた。

 変身魔法で髪色と瞳の色を変えて、堂々と下町を歩く。

 王都と違って、一日で端から端まで歩いてしまえるほど小さな通りを、注意深く探した。

 そして町娘たちが、きゃあきゃあ言いながら並ぶ列を見つける。

 シェリーはその最後尾に近づき、町娘に尋ねる。



「ここが占い師の店? よく当たると噂の?」



 突然話しかけられて町娘は驚いていたが、相手がどう見てもお忍び姿の貴族のようだったので、素直にコクリとうなずいた。

 

「ふふふ、やっと見つけたわ。私に手間をかけさせるなんて、とんでもない占い師ね」



 シェリーは並ぶ列をズカズカと追い越し、さっさと店内に入る。

 そこにはちょうど占い中だったと思われる町娘と、黒いローブをまとった老婆がいた。

 きっと老婆が占い師だろう。

 シェリーはあたりをつけると、二人が座るテーブルに近寄った。

 そして、そこにドンと金貨の入った袋を置く。



「順番を待つのは嫌いなの。さっさと占ってちょうだい」



 町娘はすっかり恐縮している。

 座っていた椅子から立ち上がり、そそくさと店から出ていった。

 老婆はそれを見て、やれやれとため息をこぼした。



「早くしてちょうだい! 私はそんなに暇じゃないのよ!」



 毎日することがないと言っていたシェリーだが、ここでそれを正直に言うつもりはない。

 老婆はそんなシェリーに席を勧めた。

 やっと占いが始まる。

 シェリーはウキウキとして席に着いた。



「私とマシューさまの未来を占ってほしいのよ。どうしたら二人が結ばれるのか教えて」



 腕を組んで、ぞんざいな態度を崩さないシェリー。

 貴族の自分がわざわざ足を運んでやったんだという驕りがうかがえた。

 老婆は占うことなく、後ろの棚を振り返り、そこから奇妙な形の布袋を取り出した。

 そしてシェリーの前にそれを置く。



「何よ? これで占うの?」

「これは高貴な方にしかお見せしません。こんな下町の者では使いこなせませんから。――これはとある国から流れてきた魔道具です。なんでもこの魔道具の前の持ち主は、護衛騎士という低い身分にもかかわらず、王女の愛を得たとか」



 そう言って老婆が袋から取り出したのは、湾曲した万華鏡のようなものだった。

 シェリーはそれを手に取って、レンズから中を覗いてみる。



「何も見えないじゃない。どうやって使うの?」

「満月の夜に、願い事を呟きながらレンズに血をこすりつけるのです。それで二人は結ばれるでしょう」



 うさんくさい方法だったが、護衛騎士と王女の話はロマンティックだと思った。

 せっかく下町まで来たのだし、この占い師の言うことを聞いてみてもいいと思うほど、シェリーは暇を飽かしていた。



「分かったわ。これはもらっていくわね」



 シェリーは万華鏡を握りしめて席を立つと、もう用はないと店を出た。

 フンフンと鼻歌を歌い、上機嫌で帰っていくシェリーの後ろ姿に、老婆は顔をしかめた。



「いくら貴族だといばりちらしても、無能は無能。あの魔道具にまといつく呪いの気配を感じられないとは、きっと魔力量がものすごく少ないんだね。おかげで、こっちも薄気味悪い魔道具を手放すことができて良かったよ」



 ◇◆◇



 邸を抜け出し下町に遊びに行ったことを使用人にとがめられたが、そんなことはどうでもよかった。

 シェリーは満月の夜を待ち、いよいよ願い事を叶えようとしている。

 布袋から取り出した魔道具を、しげしげと眺めた。



「ずいぶん古びているのね。あちこちが錆びているじゃない。血をこすりつけるレンズは……こっちね。どれくらいの血がいるのかしら?」



 シェリーが用意したのはブローチの針だ。

 それでプツリと左手の親指を刺すと、赤い血がみるみる丸くなった。

 流れてしまう前に慌ててレンズにこすりつけると、万華鏡を握りしめる。



「マシューさまと結ばれますように! 私がサンダーズ伯爵家に嫁入りできますように! あの怖い伯爵が私に頭を下げて謝りますように!」



 闇魔法の使い手ではないシェリーがいくら願ったところで、呪いの魔道具はそれに応えない。

 ただ、捧げられた血に従い、己に重ねてかけられたかつての魔法を発動させたのだった。
 呪いが復活した。

 メイベルの左目の周りに、葉脈のような青痣が走る。



「どうして……?」



 朝、起きて顔を洗ったメイベルは、鏡を覗き込み狼狽えた。

 昨日まではなかったはずだ。

 突然消えた青痣が、また突然現れた。

 きっとこれを知れば、メイベルの婚約相手を必死に探しているリグリー侯爵は荒れるだろう。

 悪評の上に悪条件が重なるからだ。

 いよいよ治癒魔法の使い手であることを公表するかもしれない。

 青痣が現れたことを黙っていても仕方がない。

 いつかはバレることだ。

 メイベルは叔父に叱られることを覚悟して、朝餉のときに青痣のことを告げるのだった。



 リグリー侯爵は伝手をつかって、難病を抱える貴族を探していた。

 そんな貴族なら、治癒魔法の使い手は喉から手が出るほど欲しているはずだ。

 この際、歳の差なんて関係ない。

 ただメイベルが嫁いでくれさえすれば、リグリー侯爵の爵位はシェリーの子が引き継げるのだ。

 幸いなことに青痣は消えた。

 悪評のひとつが無くなったことを喜んでいたのに。



「なんだって? 青痣がまた出た? どうしてそんなことに!?」

「私にも分からないのです。以前、消えたときも突然でしたし」

「……とにかく、また化粧で隠すように。青痣が現れたことは、誰にも言うんじゃないぞ!」

「分かりました」

 

 言われた通りに青痣を化粧で隠すメイベル。

 しかし、どこに出かけるあてもない。

 ひたすら自室に引きこもり、本を読んだり、編み物をしたり。

 せめて最後にマシューにマフラーを渡せたことを、幸せだったと思おうとした。

 マシューがそれを使ってくれているかは、分からないけれど。

 窓の外を見ると雪が降っていた。

 もう季節はすっかり冬だ。

 ディーンの離宮で、クラリッサが雪の結晶を作ったことを思い出す。

 顔を近づけて、雪の結晶が出来る様子を覗き込んでいた二人。

 その姿はまさしく恋人のようだった。

 メイベルの胸が痛む。

 マシューの婚約者ではなくなってから、ディーンのことを考える時間が増えた。

 マシューに気兼ねしなくてもいいからだろうか。

 心の奥底に沈めていたはずの想いが、少しずつ浮かんできていた。

 やっぱりディーンが好きなのだ。

 これだけ、諦めようと忘れようと、努力をした。

 だけど出来なかった。

 ひたすら苦しかった。

 メイベルはひっそりと涙を流す。

 青痣をつたって落ちる雫に、メイベルはふと思い出した。

 メイベルの青痣が消えた日、ディーンの盲目も治った。

 先代王が「呪いが解けた」と口にしていたはずだ。

 しかし今、メイベルの顔には青痣が再び現れた。

 この青痣が、ディーンのように呪いに関係しているとしたら?

 また、呪いが復活したのかもしれない。

 もしかしたらディーンも、目が見えなくなっているのではないか?

 メイベルの心は、終わりのない思考の海をたゆたう。



 ◇◆◇



 メイベルの予想は当たっていた。

 ディーンは盲目になった。

 突然、世界が暗転したが、ディーンは落ち着いていた。

 慌てたのはクラリッサだ。



「ディーンさま、また見えるようになりますよね?」

「それは僕にも分からない。見えるようになったときも、突然だったんだ」



 クラリッサに呪いのことは話せない。

 先代王から口止めされていたからだ。

 呪いがまた発動したのだろうということは分かったが、だからといってどうしたらいいのかはディーンには分からない。

 ディーンが再び盲目になったことは、先ほど侍従が慌てて知らせにいったので、ジョージにも先代王にも報告がいくだろう。

 やけに落ち着いているディーンに、クラリッサはしびれを切らす。



「このままでは困ります! 誰が私をエスコートするのです!? どうやってダンスを踊るのです!? 目が見えなくては何も出来ないではないですか!」

「そういうのは諦めてもらうしかないね。こうなったら以前のように、離宮に引きこもって静かに過ごすしかないよ」

「そんな……。年寄りの隠居生活だってもっと楽しみがありますわ! 必ずお父さまになんとかしてもらいますから!」

 

 喚き散らすクラリッサからは、嫌な空気しか感じられなかった。

 またしても感覚だけの世界に舞い戻ったディーンだが、そこは慣れ親しんだ世界だ。

 音と匂いと肌で感じるものが全て。

 目から入ってくる情報量は多すぎた。

 しばらく休めると、ディーンはホッとした。



 ◇◆◇



 ディーンがまたしても盲目になったことが侍従によって先代王に知らされ、すぐに魔法師団長が呼び出された。

 今回、亡くなったセリオは関係がない。

 なんらかの理由で、セリオが手放したという魔道具が再発動したのだろうと、魔法師団長は推測する。

 先代王の命によって、総動員での魔道具の捜索が決まったが、人より物を探すほうが難しい。

 人は動くが、物は動かない。

 仕舞いこまれたら最後。

 誰の目にも留まらず、ずっとそこにあり続け、見つけ出すことが叶わない。

 セリオの証言で、湾曲した万華鏡の形をしていることは判明している。

 前回、捜索をしたときに作った絵を引っ張り出し、複製して魔法師団の魔法使い全員に配布する。

 何か手がかりがあれば、魔法師団長の千里眼も役に立つのだが、どこを見たらいいのかも分からないのでは探しようがなかった。

 魔法師も、魔法剣士も、魔法研究員も、探した。

 似通った物がいくつも魔法師団長のもとに集められた。

 だが、どれも違う。

 そもそも探す範囲はクルス国だけではないのだ。

 もしかしたら他国へ流れた可能性もある。

 全世界が対象となると、絶望的だった。

 何も得るものがないまま、三か月が過ぎた。



 ◇◆◇



 ディーンは20歳になり、クラリッサは18歳になった。

 そろそろ結婚してもおかしくない年頃だが、ディーンの目は相変わらず見えない。

 ホイストン公爵は、これでは話が違うと王であるジョージに抗議をした。

 ジョージの座を追い落とせるだけの魔力量があると見越しての婚約は、目が見えることが前提だった。

 ジョージも先代王に口止めをされていて、呪いのことは話せない。

 今、呪いの魔道具を魔法師団が総出で探していて、それが見つかればまた目が見えるようになる可能性があると言いたいのだが、言えないのだ。

 煮え切らない返事しかしないジョージに、ついにホイストン公爵の堪忍袋の緒が切れた。



「この婚約は解消させてもらう。クラリッサも適齢期だ。グズグズしていては行き遅れる。娘は王弟以外に嫁がせます」



 美しいクラリッサは今が旬だ。

 売り込む時期を逃してはならない。

 いつまでもディーンにこだわっている暇はないのだ。

 ホイストン公爵はジョージの執務室から踵を返す。

 いくら王弟と言えども、目が見えなくては話にならない。

 他国との外交も出来ないし、貴族との交流も望めない。

 これではクラリッサを嫁がせても、ホイストン公爵家に益はない。

 クラリッサだって、目の見えない夫の介護で、一生を終えるのは嫌だろう。

 華やかな社交界を悠々と飛び回る蝶々のようなクラリッサ。

 数多のものを惹きつけ魅了する術は、大きな舞台でこそ活きる。

 それは決して、ひっそりと離宮で暮らすディーンのそばではないのだ。

 腹立たしい思いを抱えながら、ホイストン公爵は妻の故郷であるアバネシル皇国に、クラリッサにつり合う家格と年齢の令息はいたかと記憶をたどるのだった。

 

 ディーンの意思の働かないところで、クラリッサとの婚約は解消された。

 それを侍従から聞いて、ディーンが思い浮かべたのはメイベルのことだった。

 ディーンの目が見えるようになったことで、メイベルとは別れさせられた。

 では、ディーンの目が見えなくなった今なら?

 呪いがふたたび発動したことで、またメイベルの青痣が現れていたら?

 障害のおかげで二人が邂逅できるのではないかと、ディーンは小さな望みを抱くのだった。
 リグリー侯爵は20歳になったメイベルの婚約がまとまらず、いよいよ困っていた。

 このままでは、19歳のシェリーまでが行き遅れてしまう。

 リグリー侯爵はしぶしぶ、領地からシェリーを呼び戻すことにした。

 シェリーもメイベルと同時進行で、婚約相手を探すしかなかった。



 シェリーはやっと領地から王都へ戻れるとあって、大喜びをした。

 毎日毎日、あの湾曲した万華鏡を握りしめ、お願いをしたかいがあった。

 これでマシューさまと結ばれる。

 シェリーは少しも疑っていなかった。

 その証拠に、王都へ帰ってきたシェリーは、すぐに邸を抜け出した。

 そのままサンダーズ伯爵家へ馬車を向かわせたが、門前払いをくらう。



「どうして通してくれないの!? 私とマシューさまは結ばれる運命なのよ!?」

「いい加減にしてください。リグリー侯爵家のかたは、サンダーズ伯爵家とは関わらない約束のはず。それにマシューさまは現在、邸にはいらっしゃいません」



 うっかり門番が口をすべらせた情報を、シェリーは聞き逃さない。

 大人しく引き返すふりをして、シェリーは友人たちの邸を訪ね回る。



「マシューさまの居場所を知らない?」

 

 義姉の婚約者に懸想して、夜這いまでしたシェリーのことを面白がり、ある令息が教えてくれた。



「マシューさまなら今、魔法師団長のもとでしごかれているよ。直属の部下になって、クルス国とこちらを行ったり来たりしているらしい」

「サンダーズ伯爵家で待ち伏せしていても会えないってこと?」

「おそらくね。それよりは魔法師団長の仕事場の周辺で、待ち伏せしたほうがいいんじゃない?」



 有力な情報だ。

 ありがとうとお礼を言って、その日はリグリー侯爵家へ帰った。

 そしてシェリーの日参が始まった。



「シェリー、毎日どこへ行っているんだ? そろそろお前も身を固めるんだから、遊び歩くのもいい加減にしなさい」



 このところ、うるさくなったリグリー侯爵が、外出着のシェリーを見つけて小言を言う。

 身を固めるためにマシューの待ち伏せをしているというのに、まったく分かってない。

 うんざりした顔でシェリーは反論する。



「お父さま、私なりに身を固めるために動いているのです。引きこもっているメイベルのようになれと言うの? そうしていたらお婿さんが見つかるの? 違うでしょう? 見つかっているのならば、メイベルは今日も編み物なんかしていないわ!」

 

 ぐうっと黙った父親をふんと鼻で笑い、シェリーは意気揚々と邸を出る。

 今日も魔法師団長の仕事場を張り込むのだ。

 季節は春になっていた。

 おかげでシェリーの待ち伏せも、寒さ的にはつらくはない。

 ただ馬車の中に座り続けるので、お尻が痛くなるだけで。

 だがそこは、愛の力で乗り越える。

 

(今日こそ会える気がする)

 

 シェリーはいつもの御者を呼ぶ。

 御者も慣れたもので、シェリーが何も言わなくても待ち伏せの場所へ馬車を向かわせた。

 堂々と道端に馬車を停めて、そこで数時間、魔法師団の建物の出入り口を眺めるのが御者の仕事だ。

 銀髪の男性が出てきたらシェリーに教えるように言われている。

 銀髪はこの国では珍しい。

 この数日、そんな人は見かけなかった。

 だが眺めているだけで金貨がもらえるので、御者はこの仕事が嫌ではなかった。

 今日も数時間が経過し、そろそろ帰る時間になったときだった。

 出入り口から銀髪の男性が歩いて出てきた。

 もう春だというのに、ふわふわした茶色のマフラーをしている。

 なんだか御者はそのマフラーを見て誰かを思い出しかけたが、それよりもシェリーに教えることを優先した。



「シェリーさま、出てきました! 銀髪の男性です!」

「え!? マシューさま!?」



 シェリーはすぐに馬車を降り、銀髪の男性がマシューであると分かると、走って追いかけた。



「マシューさま! 待って! 私です! シェリーです!」



 マシューは思いもよらない人物に呼び止められ、面食らった。

 こんな場所で誰かに会うなんて、待ち伏せされていたとしか思えない。

 嫌な顔を隠せなかったマシューだが、シェリーは怯まない。



「よかった! ようやく会えましたね! 私たち、結ばれるんですよ! 全てこれのおかげです!」



 シェリーは高々と湾曲した万華鏡を掲げて見せた。

 それを見たマシューが驚愕する。

 それを探すために、マシューはクルス国に何度も飛ばされているのだ。

 隙をみてメイベルに会いに行こうとしても、そんな隙を許さないほどの過密スケジュールが組まれている。

 今も、見つかりませんでしたと魔法師団長に報告を済ませてきたところだ。

 そんな曰くの品物を、シェリーが握りしめている。

 マシューはシェリーの腕ごと、湾曲した万華鏡をつかんだ。



「こ、これを……ど、どこで!?」



 マシューがどもるのも仕方がない。

 これを魔法師団総動員で探していたのだ。

 マシューに注目してもらえて嬉しいシェリーは胸を張る。



「我が家の領地です! よく当たるという占い師が、私とマシューさまが結ばれるためにと提供してくれたんです! 私、教えられたとおりに、満月の夜に血を捧げてお願いしました!」



 マシューは魔法師団長の直属の部下になったとき、呪いの魔道具についての説明を受けた。

 セリオのかけた呪いがあいまいだったせいで、ディーンだけでなく、メイベルも呪いの影響を受けた可能性があることを。

 魔法師団長がマシューに話してくれたのは、おそらく、メイベルがマシューの元婚約者であったことも考慮されていたのだろう。

 だからシェリーの発言を聞いて、マシューはガバリと頭を下げた。

 すぐにでもその魔道具を魔法師団長のもとに持っていかなくてはならない。 



「この魔道具を譲ってもらえないか? 条件なら何でも聞く」

「え? マシューさま、これが欲しいんですか? でも、もう二人が結ばれるっていう願い事はしたんですよ?」

「どうしても欲しいんだ。頼む」

「え~、どうしようかな? じゃあ、メイベルみたいにデートに誘ってくれますか? 私もマシューさまにうんと甘やかされたいな~」



 シェリーが体をくねくねさせながら、チラリとマシューを伺う。

 マシューは迷わなかった。



「分かった、明日にでも行こう。だからこれを今、譲って欲しい」

「いいですよ! じゃあ、明日はここで、同じ時間に待ち合わせしましょ!」



 シェリーはルンルンで、惜しげもなく薄汚い万華鏡をマシューに手渡した。

 もう願い事が叶ったと思っているシェリーには、不要のものだったからだ。

 シェリーの頭の中は、すでに明日のデートのことで一杯だ。



「マシューさま、私、明日のドレスのことで今から忙しくなりそうなので、先に失礼しますね! どこに連れて行ってくれるのか、楽しみにしてますわ!」



 シェリーは待たせていた馬車に乗って、さっさと帰っていった。

 マシューも出てきた建物に戻った。

 階段を一段とばしで駆け、魔法師団長の部屋を目指した。

 温かくなっても外せなかったマフラーに、マシューの上がる息がこもる。

 

(メイベル――)

 

 茶色の毛糸で編んでもらったのは、マシューの希望だった。

 メイベルの髪の色と同じマフラーがいいと、わざわざ言ったのだ。

 メイベルは照れながらも、質感まで似た毛糸で編んでくれた。

 ふわふわしていて茶色くて、可愛いメイベルの髪。

 その髪に顔をうずめているようで、マシューは春になってもずっとマフラーを手放せなかった。

 今、メイベルが青痣に苦しめられているのなら、それを救うのは私でありたい。

 その思いで、厳しい魔法師団長のしごきにも耐えてきた。

 二人が、もう二度と一緒になれないとしても、思いは変わらない。

 大切なメイベル、愛している。



「失礼します、魔法師団長! 呪いの魔道具が見つかりました!」



 ノックも忘れて、マシューは魔法師団長室に飛び込んだ。
 届けられた魔道具を見て、魔法師団長はレンズにこすりつけられた血を確認した。



「間違いないでしょう。これがセリオの作った呪いの魔道具ですね」

「では、それを発動させたのはメイベルの義妹のシェリーですね」

「おそらくは。何も疑わずにこんなに闇の気配をふりまく魔道具に血を捧げてしまうとは……あなたを夜這うだけはありますね」



 シェリーが考えなしだと言いたいのだろう。

 マシューもそれには激しく同意する。

 魔法師団長は呆れ顔で、あちこちの角度から魔道具を見ている。

 そしてレンズを指さしてマシューに命じた。



「セリオの証言が正しければ、再びこのレンズに発動者の血を捧げることで、解呪できるでしょう。あなたにはシェリーとやらの血を採ってきてもらいます。そうですね、解呪のタイミングは先代王に相談するとして、血を新鮮な状態で保存できる魔道具が必要ですね」



 魔法師団長はすぐに魔法研究員に声をかける。

 マシューにその魔法研究員と、新鮮な血を保存できる魔道具を見繕うように言って、魔法師団長は先代王の執務室に急いだ。

 呪いに関しては最優先事項だと言われている。

 わざわざ謁見の許可など取る必要はなかった。



 魔法師団長が先代王に呪いの魔道具が見つかったことを報告している頃、ディーンは一人静かに、離宮の庭で過ごしていた。

 すでにクラリッサとの婚約は解消されている。

 この静かな暮らしに、華やかで社交好きなクラリッサは馴染めなかったのだ。

 森を走る小動物の足音を聞き分けられるほどの静寂。

 ディーンが愛した離宮での楽しみを、クラリッサとは共有できなかった。

 何度か一緒に出かけたパーティのように、人々がたくさん集まり、にぎやかで騒々しい場がクラリッサには似合っている。

 ダンスを踊って活き活きとしていたクラリッサを思い出し、ディーンは苦笑した。

 行ってみて分かったが、ディーンはそういう場が嫌いだった。

 不慣れだからではない。

 ディーンのよすぎる耳には喧騒がつらいし、よすぎる鼻には体臭と香水の匂いが強烈だ。

 目が不自由だったからこそ鋭敏になった感覚が、ディーンにそうした場を倦厭させた。

 ディーンは、かつてメイベルとお茶会をしたテーブルセットに腰かけ、春の光の柔らかさを堪能する。

 肌で感じることに、ディーンは慣れてしまった。

 そのせいで、メイベルをもう感じられない。

 左腕をさする。

 ここに温かなメイベルを感じていたのは、わずかな間だけだった。

 春の花の色が黄色だとメイベルに教えてもらったが、その春になる前に呪いが復活した。

 もう黄色という色は知っていたけれど、ディーンは黄色の春の花を見たいと思った。

 きっとその柔らかさと優しさは、メイベルに通じるものがあるのではないか。

 テーブルの上から手を伸ばす。

 メイベルがいつも座っていた席はここだ。

 ディーンの左隣のひじ掛け付きの椅子。

 今は、ここで嬉しそうにケーキを食べる人はいない。

 それが寂しくて仕方がない。

 ディーンは伸ばした手を引っ込める。

 それをそのまま左目にあてた。

 呪いが復活して、ディーンの目は見えなくなった。

 ディーンの目とメイベルの青痣は、呪いに関して連動しているふしがある。

 もしかしたら、メイベルにも青痣が現れたのではないか。

 呪いについて、もっと魔法師団長に詳しく聞けばよかった。

 ディーンは空を見上げる。

 秋の空は青く高く、冬の空は白っぽく陰鬱だった。

 春の空は何色だろう。



(メイベル――)

 

 青痣があれば、誰とも婚約しないでいてくれるだろうか。

 仲良くしていたように見えた魔法剣士との婚約は、思わぬ不祥事が起きて破棄されたと聞いた。

 このまま、相手が見つからなければいい。

 ディーンは己が、こんなにも仄暗い思いを抱き、それに悦びを感じることに失笑した。



(盲目と青痣、僕たちはきっとお似合いなんだ)

 

 もう離れ離れにならないよう、婚約なんてせずに結婚できないか。

 ディーンが使える力なんて、たかがしれている。

 だが、そんなディーンを哀れみ、今も罪悪感にさいなまれている先代王がいる。

 使えるものは使うしかない。



「何をしてでも、君が欲しい」

 

 ディーンは侍従を呼び、先代王に会う時間が欲しいと伝えてもらう。

 すぐに設けられたその場で、ディーンは生まれて初めて、父親への我がままを口にした。



 ◇◆◇



 解呪するには、魔道具を発動させた者の血が必要だ。

 マシューは次の日、シェリーとのデートの待ち合わせ場所に、青いバラの花束を持って行った。

 一部分に、わざと棘を残して。

 マシューは時間より少し早めに到着して、シェリーを待つ。

 じっとしていると、どうしてもメイベルのことを考える。

 メイベルは心に誰かを残しながら、それでもマシューを好きになろうとしてくれた。

 マシューも政略とは思えないほど、メイベルの真摯で誠実な心に惹かれた。

 何事もなければ、いい夫婦になれただろうと思う。

 マシューは今日もつけているマフラーに顔をうずめる。

 魔力量が少ないセリオがかけた呪いは、正確性に欠け、あいまいだった。

 そのせいで呪いは、王族の血が流れる魔力量の多い赤子を無差別に襲った。

 父親が先代王であるディーンはもちろん、メイベルにも王族の血が流れていたのだ。

 メイベルの母親は、先代王の従妹だったという。

 そして二人は産まれながらにして、盲目と青痣という業を背負った。

 そして何の因果か婚約をし、解呪されなければそのまま結婚していた。

 だがセリオの死により、二人は業から解放される。

 業のせいで結ばれた婚約は解消され、それぞれ違う相手と政略の婚約を結び直す。

 思い合っていただろうディーンとメイベルは、またしても運命に弄ばれてしまった。



(もし、メイベルがまだ王弟を想っているのならば――)



 昨夜、魔法師団長から聞かされた今後の話を思い出す。

 それでメイベルが幸せになるのならば。



「私がその助けになれることを、嬉しく思おう」



 本当は、マシューがメイベルを幸せにしたかった。

 マシューは何度も誘ったデートで、メイベルがどれだけ喜んでいたかを思い返す。

 メイベルの笑った顔はとても可愛かった。

 しかし、マシューに残されたのは、もう思い出とマフラーだけ。



 かなり遅れてシェリーが現れた。

 どうやら邸を抜け出すのに、変身魔法を使ったようだ。

 髪の色と瞳の色が違う。

 顔はシェリーのままだ。

 寝ぼけていない限りは、間違えようがない。

 マシューはメイベルと思って抱き寄せた、過去の自分のうかつさを責めた。



「お待たせしました! ちょっと手こずっちゃって……」



 マシューはすかさず青いバラの花束を差し出す。

 ちょうど受け取る位置に棘が来るようにして。



「今日の記念に。よかったら受け取って」

「わあ! 嬉しい! 青いバラって珍しいわね!」



 普通、青いバラは恋人には送らない。

 同じバラならもっと、恋人にふさわしい花言葉のものがたくさんあるからだ。

 だけどシェリーは気がつかない。

 花束を勢いよく受け取った。

 そして棘が刺さる。



「痛っ!!」

「いけない、棘が残っていたかな? 指を見せて、血が出ていない?」



 マシューはなるべく優しく聞こえるように声をかけ、シェリーの手をそっと握る。

 右手の中指から、赤い血が滴っていた。

 マシューは胸ポケットから、きれいに折りたたまれた白いハンカチを取り出し、シェリーの指にあてる。

 白いハンカチに血が滲み、みるみる赤くなる。

 このハンカチこそ、血を新鮮な状態で保存できる魔道具だった。

 強く抑えて圧迫し、血が止まるまでそうしていた。

 マシューがハンカチを指から離すと同時に、魔法剣士の隊服を着た同僚が足早に通りかかる。



「マシュー! 魔法師団長がお呼びだ! 緊急事態だ!」



 やや棒読みではあったが、マシューにもシェリーにも内容は正しく伝わった。

 マシューはシェリーに向き直り、深々と頭を下げた。



「申し訳ない、どうやら急な仕事のようだ。今日はこれで失礼するよ」

「え~、残念~」



 マシューは演技の下手な同僚と一緒に、魔法師団の建物へ走った。

 あからさまに落胆しているシェリーを残して。

 指に怪我をさせたことも落胆させたことも、マシューは心から申し訳ないと思っているが、シェリーが夜這いさえしなければ、こんなことにはならなかったのだ。

 正しくシェリーの自業自得であった。
 先代王は悔いていた。

 側妃フロリタとその恋人セリオを不幸にしたのは自分たちだ。

 いくら臣下たちの進言であったとしても、愛のない結婚は止めるべきだった。

 遺伝の要素が強いとはいえ、魔力量は運に左右される部分もある。

 また、魔力量の多さだけが、子に求められるのはおかしい。

 王族だからと、子をなす道具になってはいけない。

 幸いなことに、ジョージは愛する者を見つけ、正妃とすることができた。

 ディーンにも、ぜひともそういう結婚をして欲しい。

 先代王は、ディーンの初めての我がままを思い出す。

 魔法師団長からは、呪いの発動者の血を確保したため、いつでも解呪が可能であると報告があった。

 先代王はペンを手に取る。

 そしてリグリー侯爵家に宛てて、文章をしたためる。

 呪いの犠牲者はディーンだけではない。



「我が従妹の血を継ぐこの娘もまた、私たちが不幸にした」



 今一度、解消されてしまった縁を結ぶ。

 先代王は強い意志を持って、通達を書き上げた。



 ◇◆◇



 リグリー侯爵は、王家からの通達が届いたのを知り、ぎょっと青ざめた。

 早く開けたほうがいいと執事が促すので、しぶしぶ封を切る。

 メイベルのために整えてもらった婚約を台無しにしたことについて、何か言われるのではないかと、ずっと恐れていたのだ。

 それがついに来たのだと思った。

 しかし、そうではなかった。



「なんだって!? これは……どういうことだ!?」



 素っ頓狂な声を上げるリグリー侯爵がいつまでも指示を出してくれないので、執事は横から文面を覗き込んだ。

 そこには――。



「これはおめでたい。すぐに、メイベルさまにはご準備をしていただきましょう。シェリーさまに知られないように、内密に動いた方がいいでしょうね」



 執事は、返事を待っている王家の使者のために、リグリー侯爵に代わって文面をしたためる。

 それをリグリー侯爵に確認してもらっている間に、メイベルのもとへ行き、外出の準備をするよう伝える。

 本来ならば、相応しいドレスに着替えたり、髪や化粧直しをしたり、時間がかかるものなのだが、そんなことをしていてはシェリーに勘付かれてしまう。

 執事はあえて、着のみ着のままのメイベルを王城へ届けることにした。

 通達に書かれていたことが本当であれば、用意はあちらでしてもらえるはずだ。

 メイベルは何が何だか訳がわからないまま、執事に勧められる通り外出着に着替えて、急ぎ玄関へ向かう。

 邸の外に出るのは久しぶりだ。

 もうすっかり空気が春めいている。

 メイベルの心はずっと冬のままだが。



「さあ、メイベルさま、馬車に乗ってください。シェリーさまがやって来る前に」



 慌ただしい執事の姿を見るのは、婚約披露パーティの次の日以来だ。

 あの朝、初めてメイベルは執事が走るところを見た。

 その執事が手を引いて、メイベルを馬車のあるところまで案内した。

 その馬車には、かつてお茶会に招待されたときと同じ、王家の紋章があった。



「え? この馬車に乗るんですか? 王家の紋章が――」



 メイベルがすべてを言い終わる前に、執事と御者によってメイベルは馬車に乗せられ、扉を閉められた。

 御者も急いで連れてくるように言われているのだろう。

 執事に礼をすると、すぐに馬に鞭をくれて、性急に馬車を出発させた。

 この馬車に王家の紋章があったことで、初めてメイベルは行先の予想がついた。

 これから王城に行くのだ。

 メイベルは改めて着てきた服を見る。

 

「こんな格好で、王城に? 嘘でしょう?」



 しっかり者の執事が、こんなうっかりをするはずがない。

 ということはよほど急いで出向かなくてはならない何かがあったのだ。

 まさかそのうちの一つが、シェリーに勘付かれないためだったとは、メイベルは知らなかった。



 メイベルが王家の馬車に揺られているころ、シェリーは自室で青いバラを眺めてはため息をついていた。



「早く次のお誘いが来ないかしら? もう私とマシューさまは、付き合っているも同然よね?」



 シェリーは待つのに飽きて、また邸を抜け出し、マシューに会いに行こうと思い立つ。

 髪の色と瞳の色を変えて、外出着に着替えて、さあ抜け出すぞというときにリグリー侯爵に見つかった。

 マシューとの待ち合わせ場所に行く日も、こうやって見つかってしまったのだった。

 あのとき同様に、リグリー侯爵の横をすり抜けようとしたが捕まった。



「あれほど言いつけたのに、まだ分からないのか。誰か! シェリーを長椅子にでもくくりつけろ! 今日だけは絶対に邸から一歩も出してはならぬ!」



 カンカンに怒ったリグリー侯爵によって、シェリーは自室に戻され、より一層厳しい監視の目がつくのだった。



「何よ? 何があるっていうのよ? どうして今日は駄目なのよ?」



 くくりつけられはしなかったものの、三人のメイドがシェリーを取り囲んでいた。

 そのうちの一人が首をかしげる。



「先ほど、メイベルさまは外出されていましたよ。ずっと部屋にこもっていらしたから、心配だったんですよね。今日は少しはお元気になられたのかしら?」

「メイベルは外出を許されたってこと? 私ばかり駄目出しされて、悔しい! メイベルはどんな格好だった? めかしこんでいなかった?」

「いいえ、ふつうの外出着でしたよ。あの恰好で他家を訪問するのは、少しためらわれるでしょうね」



 このメイドは、メイベルが玄関へ急ぐところしか見ていなかった。

 もし王家の紋章がついた馬車に乗り込むところを見ていたら、それを聞いたシェリーの爆発を抑えるのに苦労していただろう。

 執事が、馬車を見えにくい所に誘導した成果だった。



「そうなの? それならいいんだけど。メイベルだけ楽しんでいるのは不公平だものね! 一体、お父さまはいつまで私を軟禁するつもりなのかしら。いい加減にして欲しいわ!」



 ぷりぷり腹を立てるシェリーを見て、メイドたちは目線を交わした。

 みんな、シェリーの自業自得だと知っているのだ。

 邸内であれだけの騒動を起こし、メイベルが婚約破棄された原因はシェリーだ。

 そんなシェリーを大人しくさせようと、リグリー侯爵が必死に婚約相手を探していることを知っている。

 婿を迎えて、少しは落ち着いてくれたらいいのだが。

 誰にもらったのか知れない青いバラを眺めてうっとりしているシェリーを、引き続きメイドたちは監視し続けたのだった。

 

 ◇◆◇



 軽快に走る馬は、メイベルの乗った馬車を王城へ導く。

 メイベルには、こうしてお茶会に通っていたのが、ずいぶん昔のことのように思えた。

 車窓からの眺めは、すっかり春色に変わっている。

 初顔合わせに緊張していたのは、まだ秋の初めだった。



「離宮までは行かないのね? では私を呼んだのは誰かしら?」



 いつもよりも、かなり手前で馬車が止まる。

 離宮は王城の奥にあるので、お茶会のときは王城を通り過ぎていたのだ。

 御者が扉を開けて、手を差し出す。

 メイベルはそれを助けに、馬車から降りた。

 降りた先には、王城に仕える侍女長が待ち構えており、メイベルを王城の中へと案内する。

 メイベルはこれまで王城には足を踏み入れたことがない。

 どこに向かっているのかなど、分かるはずもなかった。



「あの、私はどなたに呼ばれたのでしょうか?」



 メイベルよりもかなり年上のはずの侍女長は、メイベルよりもよほど足腰がしっかりしていて、その歩く速度についていくのがメイベルにはやっとだ。

 こんなところに引きこもりの障害が出ている。

 侍女長は歩く速度はそのままで、簡潔にメイベルに返答する。



「わたくしどもからはお教えできないのです。ですが、すぐに分かりますよ」



 ニッコリ笑ってくれたので、悪いことではなさそうだ。

 その笑顔に安心して、メイベルは侍女長についていくため足を動かすことに専念する。
 メイベルは邸に引きこもっている間、ずっと思考の海にいた。

 メイベルに青痣が現れたということは、ディーンも盲目になったかもしれない。

 クラリッサは、目が見えないディーンを、献身的に支えるだろうか?

 いいえ、クラリッサは華やかな世界でこそ花開く女性だ。

 静かな離宮でお茶を飲むだけの生活に、満足するはずがない。

 新しいもの好きで、人としゃべるのが好きで。

 常にキラキラした空気を振りまいていたクラリッサ。

 盲目のディーンに、嫌気がさしてくれないか。

 メイベルは仄暗い望みを抱く。



(クラリッサさまに捨てられてしまえば、私が拾いに行けるのに――)



 鬱々としていたメイベルは、期せずしてディーンと似たようなことを思い描いていたのだった。



 ◇◆◇



 メイベルが連れていかれた先には、10人以上の侍女が控えていた。

 それにぎょっとしてしまったメイベルを、侍女たちは容赦なく裸にしていく。

 拾われてきた野良犬のように、全身を隅々までしっかり洗われたメイベル。

 恐ろしく香り高い香油でマッサージをされ、足の爪の先まで磨かれた。

 着たこともないような肌触りのよい下着を身につけたメイベルに用意されていたのは――。



「花嫁衣装……?」



 純白のドレスだった。

 うろたえるメイベルにお構いなく、侍女たちは手際よくドレスを装着させる。

 

(私、結婚するの?)

 

 ドレスを着たメイベルの青痣を、侍女が化粧で隠していく。

 長年、隠し続けてきたメイベルよりも、よほど上手だった。

 まったく青痣が分からなくなったメイベルの頭に、ヴェールが乗せられる。

 足元しか見えなくなったが、手を引く者が現れる。

 それに従いメイベルは足を進めた。

 もうこうなってしまっては、ついていくのが一番早い。

 そうしないと何が何だか、訳が分からない。

 説明が聞ける場所へ行こうと、メイベルは歩いた。



 このとき、メイベルの手を引いていたのは魔法師団長だった。

 長い白髪に赤い目、まとう深緑のマントは縁に飾り刺繍が入り、明らかに高い位を表していた。

 ヴェールの隙間からそれらが見えなかったメイベルは、妙な緊張もせずに済んだ。

 侍女長よりもゆっくり歩いてくれる引率者に感謝して、メイベルは聖堂まで来る。

 聖堂――王族が結婚するときに誓いを交わす場だ。



(やっぱり、結婚するのだわ、私。しかも、相手は多分――)



 音もたてずに両開きの扉が引かれ、中へ案内される。

 赤い絨毯を踏み、数段の階段を上り、誓いの証人の前に来た。

 そこでようやく、メイベルのヴェールが持ちあげられ、視界が広がった。

 

 メイベルの予想した通り、メイベルの隣に立っていたのはディーンだった。

 メイベルの方を見ているようで視線が合わない。

 見えていないのだ。

 これもメイベルの予想が当たっていた。

 盲目と青痣に戻ったディーンとメイベルは、再び縁が繋がったのだ。



 ディーンもメイベルに似た白い正装だった。

 おそらくは花婿衣装なのだろう。

 メイベルとディーンの前に設置された台に、誓いの証人が誓約書を置く。

 内容は結婚についてだ。

 証人が読み上げ、両人がサインをすることで成り立つ。

 ディーンは侍従にペンを渡され、サインする紙面の上まで右手を導かれていた。

 手を置かれた場所に、見えないながらもディーンはサラサラとサインをした。

 次はメイベルの番だ。

 ディーンが、メイベルがいるだろう場所に向けてペンを差し出す。

 それを受け取り、メイベルもディーンの隣にサインをした。

 婚約ではなく結婚だ。

 もう誰も二人を引き離すことは出来ない。

 証人がサインを確認し、無事に誓約がなったことを証言する。

 わずかな拍手がおきた。

 どうやら聖堂には臨席者がいるようだ。

 メイベルには見渡す余裕がなかったが、おそらくはディーンの関係者だろう。

 ということは王族だ。

 急に緊張してきたメイベルの慌てた気持ちが、ディーンに伝わったかどうか。

 ディーンは右手を伸ばし、メイベルの存在を確かめ、ゆっくりと体の線に沿い、やがてメイベルの頬に到達した。

 もうメイベルのヴェールは持ち上げられている。

 ディーンはメイベルの唇の位置を親指で探って、そこに自分の唇を寄せていった。

 メイベルは突然のことに、目をつむることが出来なかった。

 よって、長いディーンの金色のまつ毛を、感極まってふるふる震えながら見ているのが精一杯だった。

 時間的に長かったのか、短かったのか、メイベルには判断が出来ない。

 ようやくディーンが唇を離し、そっと瞼を持ち上げる。

 そして、確かにメイベルと視線を合わせたのだ。

 ディーンの頬が赤らんだ。

 見えているのだ。

 メイベルも自分の頬が赤い自覚がある。

 そんな二人に、先ほどよりも大きく拍手が沸いた。

 

「では、説明いたしましょう。メイベル嬢にも種明かしをしなくては」



 すっと前列から立ち上がったのは、魔法師団長だった。

 メイベルは位置的に、聖堂まで手を引いてくれたのが魔法師団長だったと分かった。

 魔法師団長は、懐から湾曲した何かを取り出した。

 それをメイベルにも見えるように掲げ、説明を始める。



「これは呪いの魔道具です。ディーンさまの盲目も、メイベル嬢の青痣も、全て呪いのせいでした」



 メイベルは、ディーンの目が見えるようになったときに、「呪いが解けた」と漏らした先代王の言葉を思い出した。

 呪い――闇魔法の使い手による魔法。

 魔法師団長による話は続く。

 先代王の時代に起きた悲劇が、今回の呪いを生みだした。

 対象となった、王族の血が流れる魔力量の多い赤子に該当してしまった二人に、苦難が襲いかかる。

 呪った本人も、こんなに長く続くとは思っていなかったらしい。

 呪った本人が亡くなったことにより一度は解けた呪いだが、行方が分からなくなっていた魔道具をうっかり発動させてしまった者がいて、再び呪いがディーンとメイベルを襲った。

 

「お二人は、これまで呪いだと分からないまま、長らく苦しんだことでしょう。だが今ここに、呪いの魔道具の完全なる封印を行いました。この呪いが発動することはもうありません。どうぞ、末永くお幸せに」



 魔法師団長が深く礼をして下がる。

 それに代わり、先代王が前に出た。



「今回の悲劇は、子に魔力量の多さだけを求めた結果、起きたことだ。我々は二度と、こんな悲劇を繰り返してはならない。王族と言えど、不本意な結婚はしなくていいと、儂は思う。臣下にも、それを理解してもらいたい」



 先代王の言葉を締めに、式は終わった。

 青痣が出たり消えたりしたのは、呪いが再発動したせいだった。

 一体、誰がそんな恐ろしい呪いの魔道具を扱ったのか。

 魔力量の多いメイベルには、魔法師団長が封印したにも関わらず、呪いの魔道具が醸し出す嫌な気配がしっかり見えていた。

 しかし、うっかり発動させたのが義妹のシェリーだとまでは分からなかったようだ。



「メイベル、抱きしめてもいいだろうか? もう私のものだと確信したい」



 横を見ると、両腕を伸ばしたディーンがいた。

 その腕で囲いたいということだろう。

 メイベルも両腕を伸ばす。

 二人は互いに抱きしめ合った。

 もう離さない。

 誰にも渡さない。

 強い思いを感じさせる抱擁だった。

 純粋だったはずの二人が、心に仄暗い思いを抱えてまで求めあった相手だ。

 長い抱擁の後は、自然に口が重なった。

 それは誓約のときよりも、ずっと深い口づけだった。

 

 こうして、運命に弄ばれ引き離された二人の心は、ようやく繋がった。

 初めての恋を失い、後悔に眠れない夜を過ごし、相手の不幸を望むほど狂おしかった思いは、ディーンをしたたかにさせた。

 一生に一度の我がままを、先代王に言ったディーン。



『メイベルが欲しい』

 

 役に立てない自分は、ひっそりと息をひそめて生きるほうがいいと、ディーンはずっと思っていた。

 だが、どうしても欲しいものが出来てしまった。



『メイベルを得るためなら、何にでもなる』

 

 その思いが兇変をひっくり返したのだ。

 ディーンはもう、優しいだけのディーンではいられない。

 メイベルを護るため、自分の地位を確固たるものにしていく。