改装された劇場の中は、光を乱反射するシャンデリアによって夢の世界のように煌めいていた。

 マシューに手を引かれたメイベルは、こんなきらびやかな場所に、自分がいてもいいのか不安でたまらない。

 いつもは軽装なマシューが、しっかり正装をしているのにも緊張してしまう。

 もちろんメイベルも相応しいドレスを着てきたのだが。

 場所にも衣装にも負けている気がするのだ。

 つい及び腰になるメイベルを、マシューが逞しい腕で引っ張ってくれる。

 それがなければ、とても席まで進めなかっただろう。

 席についたあとも、オロオロと辺りを見渡していたメイベルは、一点に視線が釘付けとなる。

 そこには、堂々と腕を絡めるクラリッサと、並んで歩くディーンの姿があった。

 王族らしい金糸を多用した輝く正装が、金髪のディーンによく似合っている。

 いつもは下ろしている長髪を、邪魔にならないよう後ろでひとつに結っていた。

 隣のクラリッサはエメラルドグリーン色のドレスを身にまとっている。

 クラリッサの髪の色とも言えるが、おそらくはディーンの瞳の色を意識してだろう。

 見目麗しい二人は、劇場のどこからも視線を集め、自ら発光しているかのように目立っていた。

 高位貴族向けの個室に歩いていく二人。

 盲目のディーンは、よく侍従に腕を引かれて歩いていた。

 それが今はクラリッサに代わっている。

 もう目は見えているのに、腕を引かれる癖は抜けないのだろうか。

 そんな仲睦まじい様子を、貴族たちはひそひそと噂していた。



「あれが王弟ディーンさまよ。クラリッサさまが片時も放さないと聞くわ」

「舞踏会でもずっと一緒なのですってね。あの美貌ですもの、奪われるのを警戒しているのでしょう」

「ホイストン公爵家に逆らう家などないでしょうに?」

「まったくだわ。クラリッサさまの意に反することをしてごらんなさい。アバネシル皇国が黙ってはいないわ」

「アバネシル帝国の皇帝は、姪のクラリッサさまを可愛がっていらっしゃるそうね?」

「なにしろ溺愛していた妹の皇女さまにそっくりにお育ちだから」



 それからも貴族たちの噂話は続いたが、メイベルは聞く気になれなかった。

 隣の席にマシューが戻ってくる。

 上司が来ていたからと挨拶に行っていたのだ。

 メイベルは何もなかったように振る舞おうとしたが、その必要はなかった。



「すっかり会場中の話題になっているようだね、ディーンさまとクラリッサさまは」



 マシューにだって耳がないわけではないのだ。

 むしろメイベルが居心地悪くしているのを心配してくれた。



「大丈夫だよ。メイベルは何も卑屈になることはないんだ。今は私が隣にいる。それとも、私では物足りないかな?」

「と、とんでもありません! マシューさまが物足りないだなんて!」

「そうか、安心したよ。ここで物足りないと言われたら、どうしようかと思った。……泣いて帰るしかないよね?」

「ふふふっ、マシューさまったら」



 マシューが泣くふりをして悲しそうに言うので、メイベルは噴き出した。

 さっきまでの気鬱は吹き飛んだ。

 そうだ、ディーンとクラリッサのことを気にしてもしょうがない。

 もう二人とは赤の他人なのだから。

 私は私の将来を見据えないと。

 クラリッサと腕を絡めていたディーン。

 それが現実だ。

 メイベルは心の奥底に沈んでいた恋心に蓋をした。

 もう叶うことは無い。

 それが今日、はっきり分かった。

 笑わせてくれたマシューを見る。

 シャンデリアの光が、銀髪をより美しく見せていた。

 濃い紫色の瞳には、笑ったことで頬が赤らんだメイベルが映っている。

 笑い合い、見つめ合う二人は、誰が見ても仲の良い婚約者同士だった。

 そしてそれを、階上からディーンも見ていた。



 ◇◆◇



 特別に用意された階上の席へ、クラリッサに案内されてディーンはついていく。

 クラリッサはこの劇場が改装する前から、上得意として通っていたのだそうだ。

 

「今日はディーンさまと一緒に来られて嬉しいですわ。ディーンさまは歌劇は初めてなのでしょう? もっとたくさん、二人で初めてのことを体験しましょう」



 個室になった席にクラリッサと共に腰かけると、主要な演者や劇場のオーナーが挨拶に来た。

 クラリッサは上機嫌でそれに微笑む。

 ときおり演者に話しかけては、苦労話を聞きだしていた。

 その間、手持ち無沙汰なディーンは、なにげなく会場を見渡した。

 濃い赤を基調とした座席シートが、眼下にずらりと並ぶ。

 そのほとんどが埋まっていることから、今回のこけら落としが注目されていることが分かる。

 広い舞台にはまだ緞帳が下り、多くの観客が今か今かとそれが上がるのを待ちわびていた。

 その中に、目立つ銀髪の男がいる。

 ディーンの金髪も珍しいが、銀髪も珍しい。

 銀髪は、メイベルの婚約者の髪の色だったはずだ。

 隣には予想通り、ディーンが愛してやまない茶色があった。

 何かを話しているのだろう、周りのざわめきに消されないよう、メイベルが一生懸命に口を開いているのが分かった。

 そして銀髪の男がそれに答えて何かを言った途端、メイベルが頬を赤くして笑った。

 ディーンはたまらずサッと目をそらす。

 心臓がつぶれるように痛い。

 見えないが、絶対に血を流している。

 顔をこわばらせているディーンに気がつかず、劇場のオーナーが挨拶をしてきた。

 それへ対応しながら、ディーンの頭の中はメイベルでいっぱいだった。

 先ほどの笑顔が何度もリフレインされて消えない。



(離宮のお茶会で、一度でもメイベルが笑ったことがあったか?)

 

 長らく目が見えなかったディーンにとって、初めて見たメイベルの笑顔は衝撃だった。

 とても可愛かった。

 とても幸せそうだった。

 そしてそれをメイベルにもたらしたのは、ディーン以外の男。

 あの婚約者が、いずれメイベルの夫になる。

 ディーンが立つはずだった場所に立つのだ。

 ぎりりと拳を握りしめる。

 掌に爪が深々と刺さる。

 胸の痛みに比べれば、取るに足らない痛みだ。

 そろそろ歌劇が始まる。

 観客は舞台へと視線を移す。

 隣に座るクラリッサがディーンに寄り掛かる。

 劇場は舞台を残して暗闇に沈む。

 しかしディーンには銀髪とその隣の茶色が、いつまでも見えるような気がした。



 ディーンもメイベルも、お互いが初恋だった。

 恋がどういうものか知らず、手探りで始めた関係だった。

 始まりは押しつけられた婚約だったが、つたないながらも育んできた思いは本物だ。

 しかし運命は二人を引き裂いた。

 気持ちを残したまま、すれ違ってしまったディーンとメイベル。

 不幸の中にいるのが日常だった。

 だから抗うことを知らなかった。

 そんな二人にとって苦痛とは、撥ね退けるものではなく、ひたすら耐えるものだったのだ。

 

 ◇◆◇



 メイベルとマシューの婚約はつつがなく続いていた。

 そろそろ両家の親族を集めて、婚約披露パーティを開こうとリグリー侯爵が言い出す。

 その日のためにメイベルはドレスを新調した。

 シェリーがそれをうらやましがっていたが、メイベルにはどうすることもできない。

 マシューの瞳の色を意識して仕立てられた濃い紫色の夜用ドレスは、今までになく色っぽくて、メイベルは試着をしたときに肩の露出が気になって仕方がなかった。

 ドレスと同じ生地を使って、マシューはタイを作るという。

 おそろいの衣装を身につけるのは、仲が良い証だ。

 打ち合わせや衣装合わせのために、マシューは何度かリグリー侯爵家を訪問した。

 これまで、マシューとは外でばかり会っていたので、なんだかメイベルはくすぐったかった。

 マシューにお願いされて、編み物を編んでいるところも見せた。

 自分にも作って欲しいと言われたので、メイベルはマシューにマフラーを編むことにした。

 そうして婚約披露パーティの日取りは近づいてきた。

 最後の打ち合わせを終えて、帰るマシューを玄関で見送るメイベル。

 

「次にお会いするときには、マフラーが出来上がっていると思います」

「楽しみにしているよ。次はパーティの日だろう? 正装で巻いては駄目かな?」

「うふふ、マシューさまなら似合ってしまうかもしれませんね」



 和やかに別れのときを過ごしている二人を、不穏な言葉を呟くシェリーが覗き見ていた。



「マシューさま……素敵だわ。メイベルにはもったいないわ。どうにかメイベルと入れ替われないかしら」