太陽が西に傾いている。田中から部屋の片付けをしたいから二時間後に来てくれとメールが返ってきたので、家に着く頃には夕方になっていた。
男性の家に入るのが初めての三船は緊張していた。汗で湿った手のひらをスカートで拭く。
玄関のチャイムを鳴らすと、ドアが細く開き隙間から田中が顔を出した。
「どうぞ」とだけ言うと、田中はそそくさと中に入ってしまった。
「お邪魔します」と言いながら玄関をくぐる、頑張って片付けたのか部屋の中は綺麗だった。芳香剤の匂いが充満している。
靴を脱ぎ、廊下の先にある六畳ほどの部屋に向かう。
田中は季節外れのコタツに座っており、メガネの位置を直しながらテレビを見ていた。
「あの、私はどこに座ればいいですか」
「どこでも好きに座って、くつろいでくれて良いから」
適当にコタツの手前側に座り、近くのスーパーで買ってきたクッキーの材料を床に置く。
何をしていいか分からず、とりあえず一緒にテレビを眺めることにした。
しばらくそうしていると田中が唐突に「これなんだけど」と、テーブルの上に大きな紙袋を取り出した。
中を覗くと、新品のように綺麗なお菓子作りの道具が詰まっていた。
「ありがとうございます。早速クッキー作っちゃいますね、オーブンはどこにありますか?」
「オーブン? 電子レンジのこと?」
「電子レンジにオーブン機能が付いてるやつですか?」
「いや、オーブン機能を使ったこと無いから分からないけど、たぶん付いてると思うよ」
見た方が早いと判断して、三船は立ち上がった。
冷蔵庫の上に乗った電子レンジを見ると、オーブン機能のついていない代物だった。
「田中さん、オーブン機能付いて無いですよ。これじゃあ、クッキー作れないです」
「えっ、そうなの? パンを焼くトーストの機能はあるけど、それじゃあ無理かな」
「クッキーはオーブン機能が無いと無理ですね。明日にでも私が家で作るので、後日それを渡しますよ」
田中は露骨に残念そうな顔をしながらも、せっかく来たのだからとコーヒーを淹れてくれた。
それを飲みながら、いつもメールでやり取りしているような世間話をした。
長いこと話しをしているうちに、いつもなら避けていた亡くなったモデルの彼女の話題になった。
田中は彼女との思い出を語りながら、目に薄らと涙を滲ませる。
「田中さんは彼女のことが大好きだったんですね」
そう言って三船はテレビの横に飾られた写真立てを眺めた。
額の中にいる女性の笑顔は、同性の私でも見惚れるほどに美しかった。
社内では美人なモデルと交際している田中を嘘つき呼ばわりする人も多かった。
ただ、三船には付き合っていたモデルの女性の気持ちが理解出来る気がした。
無愛想で見た目もそんなに良くは無いけど、それ以上に温かい人だからだ。
会話が止まり、横から視線を感じた。顔を向けると、田中と視線が絡み合った。
「ごめん、こんな話をしちゃって。でも、いつまでも引きずってちゃダメだな。今日は来てくれてありがとう、久しぶりに楽しい時間を過ごせたよ」
三船は笑顔を返す。
「私なんかで良ければ、いつでも話し相手になりますよ」
田中の手が伸びて、テーブルの上に置かれた三船の手と重なった。その手は小さく震えていた。
三船は手を握り返す。
このままキスをされるのかと身構えたが、しばらくすると田中は手を離し「ちょっと、ごめん」と言いながらトイレに行ってしまった。
取り残されてしまった三船は、ぼんやりとこの後の事を想像する。
シャツの襟元を人差し指で引っ張り、念のため下着を確認しておく。
視線を前に戻して、点けっぱなしだったテレビを眺める、夜のニュースが始まったところだった。
ニュースキャスターが読み上げる原稿を聞き流していると、テレビ画面に人の顔写真が映った。
三船は息を呑んだ、テレビ画面に写っている女性と写真立てに写る女性がどう見ても同一人物だったからだ。
しかも、ニュースキャスターは殺人事件と言ったような気がした。
全身の血の気が引いていく。
テーブルの上のリモコンに手を伸ばし、音量を上げる。
男性キャスターのはっきりした声が耳に飛び込んできた。
「今朝未明、モデルの花山香さんと見られる遺体が発見されました。遺体は山の中に埋められており、刃物で複数回刺された形跡が残っています。警察は殺人事件として犯人の行方を追っています」
トイレの水を流す音が聞こえて、慌ててテレビの電源を切る。
田中は「ごめん、ごめん、お待たせ」と呟きながら、三船の背後を通って所定の位置に戻った。
三船は動揺がバレないように咳払いを一つ吐いた。
「あ、あの、失礼なことお聞きしますが、亡くなられた彼女のお名前って何ですか?」
「なんでそんなこと聞くの?」
心臓が激しく鼓動して、呼吸が浅く速くなる。
「いえ、なんとなく気になって」
「彼女の名前は花山香。今でも瞼を閉じると彼女の姿が目に浮かぶよ。でも、今日、三船さんが来てくれたお陰で新たな人生に一歩踏み出せた気がするんだ。この気持ちは本気だよ」
田中の手が再び伸びてきた、「ひぃっ」と小さな悲鳴を上げながら思わず手を引っ込める。
田中は驚いた顔で三船を見ていたが、すぐに笑い出した。
「なんだよ、失礼だな! ちゃんとトイレ行った後に手は洗ったよ!」
三船は必死で笑顔を返そうするが、顔が引き攣ってしまい上手く出来ている自信が無かった。
手探りでカバンを掴み立ち上がると、玄関へと走った。
靴を履き潰してドアノブを捻る、鍵が掛かっていて開かない。部屋に上がる際に律儀に鍵を閉めた事を後悔する。
すぐ後ろから田中の足音が聞こえた、恐怖で体が固まる。
「なんで、急に帰るの? 手を握ったことは謝るよ、ごめん」
「違うんです。突然用事を思い出してしまって、急いで帰らないといけなくて」
田中は三船の前に手を伸ばした、恐怖で悲鳴を上げそうになる。
「これ、忘れてるよ」
田中の手には、お菓子作りの道具が入った紙袋とクッキーの材料が入ったスーパーの袋があった。
「クッキー楽しみにしてるから」
「はい」と答えながら袋を受け取り、鍵を開けて部屋を飛び出した。
駅に向かって走る、息が切れる限界まで走り、後ろを振り返る。どうやら追い掛けては来ていないようだ。
手に持った袋を道路に投げ捨てると、派手な金属音が鳴り響いた。
カバンから携帯電話を取り出し警察に通報した。
男性の家に入るのが初めての三船は緊張していた。汗で湿った手のひらをスカートで拭く。
玄関のチャイムを鳴らすと、ドアが細く開き隙間から田中が顔を出した。
「どうぞ」とだけ言うと、田中はそそくさと中に入ってしまった。
「お邪魔します」と言いながら玄関をくぐる、頑張って片付けたのか部屋の中は綺麗だった。芳香剤の匂いが充満している。
靴を脱ぎ、廊下の先にある六畳ほどの部屋に向かう。
田中は季節外れのコタツに座っており、メガネの位置を直しながらテレビを見ていた。
「あの、私はどこに座ればいいですか」
「どこでも好きに座って、くつろいでくれて良いから」
適当にコタツの手前側に座り、近くのスーパーで買ってきたクッキーの材料を床に置く。
何をしていいか分からず、とりあえず一緒にテレビを眺めることにした。
しばらくそうしていると田中が唐突に「これなんだけど」と、テーブルの上に大きな紙袋を取り出した。
中を覗くと、新品のように綺麗なお菓子作りの道具が詰まっていた。
「ありがとうございます。早速クッキー作っちゃいますね、オーブンはどこにありますか?」
「オーブン? 電子レンジのこと?」
「電子レンジにオーブン機能が付いてるやつですか?」
「いや、オーブン機能を使ったこと無いから分からないけど、たぶん付いてると思うよ」
見た方が早いと判断して、三船は立ち上がった。
冷蔵庫の上に乗った電子レンジを見ると、オーブン機能のついていない代物だった。
「田中さん、オーブン機能付いて無いですよ。これじゃあ、クッキー作れないです」
「えっ、そうなの? パンを焼くトーストの機能はあるけど、それじゃあ無理かな」
「クッキーはオーブン機能が無いと無理ですね。明日にでも私が家で作るので、後日それを渡しますよ」
田中は露骨に残念そうな顔をしながらも、せっかく来たのだからとコーヒーを淹れてくれた。
それを飲みながら、いつもメールでやり取りしているような世間話をした。
長いこと話しをしているうちに、いつもなら避けていた亡くなったモデルの彼女の話題になった。
田中は彼女との思い出を語りながら、目に薄らと涙を滲ませる。
「田中さんは彼女のことが大好きだったんですね」
そう言って三船はテレビの横に飾られた写真立てを眺めた。
額の中にいる女性の笑顔は、同性の私でも見惚れるほどに美しかった。
社内では美人なモデルと交際している田中を嘘つき呼ばわりする人も多かった。
ただ、三船には付き合っていたモデルの女性の気持ちが理解出来る気がした。
無愛想で見た目もそんなに良くは無いけど、それ以上に温かい人だからだ。
会話が止まり、横から視線を感じた。顔を向けると、田中と視線が絡み合った。
「ごめん、こんな話をしちゃって。でも、いつまでも引きずってちゃダメだな。今日は来てくれてありがとう、久しぶりに楽しい時間を過ごせたよ」
三船は笑顔を返す。
「私なんかで良ければ、いつでも話し相手になりますよ」
田中の手が伸びて、テーブルの上に置かれた三船の手と重なった。その手は小さく震えていた。
三船は手を握り返す。
このままキスをされるのかと身構えたが、しばらくすると田中は手を離し「ちょっと、ごめん」と言いながらトイレに行ってしまった。
取り残されてしまった三船は、ぼんやりとこの後の事を想像する。
シャツの襟元を人差し指で引っ張り、念のため下着を確認しておく。
視線を前に戻して、点けっぱなしだったテレビを眺める、夜のニュースが始まったところだった。
ニュースキャスターが読み上げる原稿を聞き流していると、テレビ画面に人の顔写真が映った。
三船は息を呑んだ、テレビ画面に写っている女性と写真立てに写る女性がどう見ても同一人物だったからだ。
しかも、ニュースキャスターは殺人事件と言ったような気がした。
全身の血の気が引いていく。
テーブルの上のリモコンに手を伸ばし、音量を上げる。
男性キャスターのはっきりした声が耳に飛び込んできた。
「今朝未明、モデルの花山香さんと見られる遺体が発見されました。遺体は山の中に埋められており、刃物で複数回刺された形跡が残っています。警察は殺人事件として犯人の行方を追っています」
トイレの水を流す音が聞こえて、慌ててテレビの電源を切る。
田中は「ごめん、ごめん、お待たせ」と呟きながら、三船の背後を通って所定の位置に戻った。
三船は動揺がバレないように咳払いを一つ吐いた。
「あ、あの、失礼なことお聞きしますが、亡くなられた彼女のお名前って何ですか?」
「なんでそんなこと聞くの?」
心臓が激しく鼓動して、呼吸が浅く速くなる。
「いえ、なんとなく気になって」
「彼女の名前は花山香。今でも瞼を閉じると彼女の姿が目に浮かぶよ。でも、今日、三船さんが来てくれたお陰で新たな人生に一歩踏み出せた気がするんだ。この気持ちは本気だよ」
田中の手が再び伸びてきた、「ひぃっ」と小さな悲鳴を上げながら思わず手を引っ込める。
田中は驚いた顔で三船を見ていたが、すぐに笑い出した。
「なんだよ、失礼だな! ちゃんとトイレ行った後に手は洗ったよ!」
三船は必死で笑顔を返そうするが、顔が引き攣ってしまい上手く出来ている自信が無かった。
手探りでカバンを掴み立ち上がると、玄関へと走った。
靴を履き潰してドアノブを捻る、鍵が掛かっていて開かない。部屋に上がる際に律儀に鍵を閉めた事を後悔する。
すぐ後ろから田中の足音が聞こえた、恐怖で体が固まる。
「なんで、急に帰るの? 手を握ったことは謝るよ、ごめん」
「違うんです。突然用事を思い出してしまって、急いで帰らないといけなくて」
田中は三船の前に手を伸ばした、恐怖で悲鳴を上げそうになる。
「これ、忘れてるよ」
田中の手には、お菓子作りの道具が入った紙袋とクッキーの材料が入ったスーパーの袋があった。
「クッキー楽しみにしてるから」
「はい」と答えながら袋を受け取り、鍵を開けて部屋を飛び出した。
駅に向かって走る、息が切れる限界まで走り、後ろを振り返る。どうやら追い掛けては来ていないようだ。
手に持った袋を道路に投げ捨てると、派手な金属音が鳴り響いた。
カバンから携帯電話を取り出し警察に通報した。