いよいよ一年が終わるという冬の空。昼の十三時、私は待ち合わせをしていた。相手は佐伯くんという同い年の男の子で、倉持さんの家の隣に住んでいた。程なくして、長身のすらっとした男の子が私の前に現れた。相手と私は幾らかお互いを見合ってから挨拶を交わした。
「佐野さんですよね? 佐伯です。よろしくお願いします」
「そうです。こちらこそよろしくお願いします」
「では、早速行きましょう」

 私と佐伯くんはゆっくりと歩き始めた。程なくして、彼の方から言葉が出た。
「佐野さんは、石崎さんの友達なんだよね。どうして、咲ちゃんのことを気にかけてるのかな?」
「おととい、友美と倉持さんが喧嘩しているところに出会したんです。それで、二人に仲直りしてもらいたく……」
「仲直り?」
 彼の歩みが止まり、声に強い不信感のような物を感じた。私の足も止まる。
「咲ちゃんは、仲直りなんか求めてないと思います」
「どうしてそんなこと言うんですか?」
 彼の顔にはますます怒りの気持ちが表れた。それから、一瞬何か言おうとして、考え直すように頭に手を当てた。
「それは、本人に直接聞いてほしい」

 それから私たちは無言のまま歩いた。その間、佐伯くんは一度もこちらを見ずにただ進んでいくだけだった。歩くことおおよそ十分。彼は足を止めて私の方を振り向いた。
「ここが咲ちゃんの家。ちょっと待っていてください」
 目を向けると、そこにはごく普通の一軒家が建っていた。目の前には格子状の柵がある。彼は柵を退けて玄関前まで行くと、インターホンを鳴らした。
「こんにちは、倉持さん。佐伯です。咲ちゃんはいらっしゃいますか?」

 少し待っていると、玄関が開いた。中から出てきたのは、五十代ほどに見える綺麗な女性だった。
「信介くんね。久しぶり」
「お久しぶりです」
「ところで、あちらにいるあの子は誰かしら?」
 私は慌てて、玄関前まで行って、女性にお辞儀をする。
「はじめまして。佐野由香里といいます。倉持さんの同級生です」
「まあ、そうなのね。咲の母です。よろしくね」
 倉持さんのお母さんがお辞儀をする。それから私たちは、家の中へと通された。

 家の中は質素だった。整然と並べられた本たち、ホコリ一つない床、どれを取っても綺麗という言葉が浮かんだ。ただ、私には一つ気がかりなことが有った。この家は綺麗過ぎた。その正体がなんであれ、私には何かを感じずにはいられなかった。
「お茶でも、どうぞ」
 そう言って、倉持さんのお母さんはコップにお茶を注いでくれた。

「咲は、今外に出てるから、帰るまでちょっと待っていてね」
「はい、ありがとうございます」
 私はありがたくお茶を頂いた。そうしていると、倉持さんのお母さんが物憂げな顔をした。
「咲がどうしたのですか? また、喧嘩でもしたのですか?」
 倉持さんのお母さんは、焦っているようにこう尋ねてきた。
「倉持さん……」
 佐伯くんが彼女の肩をさすった。彼女は胸に手を当てて苦しそうにしている。その光景が、私にはどこか変に感じられた。私の中で何か苦しい物が溜まった。それで、思わず、いつもより大きな声で、逆に聞いた。
「あの、倉持さんに、咲さんに、何が有ったんですか? なぜ、彼女はあんな行動を取っているんですか? 聞きたいのは、こっちの方です。それがわからないと、こちらは何もお答えできません」
「あんた、なんて失礼なことを!」
 佐伯くんは立ち上がって大声を上げた。すると、倉持さんのお母さんは彼の服の袖を何も言わずに引っ張って制止した。彼は苦い顔をして座り直した。

「咲のことを案じてわざわざ来てもらったのだから、まずはこちらから話すわ」
「良いのですか?」
 佐伯くんが怪訝そうな顔をしてこう言った。この様子だけを見ていると、まるで二人は主人と長年仕えている召使いみたいだった。
「構わないわ」
「ありがとうございます」
 私は深くお辞儀をした。

「咲は、とてもいい子だった。いつも洗い物や洗濯を手伝ってくれたり、私の肩を揉んでくれたりしてね。優しい子だったわ」
 それから彼女は一つ息を吐いて、悲しい顔をして言葉を続けた。
「中学二年の頃、友美ちゃんから急に無視されるようになったって、言い出してね。それで私は、あなたがいけないことしたんじゃないかって少し強めに責めてしまって。そしたら、今度はびしょ濡れになって帰ってきた日があって、咲は大泣きしてた。その時になってはじめて気がついた。咲はいじめられているって。でも、私が責めてしまったせいで、それ以来何も口聞いてもらえなくなった。それっきり、咲は家のことを何もしなくなったし、部屋の掃除もしなくなった。あの時、ちゃんと気づいてればこんなことにはならなかった、の、かな……」
 倉持さんのお母さんはその場で泣き崩れてしまった。佐伯くんが水を持ってきたりして大丈夫、大丈夫と言っていた。彼と目が合った瞬間、私は彼の深い闇を垣間見た。

 これは私がいけなかったのか? ここで、この話を切り出した私が責められるべきなのか? 私は何もできずに、ただそのことを考えていた。後になって振り返れば、私は、正しいことをしたかった。倉持さんのことをなぜか助けたくなってしまった。こう思って行動を起こした時、私がずっと抱えていかなくてはならない罪が生まれたような気がしてならない。私はどうしようもない人間だ。

 私と佐伯くんと倉持さんのお母さんの間に静寂が訪れた。何を話せばいいのかわからなかった。すると、玄関の方から鍵を開ける音がして、荷物が落ちたような音がした。向こうの方から早足で誰かが来ることは理解できた。
「なんで、あなたがここにいるの!」
 ドアが勢いよく開いて、その向こうから倉持さんが現れた。彼女の服装は全身黒づくめでとても地味だった。そんな彼女は私の手を掴んで引っ張った。
「離して!」
 彼女はそれを無視して、玄関の方へと戻ろうとする。
「やめるんだ、咲ちゃん! そこまでする必要はないだろ!」
「そうよ! 離してあげなさい!」
 佐伯くんや母親の静止すらも振り切って、早足で私を家の外へと連れ出した。靴を履く余裕もなく、私たちは靴下のままで地面を歩いた。ただひたすら無言で歩いて、川辺の方へと連れ出された。
「倉持さん、離してよ!」
 すると彼女は私の手を振って引き離した。その勢いで私は川の中に飛び込んでしまった。服が一瞬で濡れた。

「私の家に何しに来たの!」
 声を荒らげて、彼女はこう言った。私はこの言葉を聞いて、彼女を、咲を助けなくちゃと思った。
「あなたを助けたいの!」

 これは私の心からの声だった。私はこの瞬間、久しぶりに心の声を叫べたような気がする。だが、彼女はそれを受け入れてくれなかった。私の頬に冷たい拳がぶつけられた。彼女の拳は何発もぶつけられた。私が立ち上がれなくなってなおも、咲は拳をぶつけ続けた。
「私のことなんて放っておいて!」
 そう言って、彼女は川岸に戻ろうとした。ここで折れたら、きっと後悔する。私は力の限り叫んだ。
「放っておけない! だって、助けを求めているのはあなたの方でしょ!」
「求めてない!」
「いや、聞こえるよ! あなたの心から『助けて』っていう声が!」

 その時、彼女は初めてうろたえた。後になって考えれば、それは彼女が無意識のうちに心の声に蓋をしていたから。この時になってようやくその事に気づいたからだったのかもしれない。
「……助けて」
 彼女は涙ぐんでいた。それから、私の方に手を差し出した。私はその手を掴んで立ち上がった。
「もちろん」
「前にも聞いたけど、友達になってくれる?」
 自信なさげなその声に、私は堂々と、
「うん」
 と返した。

 私と咲は川辺に戻って、原っぱで一緒に座った。日が徐々に傾き始め、遠くの方から子供たちの楽しそうな声が聞こえてきた。お互いの服は濡れたままで、私たちはなんとなく空を見つめた。
「ねえ、孔雀座って知ってる?」
 彼女がこう言った。

「知らない。初耳だよ」
「そう。なんかごめんね」
「いいよ。それで、どんな星座なの?」
「何年か前に知ったんだけど、射手座よりも南の方にある星座で、日本だと九州の方まで行けば、見れるんだってさ」
「へえ、そうなんだ」
「私、死んだら孔雀にでもなりたいな」

 咲の目には憂いがあった。私は彼女の目を見て、この憂いた目はただの気のせいだと思うことにした。してしまったのだ。
「綺麗だよね、孔雀って」
「そうでしょ。だからなりたいの」
「ねえ、今度さ、その孔雀座を見に行こうよ」
「いいね。約束してもいいかな?」
「うん、約束する」

 私は小指を彼女に差し出した。彼女もまた小指を差し出して、私たちは指切りをした。
「指切りげんまん嘘ついたら針千本飲ます。指切った」

 私たちはこの時の約束を果たすために、この後にある罪を犯した。
 これが私たちの美しい友情の始まりであり、同時に終わりの始まりでもある。

 私たちはひとまず、咲の家に戻る事にした。