私たちは急いで電車に飛び乗った。乗った電車では幸い誰も私たちのことを気にする者はいなかった。それでも、いつかは警察に足取りを調べられて追いつかれてしまう可能性もあった。
 私は車窓から外を眺めた。目の前にあるのは私の知らない土地で、そこにも誰かの日々があった。スマホは前日の夜に捨ててしまったので、ナビを見ることもできなかった。私たちは路線図と駅名だけを頼りにして九州の端まで行こうとしていた。

 一方で咲はというとまたしても眠っていた。やはり友美のことがショックだったのだと後になって思う。改めて考えるとなぜ彼女は「私、もうだめみたい」と思ったのだろうか。さらに言えば彼女はなぜリスクを負ってまで急いで孔雀座を見に行こうと思ったのか。私は彼女の顔を見ながら考えた。この時の彼女の寝顔はとても苦しそうだった。私はその顔を今になっても憶えている。


 目的の駅に着いた。だが、とうとうお金が底をついてしまった。ここからは歩いて九州の端まで行くしかなかった。駅から私たちは歩き始めた。私たちの旅はあとどのくらいかかるだろうか。私にとってはそんなのどうでもよかった。咲と一緒に歩くのが心地よかった。そこでふと、私が咲と交わした約束を思い出した。

「ねえ、今度さ、その孔雀座を見に行こうよ」
「いいね。約束してもいいかな?」
「うん、約束する」

 たった二週間くらい前にした会話が頭を過った。私はこの時になってようやく気づいたのだ。この旅は私との約束を果たすためだったと。なんでそんな大事なことを忘れていたのだろう。私はとても悔やんだ。
「ごめん、咲。私、あなたとの約束を忘れてた」

 気がつけば私は思っていたことを口に出していた。すると咲はすぐに理解してくれたようで、少し微笑んだ。
「いいのよ。私だって忘れてた」
「えっ?」
「だって、この三日で私たちの身に何が起こったと思う? この三日間のことで私は頭がいっぱいだよ」
「待って、じゃあこの旅はなんのためのことなの?」

 咲はナイフを取り出した。折りたたみ式のナイフ。友美のことを殺めてしまったナイフ。彼女はそれの刃先を折り畳んだまま見つめた。
「昨日も言ったじゃん。私のサイゴの旅だって」
「最後って……」

 私はどうして彼女がこれが最後の旅だと言っていたのかわからなかった。私の歩みが止まった。それに合わせて咲の歩みも止まった。彼女の顔が一瞬だけ物憂げになった。でもそれから彼女は普段の口調でこう言った。
「ねえ、私がどうして、今孔雀座を見ようとしているのかわかる?」
 私は考えた。だが、すぐには答えは出なかった。
「ごめん、わからない」
「だよね。こんなこと聞いて突然ごめんね」
 
 咲は再び歩き始めた。それに合わせて私も後をついて行った。旅はまだまだ続きそうだった。今日中に九州の端に辿り着けるのだろうか。そう思っていた矢先、咲の様子がおかしくなった。よろめく彼女。私は慌てて彼女を支えた。
「どうしたの!」
「ごめん疲れた……」

 とても辛そうだったので近くの木陰で私たちは休むことにした。私は咲の額に触れた。
「あつい……」
 彼女には熱があるみたいだった。

 この時私たちは何もない田舎道を歩いていた。もちろん近くに大きな商業施設などはなく、道を通る車も少なかった。どうすれば良いだろうか。そう思っていると一台の車が通りかかり、すぐ近くに停車した。ドアが開いて中から一人の老人が現れた。こちらの方まで近づいてきた老人は私たちの様子を見つめた。
「どうかしたのかい?」
 私たちは人に見つかるわけにはいかなかった。だが、今は人を頼るしかなかった。

「彼女、熱があるみたいなんです……」
 老人は咲の額に手を当てた。
「うちに来なさい」
 仕方がなかったが私たちは老人の車に乗せてもらって老人の家へと向かうことになった。

 車を走らせること数分。車は一軒の大きな家へと到着した。老人は急いで布団や冷水などを用意してくれた。私は咲をおんぶして布団まで連れて行った。
「もう大丈夫だよ」
 冷たい水に濡らしたタオルを彼女の額に当てた。
「ありがとう……」
 横になった彼女は数分で眠りについた。よほど疲れてしまったのだろう。私も長距離の移動で疲れていた。

 咲が眠ったことを確かめると、私は老人のもとへと行った。老人は台所で一人野菜を切っていた。
「彼女の様子はどうだい?」
 小刻みな音を鳴らしながら老人は私に気づいたようだった。
「今は眠っています。すぐに良くなると良いのですが……」
「そうだよな。そりゃ心配だ」
 老人は野菜を切り終えて、今度はフライパンに油を注いで、コンロに火をつけた。よく見ると調理用具はどれも使い古されている物のようだった。

「ところで、お二人はどこから来たんだい?」
 火をつけてフライパンがあったまるのを待ちながら老人は私に聞いてきた。
「それは、き……、北九州市からです……」
 私は近畿の方から来たとは言えなかった。言ってしまったら見つかる可能性が高まってしまうからだ。

「北九州からどうやってここまで?」
 老人の問いが続いた。
「電車と歩きです」
 私はこれくらいの内容なら大丈夫だろと思って、本当のことを答えた。
「何で歩いてたんだい?」
「お金が底をついちゃって……」

 老人は豪快に笑った。大笑いしていた。
「ははは、お金が底をつくって、そりゃ大変だ、ははは」
「なんかごめんなさい……」
「いや、おまえさんが謝る必要はない。いやー、良いね。何も考えずに突っ走っている感じが」
「どうでしょうか……」

 老人はフライパンに肉を入れた。途端に肉の焼ける音がした。
「若いうちは気づかないものさ。自分たちがどれだけ急いている存在なのかを」
 老人のこの言葉がだいぶ経った今でも理解できずにいる。それは私が何かに囚われ続けているからだろうか。そのうち私にもこの言葉の真意が理解できる日が来るのだろうか。これを聞いた直後の私は何も言葉を返すことができなかった。

 老人は料理を続けた。次第に良い香りがしてきた。私の方もお腹が空いていた。私のお腹が鳴ってしまった。
「すみません……」
「いいんだ、これができたらおまえさんたちにもあげるから食べていくといい。どうせ何も食べてないんだろ」
 この老人にはお見通しのようだった。朝ごはんを食べたきりになっていた。部屋にある時計を見ると時刻は昼の十三時くらいだった。

「お待たせ」
 老人は三つの皿に肉と野菜の炒め物を載せた。私はそれをテーブルに運んで、それから咲を起こしに行った。

「咲、どんな感じかな?」
 咲の顔を見ると布団に運び込んだ頃よりは落ち着いた表情をしていた。私の声を聞いて彼女が起き上がった。
「ごめんね。もう大丈夫だよ」
「それなら良かった。ねえ、おじいさんが野菜炒めを作ってくれたみたいだからそれを食べてからここを出ようよ」
「良いの?」
「まだ、私たちのことに気づいてないみたいだから、とりあえず食べていくだけ食べていこうよ。お腹も空いたし」
 彼女は少し考えて最終的には了承してくれた。

 私たちは老人の手料理を食べた。老人の作った炒め物は美味しかった。
「どうだい? 美味しいかい?」
「美味しいです」
 私が答えると老人は嬉しそうな表情をしていた。
「それはよかった」
 咲も食べているうちに表情が明るくなっていった。どうやら体調が良くなっていたようだった。

 食べ終えた私たちは咲の体調も良くなったのでここを出ることにした。長居して老人に迷惑をかけたくないという咲の意志もあった。
「もう行くんだね」
「はい、おかげさまで元気になりました。ありがとうございました」
 咲が深くお辞儀をした。私もそれに続いた。

「いやいや、こう言うのもあれだが、久々にこういうことがあって俺は嬉しかったよ。良い一日を過ごせた」
 老人はとても嬉しそうだった。

「じゃあ、良い旅をな」
 そう言って老人は私たちに水と果物を手渡してくれた。私たちは初めは遠慮したが、老人がどうしてもと言って引き下がらないので、それを受け取った。事実、飲み水がなかったのでとてもありがたいことではあった。

 時刻は昼の十四時過ぎ。私たちは老人の家を出た。とても優しい老人だった。いつか、また会えれば良いなと思いながら、私と咲は孔雀座を目指して道を急いだ。
 その一方で、追手はすぐそこまで迫っていた。