「申し上げます! 前方より謎の二人組が迫っております!」
 進軍を始めた東方連邦軍、その中陣で馬に乗っていた勇者グレンは、微かに右の眉を吊り上げた。
「敵意はあるのか?」
「分かりません。謎としか」
「ふん、まあ良い。どうせ生き残りが抵抗の意思を示しているのだろう。この俺自ら手を下そう」
 伝令の言葉に鼻で笑い、勇者パーティーの面々を引き連れて先頭に向かう。
 敵がどのような存在でも、グレンには容易に打ち破れる自信があった。
「やあ、君がグレンくんか」
しかし、この自分を前にして余裕綽々といった様子で立ちはだかる存在に、グレンは不快感を覚える。
 そして同時に、黒髪黒目の自分と似たような容姿を携えた目の前の男に、不気味な印象を持った。



「お前は……人間だな?」
「そうだな。見ての通り人間だ。そしてお前と同じ、日本人だ」
 俺はこうして相対した瞬間、勇者が日本から召喚された男であることを確信した。俺の言葉に、グレンは微かに青筋を浮かべ、困惑の表情で視線を彷徨わせている。日本人というだけで俺を脅威として感じたわけではないだろう。きっと、近しい存在に邂逅し、表現し難い忌避感に苛まれたのだ。
「どうしたの? グレン!?」
 明らかな変貌に、おそらく『剣士』である女騎士が目を見開く。後方にいるシオンや甲冑に身を包んだ大男もこめかみに皺を寄せていた。
「いや……なんでもない。そうか。同郷であれば話は早い。そこを退いていただこうか」
「なぜ?」
「なぜって……」
「不当に侵略される同胞を守るためだ」
「同胞? 吸血鬼は決して同胞などではないだろう。魔族は人間の脅威なのだ。どこが不当だ。お前は騙されているに過ぎない!」
 そうだ。正直なところ、俺は吸血鬼などどうでも良いのだ。セルミナやミーシャ、大切な人たちを守れればそれで十分。俺は崇高な意志を持つにはあまりに格が劣っている。
「お前は知らないだろうな。人間が土地を争い荒廃を招き、争う有益な土地を失った結果、魔族のテリトリーに土足で踏み込んできたんだ。昔は人間と魔族が対立するなんてことはなかった。人間が勝手に対立を煽り、戦い、死んでいったんだ」
「吸血鬼は血を吸って人間から血を絶やしたり、人間の血を吸うことで意識を支配すると言っていた。危険極まりないだろう」
「そんなもの、迷信に決まっているだろ」
 かつては人間の血を吸わなければ生命を維持できず、共存の道を選んでいた。そこに蟠りなど存在しなかったはずなのだ。
「お前の言うことは信用できない。きっと吸血鬼に操られているか、意識を奪われているんだ。そうだ、そうに違いない」
 グレンは一人で勝手に結論に至る。確かに俺が言うことが事実である証拠などどこにもない。ましてや吸血鬼に味方する人間など、常識ではありえない。その結論は当然の到達点なのだろう。
「お前がそうやって思うのは勝手だ。だが吸血鬼にだって生まれ育った土地があり、家族がいるんだ。それを壊す覚悟があるのか?」
「吸血鬼に操られたお前の言葉になど耳を傾けるまでもない」
 最初から期待などしていなかったが、勇者に現実を説いて退却の二文字を飲み込ませるのは不可能なようだ。
「そうか。ならば仕方がない」
 『恐慌魔法』の発動条件は、おそらく強い気持ちを敵に向けること、だ。この男が今しようとしていることは、故郷の破壊だ。セルミナの故郷であり、俺がこの世界での大半を過ごした第二の故郷でもあり、ミーシャちゃんの安住の地でもある。
 この大軍は保たれた安寧を壊してまで、勝手にその地を蹂躙しようとしているのだ。クラムデリアに残った住民は少ないとはいえ、町に入ればたちまち略奪や破壊が横行するだろう。クラムデリアが荒れ果て、しまいには炎上する光景を脳裏に浮かべると、沸々と湧き上がるものがあった。
 断じてそんな蛮行を許すわけにはいかない。
 たかだか二人、そうやってタカをくくってくれているのは幸運と言うべきだろう。将兵を纏う空気は明らかに弛緩していた。
「シノブ! やっちまえ!」
 マーガレット先生の声が響き渡る。
 俺はその号令に従って前方に向けて全生命力を集中させる。

暗闇の中で溺れていた自分を救い出してくれたミナに恩を返すため。

俺にこの世界で生きていくための道を示し、手段を与え、親愛や心配を向けてくれたミーシャちゃんがこれからを明るく過ごしてもらいたいから。

魔法学校で出会い、友人として鼓舞し、時に憂慮の念を向けてくれたブラウとルージュが戻って来れるように。

俺のことを恩人だと慕ってくれ、ドジだけど意外と頭の切れる可愛い後輩であるシェリルの居場所を守るため。

マーガレット先生の提案を蹴り、進退を顧みず協力を申し出たバーレッドたちの大切な故郷を失わないため。

 様々な思いが、心の奥底からせり上がってくる。
 殺意やら惆悵やらの鋭利な感情はかなぐり捨てた。一刻一秒を争う精密な作戦の遂行には、そういったものが邪魔になるからだ。大軍を前にして冷静さを欠き、視野が狭くなっては、気づいた時には詰みかねない。
 敵に向ける感情は、様々な思いが折り重なり出来上がりできた、『他者を圧倒する戦意』だけでいい。
 俺は見えざる手で相手の心を鷲掴みにするような能力がある。自分の目にも視認することはできないが、その感覚は確かに己の中に存在した。
「ぐっ……。なんだ……、これは……!」
 勇者パーティーの面々を筆頭に、東方連邦軍の将兵は一様に青ざめ、滝のような汗を地面に垂らしていた。
 多くの者は膝をつき、その場から動けない様子だった。一方で勇者はというと、余裕を欠いた表情を浮かべつつも、立ったままこちらを睨んでいる。脅威的な精神力というよりは、圧倒的な力が効果を抑え込んでいるといった方がしっくりきそうだ。
 賭けに近い手段ではあったが、集団に対しても俺の『恐慌魔法』は効果を示した。そのこと自体に、俺は安堵する。
「お前、何をした!」
 当初の予想通り、グレンの足を止めるまでには至らなかった。グレンは味方の異変を感じながら、俺に向かって魔法を放ってきた。
 あらゆる魔法を使いこなすとの前評判通り、グレンが繰り出した魔法は多種多様であった。だが、恐慌魔法のおかげで威力は弱まっているように見える。
 動きもやや鈍重になっており、俺単体でも辛うじて対応できていた。しかし表情こそ余裕の表情を保ててはいたものの、内心では掠りかけた魔法で燻った地面の草を傍目に見て、尋常じゃなく心臓がバクバクしている。
 自らの能力が本来の威力を見せないことで、グレンは苛立ちを募らせる。そして俺が難なく躱しているように映ったのか、ついにグレンは腰の剣を引き抜いた。 
 こいつは相当視野が狭まっている、そう感じた。中距離での攻撃がことごとく躱されたことで、近接戦闘での決着を目論んだのだろう。
 すぐに距離を詰めてきたグレンは、間もなく俺の剣と衝突する。甲高い金属音が辺りに鳴り響いた。
 剣ならば俺の壇上だ。無論、過剰な自信を抱いているわけではない。グレンの力量を正確に推測った上での自信だった。グレンに本来の身体強化魔法が備わっていれば、勝ち目はなかったかもしれない。しかし、今のグレンはおそらく以前武闘大会で対戦したあいつと比べても力量は大きく落ち、基礎的な剣術すらも満足に備えていないはずだ。
 俺は短期間とはいえ、王国式の剣術をミーシャちゃんから教わり、マーガレット先生との集中特訓で昇華させたある意味我流の剣術がある。
 その点で、この間合いにおいては勇者よりも優位に立っていると、俺は自信を持つことができた。
 ルメニアの王国剣術は基本的に自衛の剣である。敵との間合いを完全に把握し、敵の隙が満ちたその時を狙い、懐に飛び掛かるのだ。
 グレンの剣裁きはよく見える。単純で、工夫がない。力では押されていても、受け流すことができている。余裕があるとは到底言い切れないが、それでも着実に仕留めるための地ならしは着実に進んでいた。頃合いを見て、俺はマーガレット先生に目配せをする。
 マーガレット先生は目にも留まらぬ速さでシオンの元まで行き、颯爽と攫って見せた。余裕を失って視野を狭めていたグレンは、マーガレット先生がシオンの身柄を確保するのを止められない。さながら怪盗のような職人芸で、俺がグレンの気を引く意味など無かったのではないか、とまで思わされるほどだった。
 完全に剣筋を見切った俺は、グレンが振るった剣を避け、ついに一気に懐へと入る。
 しかしさすがは勇者というべきか、火事場の馬鹿力とでも言うべき脅威の反応で辛うじて避けきった。
 そして間髪入れず、愚直にも懲りずに再び距離を詰めてくる――。
 刹那、グレンはあろうことか自らの剣を手放すと、運悪く、いや、あるいは緻密な計算の結果なのかもしれない。宙に浮いた剣が俺の視界を遮った。
 その直後、グレンはこちらに向けて掌をかざし、膨大なエネルギーによって身体が後方へ吹き飛ばされるのを感じる。
「ぐ、はッ」
 背中から叩きつけられ、内臓がひどく痛んだ。しかし、身体の節々が折れたように痛むだけで、あの間合いで命を失わなかったのは奇跡としか言う他ない。
 魔法での戦闘で中距離での使用が殆どなのは、集中力を割くために一瞬無防備になること、そして発動にラグが生じるからだ。近接戦闘においてそのラグは致命傷になりかねない。それゆえに、俺は心のどこかで油断していた。
 勇者となれば能力が制限されていてもこれほどの魔法を近距離でも一瞬で解き放てるのだ。
 とはいえ、あの間合いであれほどの魔法をぶっ放せば、流石のグレンも無傷ではいられないだろう。俺は砂埃が舞う間に気力で立ち上がり、俺は地面に突き刺した剣に体重を預ける。
 やがて視界がクリアになると、グレンは片膝を突きつつもこちらを鋭く睨んでいた。
「さすがは勇者というべきかな。俺ももうボロボロだ。どうだ、ここで撤退してはもらえないだろうか?」
「ふん、こちらには3万の兵が控えているんだ。お前一人のために撤退するなどありえない」
「その3万の兵はなぜ俺に飛び掛かってこない?」
「お前など俺一人で十分だと分かっているからだ。俺のことを皆信頼しているのだ」
 薄っぺらい『信頼』だと、俺は心の中で断じた。状況も直視しようとせず、ひたすら己の優位を疑わない。
「ならばあれほど望んでいたパーティーでの戦闘を俺相手にしてくれば良いだろう? 恰好の機会じゃないか」
「それは……」
 一人で戦っているならパーティーを組む必要などなかったと、シオンから苦言を呈されていたのに、だ。
 おそらく勇者パーティーの面々が健全な状態でそこにいたとしても、グレンは彼らを頼らなかっただろう。
 事実、グレンは俺との一騎打ちに傾倒して、周囲が全く見えていなかった。
「気づいているか? お前のパーティーにはもう、一人欠けていることを」
「はっ? 何を言って……」
 怪訝に眉根を寄せ、グレンは背後を振り向く。
「シオン? シオンはどこだ!?」
 剣士・エリスは満足に動けない身体でフルフルと首を横に振る。
 再びこちらに目を向けた瞬間、俺の背後にマーガレット先生に肩を掴まれたシオンの姿がグレンの目に映った。
「お前、シオンに何をするつもりだ!」
「何をすると思う?」
 俺の不敵な笑みが蠱惑的に映ったのか、グレンは肩を震わせる。俺が手荒な真似をすると思ったのだろう。
「ッ……シオンを離せ!」
 その瞬間、グレンは再び臨戦態勢に入ったようだった。だが俺は掌をかざして静止する。反射的に足はぴたりと止まった。
「それ以上動くな。一歩でも近づいたら、俺は容赦なくシオンを殺す」
 怯えが孕んだ瞳に罪悪感を感じ、俺はなるべく撫でるような小さな声で話しかける。
「怖い思いをさせてすまない。たが安心してくれ。手荒な真似をするつもりは毛頭ない。これは交渉だ。君を殺すつもりは毛頭ない」
「……はい」
 俺は小さく頷き、今度はグレンにも聞こえるような声量で尋ねる。
「君に聞きたいことがある」
「……なんでしょうか」
「君の母親から妹は国によって捕縛されている。違うか?」
「ど、どうしてそれを……!」
 正気を失ったような瞳が途端に光を灯す。
「やはりか。そしてそれは勇者パーティーに入るのを拒否したから、だな?」
「……はい」
 弱々しく頷く。俺はグレンに向かって鋭い視線を送った。
「らしいぞ。知っていたか?」
「……初耳だ。シオンの家族には国から援助があるとあの国王は言っていた」
「確かに身体の弱い母にはその援助がありました。でも妹は……」
「そんな……!」
 わざわざ妹を拘束したのは、シオンになんとしても言うことを聞かせるためだ。
「シオンの解放には条件がある。この場での即時停戦および撤退をしたうえで、今後メーテルブルグに一切の兵を置かないこと、そして今後100年の魔族国家との不戦協定を国王に飲ませることだ。無論、シオンの妹も解放してもらう」
「ひゃ、100年だと?」
 人間にとっては悠久の時間かもしれないが、吸血鬼にとってはそうでもない。これくらいは通してもらわなければ困る。
「無理だとは言わせない。お前なら通せるはずだ」
「……わ、わかった。その通りにしよう。だからシオンは……」
「シオンを返すのは、今言った条件を全て国王に飲ませてからだ」
「くっ……。致し方ない。シオンを人質に取られては、強硬手段に出ることはできない」
 グレンはシオンの塩対応をどうにかして改善しようとずっと腰を砕いていた。それがやがて好意を持ってもらいたいという感情になり、グレンは明確に恋心を持つようになった。
 男とは単純で、惚れた女のためならば全てを捨てるくらい造作もないのだ。
 グレンとて、本気で魔族を滅ぼしたいわけではない。国王から直々に頼まれ、周囲から羨望の眼差しを向けられ、良い気分になったからだ。そして世界を救うという使命を抱いた自分に酔った。
「全軍、撤退だ! 国へと戻る!」
 俺が敵全体に向けていた強い感情を虚空に手放すと、全軍はようやく動けるようになった。身体の恐慌状態が長い間継続していたことで、将兵は疲れ切っている様子である。そのため殆ど市民が残っていない敵地の制圧を目の前にしても、反発することはなかった。
 俺は反転して撤退していく東方連邦軍を前にしてようやく肩から力が抜け、やがて全身を支える力すらも抜けていく。
 俺はマーガレット先生に身体を支えられて立つのが精一杯で、その体たらくに思わず力無い笑みがこぼれる。だが当初の計画がほぼ思い通りに運び、かつてないほどの充足感が胸を覆っていた。