文房具メーカーの新入社員である三船京子は、会社内にある女子トイレに入った。
鏡に映る自分の顔を見て思わずため息を吐く。
低い鼻に小さな目、黒縁の眼鏡が野暮ったさを助長している。
田舎から出てきたばかりの三船は、同期の女の子達から発せられるキラキラした可愛さに圧倒されていた。
彼女達の周りには男性社員が代わる代わる訪れ、仕事中も楽しそうに談笑をしている。
三船に仕事の要件以外で声を掛けてくれる男性社員はいなかった。
たった一人を除いて。
鏡で前髪の分け目を入念に整えてからトイレを出ると、自分のデスクへと一旦戻る。
完成した企画書を手に持って、先輩である田中満の元へと向かった。
思わずスキップしそうになるぐらい軽い足取りで並んだデスクの間を進んでいく。
妙に丸まった猫背が見えてきた。
こめかみに眼鏡の縁が食い込んだ丸い横顔は、お世辞にも格好良いとは言えない。
でも、どんな相手にも分け隔て無く平等に接する姿は素敵に見えた。
人として尊敬していた気持ちは、いつからか別の感情へと変わっていた。
「田中さん、お疲れ様です。企画書が完成しました」
田中は無言で振り返り、眼鏡の位置を直すと企画書を読み始めた。
「動物消しゴムの企画通ったんだね、おめでとう。入社して半年で企画通したのって、僕の知る限り三船さんが初めてだよ」
「ありがとうございます、田中さんのご指導のお陰です」
田中は喜びの感情を隠しきれないように口元を歪めた。
「いやぁ、これは三船さんの実力だよ。よく頑張ったね」
それだけ話すと会話が途切れてしまい、妙な間が空いた。田中は企画書を三船に返しながらモニョモニョと聞き取れない独り言を言うと、パソコンの方に体を戻した。
三船は勇気を出して一歩踏み込んだ。
「あ、あの、企画が通ったので、ご褒美を下さい」
「ご褒美? えっ、なに?」田中は怪訝そうな顔をしながら振り返る。
「今日、仕事の後に飲みに連れて行ってくれませんか?」
予想外の返答に驚いたのか、田中は素早く瞬きを繰り返した。
「いいよ、こっちから誘ったらセクハラみたいになるからあれだけど。そっちからなら大丈夫だから。まあ、とにかく、要するに、いいよ」
「良かった。あっ、あと連絡先教えて下さい」
携帯電話を取り出し、メールアドレスと電話番号を交換する。
「ありがとうございます。私がお店を予約しちゃいますね、駅前にあるチェーン店の居酒屋でいいですか?」
その時、三船の背後から声が聞こえた。振り返ると、田中と同期入社の高橋が立っていた。女性社員の間では、チャラいと噂をされている人物だ。
「いいなー、俺も一緒に連れて行ってよ。三船ちゃん、予約は三人でお願いね」
「おい、これは三船さんの企画が通ったお祝いなんだから、営業のお前には関係ないだろ」
「けちな事を言うなよ、お祝いなら人数が多い方が良いだろ。それに、お前にはモデルの美人な彼女がいるんじゃないのか? 女性と二人で飲みに行くのはまずいだろうが」
田中は真っ赤な顔で高橋を睨み「やっぱり行かない」と言い捨てると、またパソコンのモニターに向き直ってしまった。
三船は田中に彼女がいた事を知りショックを受けた、しかも美人のモデルだなんて。
高橋は三船の顔を覗き込みながら、芝居がかったリアクションをした。
「あれ、まさかこいつにモデルの彼女がいること知らなかったの? おい、三船ちゃんに自慢の彼女の写真を見せてあげなよ」
田中は何も言い返さずに、じっとモニターを凝視している。
「なんだよ、事実なんだから拗ねる事はないだろうよ。まあ、でも行かないって言うなら仕方ないよね。せっかくだから二人で行こうよ、駅の裏側に美味しいイタリアンの店があるんだ。もちろん、俺は彼女いないから安心してね」
田中が真っ赤な顔だけをこちらに向けて、怒鳴り声を上げた。
「仕事の邪魔だから、ナンパならどっか他所でやってくれないか!」
高橋は肩をすくめた。
「そんなに怒るなって、三船ちゃんがびっくりしちゃうだろ、可哀想に。まあ、邪魔みたいだからさ、あっちでゆっくり話そうよ」
真っ白になった頭で何とか言葉を返す。
「すみません。今日の飲み会は中止にして、また今度の機会にお願いします」
それだけ言うと、逃げるようにデスクへと戻った。
背後からは田中の怒鳴り声と、高橋の笑い声が響いていた。
翌日、翌々日と田中は会社を休んだ。
この間の事が原因じゃないかと不安になり、三船は田中にメールを送ってみたが返信は無かった。
土日休みを挟んだ月曜日、憂鬱な気持ちで出社する。
今日も来なかったらどうしよう。
三船は気になってオフィスの入り口を何度もちらちら見てしまう。
始業の十分前に田中が出社してきた。目にクマが出来ており、少し頬がやつれていた。
二日間休んで陰鬱な雰囲気で出社した田中を会社の同僚達は遠巻きに注視している。
緊迫した空気を切り裂くように高橋が登場した。
「おっ、やっと来たか。おはよう! 会社さぼって何やってたんだよ」
笑顔でちょっかいを出す高橋を無視して、田中は自分の席に座ると、すぐに机に突っ伏してしまった。
そんな様子はお構いなしに高橋は田中の丸まった背中をバシバシと叩く。
「どうしたんだよ、具合でも悪いのか?」
「高橋さん、やり過ぎですよ」三船は止めに入るため、駆け寄った。
田中は近くにいる人だけに聞こえる声量でボソボソと呟いた。
「モデルの彼女が死んだ、自殺した」
高橋は背中を叩いていた手を空中で止めた。数秒間その場で硬直し、今度は優しく田中の肩へと手を置く。
「そうか、それは辛いな。茶化して悪かった。もうちょい元気になったらさ、飲みにでも行こうや」それだけ言うと、高橋は離れていった。
三船も丸まった背中に優しく手を置く。
「私に出来る事があれば、何でも言って下さい。辛いでしょうから無理しないで下さいね」
その日の夜、三船の携帯電話の着信が光った。田中から心配を掛けた謝罪と励ましてくれたお礼が書かれたメールが届いていた。すぐに返信をする。
なんとなく、その日から毎日メールをするようになった。
少しでも田中の気休めになれば良いと思って始めたメールだったが、次第に来るのが待ち遠しくなっている事に三船は気付いていた。
そんな日々が数週間ほど続いた頃、土曜日の昼過ぎにいつものように田中からメールが届いた。
「お疲れ様です。三船さんはお菓子とか作るのかな? 家にあった彼女の持ち物を整理していたんだけど、ハンドミキサーとかお菓子作りの道具が沢山出てきて処分に困っています。もし良かったら貰ってくれないかな?」
三船は少し悩んでからメールを返した。
「はい、よく趣味でお菓子を作るので、頂けるなら嬉しいです」
すぐにメールが返ってくるかと思いきや、なかなか返信が来ない。
手持ち無沙汰だったので、掃除機をかけていると携帯の着信が光った。
恐ろしいほど長文で回りくどい文章だったが、要約すると会社で渡すのは恥ずかしいから家まで取りに来て欲しいという内容だった。
いつでも取りに来て良い、という文章の後に家の住所が書かれていた。
三船は興奮で震える指で返信用の文を打った。
書いては消し、書いては消しを繰り返す。
「今から行ってもいいですか? せっかくなので受け取るついでに田中さんの家でクッキーを焼いてプレゼントさせて下さい」と書いて、また何度も読み返す。
少し図々しいかとも思ったが、三船は覚悟を決めて送信ボタンを押した。
ふぅーと息を吐き出し、ベッドへと倒れこんだ。
鏡に映る自分の顔を見て思わずため息を吐く。
低い鼻に小さな目、黒縁の眼鏡が野暮ったさを助長している。
田舎から出てきたばかりの三船は、同期の女の子達から発せられるキラキラした可愛さに圧倒されていた。
彼女達の周りには男性社員が代わる代わる訪れ、仕事中も楽しそうに談笑をしている。
三船に仕事の要件以外で声を掛けてくれる男性社員はいなかった。
たった一人を除いて。
鏡で前髪の分け目を入念に整えてからトイレを出ると、自分のデスクへと一旦戻る。
完成した企画書を手に持って、先輩である田中満の元へと向かった。
思わずスキップしそうになるぐらい軽い足取りで並んだデスクの間を進んでいく。
妙に丸まった猫背が見えてきた。
こめかみに眼鏡の縁が食い込んだ丸い横顔は、お世辞にも格好良いとは言えない。
でも、どんな相手にも分け隔て無く平等に接する姿は素敵に見えた。
人として尊敬していた気持ちは、いつからか別の感情へと変わっていた。
「田中さん、お疲れ様です。企画書が完成しました」
田中は無言で振り返り、眼鏡の位置を直すと企画書を読み始めた。
「動物消しゴムの企画通ったんだね、おめでとう。入社して半年で企画通したのって、僕の知る限り三船さんが初めてだよ」
「ありがとうございます、田中さんのご指導のお陰です」
田中は喜びの感情を隠しきれないように口元を歪めた。
「いやぁ、これは三船さんの実力だよ。よく頑張ったね」
それだけ話すと会話が途切れてしまい、妙な間が空いた。田中は企画書を三船に返しながらモニョモニョと聞き取れない独り言を言うと、パソコンの方に体を戻した。
三船は勇気を出して一歩踏み込んだ。
「あ、あの、企画が通ったので、ご褒美を下さい」
「ご褒美? えっ、なに?」田中は怪訝そうな顔をしながら振り返る。
「今日、仕事の後に飲みに連れて行ってくれませんか?」
予想外の返答に驚いたのか、田中は素早く瞬きを繰り返した。
「いいよ、こっちから誘ったらセクハラみたいになるからあれだけど。そっちからなら大丈夫だから。まあ、とにかく、要するに、いいよ」
「良かった。あっ、あと連絡先教えて下さい」
携帯電話を取り出し、メールアドレスと電話番号を交換する。
「ありがとうございます。私がお店を予約しちゃいますね、駅前にあるチェーン店の居酒屋でいいですか?」
その時、三船の背後から声が聞こえた。振り返ると、田中と同期入社の高橋が立っていた。女性社員の間では、チャラいと噂をされている人物だ。
「いいなー、俺も一緒に連れて行ってよ。三船ちゃん、予約は三人でお願いね」
「おい、これは三船さんの企画が通ったお祝いなんだから、営業のお前には関係ないだろ」
「けちな事を言うなよ、お祝いなら人数が多い方が良いだろ。それに、お前にはモデルの美人な彼女がいるんじゃないのか? 女性と二人で飲みに行くのはまずいだろうが」
田中は真っ赤な顔で高橋を睨み「やっぱり行かない」と言い捨てると、またパソコンのモニターに向き直ってしまった。
三船は田中に彼女がいた事を知りショックを受けた、しかも美人のモデルだなんて。
高橋は三船の顔を覗き込みながら、芝居がかったリアクションをした。
「あれ、まさかこいつにモデルの彼女がいること知らなかったの? おい、三船ちゃんに自慢の彼女の写真を見せてあげなよ」
田中は何も言い返さずに、じっとモニターを凝視している。
「なんだよ、事実なんだから拗ねる事はないだろうよ。まあ、でも行かないって言うなら仕方ないよね。せっかくだから二人で行こうよ、駅の裏側に美味しいイタリアンの店があるんだ。もちろん、俺は彼女いないから安心してね」
田中が真っ赤な顔だけをこちらに向けて、怒鳴り声を上げた。
「仕事の邪魔だから、ナンパならどっか他所でやってくれないか!」
高橋は肩をすくめた。
「そんなに怒るなって、三船ちゃんがびっくりしちゃうだろ、可哀想に。まあ、邪魔みたいだからさ、あっちでゆっくり話そうよ」
真っ白になった頭で何とか言葉を返す。
「すみません。今日の飲み会は中止にして、また今度の機会にお願いします」
それだけ言うと、逃げるようにデスクへと戻った。
背後からは田中の怒鳴り声と、高橋の笑い声が響いていた。
翌日、翌々日と田中は会社を休んだ。
この間の事が原因じゃないかと不安になり、三船は田中にメールを送ってみたが返信は無かった。
土日休みを挟んだ月曜日、憂鬱な気持ちで出社する。
今日も来なかったらどうしよう。
三船は気になってオフィスの入り口を何度もちらちら見てしまう。
始業の十分前に田中が出社してきた。目にクマが出来ており、少し頬がやつれていた。
二日間休んで陰鬱な雰囲気で出社した田中を会社の同僚達は遠巻きに注視している。
緊迫した空気を切り裂くように高橋が登場した。
「おっ、やっと来たか。おはよう! 会社さぼって何やってたんだよ」
笑顔でちょっかいを出す高橋を無視して、田中は自分の席に座ると、すぐに机に突っ伏してしまった。
そんな様子はお構いなしに高橋は田中の丸まった背中をバシバシと叩く。
「どうしたんだよ、具合でも悪いのか?」
「高橋さん、やり過ぎですよ」三船は止めに入るため、駆け寄った。
田中は近くにいる人だけに聞こえる声量でボソボソと呟いた。
「モデルの彼女が死んだ、自殺した」
高橋は背中を叩いていた手を空中で止めた。数秒間その場で硬直し、今度は優しく田中の肩へと手を置く。
「そうか、それは辛いな。茶化して悪かった。もうちょい元気になったらさ、飲みにでも行こうや」それだけ言うと、高橋は離れていった。
三船も丸まった背中に優しく手を置く。
「私に出来る事があれば、何でも言って下さい。辛いでしょうから無理しないで下さいね」
その日の夜、三船の携帯電話の着信が光った。田中から心配を掛けた謝罪と励ましてくれたお礼が書かれたメールが届いていた。すぐに返信をする。
なんとなく、その日から毎日メールをするようになった。
少しでも田中の気休めになれば良いと思って始めたメールだったが、次第に来るのが待ち遠しくなっている事に三船は気付いていた。
そんな日々が数週間ほど続いた頃、土曜日の昼過ぎにいつものように田中からメールが届いた。
「お疲れ様です。三船さんはお菓子とか作るのかな? 家にあった彼女の持ち物を整理していたんだけど、ハンドミキサーとかお菓子作りの道具が沢山出てきて処分に困っています。もし良かったら貰ってくれないかな?」
三船は少し悩んでからメールを返した。
「はい、よく趣味でお菓子を作るので、頂けるなら嬉しいです」
すぐにメールが返ってくるかと思いきや、なかなか返信が来ない。
手持ち無沙汰だったので、掃除機をかけていると携帯の着信が光った。
恐ろしいほど長文で回りくどい文章だったが、要約すると会社で渡すのは恥ずかしいから家まで取りに来て欲しいという内容だった。
いつでも取りに来て良い、という文章の後に家の住所が書かれていた。
三船は興奮で震える指で返信用の文を打った。
書いては消し、書いては消しを繰り返す。
「今から行ってもいいですか? せっかくなので受け取るついでに田中さんの家でクッキーを焼いてプレゼントさせて下さい」と書いて、また何度も読み返す。
少し図々しいかとも思ったが、三船は覚悟を決めて送信ボタンを押した。
ふぅーと息を吐き出し、ベッドへと倒れこんだ。