理屈はともかく、彼女達は最初からそうするつもりだったのかもしれない。借りるつもりは毛頭なく、リィンを痛めつけて、財布を奪い取るつもりだったのかも。
 罵声と怒声を浴びながら、リィンは心の底からここに来たのを今度こそ後悔した。
 こんなところに来ると知っていれば、山を下りなかった。やはり自分のような田舎者が魔法を学ぼうとするなど烏滸がましい考えだった。このままここにいても魔法は学べないし、またいつお金を奪われるか分からない。

(もうやだ、やだよぅ……帰りたい、帰りたいよう……)

 本音は、怖い目に遭わせられる前に逃げてしまいたい。

「黙ってんじゃねえよ、殴られねえと分かんねえのか、あぁ!?」

 今にも泣きだしそうなリィンの無言の態度に耐えかねた生徒の一人が、拳を振り上げ、リィンを殴ろうとした時だった。



 がちゃり、と音がしてトイレの木製ドアが開いた。
 リィンがさっきからずっと占領していたドアではない。その隣、五人組の後ろのドアだ。
 全員の視線がドアの奥に集中して、のっそりと一人の少女が出てきた。
 リィンよりも背が高く、ほっそりとした体形。深い銀色の髪は全体的に短めだが、前髪の中央部分が長く、左側にまとめて軽く長いサイドテールにしている。大人びた顔つきで、目つきは蛇のように鋭く、黒点が縦に長く、目の下のクマがやけに目立つ。
 制服の着こなしは、リィン同様普通。白のタイツを履いて、黒いチョーカーと黒の手袋を着用しているくらいで、加えて肌が透き通るように白い点しか違いがない。細長い耳は彼女が人と似通っているが、エルフ族であると象徴していた。

「――邪魔よ、あなた達」

 謎の女生徒は、自分の眼前を占拠する連中に向かって言い放った。
 開口一番、冷たい声で告げた少女の目は凍り付くような威圧感を伴っていた。
 襲われていたリィンは勿論、五人組の女子生徒も思わずたじろいだ。彼女の持つ覇気が、自分達より相手の方が強いのだと直感させていたのだ。

「「うぅ……っ!?」」

 全員がそこを退いた。
 リィンに詰め寄っていた女子生徒も手を離して、彼女を解放した。決して、そう指示されたからではなく、銀髪の少女の前で、自分には敵意がないと伝えるべく本能的に行動してしまったのだ。
 慄く五人とリィンに対して、少女は一切関心を持たず、すたすたと洗面所で手を洗ってからトイレを出て行った。全員の視線が、リィンにも出口にも向いておらず恐怖している。
 今しかない。そう思ったリィンは、やや頭を下げながらそっと彼女達の間をすり抜けて、わざわざ軽く手を洗ってからトイレを出て辺りを見回した。

「――あっ、いた!」

 幸いにも銀髪の少女は遠くにはおらず、廊下を経由して中庭に向かっていた。
 リィンは小走りで近寄ると、彼女の後ろから声をかけた。

「あ、あのっ!」

 話しかけられ、振り返った少女の目は、さっきよりもずっと冷たかった。何者をも拒絶するような目が自分に向けられていると知り、リィンは一瞬で委縮してしまった。

「……何?」

 声もまた、さっきの数倍冷たかった。

「え、えっと、さ、さっきは……」

 助けてもらって、ありがとうございます。
 そう言えば済む話なのだが、リィンは声を出すので精一杯で、喉の奥に分厚い門を建設されてしまったかのように必要な単語が吐き出せずにいた。感謝よりも、恐怖の方が優先して脳を支配してしまい、行動を制限しているのだ。

「用がないなら、話しかけないでちょうだい」

 たっぷり五秒ほどまごついているリィンを見て、少女はため息交じりに言った。
 何の用事もなく呼び止められたと思ったのか、彼女は背を向けてまた歩き出した。
 今を逃せば二度と話せないような気がしたリィンは、喉の奥の門をどうにか蹴破り、閉まり切る前に、なんとか少女を引き留める声を発した。

「そうじゃないんです! 私、えっと……」

 ところが、勇気は時として物事によって容易く遮られる。

「見つけたよ、このクソガキ! こそこそとんずらこきやがって、ナメてんのか!」

 トイレで金銭をゆすろうとした獣人が、仲間を引き連れてこちらに向かってきていた。
 自分が呼んでいるのに、ちっとも振り向きも返事もしないのに苛立ったのか、獣人の生徒はリィンの肩を鷲掴みにして、耳元で叫び散らかした。

「聞いてんのか! こっち向きやがれ!」

 こう言えば、たいていの相手は言うことを聞いた。命令にも逆らわなかった。
 ところが、肩を乱暴に掴まれて怒鳴られるリィンの内心を埋めるのは、恐怖ではなかった。もっと対極にある、リィン・フォローズが一度だって感じたことのない感情が、女子生徒の想定もしていない感情が心の中に渦巻いていた。

 百歩譲って自分が襲われるのは、運が悪いと諦められた。
 今はわざわざトイレから追いかけてきて、無視をするなと喚き散らすのだ。

 助けてくれた人へのお礼すら言わせないなど、なんと無礼な連中だろうか。
 まだ自分に理不尽な怒りを叩きつけるのか。
 不快を通り越して、殺意。
 殺意を通り越して、暴威。

「……て、ください」
「はぁ? 何だって?」

 体を震わせるリィンの絞り出すような声を、女子生徒はもう一度聞き出そうとした。
 もう、彼女は言葉で返すつもりなどなかった。

「――いい加減に、してくださーいっ!」

 肩の手を払ったリィンは、思い切り体を捻り、生徒の顔面に拳を叩きつけた。自分の拳の力など、まともに人を殴った経験もないので非力だろうと思い込んでいた。



 現実は違った。
 拳が女子生徒の顔面に直撃した瞬間、金色の光が空間に炸裂した。
 単なる光ではなく、最早衝撃波と化した閃光が、爆発と錯覚するほどの炸裂音を鳴り響かせたのだ。
 そんな攻撃を受けて、虫が肌に止まった程度のダメージで済むはずがない。

「ごべっ」

 唇と舌、歯を全て押し潰されたような声を最後に、女子生徒は遥か後方に吹っ飛んだ。