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 ——人生のピークとは、いつのことを言うのだろう。
 一年前の俺は、それを高校生の頃だと思っていた。冴えない男だったけれど、部活動に明け暮れ、仲間に恵まれ、毎日が楽しかった。なにより隣には好きな女の子がいた。その子の笑顔を見ているだけで心が浄化されるような、やさしい気持ちになれた。
 でも、今は思う。
 人生のピークは過去じゃない、今であるべきなんだと。過去は過去ですばらしいものだけれど、なによりも大切なのは、今。いつだって、今が頂点であることがなによりも幸せなんだ。
 そう思えたのはこの一年間、どんな状況でも笑顔でそばにいてくれた彼女を見てきたからなのだろう。



「……何度見ても、茶番すぎるな」

 自分のマンションの部屋で、俺はぼんやりとパソコンを見ていた。
 モニターには、一年前にアップした動画が流れていた。
 再生数、五十二。公開から一年が経って五十二とは、あまりにひどい数字だ。明らかに身内しか見ていない、内輪ウケの、単なる思い出動画。
 それでもリコが喜んでいるのは幸いで、それだけでこの動画の価値はあったのだと思う。

「でもうれしかったなぁ。私、自分の台本でみんなに演じてもらうのが夢だったから」
「あー、リコの本、いつもボツだったもんな。でもリコは演技力あるから演者でよかったと思うけど」
「でも私は台本書きが第一志望だったの!」

〝私の台本で劇をしてくれないかな〟

 リコがユウダイにそう相談したのは、この動画を撮る二ヶ月前のことだったという。
 ユウダイはカフェでリコの話を聞きながら、頭を悩ませていた。協力はしたいけれど、俺たち元演劇部のみんなはすでに社会人だ。力を貸してくれるかわからない。でもリコが持ってきた台本はオンライン飲み会を録画すれば簡単にできる内容だったため、やってみようということになった。
 メンバーはリコが選んだ。元演劇部で特に仲のよかったユウダイ、イチカ、そして俺。借金取り役の男はモニターが小さすぎてわからなかったけれど、元演劇部のハヤシだった。
 俺も参加していたわけだが、俺だけは撮影ということは内緒で行われていた。
 それもそうだ。だって俺は、演技力なんてないただの裏方だったんだから。
 予算の中で衣装を用意したり、小道具の包丁なんかを手作りしたり、打ち上げの準備をしていた。正直台本なんか渡されてもまともに演技なんてできなかったと思う。
 なのに俺を指定したリコは、たぶん……俺のツッコみ力を評価していたのだろう。ありがとうございます。
 モニターの中では、動画が終わろうとしていた。
 リコが借金取りに刺され、唐突にエンドロールが流れる。あまりにチープでメッセージ性もない、よくわからない動画だ。
 でもこの映像を見返すと、俺はいつも涙が止まらなくなる。
 情けない顔を見られたくなくて、フリー素材の主題歌を聞きながら机に顔を伏せた。

「……全部、うそならよかったのにな……」

 劇の中で、みんなが発表していた〝秘密〟。あれももちろんリコの台本だった。
 ユウダイは借金なんか背負ってなかった。
 今でも真面目に食品メーカーの開発部門で働いている。さすがは大手、借金どころかしっかり貯金できているらしい。ただ、いつかは自分の居酒屋を開くのが夢だと言っている。女子も来やすい、デザートが豊富なおしゃれ居酒屋だ。
 イチカは超能力になんか目覚めてはいなかった。
 まぁ、それは目覚めててもいいけど。映像の中のテレポーテーションはイチカの力ではなく、イチカとユウダイとリコがユウダイの実家にお邪魔して、家の中を移動してそう見せかけていただけだった。ユウダイはリビング、イチカは自室、リコはキッチン、どうりでみんなバラバラの場所にいたわけだ。
 リコも、予言者の血なんてひいてはなかった。
 リコに予言なんて、できなかった。
 そのはず、だったのだけど……。

「……ごめんね」

 リコがつぶやく。俺は目がかゆいふりをして涙をぬぐい、ゆっくりと振り返った。
 リコは、俺のスマホの中で困ったように笑っていた。
 彼女は二年前と同じ、オンライン飲み会のアプリの枠の中にいた。ただ、その背景はリコの住んでいたマンションでもなければユウダイの実家でもない。学校の教室を模したバーチャル背景の中、リコは俺と、その向こうのモニターを見ていた。

「なんで謝んの」
「うそならよかったのになぁ、って思って。みんなの気持ち、暗くしちゃったよね」
「そりゃ、うそのほうがよかったけど。リコはなにも悪くないよ」

 誰も悪くない。だけど涙は勝手に出てくるから、俺はまたモニターのほうへと目を向けた。

〝私の台本で劇をしてくれないかな。私が亡くなる前に、最期の思い出として〟

 ユウダイはそう聞いて、ひどく戸惑ったという。
 リコは病気を患っていた。もう助からない状態だった。だからユウダイにだけ事情を話し、心残りだった自分の台本の劇を実行した。俺は最期まで、なにも知らされなかった。
 リコはもうこの世にいない。
 なのになぜか、通じるのだ。
 このアプリの中だけ、リコと会える。どうしてかはわからない。俺の願いなのか、リコの望みなのか。この一年間、リコはずっと俺のそばにいた。
 でも、この状態がいつまでも続くとは思っていない。

「ヒロキくん、泣かないでよ」
「アホか。泣いてない。これ、演技だから」
「そうなの? ヒロキくん、役者でもいけるね」

 くすくすと笑う、リコの声が部屋に響く。死んでいるのにいつも楽しそうにしている。こんな状況でも笑うリコは、やっぱり幸せの象徴だ。

「私ね、そういえば秘密の話があったんだ」

 もう一度目もとをぬぐって、リコを振り返った。

「……動画の続きかよ」
「そうかも。ただ、言っちゃうと心残りがなくなって成仏しちゃうかもって思ったから、今まで言えなかったけど」
「じゃあ言わなくていいわ」
「言わせてよ。このまま永遠にヒロキくんのそばにいたら、きっと迷惑だろうし」

 迷惑なんかじゃない。
 ずっとそばにいてほしい。
 でも、俺のほうこそ今、リコをしばっている。死後の世界のことはわからないけれど、もし死んだあとにも次の人生があるのなら、俺はリコを手放さなきゃいけない。
 苦しい。けど、いつか別れの日は来てしまうから。
 ……好きだった。
 ずっと、好きだったよ。
 中途半端なまま、あの日伝えられなかった言葉を心の中で唱えた。
 リコは俺の青春だった。
 かけがえのない、大切な存在だった。
 リコの目をまっすぐに見つめると、彼女は照れくさそうに微笑んだ。

「……私もね。高校生の頃から、ヒロキくんのこと……好きだったよ」

 あは、とリコが恥ずかしそうに両手で顔を隠す。すると、その輪郭がふわりと揺れた。
 思い出に沈むように、その姿が空間に溶けていく。
 彼女の清らかなままの姿が、桜の花びらのように散っていく。
 俺はその様子を、涙を堪えて見つめ続ける。
 あとには懐かしい、光の差し込む教室の風景だけが取り残されていた。