「なんだ、派手なのは名前だけじゃないか」
いつだったか、付き合い始めた頃、園井さんは私にそう言ったのだった。
心底残念そうに、私を嘲笑うように。
私───────冴木寧緒は平凡な人間である。
東京の外れに生まれ、私がまだ幼いうちに亡くなった両親に代わり祖父母に育てられてきた。
正確には、亡くなったのは父で母はその後祖父母との口論の末に家を追い出されたと聞く。
母がいまどこで何をしているか、私に知る術はなく、祖父の死んだも同然だと思えという言葉に従うしかできなかった。
園井さんと出会ったのは、東京の会社に就職して働き始めたばかりの頃だ。
厳格な祖父母の元で育てられ、方に嵌められた人生を強要され続けることに限界が来て、反対を押し切り就職したのだ。
職業婦人なんて言葉はあるにしても、女性が就職するのは未だ一般的とは言い難い。
生活に困っているわけではなかったので、私が就職する必要は無かったが、それでも私はあの家を離れて自立したかった。
派手で革新的で、ハイカラなものを尽く嫌う祖母。
いつも仏頂面で祖母やお手伝いさんを怒鳴りつけ、何かにつけては死んだ両親の悪口ばかり言う祖父。
私の父は外国語学者だった。
若い頃から様々な国を巡っていたそうだが、ある日事故で突然亡くなった。
職業婦人には批判も多く、会社でも任されるのは事務仕事だけで、社員からはどうせ早々に結婚して辞めていくんだろうとぞんざいに扱われる。
箱入りのお嬢さんのお遊びだ、なんて言われることも少なくは無い。
そんな中で、園井さんだけは私を見下すことはなく、むしろ私にとても興味を持って優しく接してくれた。
『寧緒さんは私の理想を体現したかのような、素晴らしい女性だ!』
そう目を輝かせて私の手を握る園井さんを、今も鮮明に覚えている。
そんなことを言われたのは、生まれて初めてだったからだ。
祖母は私の名を変だと言い、寧緒ではなく寧々と読んでいた。
外国のよく分からない言葉より、北政所の方が良い。
祖母は自分の息子がどんな思いで名付けたか、より、冴木家の外面と自分の趣向が大事だった。
そういうわけで、私は自分の名前の由来を知らないままである。
正直、ヘンテコなこの名前を好きかと問われたら答えは否となるのだが、園井さんが好きだと言ってくれたのならそれだけで好きになれる気がしていたのだ。
「馬鹿だなあ、私」
園井さんの不貞を知り、追求したところ返り討ちにされたのはつい半刻前のことだった。
とぼとぼと覚束無い足取りで夕暮れの街を歩く。
園井さんは、彼がよく通っていたお気に入りの劇場にいる舞台女優と浮気をしていた。
それを園井さんの同僚に教えてもらい、震える思いで証拠を自分で集めだし、ついに彼に追求するに至った。
園井さんに裏切られたような気持ちになり、どうにかしてやり直せないかと考えていたのだが、その気持ちは虚しく散った。
『僕に捨てられた君が、一人で商社でやっていけるとでも?無理に決まっているだろう』
私に突きつけられたのは、私を嘲笑う園井さんだった。
悲しいことにその通りだ。
全くもって、その通りなのだ。
商社の中でも一際業績を上げている園井さんの庇護があるから、私のようなぼんやりした小娘でもなんとかやっていけているだけのこと。
分かっている。園井さんに見捨てられれば、ただでさえ狭い商社での居場所が完全に無くなる。
あの頃はこんな事になるなんて想像すらしていなかった。
ただ、息苦しい日々の中で光を見つけたような気でいた。
「本当に、馬鹿だな。私」
季節はもうすぐ冬になる。何だか無性に、寒くて仕方がなかった。
ただひたすら、行き先も考えずに歩く。
歩いて、歩いて、ただ歩く。
いつの間にか、知らない街の川辺に着いていた。
もう日も暮れて、水面は真っ黒。
覗き込んでみても、私の顔なんて映りやしない。
なんだか肩が重たくて、頭も痛くなってきた。
帰らなければ。そう思うのに、帰る場所が今では分からない。
ただ、呆然と水面を眺める。
その漆黒にはなんだか引き込まれるような、不思議な引力を感じた。
そんなはず、無いのに。
いつだったか、付き合い始めた頃、園井さんは私にそう言ったのだった。
心底残念そうに、私を嘲笑うように。
私───────冴木寧緒は平凡な人間である。
東京の外れに生まれ、私がまだ幼いうちに亡くなった両親に代わり祖父母に育てられてきた。
正確には、亡くなったのは父で母はその後祖父母との口論の末に家を追い出されたと聞く。
母がいまどこで何をしているか、私に知る術はなく、祖父の死んだも同然だと思えという言葉に従うしかできなかった。
園井さんと出会ったのは、東京の会社に就職して働き始めたばかりの頃だ。
厳格な祖父母の元で育てられ、方に嵌められた人生を強要され続けることに限界が来て、反対を押し切り就職したのだ。
職業婦人なんて言葉はあるにしても、女性が就職するのは未だ一般的とは言い難い。
生活に困っているわけではなかったので、私が就職する必要は無かったが、それでも私はあの家を離れて自立したかった。
派手で革新的で、ハイカラなものを尽く嫌う祖母。
いつも仏頂面で祖母やお手伝いさんを怒鳴りつけ、何かにつけては死んだ両親の悪口ばかり言う祖父。
私の父は外国語学者だった。
若い頃から様々な国を巡っていたそうだが、ある日事故で突然亡くなった。
職業婦人には批判も多く、会社でも任されるのは事務仕事だけで、社員からはどうせ早々に結婚して辞めていくんだろうとぞんざいに扱われる。
箱入りのお嬢さんのお遊びだ、なんて言われることも少なくは無い。
そんな中で、園井さんだけは私を見下すことはなく、むしろ私にとても興味を持って優しく接してくれた。
『寧緒さんは私の理想を体現したかのような、素晴らしい女性だ!』
そう目を輝かせて私の手を握る園井さんを、今も鮮明に覚えている。
そんなことを言われたのは、生まれて初めてだったからだ。
祖母は私の名を変だと言い、寧緒ではなく寧々と読んでいた。
外国のよく分からない言葉より、北政所の方が良い。
祖母は自分の息子がどんな思いで名付けたか、より、冴木家の外面と自分の趣向が大事だった。
そういうわけで、私は自分の名前の由来を知らないままである。
正直、ヘンテコなこの名前を好きかと問われたら答えは否となるのだが、園井さんが好きだと言ってくれたのならそれだけで好きになれる気がしていたのだ。
「馬鹿だなあ、私」
園井さんの不貞を知り、追求したところ返り討ちにされたのはつい半刻前のことだった。
とぼとぼと覚束無い足取りで夕暮れの街を歩く。
園井さんは、彼がよく通っていたお気に入りの劇場にいる舞台女優と浮気をしていた。
それを園井さんの同僚に教えてもらい、震える思いで証拠を自分で集めだし、ついに彼に追求するに至った。
園井さんに裏切られたような気持ちになり、どうにかしてやり直せないかと考えていたのだが、その気持ちは虚しく散った。
『僕に捨てられた君が、一人で商社でやっていけるとでも?無理に決まっているだろう』
私に突きつけられたのは、私を嘲笑う園井さんだった。
悲しいことにその通りだ。
全くもって、その通りなのだ。
商社の中でも一際業績を上げている園井さんの庇護があるから、私のようなぼんやりした小娘でもなんとかやっていけているだけのこと。
分かっている。園井さんに見捨てられれば、ただでさえ狭い商社での居場所が完全に無くなる。
あの頃はこんな事になるなんて想像すらしていなかった。
ただ、息苦しい日々の中で光を見つけたような気でいた。
「本当に、馬鹿だな。私」
季節はもうすぐ冬になる。何だか無性に、寒くて仕方がなかった。
ただひたすら、行き先も考えずに歩く。
歩いて、歩いて、ただ歩く。
いつの間にか、知らない街の川辺に着いていた。
もう日も暮れて、水面は真っ黒。
覗き込んでみても、私の顔なんて映りやしない。
なんだか肩が重たくて、頭も痛くなってきた。
帰らなければ。そう思うのに、帰る場所が今では分からない。
ただ、呆然と水面を眺める。
その漆黒にはなんだか引き込まれるような、不思議な引力を感じた。
そんなはず、無いのに。