今日は週半ば、ぱらぱらと小雨の降り出した21時、普段よりも遅い時間に電車に飛び乗ってあと2日はこの生活なのかと溜息を溢した。
 就職して3年目になり徐々に担当を任される業務も増えて1年目に先輩に言われた「遊べるのは今のうちだぞ」という言葉の重みを最近はひしひしと感じていた。
 別に仕事が嫌いな訳ではない。平日この時間まで仕事をすれば土日に出勤する事は無いし、残業手当だって問題なく支給されている。人間関係だって上手くやれてる方だと自覚はあるし繁忙期が過ぎれば有給だって好きな日にちで取りやすくなる。ただ、今の現状に溜息を溢したくなる時だってあった。
 さすがにこの時間になると帰宅する人の数もまばらで同じようにサラリーマンとして働く姿、販売職だろうか見なりを小綺麗に整えられた姿、塾終わりだろう進学校の制服を着ている中高生、大学生だろうか少し派手な服装で話し足りないのか電車の中でも友人達と話し続ける姿等様々だった。
 そんな姿をぼんやり見つめていれば時間なんて直ぐに経つ、というよりも気づいたら時間が経っている。この時間にスマホゲームを進めたり本を読んだりしていたが、いつからだったかしなくなっていた。


 (疲れてるのかな、俺。いや普通に9時からこの時間まで働いてたら疲れるよな)
 そう、天野裕翔(あまのゆうと)が心の中で小さく溜息を漏らした時、丁度最寄り駅へのアナウンスが電車内に響いた。掻き分ける程でもない人の波の間を縫うように電車を降り改札を抜ける。仕事が遅くなる事を見越して先輩に言われた通り、3年目に入ってから引っ越した一人暮らしのマンションは駅から徒歩5分の場所だ。この時間だとスーパーの惣菜コーナーには選べるほど惣菜は残っていないだろうしコンビニで適当に買って帰るのが彼の平日のルーティンになっている。そこでふと、裕翔は先輩の話を思い出した。
「天津の最寄りに最近できたお店もう行った?店員が可愛いのと料理が美味いらしくてさ、もし言ってたら感想教えて欲しかったんだけど」
 先輩は営業職らしく基本的に会話の種になるものなら何でも興味を持っておけよ、と言うし先輩自身、元々そういう事が好きなのかSNSで流行のチェックは欠かしてないようだった。そんな先輩に何に特化した料理店か聞きそびれた。とも思った。確かマンションに近い出口とは逆の方向で駅からそんなに遠くなかったはず………と天津は歩き出す。普段は思わないが、何と無く人の作ったご飯が食べたい気分だった。


 最寄り駅の駅前はそこまで栄えていないのですぐにどのお店かは見つけることができた。暗い街にぼんやりと赤い提灯の光が浮いて、丁度1人の客がその店から出て行くのが見えたからだ。
「お雑炊と定食の店〜スープとおにぎりもあり〼〜」
 暖簾に書道のように書かれた文字から視線を落として看板に書かれたメニューを見れば店名はそのままのものが付けられているのが分かる。一見さんお断りではないが少しだけ常連しか入れないようなそんな雰囲気も出している。一体どんな店主なんだろうと天津が暖簾をくぐり引き戸を開ければ、その正体は意外な姿だった。
「いらっしゃい」
 くたびれた天津とは正反対の姿の店主だった。明るいピンク色の髪を低めの位置で結び、小綺麗にお団子状に纏めている。背は天津よりも低く見えるがきちんと背筋が伸ばされ天津に微笑む立ち振る舞いはどこか余裕さえ感じさせる。どちらかと言えばおじさんと呼ばれる年段が店主を務めるこの辺りの料理屋では見ない少し綺麗目の小料理屋のような着物に割烹着を重ねているスタイルはどこか懐かしささえ覚えた。
「カウンターにどうぞ。注文が決まりになる頃にまたお声がけいたします」
 可愛らしい見た目より少しハスキーさのある声だと思いつつ、ほかほかと丁度良い温度に温められたおしぼりを渡されて天津は席に着いた。
 平置きにされていたメニューを開くとページ数は少ない。まずおにぎりとスープのページ、そして雑炊、定食、飲み物。おにぎりとスープの下に一品物は日替わりの為店内のホワイトボードをご覧ください。と印刷されたページの中そこだけがしっかりと丁寧な字で書かれていた。
「スープは良いよぉ。野菜の旨味も栄養もたっぷり。それと料理屋のおにぎりも俺は好きだなぁ。コンビニおにぎりも嫌いじゃないけどさ、その料理屋のアレンジだったりこだわったお米だったりそういうのを味わうのが楽しいんだよね」
 このお店のおにぎりも絶品だよ。特に青菜としらすのおにぎり。と、1席空けて右隣に座っている30代ー40代のスーツ姿の男性が最後の一口のおにぎりを頬張りそれをビールで流し込みながら満足げに話しかけてくる。
「いざ、店に来ると何食べようってなっちゃって。食欲あるけど無い……って何かおかしな感じで」
「お兄さん少し疲れて見えるから、栄養満点のスープがおすすめかなとは思います。このおじさんの言う様にとりあえずスープとおにぎりにしてみますか?少しお腹を慣らしてさ、食べれそうなら単品で何か選んでくれたらいいですし」
「えっと、青菜としらすのおにぎりと……もう1つは鮭おにぎりで。あと食べれない物はないんでスープはおすすめのもので」
「承知いたしました。少々お待ちください」
 きゅ、と割烹着の紐を括り直す店主に天津はどきりとした。こんな可愛い子が毎日ご飯作ってくれたら最高なのにな、と邪な考えを篩い落とす様にまずは先に出されていた湯呑みのお茶をこくりと飲む。温かいほうじ茶なんていつぶりに飲んだだろうか。ほう、と吐き出すため息に普段飲んでいるコーヒーやペットボトルの緑茶とは違う穏やかな作用を感じた。
 スープは直ぐに出てきた。一人暮らしの家には無い重厚な焼き物の器に、細く刻まれた大根とふわふわの玉子とわかめ、そして真ん中には焼き目を付けた大きめの梅干しが添えられていた。
「大根は体を温めるし梅干しのクエン酸は疲労回復、それと……玉子スープは誰しも好きなスープですよね。どうぞ」
「いただきます。」
 両手を揃えてご飯を食べるなんていつぶりだろう、なんて思いながらまずはスープをひと口啜る。大根の辛味は一切感じられない優しい甘さが溶け出していた。思わずため息を溢す天津に店主も隣のサラリーマンも満足気に微笑んだ。
「梅干しをスープに入れた事ないですけど、合いますね」
 大根を頬張りながらそっと梅干しを箸で割いて口に放り込めば懐かしくも感じる酸っぱさが口に広がる。でも自然と嫌ではない事が天津の表情を見れば一目瞭然だった。 
「ふふ、梅干しはご飯の添え物だけではなくてスープにも和物にも焼き物にも、合っちゃうんですよね。」
 微笑みながら店主は先程天津の注文したおにぎりを2種類海苔を巻いて提供する。
「青菜も栄養価がたっぷりなんですよ。ビタミン・カルシウム・鉄・ミネラル。毎日頑張る為に必要な栄養素がぎゅって詰まっていますからね」
 天津がおにぎりを頬張ればパリ、と海苔が破ける音がした。普段なら食事の栄養価なんて2の次に考える以前に考えたこともなかったが不思議と店主の言葉には納得させられるものがあったし、自分に足りていなかったのはそういった栄養素なのかなとも思いつつ進める食事はとても新鮮だった。
「鮭も魚の油って体に良い、というのは聞きますよね?うちのおにぎりの鮭はハラスの部位を贅沢に使うので体にも良いし何より満足感もある!なんてお客さんに好評なんですよ」
 そう言われて頬張ったおにぎりは確かにおいしかった。程良く乗った塩と油分が米にも溶けだすようで当たり前だが普段食べている鮭おにぎりとは別物だった。普段の食事量から言えばスープとおにぎりなんて絶対的に足りていないのに不思議と腹8部は満たされていたし何より天津は心が満たされ体全体が軽くなった気さえした。
 名残り惜しい気持ちもありつつ最後の一口を食べ、淹れ直してもらったほうじ茶でこの店に入ってから何度目かの充実感を含むため息を零して少しだけ恥ずかしそうに顔を上げた。
「あの……俺って疲れて見えました?」
「疲れて見えたっていうか……お客さん位若い人ってネットでメニュー見たりして食べたい物を決めてきてるんですよね。でも、何となく人が作った料理食べたいと思ったとかそんなふんわりした理由の方もいるんですよ。今日のお兄さんみたいに。そういう方は無意識に自分に不足している物を分かっていて。折角きて下さったから普段食べない感じの料理で普段と違う栄養を摂取するお手伝いができたらな、なんて思っちゃうんです」
「店主ちゃんは、そういう事見抜いちゃうからおじさんきゅんってしちゃうんだよナ」
 右隣のサラリーマンはもう1杯、とビールを頼んでいて天津にとってもそれは魅力的だったが、体が温まったせいかお風呂後にそのままぐっすりと寝てしまうような、そんなリラックスした気分を壊したくは無かったので店主に声をかけて会計を済ませた。また来てくださいね。と微笑む店主とカウンターを挟んでサラリーマンが此方に手を振るので天津は軽く会釈をして店を出る。


 外に出ると先程まで降っていた雨は止んでいたが少しだけ空気はひんやりとしていて行き交う人達は少し寒そうにも見えたが天津の暖まった体にはそれもまた心地がよかった。
 あと2日、頑張るかぁと自然に漏れた自分の声に小さく笑いながら天津は両手を上に上げてぐっと体を伸ばす。少し疲れた気分があの店の料理と雰囲気を味わう事で晴れた気がした。


「また行ってもいいかな。次は定食食べてみたいし」
 独り言を呟く天津が次にこのお店を訪れるのは1週間が経った来週の水曜日。今日と違って蒸し暑い日の疲れた体にぴったりだとおすすめされた生姜焼き定食を注文し、可愛いと思っていた女の子の店主が実は可愛い男の子だったという展開、それをまた居合わせた客に知らなかった?と揶揄される。そんな続きはまた別のお話で。