私の気持ちが落ち着いたところで真澄さんは私に一枚のメモを差し出した。そのメモには電話番号が書かれている。
「何かまた辛くなるようなことがあったら、ここに電話してくださいね。いつでも相談に乗りますから」
 私はそれを受け取ってポケットにしまってから精一杯の感謝を伝えた。
「ありがとうございます」
「良いんですよ、これくらい」
 気づいたら日は既に傾き始めている。私は真澄さんに今思っていることを全て伝えようと思った。
「あの、真澄さんのおかげで私、ようやく自分がどうしたら良いのか少しわかった気がします」
 これを聞いた真澄さんの顔は少し嬉しそうだった。
「それなら良かったです。どうか、どうかあなた自身のためにこれからも生きてたくさんのことをしてください。私から言えることでは決してないのですが、それがきっとお二人を弔うことにも繋がるはずですから。それが私があなたに願うことです」
 真澄さんは優しい顔を私に向けた。私はその笑顔を見て咲の笑顔を久しぶりに思い出せた。
「では、今度また会いましょう」
「そうですね。今日はありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました。実は私も悩んでいたことがあるんです。あなたの姿を見て私も何かが変われそうです」
「どんなことで悩んでいたんですか?」
 私は何気なく聞いた。
「それはまた今度お話ししますね」
 真澄さんはにこやかな顔で答えてはくれなかった。結局、次にまた会うことにして、その時に話を聞かせてもらうことにした。
 私と真澄さんはそこで別れた。また会う約束を交わして。真澄さんとはこれから長い関わりになるような気がした。それから、佐伯くんや真希ちゃんともまた会いたくなったので、私は二人それぞれとチャットアプリでまた会う日時を決めた。二人ともそれを快諾してくれたので私は心強かった。私には頼れる人達がいるのだとようやく思えた。私は迷うことなく道を少しずつ、少しずつ歩き始めた。

 家までの帰り道。辺りが暗くなりつつある道を私はゆっくりと歩いている。私は自分にできることが何なのかようやくわかりかけている。私の心に灯ったその小さな希望を私は大事にしたいと思えたのだ。それは佐伯くんから言われたことや真希ちゃんからお願いされたことにも繋がっている。私はもっと私を大事にしたい。そう思った時、私は急に思いついた。自分にできることが一つあるじゃないか。さらにそれは、咲が果たすことができなかったことである。思い立った私は歩くペースを上げて家へと急いだ。私は思い立ったその考えを止めらることはできなかった。

 家に着くと私は急いで準備を始めた。あの場所へ行こう。これから私が前を向くために。咲が果たせなかったことを果たすために。出発は翌朝にすることにした。それからできるだけあの時と同じ道を辿ってあの場所へと向かう。私はそれを決めるとリュック一つに収まる程の荷物を用意してリュックに詰めた。
 それからさらに必要な物を思い出したのでリビングで探し物をしているとお母さんが家に帰ってきた。
「ただいま、って由香里何してるの?」
 その時のリビングはいつも以上に散らかっていた。お母さんはそれを見て驚いていた。
「お帰り、お母さん」
「どうしたの急に」
 お母さんは少し怪訝な顔をした。誰しもが突然お小遣いを探してリビングを散らかしている娘の姿を見たらそういう表情になるかもしれない。
「いや、この辺にお小遣いあったかなと思って」
「お小遣い?」
「私、ようやく向き合えそうなの。自分の今と。だから、明日少し旅に出ようと思って」
 私が言い終えるとお母さんは一瞬だけ驚いたような顔をした。それから急に笑い出した。
「あははは!」
「え、お母さん大丈夫?」
 私は急に笑い出した母の姿を見て不安になってしまった。お母さんは笑い終えると今度は泣き出してしまった。
「そうか、ようやく向き合えそうなのね……」
 お母さんは嬉しそうだった。
「お小遣いを探してる理由は旅費なんでしょ? 良いよ、お母さんとお父さんが出すから行ってきなさい」
「良いの? ありがとう」
「良いのよ。親としてこれくらいさせて欲しいのよ。娘が久しぶりに元気そうな姿を見てお母さんは嬉しいから」
 それからすぐにお母さんはお金を渡してくれた。嬉しそうなお母さんの姿を見て私の方も嬉しい気持ちになった。

 夕食と準備を終えると朝の出発まで私は寝ることにした。眠っている間に私は久しぶりに夢を見た気がした。その夢の中には咲と友美がいたように思う。夢の中で私達は何かを喜び合い、いろいろな話をしているうちに二人は時間が来たと言って姿が消え始めてしまった。二人は最後に「ありがとう」と言い残して姿が完全に消えた。またどこかへと行ってしまったのだろうか。夢の中の私は不思議なことに二人をちゃんと見送れたと思う。目が覚めて気がついた。私はようやく三年前のことと折り合いをつけようとしているのだ。時刻は朝の四時。まだ日は登っていない。予定の列車に乗る時間まであと一時間程だった。私は起き上がって、身支度を始めた。リビングにあったパンを一つ食べ、着替え終えると荷物の点検をして私はリビングを出ようとした。するとお母さんが起きてきてリビングにやってきた。
「おはよう。もう行ってくるのね」
 寝起きのお母さんはまだ眠たそうだった。それでも見送ってくれるのはとても嬉しかった。
「うん」
 私は自信を持って頷いた。私が玄関まで出るとお母さんも玄関まで来て見送ってくれた。
「そうか。あなたが人生に希望を持てたようでお母さんは嬉しいわ。じゃあ、気をつけてね」
 私はその言葉が嬉しかった。靴を履いてお母さんの顔を見た。
「ありがとう」
 鍵を開けてドアを開く。
「良いのよ。いってらっしゃい」
 お母さんの声は優しかった。
「いってきます」
 私は玄関から外へと出た。家を出る足取りが久しぶりに軽かった。

 夜明け前、駅までの道を急いで歩く。時間が時間なので私以外に道を歩いている人は誰もいなかった。一人で道を急ぎながら私は三年前の日々を思い出した。正直に言ってあの日々を思い出すのはとても辛い。私はそれが辛すぎるあまりに過去に囚われ続けてしまった。だけど、佐伯くんや真希ちゃん、真澄さんの言葉を聞いて私はようやく過去と折り合いをつけて今に目を向けられそうな気がしている。それから、咲と友美がすることができなかった多くのことを考えた。二人が私に言った果たしたかったことと言わないだけで抱えていた夢や希望は沢山あったはずだ。私は自分の人生を生きることで二人ができなかったことを少しずつでも二人の分まで果たしたい。目線を上に向けると空はまだ暗いままだ。それでも、夜明けは近づきつつあるのが感じられた。

 駅に着いた私は切符を買った。目的地まではほぼ一日かかる計算だった。それは三年前とできる限り同じ道を辿りたかったからだ。その道順はあまりにも非効率だった。だけど、その道を辿ることにことにこの旅の意味はある。プラットフォームで列車を待っている間、私はスマホのメモアプリで日記を書いた。日記にはどうしてこの旅をするのか、その理由を記した。書いている間に日が登り始めてきた。空が少しずつ明るくなっていく。しばらく日記を書き続けていると列車が到着した。私はそれに急いで乗った。誰も乗っていない車内で席を見つけて座り込む。発車まで時間は少しあった。なんとなく車窓から見える街並みを眺める。この街も三年間で少しずつ変わってきた。私はこの三年間、何もできず、前を向くことができなかった。今、ようやく前を向けそうなのだ。これは私がこれから前を向いて生きていくための旅なのだ。車内アナウンスが発車を告げる。ブザー音が鳴り響くとドアが閉まり列車は走り出した。私はこれから前を向いて生きていきたい。その人生の中で咲と友美ができなかったことを私は二人の代わりに果たしていきたい。私がこれから生きるため、咲と友美ができなかったことを果たすための長い旅が始まった。