咲が崖の下に落ちてから数時間が経った。警察はありとあらゆる手を使って彼女を探したが見つからなかった。彼女は落ちる直前に心臓の近くをナイフで刺したため、仮に見つかったとしても生存の可能性は絶望的に低かった。私は何もできず、近くの岩にただ無心で座っていた。途中で警察官の一人が気を利かせて毛布をかけてくれた。冷たい夜空の下で時間だけが過ぎていった。
しばらくすると車が一台やってきた。降りてきたのは吉原刑事だった。吉原刑事は私を見るなり近づいてきて、私のことを平手打ちした。
「あんたね! 死人を二人も出してどうするんだ! お前の方こそ狂ってるよ!」
その場に居合わせ警察官の一人が吉原刑事を止めようとしてくれた。
「吉原さん……」
「黙れ、このヒラが!」
結局、その警察官も青木さんと同じく彼女のことを止められなかった。
私は何も言えなかった。そうだ、私なのだ。結果的に私が二人を殺したんだ。私が全部の責任を果たさなくちゃいけないんだ。そう思った。
「なんも言わないのね、お前。この死神が!」
吉原刑事は私のことを殴った。自分の思い通りに行かなくて嫌だったのだろう。私は抵抗も何もせずにひたすら殴られ続けた。だって、私が死神だからだ。
「あはは! 死んじまえこの死神が!」
私はその場で倒れ込んだ。吉原刑事はなおも私を殴り続けた。他の警察官たちが吉原刑事のことを止めようとするが、止められなかった。
私はひたすらに殴られ続けた。ここで殴られ続けて死んでしまっても構わないとさえ思った。
「ねえ、あんたなんで抵抗しないの……」
だが、次第に吉原刑事の方が殴る勢いを抑えはじめた。
「なんで、なんで抵抗しないの……、怖い……」
「だって、私は死神だから」
吉原刑事が初めて後退りをした。彼女の顔は恐怖で溢れていた。
私は残った体力を使って立ち上がった。
「死神だからさ、感じないよ痛みなんて」
「じゃあ、あの二人が死んでも痛みはなかったの!」
「あったよ。でもね、おかげで今は何も感じないの」
「おかしい、おかしいよあんた……」
「おかしいのはどっちもでしょ」
「私は、おかしくない。狂ってない。断じて違う!」
「あら、そう。じゃあ、この状況を見て楽しんでいたあなたは正常だって言うの?」
「そうだ! その通りだ!」
「じゃあ、私のことを心底恨みながら、死んでくれ!」
今度は私が吉原刑事のことを殴った。他の警察官たちはもうこの状況を見ているしかできなかった。
私は死神だ。こんな刑事なんて殺してやる。そう思って何度も殴った。
さらに一発殴ろうとした、その刹那。
「やめて!」
「これ以上はやめて!」
なぜか、どこからか咲と友美の声がしたような気がした。幻聴だったと思う。それでも、私には二人が私のことを止めようとしているような気がして、私は吉原刑事を殴るのをやめた。
「ああ、ああ、そうね。私が愚かだった……」
「どうしたの……」
吉原刑事が私に尋ねた。
「どこかから二人の声がしたの」
「二人ともここにはいないのよ!」
「そうね、もう居ない。もう居ないけど、私の中にはいるの」
「二人はいないのよ! 目を覚ましなさいよ!」
「だめ、そんなことしたら私の心が死んじゃうよ……」
「だったら死ね」
そう言い残して吉原刑事は車の方へと戻っていった。
「ああ、そうね。もう二人はいないのよ……」
私は立っているのが精一杯だった。それでも咲と友美はもう居ないという現実に気持ちが引きずり戻されて、私はついに倒れてしまった。
「あああ!!」
私は叫んだ。自分の叫び声だけが冬の夜空に響き渡っていた。
「死んじゃったよ! 二人とも死んじゃったよ! 落ち着いて! 落ち着いてられるか! 死んじまえ! 死にたくねぇよ! 私は誰? あなたは私! 咲よ! いや、友美だよ! そんなことない! 私は私は、誰?」
これ以降、三日間の記憶が私にはない。一時的に自分が誰なのかで混乱しはじめた。その場にいた人から後で聞いた話だが、私は一人で会話を続けて、それから自分のことを殴りはじめたという。やがて、気を失ってしまったようで、気がついた時には病院のベットで横になっていた。
「目が覚めた!」
目が覚めた時、私のそばには青木さんと両親がいた。
「由香里!」
「よかった! 目が覚めて本当に良かった!」
「ここは?」
私は混乱していた。目が覚めたら朝だったからだ。
「病院よ。目が覚めて本当によかった!」
お母さんとお父さんは抱き合って喜んでいた。
「至急、医者を!」
そう言って、青木さんは部屋を後にした。それから彼が昼過ぎまで戻ってくることはなかった。
医者が来て、私のことを診察した。
「名前わかるかな?」
「由香里です。佐野由香里」
「なら良かった」
医者は診察道具を置いて、両親の方を向いた。
「もう大丈夫ですよ。あとは体の回復を待てば退院できると思います」
「ありがとうございます!」
「本当にありがとうございます!」
両親は深々と頭を下げた。医者は一礼すると病室を出ていった。
状況が落ち着いたのを見計らって、青木さんが私の病室に再びやってきた。
「まずは、うちの署の吉原について詫びなければなりません……」
青木さんは地面に座り込んで土下座をした。
「青木さん、そこまでしなくても……」
「いいや、これくらいしないと、何も変わらない」
少しの間土下座をしてから青木さんは立ち上がった。
「吉原刑事は謹慎処分となりました。じきに正式な対応が決まると思います」
「そうでしたか」
「私は、あなた、いや、あなたと倉持さんと石崎さんに何て言ったら良いのかわからないのです。私はあなた方に許されようとは思いません。ただ、あなたたちに謝っておきたかった。私はあなた方のことをありのままに受け止めておきたい。事件の加害者、被害者という関係性ではなく友達同士の三人としてあなた方のことを見ていたい」
私は何も言えなかった。気持ちの整理がついていなかった。何も言えずに時間だけが過ぎてしまった。
「謝るのは早急過ぎたかもしれませんね。では、失礼します」
青木さんが病室を出ようとした。私は今は気持ちがまとまっていなくとも言えることが一つあった。
「あの、待ってください!」
青木さんがこちらの方に振り返った。
「あの、ありがとうございます。謝ってくれて。咲と友美が許してくれるのかわからないし、私も今は気持ちの整理がついていないです。だけど、これだけは言えます。私たちを私たちと認めてくれてありがとうございます」
青木さんは少し微笑んで、一礼してくれた。
「こちらこそ、ありがとう」
青木さんは私の病室を後にした。
私たちは私たちなのだ。青木さんはこの事を受け止めてくれたのだ。
夜になって、お父さんとお母さんは眠ってしまっていた。一人で起きていた私は窓越しに夜空を見つめた。ビル街の光のせいで星は何も見えなかった。看護師さんが運んできてくれたスープを飲みながら私は無心になっていた。何かをしようとする力がほとんど湧かなかった。いつの間にか眠くなってしまって、気がついたら目を閉じていた。私の中には何も残っていなかった。
病室で私は再び夢を見た。
夢を見るのは友美に切りつけられた日の夜以来だった。
ゾンビみたいな私は暗闇に差し込んだ光の方へと歩き続けていた。そこには何が待っているのだろうか。期待と不安を胸に私は、ついに光を掴んだ。光を掴んだ瞬間、それは眩く輝いた。私は思わず目を伏せた。
眩い光があたりを包み込んで、温かな世界を作った。温かな光に包み込まれた私の目の前には綺麗な羽を持った孔雀と綺麗な銀色のナイフがあった。
「孔雀とナイフ……」
私は孔雀とナイフに触れようとした。するとそれは形を変えて人になった。目前に居たのは、綺麗な孔雀色のドレスを着た咲とグレーのワンピースを着た友美がいた。
「友美……、咲……」
私たちは固く抱き合った。私の頬に思わず涙が溢れた。抱き終えると、三人そろって泣いていたことに気がついた。
「ごめんね、こんな結末になっちゃって……」
友美は涙を浮かべていた。
「私たちはあなたを傷つけてしまった……、本当にごめんね」
咲もまた頬に涙を流しながら謝ってくれた。
私は何も言えなかった。ただ、二人に会えたということだけで胸がいっぱいだった。
「友美と私は、これから行かなくちゃいけないところがあるんだ」
「だから、もうこれでお別れ」
彼女たちが残酷な事実を突きつけた。そうだ、二人とももう現実には居ないのだ。
「待って! これからどこに行くの!」
わかっていたのに私は聞いてしまった。友美は微笑んで答えてくれた。
「地獄よ。でも、安心していつかどこかで私たちに会える時が来るから。だから泣かないで」
「こんな状況で泣かないで言われても……」
涙が溢れた。二人が私の肩を握ってくれた。彼女たちも悲しそうだった。
「地獄でもどこでも、私たちは私たち」
「そう、またどこかで会いましょう」
二人が私の肩から手を離した。私の目は涙でいっぱいでよく見えていなかった。
「じゃあね」
「またね」
二人はそう言って、光になってどこかへと飛んでいった。
私は何も言えなかった。何も言えなかった。
「咲! 友美!」
目が覚めるとそこは朝の病室だった。朝日が窓から射し込んでいた。私の目には涙が溢れていた。
それ以来、咲と友美の夢を見ることはなかった。
事件の後、退院した私は警察からの聴取を受けた。事件に関するあれこれを聞かれた末、咎められることはなかった。どうやら、青木さんら事件に関わった警察官たちが私のことを庇ってくれたらしい。そうしているうちに事件から二ヶ月近くが経っていた。
三月の朝。私は久しぶりに学校へ行く準備をしていた。
「本当に大丈夫なの?」
荷物をまとめているとお母さんが私のことを心配してくれた。どうやらクラスのことが心配なようだった。
「まあ、無理はしないよ」
そう言いつつも私はこの時点で無理をしていた。あの事件以来、私はクラス全体のコミュニティーから追い出されていた。連絡がついたのは真希ちゃんをはじめとするほんの数人だけだった。私はそのことをお母さんには言えなかった。
荷物をまとめ終えた私は、制服を二ヶ月ぶりに着た。久しぶりに着ると少しの違和感があった。
「なんでだろ、あのきらきらしている割には中身空っぽで人を蹴落とすことばかり頭にあるクソったれどもに嫌気を感じたからかな」
制服を着た自分を鏡で見た瞬間、咲の言葉が頭の中で反響した。私はもう学校にいる何も知らない連中が嫌になり始めていた。だが、それは気のせいだと思って私は自分の気持ちに蓋をした。そうしないと私の日常が保てなくなってしまうのだから。
「じゃあ、行ってくるね!」
「気をつけてね!」
時間が来たので私は急いで家を出た。私は無理をして笑顔を作った。お母さんはそれでも笑顔で見送ってくれた。
季節が冬から春に変わろうとしていた。私はなんとなく寒さの残る道を自転車で走った。こうやって自転車で走ったのは二ヶ月ぶりだった。久しぶりに走る道は何も変わっていなかった。ただ、変わってしまったのは自分の心だった。咲と友美をほぼ同時に失ってしまった。この頃になると私は、これからどうしたらいいのだろうかとずっと考えていた。
学校に到着した時には、既に朝のホームルームが始まっている時間だった。私は下駄箱に靴を入れようと扉に手を触れた。
「痛い!」
取手に触れた瞬間何かが指に刺さった。私は慌てて取手の方を確かめた。そこにはカッターの刃先のような物がテープで貼りついていた。
「やーい、人殺し!」
「引っかかったね! きゃはは」
後ろを向くとクラスメイトの男の子と女の子が笑っていた。私の指からは血が出ていたのに。
「これで少しは人の痛みがわかったか死神め」
「しーにがみ! しーにがみ!」
死神という言葉を向けられたのはこれで二度目だった。確かに私は友美と咲を葬った死神なのかもしれない。そう思いながら私はただ二人のことを見つめることしかできなかった。
「何みてるの……」
「怖いんですけど……」
私の何に怯えたのかわからなかったが、二人は走り去ってしまった。
「おい、大丈夫か!」
担任の先生が駆けつけてきた。それからすぐに保健室で手当をしてもらった。手当が終わったところでカッターの刃が下駄箱に隠されていたことを伝えると先生は苦い顔をした。
「実はな、事件の後でクラスの仲がこじれてしまって、先生たちも手に負えないんだ」
「手に負えないって……」
「いろいろあるが、昨日は五人くらいで激しい口喧嘩をしていたよ。喧嘩を収めるのに一時間かかった……」
「どうして、そんなことに……」
「なんでだろうな……、クラスをまとめていた石崎があんなことになったから皆んなの何かが壊れてしまった。先生はそう考えている」
先生もまた苦しそうだった。二ヶ月前には目立っていなかった白髪がところどころ目立っていた。この二ヶ月での辛さが感じ取れた。
「佐野、俺はどうしたらよかったんだろうか……、何がいけなかったんだ……」
「それは、私にもわからないです……」
「そうだよな……、石崎と倉持の一番そばにいたのは、お前だもんな。佐野がわからないのなら先生はもっとわからないな……」
「ごめんなさい……」
「いいんだ、謝らなくて。謝るべきは先生の方だ」
先生の目は涙で溢れていた。私の方も心苦しかった。
「良い先生ってなんだろうな? 先生はわからなくなったよ。だから、今月で先生を辞める」
「そんな! それじゃ……」
先生はそれ以上は言わないでくれと言うように涙を拭いた。
「佐野、とりあえず今日は帰った方がいい。授業とかあれこれは気にしなくていいから、とりあえず帰れ」
「でも……」
「いいから」
私は誰にも気づかれないように学校を後にした。何もすることがなかった私はとりあえず、自転車を走らせた。街の中心の方へと自転車を漕いだ。並木道を眺めるとまだ桜は咲いていなかった。私は何気なくスマホのカメラで写真を撮った。
街の中心の方へと出た私は曇った心を少しでも晴らそうとそこで時間を潰すことにした。
まずはじめに立ち寄ったのは新年早々咲と行ったアクセサリーショップだった。
「ねえ、これ良くない?」
「うんこれで良いかも」
二人でアクセサリーを探した時のことを思い出した。思い出して楽しい気持ちになる反面、それから後のことを思い出すと悲しい気持ちにもなった。
途中で制服姿の私を見て怪しげに見てきた店員さんがいたのだが、何かを察したのかそのまま店の奥の方へと戻っていった。私にはそれがありがたかった。それから私は商品棚をしばらくの間見つめ続けた。
見つめ続けているとお腹が空いた。人間というのはどんな状況でもお腹が空いてしまうのかと悲しい気持ちになったが、仕方がないのでアクセサリーショップを出た。何かを食べられるお店を探すこと数分。空いていそうなハンバーガー屋さんを見つけられた。
私はそのハンバーガー屋さんでハンバーガーとポテトを食べた。どんよりとした気持ちなのに、ハンバーガーとポテトが美味しいと感じられた。なんでそう思ってしまうのだろうか。私は私自身のことが悲しくなった。
ハンバーガーを食べた頃には時刻は昼の一時を過ぎていた。私は一月に咲と一緒に行った場所を改めて回ることにした。
二人でシリーズ物の映画を観に行った映画館。
お腹が空いたからと食べに行ったイタリアン。
他にもその日のうちに回ったいくつかのお店。
咲との短くて幸せだった日々のことを思い出した。スマホの写真フォルダを見るとそこにはその日撮った記念写真が何枚かあった。それらを見ているとどうしてこうなってしまったのだろうと改めて感じた。どうして二人とも居なくなるようなことになってしまったのだろうか。もしあの日、友美がナイフを出さなければ。もし、友美が逃げなければ。もし、友美が咲を殺そうとしなければ。
疑問ともしもばかりが頭の中で溢れかえっていた。
場所を移動してベンチに座りながら私は咲と友美のことを考え続けていた。考えても仕方のないことなのにどうして考えてしまうのだろうか。
それは結局のところは私が二人のことを大切に思っていたからに他ならないのかもしれない。だからこそ、未だに私は二人のことでどうしたら良かったのだろうかと悩み続けている。
人がどんどん私の前を通り過ぎていった。私の気持ちなんてお構いなしに世界の時間は進み続けている。なんとなく通り過ぎていく人々を眺めていると一組の男女が隣に置いてあった別のベンチに腰掛けた。
「ねえ、このバック良くない?」
「良いよね」
隣の席で聞き覚えのある声がした。私はそれを思い出せずにどこで聞いた声なのかを考えた。
「ねえ、あいつが死んでからさ私達上手くいっていると思わない?」
女性の方が楽しそうにバックを見つめ続けていた。一方で男性の方も女性の様子を嬉しそうに見つめていた。
「そりゃそうさ。あいつは俺たちにとってめんどくさい存在そのものだったからな」
その瞬間、私はこの声をどこで聞いたのかを思い出した。テレビだ。テレビのニュースでカメラの前に向かって土下座をした夫婦の姿が頭に浮かんだ。それから目の前で話している二人が誰なのかもわかった。
友美の両親だった。彼らの言葉を聞いて私は彼らが自分の娘のことをめんどくさい存在と形容したことに強い怒りを覚えた。私はベンチから立ち上がって二人の前に立った。
「娘がいなくなって喜ぶ親がどこにいるっていうんだ!」
立ち上がるなり私は隣にいた男女に向かって怒鳴りつけた。私なりの全力の大声だった。
「あんた誰?」
驚かれつつも男性の方から問いかけられた。
「誰って、石崎友美の友達です」
私は堂々と答えた。
「ああ、君か。友美を殺した人の友達っていうのは」
彼は手に持っていたジュースを口に含んだ。
「どうしてそんな冷静なんですか……」
私は思ったことをそのまま口に出した。
「だって事実でしょ」
そう言う男性の言葉には自暴自棄のようなものが含まれているような気がした。
だが、この時の私にはそれを受け止められるほどの冷静さはなかった。
あまりにもいなくなった娘に対して失礼すぎる。私はこの二人に対して怒っていた。
「そうですけど、その態度は友美に失礼過ぎるのでは」
「失礼過ぎるって、それはあんたが決めることではないでしょ」
男性の意見には確かに一理あった。これは私が勝手に決めつけていいことではなかったし、ましてや死人の気持ちはわからないからだ。そう思いつつ私は彼らに対しての怒りがさらにこみ上げていた。
男性の方は平気そうな顔をしていた。もう一人の女性の方も平然そうにしていた。だが、二人の態度のどこかがおかしいと直感が告げていた。
「だって、私たちはあの子を産もうと思って産んだわけじゃないからさ、いなくなってもらって清々したのよ」
女性の方が私の目を見ながら軽い口調で語った。
「じゃあ、テレビで謝った時は何も感じてなかったってことですか」
私は思わず聞き返した。
「そうだよ。世間体を気にしてああしなきゃならないからああしただけ」
友美の両親は何も感じていないようだった。娘の死についてまるで他人事のように語っていた。彼らは平気そうにジュースを飲んだ。私の中でますます違和感が大きくなった。やはりこの大人たちを許せることができそうになかった。
私は友美の父親の頬を勢いよく叩いた。彼が飲んでいたジュースが地面にこぼれた。
「痛っ! 何するんだ!」
男性の方が私を怒鳴りつけた。私はそれに怯まないように強い口調で言い返した。
「何するんだって。当たり前のことをしたの!」
彼は拳を握って私のことを殴りかかろうとした。幸い友美の母親の方が彼の手を押さえてくれた。この瞬間、なんとなくだが彼が殴りかかろうとしたのは自分のことを責められたからだけじゃないような気がした。なぜなら二人の態度にはどこか矛盾したようなものがあったからだ。
「当たり前のことだって……」
「そう! こんなことになったのは何のせい? あなた達が友美のことを放っておいたからこんなことになったんでしょ! 私はあなた達を許したくない!」
私は全力で宣言した。私はこの二人を決して許したくない。そう固く思っていた。
「俺らのせいでこうなったって、言いがかりにも程がある」
友美の父親からは直前までの余裕が感じられなかった。言い返したいことがあるようだった。
だが、
「事実でしょ」
私がそう言った途端に彼は黙り込んでしまった。彼は頭を抱えて何かをか考え込んでいるようだった。彼は空を見上げて涙を浮かべた。その涙には何か苦しい物が感じられた。
やがて、友美の父親は空を見上げながら心の内を明かしてくれた。
「ああ、そうだな。確かに事実さ。もちろん、あんたの言う通り俺たちにも非がある。俺たちの無責任な態度のせいで友美を苦しめてしまった。だがな、あいつが苦しんでたのは俺たちのこともそうだが、学校のこともあったのじゃないかと今になって思うのさ」
彼は本当に悲しそうだった。
私は頭が真っ白になってしまった。
訳のわかならない感情が頭の中で駆け巡っていた。
その間に今度は母親の方が辛そうな顔をして、私に教えてくれた。
「私たちは友美のことをほったらかしにした。友美はだんだん壊れていったから次第に関わるのが面倒になってしまった。友美は気づいていたんだろうな、私たちがちゃんと自分と向き合ってくれていないことにね。心が壊れていく友美が怖かった。どうしていいのかもわからなかったから……」
はじめ、私は彼らは責任逃れのためにデタラメを言っているのではないかと思った。だが、二人の苦しそうな顔や言葉には嘘が無さそうだった。それに気づいた瞬間、私はその場で膝から崩れ落ちた。
「じゃあ、私はあの二人が死んだ責任をどこに求めたらいいの……」
思わず口に出してしまった。言ってしまった後で、これは許される言葉ではないと気づいた。友美の両親は私のことを怒ってもいいところだった。それでも彼らは怒らなかった。いや、怒れなかったのだと思う。
「責任か。俺たちにもこうなった責任はあるさ。頼むから俺たちのことを許さないでくれ。それが、君なりの弔い方なのなら」
彼らは友美が死んで苦しんでいたのだ。自分達の無責任さが原因でこうなってしまったと負い目を感じていたのだ。だからこそ、どうしたらいいのかわからなくなって、あんな態度になってしまったのではないか。私はそう思った。
そう思った瞬間、私の中で怒りが鎮まった。徐々に冷静さを取り戻して、やがて友美の両親に対して申し訳のないことをしてしまったと反省した。
「ごめんなさい。お二人のことを責めてしまって……」
私は彼らに向かって深く頭を下げた。
「いいんだ。友美が居なくなってから上手くいくようになったと言った俺たちの方も謝らないといけない。申し訳ない」
彼らは私に向かって頭を下げた。私はそれに対して何も返す言葉がなかった。
春の空は澄み渡って綺麗だったが私の心はぐちゃぐちゃのままだった。
友美の両親に謝られた後、自転車を押しながら私は考えた。
私たちにはああいう結末しか有り得なかったのか。
どうすれば、あの結末を回避できたのか。
この頃になると私の頭の中には、考えていても仕方のない、途方のないたらればしか出てこなくなっていた。
私は自転車に跨って、全速力で漕いだ。
「うわああ!」
行き場のない感情を叫びながら。
家に帰っても自分の部屋でずっと考え込んでしまった。
咲と友美の死には私たち全員が責任を負わなくてはいけないような気がしていた。私や二人の家族、学校の皆んなに刑事。その全員が最終的には二人を死に追いやってしまったからだ。二人のいた日々はもう戻ってこない。それが悔しかった。
「ねえ、二人とも。どうしていなくなっちゃったの……」
独り言だった。彼女たちがいなくなってしまった理由はなんとなくわかっていた。だけどどうしても納得することができなかった。
咲が死んでしまった直後に夢で見た、地獄へ向かうと言っていた二人の安らかな声がなんとなく頭の中で再生された。どうして、あんなに安らかそうだったのだろう。気がついたら夢の中の話なのにどうしても真剣に考え込んでしまっていた。
なんとなく思い立ってクローゼットの中に仕舞ってあった、咲から借りたままの衣服を取り出した。あれ以来着ることはなかったが、終ぞ彼女に返すことができなかった。それから更に思い返して、咲と一緒に買ったアクセサリーをタンスの中から取り出して机の上に置いた。
私はなんて大切な時間を彼女たちから貰ったのだろうか。二人との思い出の品々とスマホに保存されていた写真の数々を眺めて、あの二人が生きていた時間は二人がどれだけ喧嘩をしていようと、二人から傷つけられようと大切な時間だったと思う。
二人との日々を思い返して私は泣いた。泣いて泣いて、枕を濡らした。
一通り泣き終えて咲から借りた服を見つめた。
私は、彼女から借りたままだった服を今度こそ返そうと思い立った。
翌日の正午過ぎ、私は借りたままだった服が入っている袋を持って、咲の家の前にいた。チャイムを鳴らす勇気が出せずに十分以上立ち尽くしていたら、先に玄関が開いた。中から出てきたのは咲のお母さんだった。
「どうしたの? うちに用があるのなら上がって」
彼女は何気ない顔で私を招き入れてくれた。私はどんな反応をしていいのかわからず、無言のままで家の中へと入った。
家の中に入るとそこには数ヶ月前には無かった咲の後飾りの祭壇が置かれていた。彼女が死んだという事実が私の心に再び迫ってきた。咲のお母さんは祭壇に手を合わせてから、キッチンの方へと向かった。私は部屋中を訳もなく見回してみた。よく見ると、未使用のダンボールが何枚もあり、引越し業者のロゴが書かれたダンボール箱にはいくつかの物が詰められていた。
ダンボール箱に目を向けていると後ろの方から咲のお母さんが戻ってくる気配があった。
「ああ、ごめんなさい。目につくようなところにダンボールが置かれてて」
「いえ、大丈夫ですよ……、それよりどうしてですか?」
「うーん、今度引っ越すのよ。ここに居続けてもあんまり意味がない気がして……」
「そうだったんですね……」
私は、咲が居なくなってしまってから、この家は大変だったのだろうとなんとなく察した。直接は聞けなかったがもしかしたら咲が事件を起こしたということがこの家や周りの関係を破壊してしまったのかもしれなかった。
それからしばらくの間、この部屋が静かになった。私はただ、彼女の遺影を見ることしかできずにいた。咲の遺影は少しばかり微笑んでいる。
先に話を切り出したのは咲のお母さんだった。
「最近の写真で笑ってるのが、これくらいしかなかったの。あの子の笑う姿をしばらく見ていなかったわ」
咲のお母さんは用意したお茶を一口飲んだ。それから彼女の話は続いた。
「でも、最後の数日間はあなたのおかげで笑顔の咲を見ることができたわ。佐野さんには感謝してもしきれないわね」
私の中で楽しそうな彼女の姿が思い浮かんだ。
「ありがとうございます」
私は最大限の気持ちを込めて頭を下げた。私は、咲にどれだけのことをしてやれたのだろうか。頭の中でこの考えがずっと場所を取っている。私はそれを正直に咲のお母さんに言ってみることにした。
「今、こんなことになってしまって、私は、咲にどれだけのことができたのだろうって考えてしまうんです」
「いや、あの時の咲にとっては十分なことをしたのだと思うわ」
「それなら、それなら幸いです」
私はまた頭を下げた。すると、彼女は何かに気づいたような顔をした。
「何か、あなたは心の奥で辛い物を抱えてる気がするわ。せっかくだから、どんなことを考えているのか教えてくれない?」
そう言われて私は頭の中にあるモヤモヤの正体が何なのかわからなくなってしまった。
「じゃあ、こんなことになって辛かったことって何?」
彼女が言い換えてくれた。言い換えてくれたおかげなのか、頭の中にあった物が噴き出てきた。いくつかの言葉が頭の中で再生される。
「なんも言わないのね、お前。この死神が!」
「これで少しは人の痛みがわかったか死神め」
「しーにがみ! しーにがみ!」
「今回の件で刑事さんや同級生から死神とかって言われたんです。事実そうかもしれないですよね。だって、私の友達だった二人が一斉に居なくなってしまったから。私は私のことを死神だってこれからずっと思うのでしょうか? 私のせいでこうなったのならば、私には大きな罪があるのでしょうか? それが頭の中でつっかえています……」
咲のお母さんは私の答えを聞いて私のために真剣に返事を考えてくれた。
「あなたは別に死神でもなんでもないんじゃないかな。あなたは咲と友美ちゃんを助けようとしただけでしょ。どうして死神呼ばわりされなきゃいけないわけ?」
「それは、私が……」
「あなたが責められる筋合いは無いんじゃないかな。少なくとも私はそう思っているけど」
この言葉を聞いて私は少しだけ心が軽くなった。今でも、この言葉が私を助けてくれている。彼女の話は続いた。
「咲が居なくなってから二ヶ月経って思うのは、本当は正しい人間なんてこの世のどこにも居ないんじゃないかって。みんなどこかでは正しいし、どこかでは間違っているんだよ。だから、あなたは死神ではないよ、きっとね」
「でも、世の中みんな正しくないのならば、だとしたらどうして私はこんなに苦しまなければならないの!」
私は思わず叫んだ。すぐに冷静になってまた苦しくなってしまった。
「ごめんなさい……」
「いいのよ。こんなことになったら誰だって、苦しくなるよ。私もね、咲が居なくなってしまって今、とっても苦しいのよ」
この時、私には彼女の目に涙が見えた。この時、彼女もまた苦しかったのだと思う。
彼女は目をハンカチで拭うと再び話し始めた。
「私、ここ数日で咲も友美ちゃんもこんなことになったのは学校のせいもあるのかなと思ってね。実際のところはどうなのかわからないけど、そういう面もあるんじゃないかな」
彼女の言葉を聞いて、私の中でぐちゃぐちゃになっていたものたちが少しずつ形を整えて言葉になり始めた。私の中でようやく言えそうな言葉が一つ見つかった。
「ありがとうございます。なんだか言いたくて言えなかった苦しいモヤモヤをようやく言葉にできそうです」
「そう、それなら良かったわ」
私はここでようやく渡すべき物を渡そうと持ってきていた袋を差し出した。
「あの、これ前に咲から借りたままになっていた衣服です。今更かもしれないですが、お返しします」
すると咲のお母さんは袋を受け取らなかった。
「これは、思い出としてあなたが持っていてください。その方がいい気がするの」
「そうですか。では、いただきます」
私はそれを手元の方に戻した。
日が傾き始めた頃に私は咲の家を出ることにした。
「じゃあ、気をつけてね」
見送られた時、咲のお母さんは笑顔だった。
「本日はありがとうございました」
私が頭を下げると彼女も頭を下げてくれた。
「いいのよ。また何かあったら連絡してね」
「はい、ではまた」
帰り道で私は明日は学校に行こうと決めた。学校に行って真希ちゃんらと久しぶりに話がしたいと思った。それから、自分にできることを少しずつやっていこうとも思っていた。
夕陽は既に落ちていて、辺りはほんのり暗かった。
次の日、私は学校へと向かって全速力で自転車を漕いでいた。この数日の中では一番足取りが軽かったように思う。真希ちゃんと直接会って話がしたかったのだ。だが、久しぶりに教室に入るとそこはもう私の知っている教室ではなかった。机は綺麗に並んでおらず、クラスメイトの何人かは大きな声を上げて、ゲームか何かに夢中になっていた。また、一部のクラスメイトはその壊れてしまった空気が怖くてたまらなかったのか、死んだような顔をして机に突っ伏していた。私は自分の席を探したが、その席は既に壊されていた。同じように咲の座席だったらしき物も破壊されていた。どうして、こうなってしまったのだろうか。まるで彼らが抱えていた鬱憤が咲が居なくなったことで、表に溢れ出したような景色だった。私の存在に気づいたのか、クラスメイト達から壊れた状態に追い打ちをかけるような冷たい空気が伝わった。
仕方なく、教室の隅にいるとやがて真希ちゃんが私の側までやってきた。
「久しぶり、由香里ちゃん!」
彼女は私の存在を確かめると突然私を抱きしめた。その力はとても強かった。
「私、あれからずっと心配してたんだから……」
そう言われると私は少しくすぐったい思いだったが、とても嬉しかった。
「ありがとう……」
私はそう言うことで精一杯だった。それでも真希ちゃんに意思は伝わったようで、私のことを離すと彼女は安心したような顔をした。
「よかった、元気そうで」
彼女は半泣きになりながらこう言った。彼女は話を続けた。
「友美ちゃんがあなたを襲ってから、どうだったの?」
私は彼女にはちゃんと事の全てを伝えなくてはならないような気がしていた。だからこそ、私は自分の中で伝えられると思ったことを真希ちゃんに丁寧に説明した。彼女は何も言わずに私の話を聞いてくれた。
「そうだったのね……」
説明を終えると彼女は少し寂しそうな顔をした。
「二人が死んじゃったと思うとやっぱり寂しいな」
彼女は少しあっさりとした調子でそう言った。一瞬だけ私は彼女はなんて冷たいんだと思ったが、あっさりとした調子で言うのも仕方がないことだと私は考えを改めた。。なぜなら、彼女は二人の死を直接見てはいないから。死を見なかったことは良いことだと思う。私はそれを見てしまったせいで、未だに何かに囚われている。
真希ちゃんが何かを言いかけた時だった。近くで誰かが舌打ちをした。舌打ちが聞こえた方を振り向くとクラスメイトの女子が私と真希ちゃんの会話を聞いていたようだった。それから少し大きな声でわざとらしく言った。
「かわいそうな人」
その言葉が、私にとってはとどめだった。自分の中で無意識のうちに考えていたある事がついに噴き出した。
「かわいそう、だって?」
私は彼女の顔を見る。彼女の顔はいかにも私のことを嘲笑していた。
「ええ、あなたはかわいそうな人よ」
私は何も考えずに彼女の胸ぐらを掴みかかった。
「違う! 私はかわいそうでも何でもない! ただ、私は友美と咲、両方のただの友達! 二人にとって私は加害者であり被害者なの!」
真希ちゃんを含め、周りにいたクラスメイトの何人かが慌てて私を宥めようとした。だが、それを私は無視して彼女の胸ぐらを掴み続けた。
「何よ、それ! 加害者でもあり被害者でもあるってどういうこと!」
彼女は迷惑そうに言った。それでも私は訴え続けた。
「どういうことって、よくよく考えて! 私達が二人にしたことを。きっと、私達は加害者でもあり被害者でもあるんだ! 二人はもう居ない。だから本当のところはわからない。でもね、私達は決してそのどちらかという訳でないの。私達皆んなで二人を傷つけたし、二人に傷つけられたの。だから、自分は被害者だなんてこれぽっちも思わないで!」
「それじゃあ、まるで私まで悪いみたいじゃない!」
彼女は半泣きで叫んだ。私ももしかするととんでもなくぐちゃぐちゃな顔になっていたのかもしれない。
「そう言っているんだ私は! 私達は皆んなで二人を失った罪を背負わなければならない! それは私達自身が招いてしまったこと。だから、この罪からは逃げられない!」
この時の私は二人が居なくなったのは、この学校にあったヒエラルキーのせいでもあったと考えた。家族と上手くいかず、学校内ヒエラルキーの上位にいることに拘ってしまった友美。そのせいで、関わることそのものを疎まれてしまった咲。二人はナイフや孔雀といったものを頼って生きていくしかなかったのだと思った。だから私は叫び続けた。
「これは、私達が勝手に作って勝手に悩んだり困ったりしているヒエラルキーが招いたことよ! それに苦しんだ二人は心を壊して死んでしまった。だとしたら、二人が死んだことは私達全員が抱えるべき罪なのよ!」
私は目が滲んで視界が悪くなっていた。それでも相手の女子がとても恐ろしげにこちらを見ていたことはわかっていた。
「はあ、あなたどうかしてる……」
「どうかしていて、結構! 私の心は死んだんだ! 二人が死んでしまった時に!」
「怖いよあんた……」
その言葉を聞いた瞬間、ずっと耐えていたものがどうしてか耐えられなくなった。
「……ああ、ああ、うわぁ!」
私はとうとう堪えきれなくなって泣き崩れた。周りは呆然として私のことを見つめていたように思う。やがて、事に気づいた先生が駆けつけた。
「おい、佐野何があった!」
私は何も説明できなかった。様子を見ていた真希ちゃんが代わりに説明をしてくれたらしかった。
「わかった。とりあえずここじゃない場所に運ぼう。佐野、立てるか?」
それからはあまり覚えていないのだが、私は先生と真希ちゃんに支えられて教室を後にした。この瞬間、クラスメイト達はどこか冷ややかな目を私に向けていたと思う。結局、私が言いたかったことはクラスメイト達には伝わらなかったのだろう。私は結局は一人でこの罪を背負うべきなのだと思った。
この事がとどめとなって、私の心は完全に壊れてしまった。自ら抱えてしまったことに耐えられなかったのだと思う。しばらくの間は何もできず、どこにも行けなくなっていた。そうこうしている間にも時間は流れ、いつの間にか高校生ですらなくなった。あの時に私のことを呆然と眺めていただけのクラスメイト達とはそれきりになってしまった。
二人を失ったことに整理がつけられずに時間だけが過ぎて三年が経った。
寒々しい空の季節が今年もやってきた。自分の部屋の窓から見える空は晴れていたが、どことなく乾いた印象があった。もう少ししたらあの事件から三年が経ってしまう。私はあれから何もできずにいる。色々なことを試してはみたが辛い気持ちばかりが蘇ってしまうことの繰り返しだった。高校をちゃんと卒業できたでもなく、何か仕事をしているでもない宙ぶらりんな状態。私自身、この宙ぶらりんな状態がずっと続くことはあまり望んではいない。だが、結局はそうなっていて、それすらも嫌になってくる。
お母さんやお父さんは「気が済むまで休みなさい。いつか、立ち直れる日が来る」と言ってはくれるのだが、私にとってそれはなかなか苦しいもので、申し訳ない気持ちになってしまう。いつか、この気持ちに整理がつく時は来るのだろうか。
気が重くなってしまったので、外に出て気分転換をすることにした。時刻は午前十一時過ぎ。家の鍵と財布だけを持って玄関を閉める。私は外に出て歩くことが好きになった。特に理由や根拠がある訳ではないが、歩いていると落ち着けるからである。心の調子がなんとなく乱れた時は外に出てゆっくりと歩いている。そうして歩いているとたまに高校時代の同級生を見かけてしまう。その姿を見ると彼女らはこの三年間でだいぶ垢抜けたと思う。その一方で私はあの頃に比べて服装や化粧へのこだわりがなくなっていた。だからなのか、つい思ってしまうのは、彼女たちはそういう見せかけの美しさばかりをこだわって、心の中は綺麗ではないということである。私は彼女たちとは仲直りはできないだろう。それでいい。彼女たちのこれからに私は一切関わらないだろうから。
外を歩き続けているとまた見覚えのある顔を見かけた。誰だろうか。そう思って目を凝らすと佐伯くんだった。
「さ、佐伯くん!」
私は約三年ぶりに佐伯くんを見た。思わず大声で名前を呼んでしまった。私の声に驚いた佐伯くんだったが、向こうもすぐに気づいたようで「ああ!」と目を見開いていた。
「佐野さんじゃないですか!」
「お久しぶりです!」
お互いにそばまで歩み寄ると私たちは挨拶を交わした。
「こちらこそ、お久しぶりです」
「三年ぶりくらいですよね?」
「そうですね。もうそんなに経つのですね……」
三年ぶりに見た彼の外見は当時とあまり変わっていなかった。彼は、今は大学で心理学についてを勉強していると言っていた。軽く挨拶を済ませると私たちは二人揃ってなんとなく黙ってしまった。佐伯くんに対して何をどう話せば良いのかわからない。向こうもそんな感じだった。どうしようか、このままなのも気まずいのでそろそろこの場を離れようかと考えたところで、佐伯くんが口を開いた。
「あの、今お時間は有りますか……?」
私と佐伯くんは近くにあった古めかしい喫茶店に移動をした。幸い店内にはあまり人が居なかった。静かな雰囲気の中で私はメニュー表を眺めている。佐伯くんの方も同じくメニュー表を見て考えているようだった。考え続けていると佐伯くんの方が決まったようだった。
「僕の方は決まりました。そちらは?」
私の方はまだ決まりきらないでいる。
「決まっていないので、先にどうぞ」
「わかりました」
彼は店員さんを呼んだ。すぐに店員さんがやってきて、メモ帳の用意をしていた。
「ご注文は?」
「コーヒー一杯にナポリタンを一つ」
「かしこまりました」
店員さんはメモを取り終えると少し早足で奥の方へと行った。佐伯くんは先にもらっていた水を一口飲むと私の方を向いた。
「……あれからもう三年が経ってどうですか?」
それが、彼が私を引き留めてまで聞きたかった最大の目的だろう。私はどこに目を向けて良いかわからなくなってコップの水を眺めた。しばらく考えてから私はようやく答えられた。
「どうと言われると私にとってはあまり良い三年間ではなかったです。彼女が死んでしまってから、どうしたら良いのかわからないんです」
私がそう答えると彼は一気に沈んだ顔になった。
「僕もです。僕も、どうしたらいいのかわからないままです」
よく考えると久しぶりに会った佐伯くんは三年前に初めて会った時から態度が丸くなっていることに気づいた。彼は何かをずっと小さな声で呟きながら悩んでいた。悩みに悩んだ末に彼は私に訊ねてきた。
「彼女の最期って、どんな感じでしたか」
私は咄嗟に何も言えなかった。
「僕は、ずっと後悔しているんです。どうして彼女のことを助けることができなかったのだろうと。あの時、何で何もしなかったのだろう。今でも、夢に出るんです。彼女のことが。だから、僕は知りたいです。彼女と最後に一緒にいたあなたが見てきたことを……」
彼の目は潤んでいた。この時、私はようやく彼の咲に対する想いをちゃんと聞けた気がした。彼の後悔を聞いて、私は彼に、咲と共に行動した最後の旅を伝えられるだけのことは伝えようと思った。私は考え続けていたメニューをようやく決めた。
「……まずは、料理を注文しても良いですか?」
私は覚えている限りの全てのことを佐伯くんに伝えた。友美の亡骸の前で泣き崩れてしまったこと。二人で電車に飛び乗ったこと。誰も住んでいない民家に入って立て籠ってしまったこと。目的地には着いたが、目当ての孔雀座は見られなかったこと。最後に彼女が海に飛び込んだこと。私はそれを語るのはとても辛かった。だが、何としても彼に伝えなくてはという思いで私はどうにか語り終えた。佐伯くんは私の話を聞き終えると涙を流した。注文していたナポリタンは私が話している間にすっかり冷えていたようだった。私の方も頼んだカルボナーラは気持ちが落ち着いたところで口をつけると既に冷めていた。冷めてはいたが辛い話を終えた後に食べたカルボナーラは美味しく感じられた。
佐伯くんはしばらく放心状態になった。時間は既に午後二時を過ぎていて、日の向きが変わりはじめている。彼が再び口を開いたのはさらに十分程が経った頃だった。
「まずは、教えてくださりありがとうございます」
彼は頭を深く下げた。私も思わず頭を下げた。
「こちらこそ、ありがとうございます」
私の頭の中でなぜかこの言葉が真っ先に思い浮かんだ。それ以上は何も言えなかった。
「おかげで、咲ちゃんがどんな最期だったのかようやくちゃんと知ることができました」
彼は涙を流し続けていた。それが彼の咲に対する想いの強さを示していた。ふと、ここで私は彼はこの先報われるのだろうかと考えてしまった。このままだと彼の人生は辛いものになってしまうのではないか。彼に彼女が最後にどんなことを言っていたかを伝えようとした途端、私は急に彼女の最期の言葉を思い出した。
「ごめんね。大好きよ」
思い出した途端に咲が私に抱いていた想いの一部をようやく理解できたような気がした。それから私は佐伯くんを見た。そうか、私も彼も咲のことが好きなんだ。だから今でも苦しんでいるんだ。私は彼女の最期の言葉を飲み込んでしまいたくなった。それは佐伯くんに向けられた言葉ではなく私に向けられた言葉だからだ。だけど、それはあまりにも卑怯な気がした。考えた末に私はようやく彼に言える言葉が見つかった。
「私も佐伯くんの様子を見てて咲は今でも愛されているんだなと思えました。私も今でも咲のことが忘れられないんです。忘れられるわけがない。だから、佐伯くんにはちょっとでも良いことがあって欲しいなと思いました」
佐伯くんはこの時何を思ったのだろうか。途端に彼はさらに涙を流しはじめた。彼の嗚咽が私たち以外、客が誰もいなくなった店内に響き渡る。ようやく泣き終えた彼が最初に言った言葉は意外なものだった。
「それじゃあ……、それじゃあ、あなたはどうするんですか?」
「えっ……」
一瞬、意味を理解できなかった。
「僕に良いことが訪れるのならば、あなたにも良いことは訪れるべきだ。今の言葉は、まるで自分だけで全てを背負い込もうとしているように聞こえましたよ。あなたはも少し自分を労るべきだ」
私はそう言われて何も返す言葉がなかった。では、私はどうしたらいいのだろう。結局この日は、また会う約束をして佐伯くんと別れた。
佐伯くんと久しぶりに会ってから数日が経った。彼に言われた言葉を私はうまく理解できずにいる。もう少し労わるべきとはどういうことなのだろうか。私は背負っていかなきゃならないことがある。それは咲と友美のことだ。二人とも辛い思いを抱えてそれに耐えきれずにいなくなってしまった。その辛い思いを抱かせてしまったのは無意識のうちに辛いことを強いていた私であり、私は他の誰も背負ってはくれない全ての業を背負い続けるつもりである。そうでもしなきゃ、私はいなくなってしまった二人に顔向けができない。辛い道だとはわかっているつもりだ。それでも、それを知っているからこそ背負い続ける気でいる。
そう考えているうちにチャットアプリに久しぶりの着信があった。誰からだろうか。そう思ってスマホを開くと相手は真希ちゃんからだった。
『由香里ちゃん久しぶり! 突然だけど、もし良かったら今度会わない? 由香里ちゃんと久しぶりに会いたくなっちゃった笑』
このメッセージを読んでからすぐに次のメッセージが届いた。そこには希望の場所と彼女の都合が合う日時が記されていた。どの日時も私は空いていたのと、集合場所に指定されていたパスタ屋さんのチョイスにも異議はなかったので私はこの誘いを受けることにした。
真希ちゃんと会う当日。集合場所が少し遠かったので私は自転車を使うことにした。自転車を使うのはおおよそ一年振りだった。メンテナンスを少し怠っていたので、なんとなく走り心地が悪かったが、久しぶりに乗る自転車は気持ちが良かった。季節は冬になり道に沿って植えられている木々の葉は既に抜け落ちていた。季節は巡っている。私の気持ちなんて全く気にしないで巡り続けている。そう考えると友美と咲がいなくなった時点で私の時間は止まってしまったのだろう。あれからもう三年経つのかと思うと私にとって時の流れは早いような遅いような気がした。そんなことを考えながら自転車を漕ぎ続け、冷たい風は私の頬を切るように当たり続けていた。
やがて集合地点のパスタ屋さんに到着した。近くの停められそうな場所に自転車を置くと私はチャットアプリを確かめた。どうやら真希ちゃんは予定よりも数分遅れて来るらしい。仕方がないので外で待つことにした。
待っている間色々な人がここの前を通り過ぎていった。その人達の様子を観察しながら私はなんとなく寂しい気持ちになった。大した理由はないがなんとなく通り過ぎていった人々のような温かい日常は私には来ないような気がしてしまった。それは、なぜなのだろうか。私にはまだ真希ちゃんのような友達はいる。なのに私はいざという時に頼れる人が誰もいないような錯覚に陥っている。それが錯覚だとわかっているだけまだ自分のことをわかっている方なのかもしれない。それでもどうしてか私は独りぼっちだと思ってしまう自分がいる。
考え続けているとどんどん気持ちが沈んでしまったのでぼーっとしていると真希ちゃんがようやく現れた。
「由香里ちゃん、久しぶり!」
彼女の雰囲気は三年前からあまり変わっていない。けど、少しは大人っぽくなったような気がする。そう思うとまた少しだけ寂しくなった。私はその気持ちに蓋をして彼女に笑顔を向けた。
「久しぶり、真希ちゃん!」
「いつ振りだっけ?」
「おととし以来じゃない?」
「そっかー。なんかごめんね。二年も会えていなくて」
彼女は深く頭を下げた。
「どうしたの? そんな深刻にならなくても……」
「いや、私この二年間由香里ちゃんのことをほったらかしにしてたような気がして……。由香里ちゃん、この三年ずっと辛い気持ちを抱えているはずなのに、大事な時に力になることができなくてごめんなさい」
真希ちゃんはこのことをとても後悔しているように見えた。私は彼女の謝罪をどう受け取って良いのか、一瞬わからなくなってしまった。こういう理由で謝られるのは初めてだったからだ。考えに考えて私はようやく言葉を絞り出した。
「ありがとう。むしろ、ありがとうだよ。ずっと心配していてくれて」
頭を上げた彼女の目は嬉しそうに潤んでいた。
お互い落ち着いたところでようやく店内に入った。席に座ると私たちはすぐにメニュー表を開いた。
「何にする」
真希ちゃんがメニュー表を見ながら聞いてきた。
「そうだね、カルボナーラにするよ。そっちは?」
「私はペペロンチーノで」
「オッケー」
「じゃあ、注文するね」
そう言って彼女は店員さんを呼んだ。テキパキと注文を終えると私たちは明るい話をした。最近聴いている音楽のこととか、流行りのアニメの話で盛り上がった。
「私ね、今大学で心理学を勉強しているんだ」
アニメの話が終わったところで彼女はこんなことを言った。
「そうなんだ」
「そうそう。内容が難しくて大変だけど楽しいよ」
大変と彼女は言っていたが、それを言う彼女の顔は少し笑っていた。多分、彼女は充実した毎日を過ごしているのだろう。私は、それは良いことだと思えた。
「良かったね、充実している感じで」
「うん」
そうしていると注文していたカルボナーラとペペロンチーノが届いたので私たちは何も喋らずに食べた。何も喋らず黙々と食べたのは、この後話すことがなんとなく決まっていて、それは私達にとって一番辛いことだからだと思う。しばらくして私達はそれぞれのパスタを食べ終えた。
「ごちそうさま」
「ごちそうさまでした」
少しの間沈黙が続き、最終的に話を切り出したのは真希ちゃんの方からだった。
「あれからもうすぐ三年が経っちゃうんだね」
「そうだね……」
彼女は窓から見える店の外を眺め始めた。私もその方向を向いて外を見始めた。
「二人が死んじゃってからさ、私ずっと考えているんだ。人の心の脆さについて」
私はそれを聞いて、なぜ彼女は大学で心理学を学んでいるのかを理解できた。そうか、真希ちゃんは三年前どうしてあんなことになってしまったのかを心理学の力で少しでも理解しようとしているんだ。
「それでね、今勉強していることを使って少しでも、あんなことがもう起きないようにしたい。私はそのために今頑張っているんだ」
その強い意志に私は何も言うことができなかった。真希ちゃんはあの時感じたやるせなさや悲しみを力にして、他の誰かが同じ思いをしないために頑張っている。それなのに、それなのに一方で私は何もできずにただ生きているだけだ。頑張っている真希ちゃんを見て、生きているだけの自分が許せなくなる。私はようやく声を出せた。
「私はさ、自分が許せないや。あの時誰も助けられなかったのに、二人ともいなくなっちゃたのに。今何もしてない自分が許せない。真希ちゃんや他のみんなは進むべき道を見つけて進み続けているのに自分だけが時間から取り残されているような気がする。どうしたらいいんだろう。私にできそうなことはもう何もないのに、どうしても求めてしまうんだ、自分にできることを」
これを聞いた真希ちゃんは最初何と思ったのだろうか。彼女は飲みかけだった水を一口飲むと私の目を真っ直ぐに見つめてきた。
「数日前に佐伯くんから聞いたよ。由香里ちゃんがまだあのことで思い詰めているって。由香里ちゃん、お願いだから無茶はしないで」
「……」
この瞬間、どうして真希ちゃんが久しぶりに私と会おうとしたのか納得した。数日前に会った佐伯くんから私の様子を聞いたからなのだ。それで私に話を聞きたくなったのか。私はそれを理解したが、彼女が言った「無茶はしないで」という言葉に何も言えずにいる。
「由香里ちゃんがあの時のことをとても悔やんでいるのはわかる。だけど、今のあなたは死に向かいそうで怖いの。何もできないからって言っていつの間にか居なくなっていそうで、不安になってしまう。あなたにできることならまだたくさんあるはずなのに」
真希ちゃんは真剣な顔で言い切った。確かに、彼女の言う通りかもしれなかった。私は無意識のうちに心が死に向かっているのかもしれない。
「だから、お願い。死なないために生きていくためにあなた自身が望むことを見つけて。あなたまでいなくなったら、私はもう耐えられないから」
彼女の願いに私は首を縦に振るしかできなかった。だけど、生きていくために何を望んでいいのか私にはわからない。彼女は「ゆっくりでいいから探してみて」と話を付け加えてくれたけど、私にはそれを見つけられる自信がなかった。それから私達は近いうちにまた会う約束を交わして解散となった。
それは突然だった。目的もなく外に出て街中を歩いていると見覚えのある顔を見かけた。その顔は、三年前に居なくなったはずの咲にそっくりだ。私は一体何が起きたのか理解が追いつかないでいる。思わず立ち止まってしまう。女性のことを見つめ続けているうちに向こうの方が私に気づいたようだった。彼女は私のそばまで駆け寄ってくる。
「あのー、私に何かご用でしょうか?」
彼女は恐る恐る聞いているという感じだ。私の方もどう答えて良いのかわからず何も言えずにいる。すると彼女は私の顔を少しだけ見た。
「何か幽霊でも見てるような顔ですが、大丈夫ですか?」
その通りだった。私はまるで咲の幽霊でも見てるような心地だ。だが、そんなことはあり得ない。
「そうですね……。すみません、あなたの顔が昔の友達にそっくりだったもので」
私は正直にこう答えることしかできなかった。彼女は一瞬だけ驚いたような表情を浮かべた。
「あ、なるほど。そういうことでしたか」
彼女はどうやら納得をしたようだ。私はいたたまれなくなってその場を後にしようと決めた。だが、歩き出そうとすると彼女は私の手を掴んだ。
「何するんですか!」
私は思わず声を荒らげる。
「ごめんなさい! ですが、せっかくですからお茶でもしませんか?」
そう提案されて、なぜだか私は首を縦に振っていた。
近くにあるカフェを見つけた私と彼女は、二人がけのテーブルで向かい合いながら椅子に座っている。彼女は要領よく注文を終えたところである。一方で私は何を頼もうか決まらなかったのでまだ考えている。そうしていると彼女はカバンの中から名刺入れを取り出した。
「そういえば、まだ名乗っていなかったですよね。私、こういう者です」
彼女は礼儀良く私に名刺を一枚差し出した。それを受け取ると、そこには「研究員 真澄咲良」と書いてあった。どうやら彼女、真澄さんは大きな研究機関の研究者のようだった。
「真澄咲良です。さっきからずっと聞けてなかったのですが、あなたの名前は?」
急に私の名前を聞かれて、私は一瞬だけ慌てた。
「佐野、佐野由香里です」
「由香里さんね。よろしくお願いします」
「よ、よろしくお願いします」
真澄さんはハキハキとしていて優しい人なのだなと思った。その一方で、私はつい小さい声で返事をしてしまう。
「私は名刺にも書いてある通り、星の研究をしています。由香里さんは何をしているんですか?」
「…… 無、無職です」
自信げに自らのことを紹介する真澄さんを見て私は自分のことを言うのが恥ずかしくなってしまった。だからほんの少しだけ自分が何もしていないことを言うのが躊躇われた。結果として、真澄さんの表情は何一つ変わらずにいた。
「そうなのですね」
なんだか、真澄さんに対して申し訳なくなってしまった。
「なんか、すみません……」
私は咄嗟に謝った。そうしたら真澄さんは私の目を真剣に見つめた。
「ええと、それは誰に謝っているのですか?」
「えっ」
真澄さんは私が考えていなかったようなことを言ってくれた。
「だって、無職だからといって謝るべきことは何一つないですよね」
「……そうですね」
しばし無言になる。それでも真澄さんは温かさのある真剣な目で私を見てくれた。だから、私は今まで思ってきたことをこの場で話しても良いのかもしれないと思った。
「あ、あの、私は実は友達があんまりいなくて、その、なんというか昔色々あったので……。もちろん今でも大事な友達は何人かいます。だけど、どうしても忘れられない友達が二人居て……」
私は勇気を出して声に出してみた。真澄さんはそれをちゃんと聞いてくれたように思えた。
「もしかして、そのうちの一人が私に似ているという友達ですか?」
真澄さんの問いに私は何も言わずに頷いた。
「その方々はどんな人だったんですか?」
促されるままに私は彼女のことを思い出しながら説明をした。
「不思議な、人たちでした。なんと形容したらいいのかわからない感じなんです。どこか悲しげで、苦しげで。恐ろしい物たちに苦しめられていて、自分たちの身を守るのに必死だった二人なのだと思います」
だめだ。私の中で当時のことを思い出してしまう。思い出して辛くなってしまう。でも、今言わなくちゃいけないような気がした。私はなんとか辛い気持ちを抑えた。
「だった。ということは今は?」
今は……。それは私にとって認めたくないことだった。認めなければ、咲はまだどこかで生きているような気がするから。だけど、認めるしかない。
「……二人とも死んでしまったんです。三年前に」
「まあ……」
「その二人は咲と友美っていうんです。それで、今でも、今でも見つかってないんです。咲の死体が」
私がそのことを話してから少々の間を置いて、真澄さんは口を開いた。
「二人はどうして、死んだのですか?」
私は当時のことをどこまで言えばいいのかを悩みながら答えた。
「……友美は咲に殺されたんです。でも、咲が本当に友美を殺そうとしてそうしたのかはもうわかりません。友美も咲も学校の中で同級生たちとの関係で苦しんでいました。それで二人とも心が壊れてしまって、どうしたら良いのかわからなくなったのかな……。咲は友美を死なせてしまったのを自分で許せなかったのだと思います。だから、最期は逃げて逃げて逃げた先で海に飛び込んでそれきりです……」
私は半ば泣きそうな顔でこのことを話していたと思う。真澄さんの顔すらも見れなかった。すると、真澄さんはこんなことを言った。
「あなたがその友達を大事にしていることは伝わりました。その方は多分、あなたにとってこれからも大事な存在であり続けると思います」
「私、私は二人のために何ができたんでしょうか。今でも考えてしまうんです」
「何ができたか、ですか」
「そうです。咲にはしたかったことがあったんです。結局それを果たすことはできませんでした。だから私は、今でも後悔しているんです。当時のことを……」
私の話を聞き終えると真澄さんは考えるような姿勢をとった。それから程なくして、答えは出た。
「二人がしたかったこと、二人に代わってあなたが叶えてあげたらどうですか? それはあなたのためにもなる気がします」
「……」
私は、私は真澄さんの提案に何も返す言葉が出なかった。
「由香里さん、私が思うにあなたは事の全てを一人で抱え過ぎてしまっています。だから、自分のことを蔑ろにしているんじゃないですか?」
その通りだった。私は全てを一人で抱え込もうと自分のことを蔑ろにした。だからこそ私の時間は止まったままだ。だが、自分ではこれ以外の方法が見つからなかった。見つからなかったのだ。真澄さんにこう言われて私は心の核にあるやるせなさを突かれたような気がした。
「由香里さん、もっと自分を大事にしてください。死んでしまった二人のためとは言いません。私自身があなたには自分を労って欲しいと思っているのです」
「それは、それはどうしてですか? どうして、初めて会った私にこんなことを言うんですか?」
「直感的に言うべきだと思いました。でも、話を聞いてたらわかりました。あなたはここまでずっと、苦しいことややるせないことに立ち向かっているのだと思うんです」
「もっと自分を大事にしてほしい」と言われて私は大事にできるほど器用な人間ではない。でも、私の心はもうぼろぼろで、だからこそ、このメッセージは心の奥底に痛いほど伝わった。
真澄さんは真剣に言ってくれた。私はなぜだか急に、今までずっと忘れて感じないようにしていた辛さややるせなさが溢れ出してきた。
何も言葉が出ない代わりに私は涙を流した。体の中にある全ての水分を使うんじゃないかと思う程の大量の涙を流した。それはしばらく止まらなかった。真澄さんは席を立って私の横で肩をさすってくれた。
「いつか、二人ができなかったことを叶えられる日が来ます。そうしたら、きっとあなたは自分を大事にできるようになると思うんです。まずは、ずっと抱えていた辛さをどうか、どうか手放してください。私からのお願いです」
真澄さんは全力で私のことを心配してくれた。私はいつから自分を蔑ろにしていたのだろう。もっと、もっと自分を大事にしたいとようやく思えた。この苦しさややるせなさは全てを一気に手放すことはできない。だけど、今少しだけ手放せたような気がした。