「なんだ、派手なのは名前だけじゃないか」

いつだったか、付き合い始めた頃、園井(そのい)さんは私にそう言ったのだった。
心底残念そうに、私を嘲笑うように。

私​───────冴木寧緒(さえきねお)は平凡な人間である。
東京の外れに生まれ、私がまだ幼いうちに亡くなった両親に代わり祖父母に育てられてきた。
正確には、亡くなったのは父で母はその後祖父母との口論の末に家を追い出されたと聞く。
母がいまどこで何をしているか、私に知る術はなく、祖父の死んだも同然だと思えという言葉に従うしかできなかった。

園井さんと出会ったのは、東京の会社に就職して働き始めたばかりの頃だ。

厳格な祖父母の元で育てられ、方に嵌められた人生を強要され続けることに限界が来て、反対を押し切り就職したのだ。
職業婦人なんて言葉はあるにしても、女性が就職するのは未だ一般的とは言い難い。
生活に困っているわけではなかったので、私が就職する必要は無かったが、それでも私はあの家を離れて自立したかった。
派手で革新的で、ハイカラなものを尽く嫌う祖母。
いつも仏頂面で祖母やお手伝いさんを怒鳴りつけ、何かにつけては死んだ両親の悪口ばかり言う祖父。
私の父は外国語学者だった。
若い頃から様々な国を巡っていたそうだが、ある日事故で突然亡くなった。


職業婦人には批判も多く、会社でも任されるのは事務仕事だけで、社員からはどうせ早々に結婚して辞めていくんだろうとぞんざいに扱われる。
箱入りのお嬢さんのお遊びだ、なんて言われることも少なくは無い。
そんな中で、園井さんだけは私を見下すことはなく、むしろ私にとても興味を持って優しく接してくれた。

『寧緒さんは私の理想を体現したかのような、素晴らしい女性だ!』

そう目を輝かせて私の手を握る園井さんを、今も鮮明に覚えている。
そんなことを言われたのは、生まれて初めてだったからだ。
祖母は私の名を変だと言い、寧緒ではなく寧々と読んでいた。
外国のよく分からない言葉より、北政所の方が良い。
祖母は自分の息子がどんな思いで名付けたか、より、冴木家の外面と自分の趣向が大事だった。
そういうわけで、私は自分の名前の由来を知らないままである。
正直、ヘンテコなこの名前を好きかと問われたら答えは否となるのだが、園井さんが好きだと言ってくれたのならそれだけで好きになれる気がしていたのだ。

「馬鹿だなあ、私」

園井さんの不貞を知り、追求したところ返り討ちにされたのはつい半刻前のことだった。
とぼとぼと覚束無い足取りで夕暮れの街を歩く。
園井さんは、彼がよく通っていたお気に入りの劇場にいる舞台女優と浮気をしていた。
それを園井さんの同僚に教えてもらい、震える思いで証拠を自分で集めだし、ついに彼に追求するに至った。
園井さんに裏切られたような気持ちになり、どうにかしてやり直せないかと考えていたのだが、その気持ちは虚しく散った。

『僕に捨てられた君が、一人で商社でやっていけるとでも?無理に決まっているだろう』

私に突きつけられたのは、私を嘲笑う園井さんだった。
悲しいことにその通りだ。
全くもって、その通りなのだ。

商社の中でも一際業績を上げている園井さんの庇護があるから、私のようなぼんやりした小娘でもなんとかやっていけているだけのこと。
分かっている。園井さんに見捨てられれば、ただでさえ狭い商社での居場所が完全に無くなる。

あの頃はこんな事になるなんて想像すらしていなかった。
ただ、息苦しい日々の中で光を見つけたような気でいた。

「本当に、馬鹿だな。私」

季節はもうすぐ冬になる。何だか無性に、寒くて仕方がなかった。
ただひたすら、行き先も考えずに歩く。
歩いて、歩いて、ただ歩く。

いつの間にか、知らない街の川辺に着いていた。
もう日も暮れて、水面は真っ黒。
覗き込んでみても、私の顔なんて映りやしない。
なんだか肩が重たくて、頭も痛くなってきた。
帰らなければ。そう思うのに、帰る場所が今では分からない。
ただ、呆然と水面を眺める。
その漆黒にはなんだか引き込まれるような、不思議な引力を感じた。

そんなはず、無いのに。
「​───────黄昏刻には、狭間の世界に落ちてくる人がいる……」

「最近はめっきり…………まさか、こういうことになるとはね……」

誰かの話し声が聞こえてくる。
途切れ途切れで、あまりはっきりは聞こえない。
男の人の声だ。
二人で何か話しているような​───────男?

「うわぁっ!」

飛び込んできた景色は、知らない天井だった。
知らない木目に、暖かな色の電灯。
もちろん、私の借りている部屋では無い。

「な、ななっ、なんで……」

まだ寝ぼけている頭を懸命に働かせる。
さっきまで私はどこかの街をさまよっていたはず。
それが、今はどこだ。
見知らぬ部屋の座敷の上で横になっているではないか。
半開きの戸の向こうに、見知らぬ男性二人の姿が見える。

「あっ、良かった。目が覚めたんだね」

私が騒いでいるのに気がついた男性たちがこちらへ寄ってくる。
慌てて起き上がり、着物の裾を治した。
親切にも誰かがかけてくれたらしい羽織りものが、ひらりと私の上から落ちていく。
離れていく温もりに名残惜しさを感じつつも、私は目の前の男性をじっと見つめた。

黒い髪で長身の、人の良さそうな笑顔を浮かべている男性。
とても整った顔立ちで、白いシャツの洋装が良く似合う方だと思った。
その隣にいる彼は対照的に、どこか色素の薄い髪色が目を引く、着流しの男性だった。

「さてはお前さん、寝起きは機嫌が良い人種だな」

軽薄そうな笑みに、思わず私は器用にも座ったまま後ずさる。

「あ、あのっ……」

目覚めて突然大の男二人に囲まれて、困惑は頂点に達している。
慌てる私を見て、男性たちは苦笑してしまった。

「落ち着いて。どこか痛いところとか、悪いところはないかい?店の近くで倒れていたところを、四ツ谷くんが運んできてくれたんだよ」

「え?私が、倒れて?」

驚く私に、四ツ谷くんと呼ばれた男性が笑いかける。

「そ。びっくりしたんだぜ、こんな可愛い娘さんが落ちてるもんだから、天女か何かかと」

間違っても天女ではない。
が、まさか自分が道端で気絶していた所を助けて貰っていたとは。
特に体に痛いところはないが、まだ肩に妙な重さが残っている。疲れすぎていたのだろう。
直前までの記憶が朧気なのも、倒れたせいなのだろうか。
ともかく、座敷に座り込んでいる場合では無い。

「助けて下さりありがとうございます。ご迷惑をおかけしてすみません、すぐに出ていきますので……!」

ぐぅぅぅ。

「はっ」

なんと哀れなことだろうか。
ぺこぺこ頭を下げて逃げ帰ろうとしていた私の腹が、盛大な音を立てた。
無常にも、一瞬の静寂がこの場を支配する。

「えーっと……もしかして君、お腹空いてないかな?」

「……はい」

恥ずかしさで私の頬は熱くなる。
多分自分は羞恥でとんでもなく赤い顔をしているのだろう。
目の前に鏡が無くて良かったとしか言いようがない。

「だったら、ちょっとうちで何か食べてきなよ。ちょうど今色々作ってるところだからさ」

「え?で、でも」

介抱してもらったばかりかご馳走になるだなんて、これ以上人様に迷惑はかけられない。
だが、断る私の肩に四ツ谷さんがぽんぽんと手を置いた。

「ここ、飯屋なんだよ。長月堂ってんの。味は絶対保証するから、とりあえず食べてみなって」

そういえばさっき、彼は『店』と言っていた。
四ツ谷さんに背を押されるまま進めば、意外にも広い空間に出た。
食堂と言っていた通りに、四人用の机と椅子が順に置かれ、厨房と店内を仕切るカウンターには木製の背の高い椅子が並んでいる。
こちらも同様に室内は暖色の灯りに照らされているが、お客さんの姿は無い。だが、お出汁や煮物の良い香りがふわりと残っていることから、もしや、今夜は既に営業終了だったのではないだろうかと気づく。
だとしたら、一体私は何時間眠っていたのか、恐る恐る数えてみようとするが、いつ眠ったのかが分かりそうもなかった。

「改めて自己紹介をしようか。僕は店主の長月左門(ながつきさもん)。こっちは、居候の四ツ谷(よつや)くんだよ」

「どうも!清く正しく居座り続けます、四ツ谷步(よつやあゆむ)です!」

「は、はぁ……」

清く正しい居候、とは。
ニコリと微笑む長月さんと、茶化す四ツ谷さん。
とりあえず彼らが何者であるかは分かったので頷いておく。

「私もまだ名乗っていませんでしたね。私は、冴木と申します」

「名前は?」

敢えて姓だけ名乗ったのに、やはり不自然だったようだ。
長月さんの黒曜石みたいな綺麗な瞳に見つめられて、私は観念してしまった。

「寧緒です。冴木寧緒。変な名前ですよね」

きっと二人も反応に困ると思い苦笑いをしたのだが、私の予想とは大きく外れていた。

「そんなことない。お洒落な名前じゃないか。僕は好きだけどな」

隣でうんうんと四ツ谷さんが首を縦に振っている。

「俺もそう思うぜ。名前ってのは大切なもんだからな」

好きだと言ってもらえるなんて。
驚きつつも、園井さんに言われた時とは違う感覚が湧き上がってくるような、どうしてだろう。

「じゃあ寧緒さん。とりあえず席、どうぞ」

「ほい」

ガタンと音を立てて座った四ツ谷さんが、隣の椅子をスッと引いてくれる。

「ど、どうも……」

ここに座れと言うことだ。
恐る恐るゆっくり座ってみれば、緊張していたのがすっかり伝わっていたのだろう。

「こら。寧緒さんが困ってるじゃないか」

「そういう左門だってさっき寧緒ちゃんのこと怖がらせてただろ?お前は自分の体格を自覚した方がいいって何度も言ってるんだがな」

「威圧感があるって言いたいの?好きでこんな図体に育ったわけじゃない。それに、君みたいなふらふらした怪しい奴より全然マシかな」

「ひでぇや。まあそうなんだけどよ」

大口を開けて笑う四ツ谷さんと、やれやれと下がり眉で笑う左門さん。
気の置けない友人同士の会話を聞いているようで、緊張していた心が少しは和らぐようだった。

「お二人はとても仲が良いのですね」

「ああ、うんまあ腐れ縁ってやつよ。今は同じ屋根の下で暮らしてるしな!」

「早く出ていけって言ってるのに、すっかり住み着いちゃったんだよ。ほら四ツ谷くん、座ってないで手伝って」

はいはい、と面倒そうに言いつつも四ツ谷さんは長月さんに従い、私のところにお茶を持ってきてくれる。

「何が食べたい?君の好きな物が知りたいな」

「好きな食べ物、ですか……」

そう言われてみると、思い浮かばない。
好き嫌いはないが、これといって何が食べたいかというのがないのだ。
幼い頃は父が外国で食べてきたような洋食に憧れていたが、祖母が嫌がるのであまり食べる気にはなれなかった。
園井さんとの食事ではいつも彼が決めてくれていたから、自分で考える必要はなかったので、改めて思うとどうにも難しく感じてしまう。

「えっと……何か暖かいものがあれば」

「分かった。任せて、ちょうどいいのがあるんだ」

悩んだ末に捻り出した回答に、左門さんは大きく頷いてくれた。
左門さんは厨房の奥へ行き、食事の用意を始める。
「寧緒ちゃんは、この辺りは初めてかい」

「はい。お恥ずかしながら、ぼーっと歩いているうちに普段は来ないようなところまで出てしまったみたいで」

「そうか、そりゃあ疲れただろうな。ここはずいぶん遠いからな。まあゆっくりしていくといいさ」

ずいぶん遠い、と四ツ谷さんは言ったが、それでは私がどこから来たのか知っているような口ぶりではないか。

「あの、ここはなんという地名なのですか?」

「狭間だよ。ま、帰りは左門が送ってくだろうから気にしなくていい」

狭間。
この辺りにそんな街があっただろうか。
聞いた事のない地名だ。

「いえ、一人で帰れますよ。流石にそこまでご迷惑はおかけできません」

「いい、いい。お前さん、ただでさえつかれてるんだから一人で帰すわけにはいかねぇよ」

私はそんなに疲れた顔をしているのだろうか。
というより、帰ったところで私はどうしたら良いのだろうか。
これから先、どうすべきなのかもう分からない。
商社を辞めたところで、実家には戻れないのだ。
この所お見合いの催促が激しく、園井さんの存在を言い訳にしているものの、今となってはそれは通用しない。
そうなれば、すぐにでも冴木家の跡取りに相応しいと祖父母が決めた人と勝手に結婚させられることになる。
それでは結局、振り出しに戻ったも同然じゃないか。

「お前さんが何を悩んでるのかは知らんが、そういう時は考えるより『コレ』に尽きるだろ」

「え?」

「ほら、酒だよ。酒」

四ツ谷さんは厨房へ向かい、ゴソゴソと漁っている。
戻ってきた彼は、一升瓶を机にドンッと置いた。

「あ、私お酒はちょっと……」

酒の類はあまり得意では無い。
前に園井さんに勧められて洋酒を飲んだことがあるが、一杯だけでくらくらしてしまった。
彼はよくカフェーでビールを嗜むそうだが、私にはまだまだ未知の領域である。

「おお、そうだったか。すまんすまん。でもせっかく持ってきたんだし、コイツは俺一人で楽しませてもらうとするかな」

四ツ谷さんは特に気にした様子も無く、瓶を開けている。
と、そこへ盆を片手に現れたのは左門さんだ。

「じゃあ、酒代は家賃に上乗せしておくね」

口調は優しいが目が笑っていない。

「げっ、左門。いいじゃねえかちょっとぐらい」

文句を言いながら徳利を呷る四ツ谷さんに、左門さんは目もくれない。

「お待たせ。鶏と白菜のスープだよ。こっちはごぼうとにんじんと蓮根のきんぴら。召し上がれ」

「わぁっ……!」

コトリ、と置かれたのは椀と小鉢だ。
湯気が立ち上る椀からは、ふわりと良い香りが漂ってくる。
黄金色のスープには、一口大に切られた鶏肉とよく煮えた白菜がたっぷりよそられている。
きんぴらも美味しそうで、散らされた白ごまとにんじんの鮮やかな色が彩りを添えている。
左門さんは私だけでなく四ツ谷さんのところにも小鉢を置いた。

「おっ、俺の分もあるのか。さっすが左門だぜ、ありがとよ」

「まっ、開けちゃったものは仕方ないでしょ。でもこれもお代はちゃんと貰うよ」

「へいへい。分かってるっての」

四ツ谷さんは嬉しそうに箸を手に取る。
私もお椀を手にし、一口。

「美味しい……!とっても美味しいです!」

口に含んだ瞬間、スープの旨味が広がってきた。
さらりとしたのどごしで雑味のないさっぱりした味わいだが、コクがあって旨味が強く残る。
鶏肉も白菜も柔らかく、味が良く染み込んでいる。

「お口に合ったみたいで良かった」

「こんなに美味しいご飯は久しぶりですよ!あったかくて、染み渡ります……!」

日が落ちて冷たい外気で冷えた体が、途端に暖まるようだった。
きんぴらもしゃきしゃきとした食感が心地よく、甘辛い味付けが癖になりそうだ。
普段食べているものと同じ料理のはずなのに、いつもの何倍も美味しく感じる。

「このスープは、どういった味付けなのですか?」

「鶏と野菜を長時間煮込んで出汁をとったんだ。西洋の料理ではよく使われていて、色々な料理に使えるんだよね。材料さえあれば家庭でも作れるけれど、じっくり煮込むから根気がいるんだよねぇ」

特別な材料でも使っているのかと思いきや、家でも作れるらしい。
でも左門さんと同じ味にできるかどうかは別の話だろう。
多分、私では作れない。

「今日の分の仕込みって、昨日から煮込んでたもんな」

「せっかくいいお肉を仕入れたんだから、気合い入れないとでしょ」

えへへ、と左門さんが笑う。
シュッとした目鼻立ちの左門さんだけれど、その笑顔はなんだか可愛らしかった。

「きんぴらも美味しいです!この食感がたまりません!」

「ありあわせで作ったものだけど、喜んでもらえてうれしいなぁ。今日のお客さんにも自信を持って出せるね。寧緒さんも元気になってくれたみたいで良かったよ」

「だな。寧緒ちゃんみたいな愛らしい子だと、食べてるだけで宣伝効果ありそうだもんな。開店してからもここで食べててもらったらいいんじゃないか?」

……ん?

私は一旦手を止めた。
二人の会話を聞いていると、なんだか違和感を覚える。

「それはダメだよ。寧緒さんがいるといつもより賑やかで楽しいかもだけど、そうすると寧緒さんの帰る時間が遅くなっちゃう。それに、他のお客さんに寧緒さんは会わせられないよ」

「ああ、それもそうか」

私は、他の客に会わせられない存在なのか。
左門さんは当然のことのように言い、四ツ谷さんも頷いているが、私は二人が何の話をしているのか理解できない。
なんだかとっても気になって仕方なく、意を決して口を開いた。

「あの……もしかして、今から開店なんですか?こんな時間から?」

私の言葉に、二人は顔を見合わせた。
まるで、しまったとでも言うかのような表情だ。

「あー……」

「うん、そうだね。そんなところかな。まあ今のは気にしなくていいよ。それより、もっと食べてよ。他にも色々用意してあるからさ」

完全に誤魔化そうとしている。
ここで引き下がってなるものかと構えたくなるが、二人の勢いに完全に押されてしまった。

「お前さんは何が好きなんだい。俺は油揚げだなぁ」

「ごめん、今日は用意してない」

「んなんだよォもう。お前ほんと気が利かない奴だなー」

「嫌なら今すぐ出ていって貰っても構わないよ」

「すまん俺が悪かった」

誤魔化すはずが、私をそっちのけで二人の掛け合いになってしまっている。
いつの間にか私も、追求することを忘れて、くすくす笑っていた。

「ごめんね、寧緒さん。四ツ谷くんって酒が入ると本当にうるさい人なんだよね」

「いえ、それは別に構いませんよ。お二人が楽しそうにされている様子は、見ていて楽しいです。私にはそういう相手がいないので」

「お?」

ふと、何気なく付け足した言葉に四ツ谷さんが反応した。
余計な一言だったと気付くも、二人ともこちらをじっと見ている。

「あっ、また変なこと言っちゃいましたね……。すみません、よく怒られるんですけれど、どうしても直らなくて」

いつもそうだ。
せっかく楽しい雰囲気だったのに、余計なことをしてしまった。
周りの人からも私は根暗すぎると怒られてしまうのに、未だにその癖が直らない。
私がそんなのだから園井さんにも捨てられるのだ。
左門さんにも四ツ谷さんにも申し訳なくて、私の顔が俯いていく。
だが、そんな私に左門さんは驚くことを言った。

「本当は口出しするつもりはなかったんだけど……。寧緒さん、もし良かったらあなたの悩みを聞かせてくれないかな」

「えっ」

優しい声色に、私は顔を上げた。

「寧緒さん、ここに来た時からずっと何かに悩んでるみたいだったから。手助けできることは無いかもしれないけれど、話だけでも聞かせてくれないかい?」

左門さんの美しい瞳が、私を見つめている。
四ツ谷さんも黙ってこちらに視線を向けていた。
その静寂は、決して冷たいものではなく、私の答えをじっと待ってくれているようだった。

「私の、悩み……」

そんなもの決まっている。
園井さんのこと、祖父母のこと、この先の人生のこと。
絶対に他人に話すようなことじゃない。
こんなこと聞いたってなんにも楽しくない。
それでも、この人たちが受け止めてくれるのなら。
そう思わずには、いられなかった。

「大丈夫。ゆっくりでいいから、話してごらん」

その微笑みに、私はもう顔を逸らすことをやめた。

「私……私、勤め先に恋人がいるんです。その方は、紳士的で優しくて、私をいつも支えてくれていました。でも私は、知ってしまったのです。あの方には、他にも愛する人がいたことを」
始まりはほんの些細な出来事だった。
このところ、園井さんからお出かけの予定を断られることが多かった。
園井さんが私との時間より、劇場に通うことを優先していたのは分かっていたし、容認していた。
園井さんは観劇がなによりも大好きなことは知っていた。
私は園井さんが楽しくいられるのならそれが一番だと、私との時間を優先して欲しいとは一度も言わなかったし、楽しそうな彼を見て微笑ましくさえ思っていた。

それがまさか、こんな結末になるなんて。


『園井さん……。正直に答えてください。あなたは昨晩、いつもの劇場で舞台女優さんと密会していたんですよね』

仕事を終えたあと、私はなんとか園井さんに約束を取り付けて、近くの路上で彼を待ち受けていた。
戸惑いを滲ませた私の声に、園井さんはまるで動じない。

『密会?おいおい何を言う、あの劇場は僕のお気に入りだって君も知っているだろう。顔見知りの役者と少し話をするぐらい、おかしなことはないだろう』

確かにそうだ。
園井さんは常連で、オーナーと知り合いだったことから楽屋に何度も入らせてもらっていたようで、顔見知りの役者さんは何人もいる。
普段なら特に気にも止めなかっただろうが、今回ばかりはそうもいかなかった。

『少し話をするぐらい?園井さんにとって、抱き合って口付けをすることは、軽くお喋りすることと同義なのですか?』

『はぁ……なんの事を言っているんだい、寧緒さん。僕は何か君の機嫌を損ねるようなことをしてしまったかな。とにかく落ち着いて話をしようじゃないか』

私は我慢できずに、鞄から紙束を取り出すと園井さんに突きつけた。

我が愛しき明香里へ。

そんな気障っぽい一文で始まるそれは、園井さんが明香里という名前の舞台女優に宛てた恋文だった。
明香里さんからの返信も何通もあり、その他にも劇場関係者や園井さんの知人からの証言がいくつもある。

『これはなんだい』

私から紙束を受け取り、ぱらぱらと薄笑いで眺めている。

『商社の坂木さんからいただきました。これは、園井さんの不貞の証拠だと。他にも、いくつも自分の手でかき集めてきました』

発端となった恋文は、園井さんの同僚から渡されたものだった。
坂木さんは商社で一際業績を上げている園井さんが出世の妨げになると思い、なんとか貶めたかったのだろう。
園井さんが浮気をしていないと、どうにか信じたくて必死で調べた。
けれど現実は無常にも、園井さんと舞台女優の関係性が私にはっきりと突きつけられた。

『園井さん、あなたは私を愛してくださっては、いなかったのですか』

震える声で私は彼に問いかける。
少しの沈黙の後、園井さんはただ、ため息を吐いた。

『つまらないなぁ』

心底残念そうに。心底うんざりしたように。

『君がこんなところでしゃばってくるなんて、いつからそんな性格になってしまったのかな』

『なっ……』

私は絶句した。
園井さんはちゃんと謝ってくれるだろうと、心のどこかで信じていたからだ。
だが園井さんは、私に謝るどころかむしろ私が悪いとでも言うかの様子。

『あのねェ、分かるだろう。僕も男なんだ、不埒な色恋を楽しむことぐらい、誰だってするだろう。こんなことでいちいち腹を立てるなんて、君らしくない』

『……私らしく、ない?』

突然豹変した園井さんに、私は恐怖を隠すことができなかった。

『そうだよ。いつだって君は僕の思った通りには動かないよね。本当につまらない人だ。出会った時は、僕の輝かしい人生に花を添えてくれるものだとばかりに期待していたのに、蓋を開けてみれば世間知らずで根暗な小娘だなんて、僕がどれほどがっかりしたのか、君には分からないだろうね』

数々の罵詈雑言に、目眩がしそうだった。
出会った時、確かに彼は目を輝かせて私の手を握ってくれた。
今思い返せば、あれは『親に反抗してまで就職した、時代の最先端を行く可憐でありながらも自立した娘』という誰かが勝手に想像した肩書きを信じ込んでしまっていただけなのだ。
私は時代の最先端どころか旧い時代に取り残された祖父母に縛られ、形だけは自立しているように見えても精神ではあと何年かかることやら分かりやしない。
だから彼は、がっかりした、と。

園井さんはいつだって優しくて、頼れる素敵な人だと思っていた。
しかしそれは園井という人の表側だけで、裏側はひどく歪んでいた。
今目の前にいる彼は、とても今まで見てきた人物と同じだとは思えない。
いや、むしろこれが本当の園井さんなのだ。
今更、ようやく私は本当の彼を知ったのだ。
それに気づくのが、遅すぎた。

『君は大人しくて僕に従順で、一人じゃなんにもできない娘だっていう役回りだろう。それがなんだ、今は生意気にも僕に楯突こうだなんて、馬鹿馬鹿しくてしょうがないよ』

だから、私らしくない。
園井さんはそう言うのだった。

『大体、今回のことが発覚した所で君になにかできるのかい?実家には帰れないんだろう?僕に捨てられた女として、商社で一人でやっていけるのかい?』

『そ、それは……』

『ほらね、出来ないだろう。また今度埋め合わせをしてやるから、そう怒るな。頭の悪さが余計に目立つだろう』

園井さんは私がどんな反応をするのか最初かは分かった上でこの質問をしたのだ。
私を鼻で笑い、完全に見下している。

『……』

言い返したいのに言い返せない。
悔しいが、園井さんの言う通りだった。
園井さんに捨てられたのだと、周りからは嘲笑され、祖父母はひどく怒り、祖父母が決めた見知らぬ誰かとのお見合いが始まる。
そうなれば商社に勤めることはほとんど不可能だろう。
祖父母が選ぶような相手が、職業婦人に理解のあるものか。
結局、私一人ではどうすることもできなかったのだ。

『分かったのならもういいだろう。まったく、腹立たしいことだ』

私を押し退けて去っていく園井さんの、後ろ姿を眺めることしかできなかった。
そうして一人寂しく残された私は、ふらふらと街をさまよい続け、そして今に至る。
「すみません、私の身の上話なんか聞いてもらってしまって」

一息に話し終わり、私は一旦落ち着く。
二人は神妙な顔をして私を見ていた。

「そうか、そんなことがあったんだね……。話してくれてありがとう、寧緒さん」

「園井って男は最低な野郎だな。どういう神経してやがんだ?」

まるで自分のことみたいに怒りを滲ませてくれる四ツ谷さんに、私は苦笑いをする。

「園井さんがあんな人だなんて、私、想像すらしてませんでしたよ。私って、本当に馬鹿だなぁ」

ちょっと優しくされたぐらいで彼の全てを信たりして。
だがその一方で、園井さんが世間知らずだった私を支えて、色んなことを教えてくれたのも本当のことだ。
洋食屋や百貨店に連れて行ってくれたり、園井さんの好きな舞台を一緒に見に行ったり。
今まで祖母の選んだ着物ばかり着ていたけれど、園井さんが洋服を贈ってくれたことをきっかけに、おしゃれなワンピースも着られるようになった。
嫌いになったはずなのに、どこにいても何をしても園井さんのことばかり。
彼の言っていた通り、私は一人では何も出来ない無力な小娘でしかなかったと痛感させられた。

「園井さんという方は、寧緒さんみたいな優しい子には相応しくないよ。むしろ、あなたの方からあの男を捨ててしまえばいい」

穏やかな表情に似合わない左門さんの強い言葉に、私は少し驚いた。

「寧緒さんが彼の人生に花を添えるだけだって?寧緒さんは彼のための飾り物なんかじゃない。園井さんがいないと何も出来ない?いいや、そんなことはありえない。寧緒さんは、彼が自分を肯定してくれる存在だったから依存しているだけだ」

私は思わず言葉を失った。
左門さんが、こんなにも真剣な顔をしてくれるなんて。

彼が主役の人生劇。その中で私は脇役であり、ただ、園井さんに花を添えるだけの存在。
それを否だと、左門さんはきっぱり告げてくれた。
まるで、目を逸らして蹲るだけの私の代わりに、怒ってくれているみたいだ。

「あっ……ごめん、知ったような口を聞いちゃって」

左門さんは冷静になったように、下がり眉で謝る。

「……いえ、ありがとうございます。そんなことを言ってくれた人は初めてでしたから、驚いちゃっただけで。怒ってくださって、私は嬉しかったです」

「俺は?俺も寧緒ちゃんのためならいくらでも怒れるぜ」

俺も俺も、と四ツ谷さんがぐいぐい主張してくる。
私の口から笑いが零れた。

「ふふっ、四ツ谷さんもですよ。ありがとうございます」

落ち込んでいた気分が晴れやかになるようだった。
左門さんは、私が『園井さんが私を肯定してくれる存在』だから彼を必要としていると言った。
そうなのだろうか。そんな視点、考えたこともなかった。
確かに私は、園井さんに自分の名前を素敵だと肯定してもらえたのをきっかけに、彼と交際を始めた。
祖父母からは疎まれ、何故両親がこの名をつけたのかの意味さえ知ることのできなかったこれを、好きだと言ってもらえたから。

「私、ちゃんと園井さんを忘れられますでしょうか」

「できるよ、寧緒さんなら」

左門さんの優しい微笑みが眩しくて、空になった椀と小鉢に視線を落とす。
できるだろうか。本当に。

「そもそも、寧緒ちゃんが下衆な野郎に狙われるようになったきっかけってのはお前さんの家族が原因なんだろ?そこをどうにかすればいいんじゃないか」

まるで犯罪者のような言い様にちょっと苦笑しつつも、少し考えてみる。

「それは……ちょっと難しいかもしれませんね」

大元を辿れば祖父母に理由があるのは分かっている。

「私の父が亡くなり、母がどこかへ追い出されてしまった時から、私は祖父母のことをどうしても好きにはなれません。育ててもらったことはとても感謝していますが……」

どうしても、好きにはなれなかった。
祖父母が大切にしているのは、冴木家の孫であって冴木寧緒ではない。
私をちゃんとした名前で呼ばず、両親のことも私の目から隠して触れさせないようにして。
私のためと言いながら、本当は冴木家の見栄えのことばかり。
私に真に向き合ってくれていたのなら、なぜ私の名前を呼んでくれなかったのだろう。
それを、今になって面と向かって問いただす勇気は私に得られそうにはなかった。

「どちらにせよ、私は祖父母の選んだ人と結婚することになるでしょうから、もういいんです。最後にお二人に話を聞いて貰えただけで十分ですよ」

園井さんのこと以前に、こうなってしまえば後のことは容易に想像がつく。
滞りなく見合いが進み、祖父母の選んだ相応しい人とやらと結婚して、自立したいという願いは断たれる。

だが、そんな私の手を取り、左門さんはとんでもない発言をした。

「だったら僕と結婚しようよ」

「えっ……!?」

「はぁっ!?」

隣で四ツ谷さんが素っ頓狂な声を上げている。
私は今、自分がなんと言われたのか上手く理解できなかった。

何をしようって?
結婚しようよって。
誰が、誰と?
私が、左門さんと。

「って、それはさすがにダメだよね」

左門さんは混乱する私をよそに、ぱっとその手を離してあははっ、と誤魔化すように笑った。

「んだよこのボケ野郎が。おどかすんじゃねぇ」

まだ私の心臓は暴れている。
冗談だったとはいえ、あんなに熱い眼差しで見つめられてしまえば、蕩けてしまいそうだ。

「びっくりしました……。西洋の物語に出てくる王子様みたいで、ドキドキしちゃいましたよ」

左門さんと私は出会ったばかりなのに、なかなか思い切った冗談を言う人らしかった。
左門さんが洋装なのも相まって、昔父からもらった童話に出てくるような王子を思い出して、一人でひたすら赤くなっている。

「こいつ顔だけは良いからな。寧緒ちゃん、騙されちゃいけないぜ」

「人聞きの悪いこと言わないでよね。もうっ」

つられてくすくす笑ってしまう。

「でも、ちょっと子供の時のことを思い出せて私は嬉しかったです。父からもらったものは、今はもう手元にないので、時間が経つほどにあんまり思い出せくなっちゃうんですよね」

おぼろげながらの記憶はあっても、それだけだ。
父が帰国する頃になると、母が毎日ソワソワして嬉しそうにしていたことも覚えている。
楽しい記憶はちゃんとある。
それ以上に、悲しい記憶が増えすぎてしまったのだ。

「そういや、寧緒ちゃんの父親は外国語学者って言ってたな。それで舶来品を貰ってたのか」

「ええ。一度旅に出るとなかなか帰ってこない人なんですけれど、お土産の舶来品はいつも楽しみにしていたんです」

「じゃあ、もしかして寧緒さんは洋食の方が好みだったりするかな?」

「いえ、それが……お祖母様が洋食嫌いで、もうずいぶん食べていなかったんですよ。商社に勤めてだしてから、少しづつ外食の機会があって味を覚えたぐらいで」

しかし、悲しいかな。
そのほとんどは、園井さんに連れて行ってもらったときのことだった。

「私は父のことも、母のことも何も知りません。どんな人だったのかも、どうして私にこの名前をつけたのかも……」

何もかもが見えない、あやふやな人格。
自分というものを象徴するものが何も無く、私という存在は誰かによって簡単に書き換えられてしまうような、中身の無い人間。
いつの間にか私はそんなふうになっていた。

「あの頃は、今みたいな私じゃなかったんです。もっと自由で、自分の感情を持っていたはずで、それなのにどうして何も無くなってしまったのでしょう」

次第に私は、堰を切ったようにそれを繰り返していた。
なぜ、どこで私は自分を失ったのだろう。
そんな私に、四ツ谷さんは真摯な表情を向けてくれた。

「真名は己を象徴するものだ。それを失いかけているから、寧緒ちゃんは自分を見失っている。そういうことじゃないか」

「私を、見失っている……。私、両親のことを何か少しでも思い出せれば、あの頃の自分が見えて来そうな気がするんです。忘れていたものをなにか思い出せれば、きっときっかけが掴めるはずだって。私が自由な私でいられたのはあの時だけで、その先はなんにもないもの……」

真名を失っている状態。
なんだか難しい表現だが、そう言われて納得した。
私は私を見失っている。だから、自分の拠り所に代わってくれる人を求めてしまったのだ。

「寧緒さんの芯にあるもの……か。そういうことなら、ここはやっぱり料理だね」

左門さんがにっこり微笑み、うんうんと頷いた。
そうだ。ここは料理屋なのだから、料理人の左門さんの力を借りるとしたらそれが一番だ。

「寧緒さんの子供の頃の思い出の料理を作るのはどうかな。寧緒さんのお父さんとお母さんを象徴するような料理を」

私の両親を象徴する料理。
そんなものはあっただろうかと、少し考え込んでみる。

「あっ。そういえば、昔、父が外国で食べた料理を作ってくれたことがあるんです」

「おおっ!それ、いいんじゃないか!」

「でも……どんな料理か思い出せないんですよね」

「やっぱりそうなるか……」

もうずいぶん前のことだ。
父が外国で美味しい料理を食べたから、それを私と母に振る舞いたいと言ったことがあった。
だが、肝心の料理がどういうものかが思い出せない。

「大雑把でいいから、料理の種類とかは分かるかな?」

「確か…………汁物だったような。でも汁物らしくない色だった気がして……やっぱり違うかも」

「汁物らしくない色?」

「なんというか……白っぽいような」

「白っぽい?白味噌か?」

「いえ……和食ではありませんでした。洋食で、あまり見たことのようなものだったはずです」

その料理を食べた時、確かに私は何かを新鮮に思ったことはずだった。
確実なのは洋食で白っぽいもので、珍しいものということになる。
なんとも実に雑な手がかりになってしまった。

「うーん。洋食なら、普段見ないような色合いのものもたくさんあるから、洋風のスープの可能性もあるかも」

「おお、確かに。左門が前に出してくれたあの赤いやつ、最初に見た時はたまげたからなぁ」

「ミネストローネ、でしょ。四ツ谷くんに珍しいものを作ってあげると、反応が面白いんだよね」

「え?あれってそういう目的だったのかァ?」

赤いスープとは、これまた気になるものが出てきた。
今度ここへ来た時に食べられるだろうか。
そこで、左門さんは会話の流れで何かに気づいたようだ。

「あっ、そういえばあれがあったんだ。よかった、四ツ谷くんのおかげで気づけたよ」

「なんだ?」

左門さんはそのまま厨房へ向かっていく。
作業をしているのか、なにやら物音が聞こえてきた。
しばらく四ツ谷さんと二人で不思議な顔をしたまま待っていると、左門さんが小鉢を手に戻ってきた。

「はいこれ。ベシャメルソース」

差し出された小鉢には、白いとろみのある液体がよそられていた。

「……?」

「なんだそりゃ」

聞いた事のない単語だ。
多分、おしゃれな外国のものっぽいということは分かる。

「あっでもなんだかとっても良い香りがしますよ。どこかで見たことあるような……」

「小麦粉とバターを牛乳で煮詰めたものだよ。グラタンとか、コロッケに使うものって言ったらわかるかな」

「ああっ、それなら分かります!」

「なるほどなぁ。横文字はさっぱり分からん」

そう言われてみればすぐに分かった。
食べたことのある料理でも、材料のうちのひとつをそれだけ見ただけでは分からない。

真奈美(まなみ)くんがグラタンを食べたいって言うから、用意してみたんだ。彼女、食通だから口に合うといいんだけどね」

知らない名前が出てきた。
左門さんの知り合いの方だろうかと話を聞いていた私に、四ツ谷さんが教えてくれる。

「真奈美っていう美食家の娘さんがいるんだ。美味い飯のために仏語を覚えて巴里だかなんだかまで行くぐらいなんだよ」

「情熱ですね!すごい方です!」

美味しい料理のためなら外国語を覚えて旅に出る、なんてすごいことだ。
私では到底できない。愛があるからこそなせる技だろう。
一度お会いしてみたいと思った。

「西洋料理じゃ定番だからね。きっとこれだと思うんだ。というわけで、一口どうぞ」

左門さんに促され、匙で一口掬ってみる。

「美味しい……!」

ぱくりと口に含んだ瞬間、バターの風味がふわりと広がった。
とろりとした舌触りで、まろやかな味わいがとても良い。
コロッケは食べたことがあるが、ソース単体で食べたのは初めてだ。

「真奈美さんも、きっと気に入ってくださいますよ」

「だといいんだけどね」

そう言いつつ、左門さんも私の反応に満足してくれたみたいだった。

「それで、どうだい。記憶にあるものと同じ味か?」

「そうですね……確かに、この味はとても近い気がします。でもまだ何か足りないような……」

これ単体で食べるのは初めてだった。
記憶にある料理と見た目もよく似ている。
ただ、絶対にベシャメルソースだという確信が得られないのだ。

「まだ別の食材が必要みたいだね。でもとりあえず、このソースを使った料理を当たってみる方が良さそうだ」

「汁物ってことは、具材もあるだろう。何が入ってたとか、見当はつきそうかい」

「なんなら、今ここで色々試作してみることもできるけど」

「いえ、さすがにそこまでしていただく訳にはいきませんよ。そうですね、具材……」

野菜は、あった気がする。
でもその種類が分からない。
人参、玉ねぎ、じゃがいも、大根。
色々考えてみるけれど、どれも何かが違う気がする。
お肉は、入っていたようななかったような。
そんなに大きくなかったはず。
でも、中身は具だくさんでたっぷりで。

「あれ……なんだろう…………私、なにか知っているような」

何かが引っかかる。
もう一度よく考えてみようとおもうが、分かりそうで分からない、その感覚がもどかしい。
もうすぐそこまで答えはあるはずなのに、どうして……。

「落ち着いて、ゆっくり思い出してみて。きっと君の頭の中には眠っているはずだよ」

その囁きに、私は息を飲んだ。
いつの間にか、左門さんが私の背後に立っていたらしい。
妙に艶のある低音に、私の耳が、背中がぞくりとする。
ぱちり。
頭の中で何かが弾ける音がした。

「あっ」

私の視線が向かうのは、カウンターに置かれた空の椀。
その中に入っていたものは。

「鶏肉と、白菜」