地に這いつくばる自分の姿は、どれほど無様だろうか。デグニスの錬成した岩は、容赦なく俺を痛めつけた。口の中は衝撃で歯や岩の破片によって裂傷を負い、血だらけになっている。
身体も無数の青黒い痣だらけに包まれているだろう。
皮膚感覚はとうの昔に失われ、残された底力と本能のままに身体を動かす。打たれた箇所は熱を放ち、その熱がまだ自分が倒れていないことを示すものとなっていた。
デグニスも余裕の無かった表情が徐々に落ち着きを見せ、今度は致命傷を与えないように長く苦しみが続くような戦法を取っている。
それが今は逆に有り難かった。例え苦しみが長く続こうと関係ない。斃れるわけにはいかないのだ。
……あれ、俺何のために戦っているんだっけ。
朦朧とする視界の中で、ふと冷静な思考が舞い降りる。
そもそも、人間と吸血鬼という勝ち目のない戦いに参加するのを決意したのはなぜだ?
ああ、そうだ。デグニスから参加するよう脅されたんだった。
ならばもうこいつは満足しているはずだ。俺のことを完膚なきまでにたたきのめし、これほど圧倒的な戦力差を周囲にアピールできたのだから、当初の目的は達成されただろう。
もしかしたら、降参するのを待っているのかもしれない。
ならば尚更放棄するべきだろう。これ以上一方的な暴力を見るのを観客も望んでいないはずだ。
そういえば戦いの前、この戦いは自分のためだと話していた記憶がある。
何かを背負って戦うのでなければ、ここで降参したって誰も責めないだろう。
俺だってこんな苦しい思いをしてまで、目の前の男を打倒したいわけではないのだ。
もういいだろう? 俺はよく足掻いたよ。これ以上戦ったって、何も意味はない。ただ恥を晒すだけなのだ。そうだ。もう諦めよう。
そんな風に意識を手放そうとしたその時。
「貴方はよくやりましたわ! もうおやめなさい!」
聞き慣れた心地よい声が耳を広がる。今の今まで、その存在を記憶から消し去っていた。途端に意識が覚醒していくのがわかる。この俺がよくやったって?
こんな無様な姿を晒して、どこがよくやったんだ。今の俺は、身の程知らずにも吸血鬼に挑んで返り討ちにされただけの弱い人間だ。
ああ、そうか。
単純な話じゃないか。
自分のためなんてカッコつけていたのが、そもそもの間違いだったんだ。
自分で自分を鼓舞しても、それは虚勢にしかならず、真の力を発揮するための燃料にはなり得ない。
きっと俺は、大切な人の、ミーシャちゃんのためなら戦える。
右も左も分からない俺に、この世界のことや常識、戦い方を叩き込んでくれた少女に。理不尽な現実の中で生きていても、決して弱みを見せなかった少女に。
ミーシャちゃんが生きてきた16年の中で、どれほど不遇な時間を過ごしてきたのか、俺には想像できない。「混血は差別される」というのがこの国の常識となっている以上、その空気を変えるための力や地位を持ち合わせていない俺にはテコの入れようがない。
でも、ミーシャちゃんが謂われない中傷を受けた時、否定することができる。挫けそうになった時、側で慰めることができる。
目の前の男は、ミーシャちゃんを根本から否定する言葉を言い放ったのだ。このまま勝つことを諦めて、逃げてしまう方が余程ダサい。
自分の置かれている状況を無視して俺に声を投げかけてきた少女のために、俺はこの試合で無様な勝利をもぎ取るのだ。
敗北がほぼ確定している状況で、そんなふうに思える自分に笑う。どうすれば勝てるのか検討もつかないのに、だ。
だが、そんな余力がどこから湧き出たのか、身体に羽がついたかのように軽くなり、攻撃が手を取るように見えるようになった。
思い出せ。あの時鎮めた怒りを。この男がどれほど酷い言葉を投げかけてきたのかを。
負けてたまるか。
沸々と沸き上がる怒りを源に、あくまで冷静な思考を保ったまま、一心不乱に全身の細胞を昇華させる。
ミーシャちゃんのために戦うと決め、怒りを思い出した瞬間、大きな力が身体の芯から沸き上がってきた。それが自信の源となって力強く大地を踏み締める地盤となっている。根拠はないが、今の自分ならば勝てるような気がした。
◇
紫暢がデグニスを睨みつけると、途端に額に脂汗を滲ませた。
「なん……だ、これは……」
デグニスは身体が締め付けられるような感覚に襲われる。それ以上に、得体の知れない黒い物体が、自分の心の中を支配するような不快感。デグニスは恐怖から平静を保てなくなり、ついに尻餅をつく。
尻をついたまま、ゆっくりと近づいてくる紫暢を前にして後退る。
「ひっ、やめろ! こっちに来るな! たのむ、やめてくれ!」
デグニスの目には、紫暢がただひたすらに強大な妖異に映っていた。突然の形勢交代に、観客は困惑を隠せない。ミーシャやシェリルもそれは同様で、あまりに現実味のない展開に目を疑った。そして同時に、懇願するデグニスがとてつもなく無様に映る。その瞳には恐怖の二文字が刻まれていた。
紫暢は胸ぐらを掴み、デグニスに迫真の言葉を告げる。
「お前がこき下ろし、いい様に扱ってきた奴らは、そうやって懇願されて解放したのか? 違うだろ。だから俺は思うままにやらせてもらう。最初は俺が受けてきた痛みの分だッ!!」
右頬に手加減を施した一撃を加える。涙が中に弾け飛び、呻き声を上げた。目一杯殴らなかったのは、ここで意識を刈り取ってしまえば自己満足で終わってしまうと紫暢が思ったから。
「これはシェリルの分だッ!」
あの時デグニスがシェリルに対して難癖をつけた時に与えた恐怖の分。今度は左頬へ。デグニスは変わらずガタガタと歯を震わせたままである。
「そしてこれは、人間と吸血鬼の混血だからと、それだけでその命すらも否定されたミーシャちゃんの分だ!」
紫暢はデグニスを無理やり立たせ、腹に向かって強烈な回し蹴りを叩き込んだ。デグニスはその一撃で意識を手放し、力無く地べたを転がり回る。紫暢は肩で息をしながら、それ以上の追撃はせずにただ佇んでいた。砂塵が舞う中で、紫暢は勝利を確信する。
悠久の沈黙ののち、審判が白目を剥くデグニスを確認して恐る恐る勝者を告げる。
相手が相手だけに大歓声とはなり得ず、一部から拍手が生まれただけだったが、それは勝者と敗者の関係が確定したことを、会場全体に突きつけた。
取り巻きの貴族と思わしき吸血鬼が慌てて駆け寄って行くのを、冷めた目つきで眺める。視線に気付いたのか、一人が鋭い目つきで睨みつけた。しかしその瞳には一抹の恐怖心が孕んでいる。結局何か吠えようとして、拳を握りしめて口を噤んだ。
担がれたデグニスの姿が消えると、紫暢は張り詰めていた緊張の糸が切れ、身体の力が一気に抜けるのを感じる。
しかし既に活動限界を超えていた身体に支えられるほどの力は残っておらず、紫暢は背中から倒れ込む恰好となる。
「ちょっ、重いですわ!」
試合が終わって真っ先に駆けつけたミーシャが背後から支える。
「あれっ……、ミーシャちゃん……?」
「そうですわ」
「ごめん、もう限界だわ」
「それは見なくても分かりますわ。こんなにボロボロになって……。あれほど無理は禁物だと言いましたのに」
「はは……。ごめん」
「聞きたいことが山ほどありますの。後で覚悟しておきなさい?」
「これは手厳しいなぁ……」
「まあでも、今日のところは褒めて差し上げますわ」
ミーシャは紫暢に対して慈愛の視線を注ぐ。紫暢はフッと微笑み、安堵して意識を手放した。
「もうっ。あとで説教ですわよ」
紫暢の頬を人差し指で突きながら、ミーシャは大きくため息をつく。そして、意識を失った紫暢の頬を優しくなでた。
身体も無数の青黒い痣だらけに包まれているだろう。
皮膚感覚はとうの昔に失われ、残された底力と本能のままに身体を動かす。打たれた箇所は熱を放ち、その熱がまだ自分が倒れていないことを示すものとなっていた。
デグニスも余裕の無かった表情が徐々に落ち着きを見せ、今度は致命傷を与えないように長く苦しみが続くような戦法を取っている。
それが今は逆に有り難かった。例え苦しみが長く続こうと関係ない。斃れるわけにはいかないのだ。
……あれ、俺何のために戦っているんだっけ。
朦朧とする視界の中で、ふと冷静な思考が舞い降りる。
そもそも、人間と吸血鬼という勝ち目のない戦いに参加するのを決意したのはなぜだ?
ああ、そうだ。デグニスから参加するよう脅されたんだった。
ならばもうこいつは満足しているはずだ。俺のことを完膚なきまでにたたきのめし、これほど圧倒的な戦力差を周囲にアピールできたのだから、当初の目的は達成されただろう。
もしかしたら、降参するのを待っているのかもしれない。
ならば尚更放棄するべきだろう。これ以上一方的な暴力を見るのを観客も望んでいないはずだ。
そういえば戦いの前、この戦いは自分のためだと話していた記憶がある。
何かを背負って戦うのでなければ、ここで降参したって誰も責めないだろう。
俺だってこんな苦しい思いをしてまで、目の前の男を打倒したいわけではないのだ。
もういいだろう? 俺はよく足掻いたよ。これ以上戦ったって、何も意味はない。ただ恥を晒すだけなのだ。そうだ。もう諦めよう。
そんな風に意識を手放そうとしたその時。
「貴方はよくやりましたわ! もうおやめなさい!」
聞き慣れた心地よい声が耳を広がる。今の今まで、その存在を記憶から消し去っていた。途端に意識が覚醒していくのがわかる。この俺がよくやったって?
こんな無様な姿を晒して、どこがよくやったんだ。今の俺は、身の程知らずにも吸血鬼に挑んで返り討ちにされただけの弱い人間だ。
ああ、そうか。
単純な話じゃないか。
自分のためなんてカッコつけていたのが、そもそもの間違いだったんだ。
自分で自分を鼓舞しても、それは虚勢にしかならず、真の力を発揮するための燃料にはなり得ない。
きっと俺は、大切な人の、ミーシャちゃんのためなら戦える。
右も左も分からない俺に、この世界のことや常識、戦い方を叩き込んでくれた少女に。理不尽な現実の中で生きていても、決して弱みを見せなかった少女に。
ミーシャちゃんが生きてきた16年の中で、どれほど不遇な時間を過ごしてきたのか、俺には想像できない。「混血は差別される」というのがこの国の常識となっている以上、その空気を変えるための力や地位を持ち合わせていない俺にはテコの入れようがない。
でも、ミーシャちゃんが謂われない中傷を受けた時、否定することができる。挫けそうになった時、側で慰めることができる。
目の前の男は、ミーシャちゃんを根本から否定する言葉を言い放ったのだ。このまま勝つことを諦めて、逃げてしまう方が余程ダサい。
自分の置かれている状況を無視して俺に声を投げかけてきた少女のために、俺はこの試合で無様な勝利をもぎ取るのだ。
敗北がほぼ確定している状況で、そんなふうに思える自分に笑う。どうすれば勝てるのか検討もつかないのに、だ。
だが、そんな余力がどこから湧き出たのか、身体に羽がついたかのように軽くなり、攻撃が手を取るように見えるようになった。
思い出せ。あの時鎮めた怒りを。この男がどれほど酷い言葉を投げかけてきたのかを。
負けてたまるか。
沸々と沸き上がる怒りを源に、あくまで冷静な思考を保ったまま、一心不乱に全身の細胞を昇華させる。
ミーシャちゃんのために戦うと決め、怒りを思い出した瞬間、大きな力が身体の芯から沸き上がってきた。それが自信の源となって力強く大地を踏み締める地盤となっている。根拠はないが、今の自分ならば勝てるような気がした。
◇
紫暢がデグニスを睨みつけると、途端に額に脂汗を滲ませた。
「なん……だ、これは……」
デグニスは身体が締め付けられるような感覚に襲われる。それ以上に、得体の知れない黒い物体が、自分の心の中を支配するような不快感。デグニスは恐怖から平静を保てなくなり、ついに尻餅をつく。
尻をついたまま、ゆっくりと近づいてくる紫暢を前にして後退る。
「ひっ、やめろ! こっちに来るな! たのむ、やめてくれ!」
デグニスの目には、紫暢がただひたすらに強大な妖異に映っていた。突然の形勢交代に、観客は困惑を隠せない。ミーシャやシェリルもそれは同様で、あまりに現実味のない展開に目を疑った。そして同時に、懇願するデグニスがとてつもなく無様に映る。その瞳には恐怖の二文字が刻まれていた。
紫暢は胸ぐらを掴み、デグニスに迫真の言葉を告げる。
「お前がこき下ろし、いい様に扱ってきた奴らは、そうやって懇願されて解放したのか? 違うだろ。だから俺は思うままにやらせてもらう。最初は俺が受けてきた痛みの分だッ!!」
右頬に手加減を施した一撃を加える。涙が中に弾け飛び、呻き声を上げた。目一杯殴らなかったのは、ここで意識を刈り取ってしまえば自己満足で終わってしまうと紫暢が思ったから。
「これはシェリルの分だッ!」
あの時デグニスがシェリルに対して難癖をつけた時に与えた恐怖の分。今度は左頬へ。デグニスは変わらずガタガタと歯を震わせたままである。
「そしてこれは、人間と吸血鬼の混血だからと、それだけでその命すらも否定されたミーシャちゃんの分だ!」
紫暢はデグニスを無理やり立たせ、腹に向かって強烈な回し蹴りを叩き込んだ。デグニスはその一撃で意識を手放し、力無く地べたを転がり回る。紫暢は肩で息をしながら、それ以上の追撃はせずにただ佇んでいた。砂塵が舞う中で、紫暢は勝利を確信する。
悠久の沈黙ののち、審判が白目を剥くデグニスを確認して恐る恐る勝者を告げる。
相手が相手だけに大歓声とはなり得ず、一部から拍手が生まれただけだったが、それは勝者と敗者の関係が確定したことを、会場全体に突きつけた。
取り巻きの貴族と思わしき吸血鬼が慌てて駆け寄って行くのを、冷めた目つきで眺める。視線に気付いたのか、一人が鋭い目つきで睨みつけた。しかしその瞳には一抹の恐怖心が孕んでいる。結局何か吠えようとして、拳を握りしめて口を噤んだ。
担がれたデグニスの姿が消えると、紫暢は張り詰めていた緊張の糸が切れ、身体の力が一気に抜けるのを感じる。
しかし既に活動限界を超えていた身体に支えられるほどの力は残っておらず、紫暢は背中から倒れ込む恰好となる。
「ちょっ、重いですわ!」
試合が終わって真っ先に駆けつけたミーシャが背後から支える。
「あれっ……、ミーシャちゃん……?」
「そうですわ」
「ごめん、もう限界だわ」
「それは見なくても分かりますわ。こんなにボロボロになって……。あれほど無理は禁物だと言いましたのに」
「はは……。ごめん」
「聞きたいことが山ほどありますの。後で覚悟しておきなさい?」
「これは手厳しいなぁ……」
「まあでも、今日のところは褒めて差し上げますわ」
ミーシャは紫暢に対して慈愛の視線を注ぐ。紫暢はフッと微笑み、安堵して意識を手放した。
「もうっ。あとで説教ですわよ」
紫暢の頬を人差し指で突きながら、ミーシャは大きくため息をつく。そして、意識を失った紫暢の頬を優しくなでた。