突然、肉が削れるような鋭い痛みが前半身を覆った。呻き声すらも喉から出ず、行き場を失った空気が耳から漏れ出す。力が入った全身は熱を帯びながらやや敏感となっており、のたうち回りたくなるほどの痛みに晒された。
「この、忌まわしき人間が!」
 その一発が誰のものかすら定かではない。あらゆる包囲から発せられた悪意の塊が、腹部に渾身の一撃を次々と見舞う。胃が押し潰されて耐えきれず吐瀉物をこぼすと、嫌悪を示すように人の波は一時的に引いていった。その瞳には総じて冷血なものが孕んでおり、男を人とすら思わない、まるで家屋に蔓延る害虫を見るかのような視線を浴びせかけてくる。咳嗽が虚しく響き渡った。
やがて尖った石を投げつけてきたり、長い杖で穢れ物を突くようにしてあらゆる攻撃手段を敢行してくる。
渦中にいた男・桶皮紫暢は震え上がった。理不尽という言葉すら可愛く思えるほどのもの仕打ちだな、と胸臆で朦朧と浩嘆する。痛覚すら忘れ、狭まった視界にも青痣が幾つも映った。気づけば地面にはやや黒みを帯びた蘇芳色の鮮血が広がっている。
──俺、死ぬのか。
 絶望感が胸に去来する。不思議と怒りは覚えなかった。周囲は自分を親の仇のように見つめる者たちばかりである。諦念の境地とはこのことかと察した。目蓋から力が抜け、視野が狭まっていく。背後の建物すらも歪んで見えた。
それでも紫暢は本能的に生きたいと思った。自分の中で芽生えた弱気を捻り潰し、紫暢は地面に向いていた視線を上向かせる。
「なんだ、その反抗的な目は。てめえ自分が今どんな状況にいるのか分かってんのか?」
 後ろ髪を乱雑に乱雑にまとめ、気性の荒さが目に浮かぶような吊り目に、長く目立つ八重歯は威圧感すら纏っている。山賊のような風貌の大男に、かたや護衛を失い窮地に立たされた商人が如く無防備な中肉中背の人間。勝ち目のない対面であることは火を見るより明らかだった。
にも関わらず、紫暢は抵抗の意思を捨てようとしない。紫暢は心底に積み上げた黒い『何か』を目の前の大男にぶつけようと、血が混じる唾を地面に吐き捨て、膝を立てて立ちあがろうと試みる。何かを包み込みような感覚は、大男に確かな変化をもたらした。その顔には尋常でない量の汗が浮かび、小刻みに膝が震えている。しかし、最後の力を振り絞った紫暢は電池が切れたように前方へと倒れこんだ。這いつくばってでも前に進まんとする姿は、ある者には化け物のようにも映った。
一瞬の異常を振り切った大男は、正常だとアピールするかのように足を振りかぶって、紫暢の腹を目掛けて一撃を加えようとした――。
その時である。紫暢は視線が定まらない中で、暁旦に射すような一つの光芒を見た。
「何をしているのですか?」
「はぁ? そんなの決まって……、っとこれはこれは貴族様」
「その者は何か悪さをしたのですか?」
 貴族様と呼ばれた少女は、質の高い衣服で身を包んでいた。声色こそ柔らかいものの、背後にいた見るからに精強そうな護衛が、威圧感で塗抹された鋭い視線を放っている。それを受けた男は身を強張らせながらも遠吠えのように叫んだ。
「この人間がここに存在すること自体が悪なのです。我らは国王様に代わって天罰を与えたまでです」
「ルメニアの国民が聞いて呆れますね。伯父上がいつ人間をよってたかって痛めつけよと言いましたか?」
 伯父上、という言葉で一同がざわめき立つ。国王が伯父という立場にあることは、必然的にこの少女が平民たちにとって天の上に存在する、『やんごとなき御方』であることを意味している。事実、少女は国でも指折りの大貴族、その当主であった。
紫暢に危害を加えていた者たちの多くは、事が自分達にとって好ましくない方向に向かうことを察知しその場を離脱しようとする。しかし周囲を囲っていた騎士によって行手を阻まれていた。
渦中の真ん中にいた大男は、歯を震わせながら言い訳がましく口を開こうとする。
「し、しかし恐れながら人間は我ら吸血鬼にとって、この国を滅ぼさんとする悪の根源。それを断ち切るは民の総意でもあるかと!」
「人間がここに一人居たところで、国の脅威になり得ますか? その者があなた方に先んじて危害を加えたならともかく、そうではないようですし」
「……くっ」
 男は肩を落とす。それ以上自らの主張を声高に吠えることはしなかった。人間一人がどのようにして立ち向かったとしても、多数の吸血鬼に対抗できる手段は存在しえない、というのがこの国における常識だったからだ。男は自分がどのような罰を受けることになるのか、その未来を見通して絶望に暮れた様子だった。
「何か反論はありますか?」
「……」
「今回の事は不問と致します。ですがこれが伝聞して人間が大義名分として攻め入ってくれば一大事です。決して口外しないように」
「しょ、承知いたしました」
 大男は命が救われたように目を輝かせ、その場にへたり込んだ。他の者達も我先というように退散していく。そして数瞬ののち、紫暢の周囲には貴族様と呼ばれた少女とその供回りの他に既に影はなかった。
「大丈夫?ってもう意識はないわよね」
 少女は酷い状態の紫暢を見て苦い顔を浮かべる。
「証拠を残さないように片付けてくれる? それと治癒師を呼んでこの者に適切な処置をお願いするわね」
「治癒師の魔法をこの者に施すと?」
「文句がありますか? 貴方も人間だからと命を軽視するのですか?」
「い、いえっ! 滅相もございません!」
 治癒師はこの国に十名しかいない貴重な存在である。その希少性故に、依頼料は国で一番大きな商会の挙げる5日分の売上が一瞬で飛んでいくという。加えて状態によって依頼料は上がっていくため、瀕死状態である紫暢を救うためにはその倍以上の金額を用意する必要があった。それを躊躇いなく出すと宣った少女に従者は驚嘆するしかない。
セルミナ・クラムデリアという少女は、人間に対する差別的思考や怨恨、敵対心といったものを一切抱えていなかった。敵対する人間の国家との国境を守る辺境伯の当主という立場にありながらであるため、国境を警備する役目を担う貴族としてその姿勢が適当であるかどうかは議論の余地もない。
「この者をクラムデリアまで運んでくれる? ここに置いていってもいずれまた同じ目に合うだけ。領内ならばこうなることはまずないと思うの」
「承知致しました!」
 今度は有無を言わせぬ口調で命令する。流石は尊い血筋を引く貴族というべきか、くだけた口調でありながらも威圧感が豊満に含まれていた。
「それにしても、なんとも珍妙な格好ね。私の知る人間とは全く違うみたい。服に書いてある字も人間の国で使われるいずれにも該当しないわ。不思議ね」
 領地へと帰る道中、セルミナは容態を案じつつそのようなことを痼りとして胸中に収めていた。