救援に来た王国騎士団が瞬殺された事実に、俺はかつてなく気を重くしていた。魔法すら持たない人間がどのようにして壁を破壊したのか定かではなかったものの、相当な戦力であることは確実である。噂にはあったとはいえ、吸血鬼や強固な城壁をこれほど一瞬で破壊してしまうほどの兵器を人間が生み出したのは、直視したくない現実であった。
今回ばかりは想定外に想定外を重ねた凶報であり、住民の多くが王都への退避を試みた。魔法学校の人間の生徒も半数はマーガレット先生の提案に乗ったらしい。その生徒たちは既に南部の港から西側へと向かった。
戦力がほぼ残っていない現状は、ルメニアにとっては絶望的と言う外なかった。
ふと横を見ると、ミーシャちゃんは虚な瞳を浮かべ、顔面蒼白であった。今にも消え入りそうで、目を離れせば失われてしまいそうなほどの存在感にギョッとする。境遇を考えれば、クラムデリアを追われるという未来が現実味を帯びたことは、即ち死刑宣告と同義なのだ。
「ミーシャちゃん」
声をかけても、俺の方に目を向けることはない。俺はなんて余裕を欠いていたのだろうか。一緒にいたのに、不安に押し潰されそうなミーシャちゃんを視界に入れることすらままならなかった。
俺は右の拳を握りしめ、左手でミーシャちゃんの頭を優しく撫でる。それでようやく気づいたようで、ミーシャちゃんは上目遣いで俺を見上げた。
「ミーシャちゃん、どうなったとしても、俺が絶対に君を守るから」
根拠が無く無責任な台詞だと思う。それでも一瞬でもいいから、ミーシャちゃんに安堵をもたらしたかった。
「ま、また貴方は無理をする気ですの?」
「俺は無理をするのが好きなんだ。それが生きている価値だとも思ってる」
そう。俺は苦しんでいる自分を見るのが好きなのだ。日本で生きていた時に、自分だけ死なず、あまつさえ喜んでしまった罰を今受けている。傍目から見れば、これは自己制裁で自己満足で、自己犠牲なのだろう。嫌々受けているわけではない。喜んで受けている運命だ。ミーシャちゃんが悲しむ必要なんて一ミリもないのだ。
「認められませんわ! せっかくマーガレット先生が行く先を用意してくれているのですから、貴方は私など置いて、さっさと逃げるべきですの」
ミーシャちゃんはそっぽを向いて、早口で促してくる。そういう時のミーシャちゃんの心を、俺は知っている。不安で不安で仕方がなくて本当は一緒にいて欲しいけど、自分のために確実に生き延びられる俺を危険に晒してしまうのも嫌で、葛藤が胸の内を嵐のように渦巻いている。そんな一種の罪悪感が孕んだミーシャちゃんの心を融かすようにして、俺は微笑む。
「ミーシャちゃんのためだけじゃない。これはセルミナに恩を返したいからなんだ。分かっているだろ? 俺は彼女に命を救われた。にも関わらず尻尾を巻いて逃げるなんて、俺にはできない。自分の納得できる道がこれなんだ」
「だからって」
「うん、このまま待っているつもりもないんだ。言っただろ? どうなったとしても、俺が絶対に君を守るって」
「そんなの、無茶ですわ」
目尻に涙を浮かべ、絶え絶えの口調で言葉にならない声を出すミーシャちゃんを前に、こみ上げるものがあった。それでも強い意思を以って、胃の中に押し戻す。
大言壮語という四字熟語すら軽く飛び越えるほどの身の程知らずな宣言だ。
相手はほぼ無傷の大軍である。それを一人で相手しようなど、過去に存在したどんな英雄だって思いやしない。それでも、諦める理由にはならなかった。俺には得体は知れないけど、単独で吸血鬼にすら通用する力を得たのだ。針の穴に糸を通すのがあまりに軽易に思えるほどの困難が待ち受けていても、できないと決めつけたくはなかった。
「無茶でもやるんだ。俺はこれからセルミナに直談判しにいく。多分、あいつは最後の一人になるまでここに留まるつもりだと思う。そういう奴だろ、セルミナって」
俺はミーシャちゃんの目を直視できなかった。してしまったら、決意が揺るぎそうな気さえしたから。
クラムデリア城は多くの兵を失って、今は手薄になっているはずだ。今ならば簡単にセルミナを出会い、話すことはできると思う。
あとは俺が口を上手く回して、セルミナを説得できれば良い。
「もしさ、確実にどちらかが死ぬ局面があったとして、セルミナと俺のどちらかを選べと言われたら、ミーシャちゃんはどうする?」
これはトロッコ問題だ。この世界にトロッコなんて乗り物は存在しないから、抽象的な表現で留めたが、我ながらこれ以上ない意地悪な質問だと思う。
「そんな無茶な問い、答えられるはずがありませんわ」
ミーシャちゃんは、奥歯を鳴らしながら当然の反応を示す。強いて言うならば、などと言う残酷な問いを重ねることはなく、俺は切なげに笑って見せる。
「うん、無茶だろうけどさ。今はそういう状況なんだ。前のミーシャちゃんならセルミナだと即答してただろ?」
「その時と今では状況が違いますわ」
俺とミーシャちゃんが出会った当初、名目上は監視だった。そして俺のことを危険分子と捉えていたのも事実だろう。だが俺自身も信頼関係を構築してきた自負はある。もっとも、危険を顧みない、という部分では信用されていないだろうが。
「まあ死ぬなんて大袈裟な話をしたけどさ。要はどちらを危険に晒すかってこと。セルミナを安全なところへいち早く退避させるか、セルミナが生き延びるのを信じて俺が人間に逃げるか、という話なんだ。だったら俺は、恩のあるセルミナのために命を賭けたい」
ミーシャちゃんはしばらく黙り込んでいた。きっと、俺の言葉が飲み込めないのだろう。あまりに過酷な未来予想図は、ミーシャちゃんの眼前を真っ黒に染め上げていた。
「私は……。貴方のことを少なからず大切に思っていますわ」
「……ッ。うん、ありがとう」
普段のミーシャちゃんからならまず出てこない言葉に、俺は息が詰まる。
「せっかく、私も前を向けましたのに。行けないと思っていた学校にも通えて、友人もできましたわ。これからってところでしたのに」
ミーシャちゃんは努めて自制しつつも、次々と吐露される感情は大きく波打っている。今にも決壊しそうな涙腺をすんでのところで堰き止めていた。
「できることなら、お姉様とシノブ、二人とこの先も生きていきたいですわ」
理想で固めた総花的な考え方だが、その瞬間、俺の視界は鈍器で殴られたように歪み、しきりなく明滅した。
どちらかを犠牲にする覚悟を持たなければ、この難局は乗り切れない。でもそれは俺が否定していた「諦めること」なのではないだろうか。
絶望するのは崖際まで追い詰められたその時でいい。ミーシャちゃんは、やる前から諦めていた俺にハッパをかけたのだ。ミーシャちゃんにその意図がなかったとしても、張り詰めていた緊張の糸は、冴えた思考と共に確かに弛んだ。視野は澄み、心も自信に満ちている。この自信は根拠なんて万が一にもないのだろう。でも慢心と真逆の位置にあるそれが、きっと俺に力をもたらしていた。
「貴方は私の言うことを全く聞いてはくれませんわ。止めても意味がないのは分かっていますから。でも絶対に死んではなりませんわよ。これは約束ですわ」
俺の決意を固めた表情を見て、ミーシャちゃんは天を仰いだ。その瞳からは、とめどない涙が流れ落ちていく。
俺だって死にたくはない。ついさっきまで、死ぬつもりでいた自分が信じられないほどに、人間らしい死への恐怖を感じていた。
望む未来を掴むためには、好ましい感情なのだと思った。
「なんですの、これは?」
俺は自らの小指をミーシャちゃんに向けて差し出す。その意図を図りかねたミーシャちゃんは、可愛く小首を傾げて俺の双眸をジッと見つめた。
「小指を出して」
言われるがままにミーシャちゃんは小指を出す。俺はすかさず小指を組み合わせて、強く握った。ミーシャちゃんから小さな悲鳴が上がるが、気に留めることなく上下に振る。
「指きりげんまん、嘘ついたら針千本飲ます。指切った!」
「なんですのその物騒な歌詞は」
「俺の生まれた国では、約束を破らないためにこうやって儀式をするのが風習なんだ」
小指を差し出すのは、江戸時代の遊郭で遊女が客の男に対して愛情を示す証として小指を捧げたからだと言われる。
小指同士を結んで親愛を表し、約束を必ず遂げると誓う。これをすると、自然と気が引き締まるのだから不思議だ。
「変わった国ですわね……」
「これで俺は約束を破れなくなった。だから死なないよ。ミーシャちゃんのためにも、俺は生き延びて見せる」
俺は安心させるように、優しく笑った。
「約束……ですわよ」
ミーシャちゃんは微かに頬を赤く染め上げると、頬を膨らませてそっぽを向いた。
今回ばかりは想定外に想定外を重ねた凶報であり、住民の多くが王都への退避を試みた。魔法学校の人間の生徒も半数はマーガレット先生の提案に乗ったらしい。その生徒たちは既に南部の港から西側へと向かった。
戦力がほぼ残っていない現状は、ルメニアにとっては絶望的と言う外なかった。
ふと横を見ると、ミーシャちゃんは虚な瞳を浮かべ、顔面蒼白であった。今にも消え入りそうで、目を離れせば失われてしまいそうなほどの存在感にギョッとする。境遇を考えれば、クラムデリアを追われるという未来が現実味を帯びたことは、即ち死刑宣告と同義なのだ。
「ミーシャちゃん」
声をかけても、俺の方に目を向けることはない。俺はなんて余裕を欠いていたのだろうか。一緒にいたのに、不安に押し潰されそうなミーシャちゃんを視界に入れることすらままならなかった。
俺は右の拳を握りしめ、左手でミーシャちゃんの頭を優しく撫でる。それでようやく気づいたようで、ミーシャちゃんは上目遣いで俺を見上げた。
「ミーシャちゃん、どうなったとしても、俺が絶対に君を守るから」
根拠が無く無責任な台詞だと思う。それでも一瞬でもいいから、ミーシャちゃんに安堵をもたらしたかった。
「ま、また貴方は無理をする気ですの?」
「俺は無理をするのが好きなんだ。それが生きている価値だとも思ってる」
そう。俺は苦しんでいる自分を見るのが好きなのだ。日本で生きていた時に、自分だけ死なず、あまつさえ喜んでしまった罰を今受けている。傍目から見れば、これは自己制裁で自己満足で、自己犠牲なのだろう。嫌々受けているわけではない。喜んで受けている運命だ。ミーシャちゃんが悲しむ必要なんて一ミリもないのだ。
「認められませんわ! せっかくマーガレット先生が行く先を用意してくれているのですから、貴方は私など置いて、さっさと逃げるべきですの」
ミーシャちゃんはそっぽを向いて、早口で促してくる。そういう時のミーシャちゃんの心を、俺は知っている。不安で不安で仕方がなくて本当は一緒にいて欲しいけど、自分のために確実に生き延びられる俺を危険に晒してしまうのも嫌で、葛藤が胸の内を嵐のように渦巻いている。そんな一種の罪悪感が孕んだミーシャちゃんの心を融かすようにして、俺は微笑む。
「ミーシャちゃんのためだけじゃない。これはセルミナに恩を返したいからなんだ。分かっているだろ? 俺は彼女に命を救われた。にも関わらず尻尾を巻いて逃げるなんて、俺にはできない。自分の納得できる道がこれなんだ」
「だからって」
「うん、このまま待っているつもりもないんだ。言っただろ? どうなったとしても、俺が絶対に君を守るって」
「そんなの、無茶ですわ」
目尻に涙を浮かべ、絶え絶えの口調で言葉にならない声を出すミーシャちゃんを前に、こみ上げるものがあった。それでも強い意思を以って、胃の中に押し戻す。
大言壮語という四字熟語すら軽く飛び越えるほどの身の程知らずな宣言だ。
相手はほぼ無傷の大軍である。それを一人で相手しようなど、過去に存在したどんな英雄だって思いやしない。それでも、諦める理由にはならなかった。俺には得体は知れないけど、単独で吸血鬼にすら通用する力を得たのだ。針の穴に糸を通すのがあまりに軽易に思えるほどの困難が待ち受けていても、できないと決めつけたくはなかった。
「無茶でもやるんだ。俺はこれからセルミナに直談判しにいく。多分、あいつは最後の一人になるまでここに留まるつもりだと思う。そういう奴だろ、セルミナって」
俺はミーシャちゃんの目を直視できなかった。してしまったら、決意が揺るぎそうな気さえしたから。
クラムデリア城は多くの兵を失って、今は手薄になっているはずだ。今ならば簡単にセルミナを出会い、話すことはできると思う。
あとは俺が口を上手く回して、セルミナを説得できれば良い。
「もしさ、確実にどちらかが死ぬ局面があったとして、セルミナと俺のどちらかを選べと言われたら、ミーシャちゃんはどうする?」
これはトロッコ問題だ。この世界にトロッコなんて乗り物は存在しないから、抽象的な表現で留めたが、我ながらこれ以上ない意地悪な質問だと思う。
「そんな無茶な問い、答えられるはずがありませんわ」
ミーシャちゃんは、奥歯を鳴らしながら当然の反応を示す。強いて言うならば、などと言う残酷な問いを重ねることはなく、俺は切なげに笑って見せる。
「うん、無茶だろうけどさ。今はそういう状況なんだ。前のミーシャちゃんならセルミナだと即答してただろ?」
「その時と今では状況が違いますわ」
俺とミーシャちゃんが出会った当初、名目上は監視だった。そして俺のことを危険分子と捉えていたのも事実だろう。だが俺自身も信頼関係を構築してきた自負はある。もっとも、危険を顧みない、という部分では信用されていないだろうが。
「まあ死ぬなんて大袈裟な話をしたけどさ。要はどちらを危険に晒すかってこと。セルミナを安全なところへいち早く退避させるか、セルミナが生き延びるのを信じて俺が人間に逃げるか、という話なんだ。だったら俺は、恩のあるセルミナのために命を賭けたい」
ミーシャちゃんはしばらく黙り込んでいた。きっと、俺の言葉が飲み込めないのだろう。あまりに過酷な未来予想図は、ミーシャちゃんの眼前を真っ黒に染め上げていた。
「私は……。貴方のことを少なからず大切に思っていますわ」
「……ッ。うん、ありがとう」
普段のミーシャちゃんからならまず出てこない言葉に、俺は息が詰まる。
「せっかく、私も前を向けましたのに。行けないと思っていた学校にも通えて、友人もできましたわ。これからってところでしたのに」
ミーシャちゃんは努めて自制しつつも、次々と吐露される感情は大きく波打っている。今にも決壊しそうな涙腺をすんでのところで堰き止めていた。
「できることなら、お姉様とシノブ、二人とこの先も生きていきたいですわ」
理想で固めた総花的な考え方だが、その瞬間、俺の視界は鈍器で殴られたように歪み、しきりなく明滅した。
どちらかを犠牲にする覚悟を持たなければ、この難局は乗り切れない。でもそれは俺が否定していた「諦めること」なのではないだろうか。
絶望するのは崖際まで追い詰められたその時でいい。ミーシャちゃんは、やる前から諦めていた俺にハッパをかけたのだ。ミーシャちゃんにその意図がなかったとしても、張り詰めていた緊張の糸は、冴えた思考と共に確かに弛んだ。視野は澄み、心も自信に満ちている。この自信は根拠なんて万が一にもないのだろう。でも慢心と真逆の位置にあるそれが、きっと俺に力をもたらしていた。
「貴方は私の言うことを全く聞いてはくれませんわ。止めても意味がないのは分かっていますから。でも絶対に死んではなりませんわよ。これは約束ですわ」
俺の決意を固めた表情を見て、ミーシャちゃんは天を仰いだ。その瞳からは、とめどない涙が流れ落ちていく。
俺だって死にたくはない。ついさっきまで、死ぬつもりでいた自分が信じられないほどに、人間らしい死への恐怖を感じていた。
望む未来を掴むためには、好ましい感情なのだと思った。
「なんですの、これは?」
俺は自らの小指をミーシャちゃんに向けて差し出す。その意図を図りかねたミーシャちゃんは、可愛く小首を傾げて俺の双眸をジッと見つめた。
「小指を出して」
言われるがままにミーシャちゃんは小指を出す。俺はすかさず小指を組み合わせて、強く握った。ミーシャちゃんから小さな悲鳴が上がるが、気に留めることなく上下に振る。
「指きりげんまん、嘘ついたら針千本飲ます。指切った!」
「なんですのその物騒な歌詞は」
「俺の生まれた国では、約束を破らないためにこうやって儀式をするのが風習なんだ」
小指を差し出すのは、江戸時代の遊郭で遊女が客の男に対して愛情を示す証として小指を捧げたからだと言われる。
小指同士を結んで親愛を表し、約束を必ず遂げると誓う。これをすると、自然と気が引き締まるのだから不思議だ。
「変わった国ですわね……」
「これで俺は約束を破れなくなった。だから死なないよ。ミーシャちゃんのためにも、俺は生き延びて見せる」
俺は安心させるように、優しく笑った。
「約束……ですわよ」
ミーシャちゃんは微かに頬を赤く染め上げると、頬を膨らませてそっぽを向いた。