結局その日も、次の日も、また次の日も柳井くんと話すことはなかった。
きっとまた今日も...と思って、カレンダーをみる。
今日は、もう金曜日。話さなかったら、明日、明後日と学校は休みだ。
でも、それでいいの?また、聞こえる。
『彼には時間が無いから。はやく気づいて』
あれから一度も“私”とは会ってない。夜明けに少し声が聞こえるぐらいで、前よりぐっすり眠れるようになった。
あの時の夢はきっと、ただの悪い夢だったんだと思ったぐらいだ。
今日も柳井くんは隣にいるだろうか。今日は、少し柳井くんをよく見てみよう。
そしたら、何かに気づけるのかもしれない。
───この時の私は、まだ何も分からなすぎた。
ただただ、廊下の床を見つめている。
教室の中に柳井くんがいるかだけが気にかかって、前を向くのも何故か怖い。
校門をすぎても、昇降口で上履きに履き替えても、周りを見た時に柳井くんがいないだけで、ちょっぴり胸が痛んだ。
別に、そこにいるのが当たり前でもないのに、もしも今日、会うことが出来なかったら、と思うと不安だった。
教室の戸が見えてくる。私は、心を決めて戸に手を掛けて横に引いた。
私の席の隣。空席だったはずの席に座って遠くを見つめる彼が...いない。
息が止まった気がした。胸が張り裂けそうになって、踵を返す。
教室に行くべきだ。けど。けど...柳井くんがいない。ただの遅刻かもしれない。休みではないと信じたい。
気づいたら小さな水滴が頬を伝ってポロポロと手のひらに落ちた。
何やってるんだろう、私。
何をしてたんだろう、私。
馬鹿だなぁって、どうしてって。
そうして、一人突っ立っていた時だった。
そっと、あの嫌いな匂いが鼻をかすめた気がした。
きっと“私”がいる。
夜明けの、あの匂いがする。私は上履きのまま学校を飛び出した。
夜明けの匂い。きっとそれは“私”の匂いだ。
「待って、“私”」
ひたすらに走って“私”を追った。道も分からない。
けれど、追いかけなければいけないと分かった。
だんだん匂いが強くなる。
こっちだ、と心が叫ぶ。
足がもつれそうになっても、私は構わず走った。
そして...より一層、匂いが強くなったとき、私は顔をあげた。
そして、全部分かってしまった。私の前に立てられた大きな白い建物。それは病院だった。
「あぁ、そうか」
“私”はもう、全部知ってたんだ。
“私”は私に全部、教えようとしてたんだ。
涙がボロボロと溢れてきた。私はすべて分かってしまった。
この病院の7階フロア、143号室は彼の病室だった。
私の足は、自然とそこに向かう。
もう何十回も通った場所。
エレベーターに乗って7階まで。部屋は、ナースセンターから見て、右斜め前。
少し重い扉を、横に開けばそこに...
君がいた。
白いベットに、前より痩せた君が。
出会った時より青白くなった顔の君が。
静かに呼吸をして、腕に点滴を繋げて眠っていた。
「やっとまた、全部思い出したよ。幸希くん」
静かに眠る彼。幸希くんは、私の初恋の人であり、彼氏“だった”。
中学校二年生の夏。私は、彼に一目惚れした。彼は、二年生で同じクラスになり生徒会にも一緒のタイミングで入った。彼は、美少年でありながら、成績も優秀。それでも、態度が大きいなんてことは無く、やんちゃで明るいところに惹かれていった。
そして、私は体育祭で彼に告白した。
体育祭を終えたあと、私は体育館裏に柳井くんを呼び出した。体育祭終わりのせいなのか体がいつもよりあつい。
私は、彼の目を見て正直に言った。
「柳井くんが、好きです」
「え、マジで?俺も好きだよ」
聞き間違いかと思った。けど、ちゃんと聞いた。
私は胸がいっぱいになった。
嬉しすぎて泣きそうで、私は思わず、柳井くんの胸に飛び込んだ。
「ありがとう!」
見上げた柳井くんの顔は、あついからかちょっぴり火照って見えた。
─────けれど、幸せはそう長くは続かない。
春休みの前、私は彼にいつかのように体育館裏に呼び出された。
「どうしたの?幸希くん」
夕方の日光をさえぎって、体育館裏は少し薄暗かった。
彼は切なげに顔を歪ませて言った。
「ごめん、俺達別れよう」
「え?」
私はびっくりして、3秒くらい意味を理解できなかった。彼は唇を一直線にむすんで俯いている。
「なんで?私なんかした?」
「いや、そうじゃない」
「じゃあ何で...」
幸希くんが顔を上げた。私は口にしかけた言葉を飲み込んだ。幸希くんは、私の知らない顔をしていた。
少し安心したような、苦しそうな顔で去っていった。
私は、その場に一人残されたまま、しばらく立ちすくんでいた。
そして、春休みのとある日。私は、友達からこんな連絡を受けた。
『柳井くん、うちらの中学校に転校してきた、ちょっと前頃から病気だったんだって。医者から余命二年半って言われてたらしくて...』
私は、そこで振られた理由を悟った。
幸希くんは優しいからきっと。
自分がいなくなって、周りを悲しませるのが嫌だったから、私に別れようと言ったんだ。
私のために...きっと辛いはずなのに。
次の日から、幸希くんは学校に来なくなった。
私は、先生にひっついて、病院の場所を聞き出した。先生も、個人情報だからと言って、なかなか教えてくれなかったけれど、私の粘り強さに根負けしたようで、病院の場所を教えてくれた。
私は、先生に教えてもらった病院に、家にも帰らず直行した。
廊下を歩いていた看護婦さんに幸希くんの病室を尋ねて、面会の許可を得た。
私は病室の戸を開け、彼がいるであろうベットの元に寄った。
「幸希くん?」
真っ白なベッドの上に彼はいた。
彼はベッドに寝っ転がったまま、私を見て驚いた様子だった。
「志帆?何でここにいるの?」
私はその声を聞いた瞬間、安心して涙が溢れてきた。
彼の体には、点滴や、私には分からない難しそうな機器が付いていたけれど、声も顔もすべて幸希くんのままで、当たり前だけれど安心した。
彼は、私の状況を悟ったのか、少し諦めたようにゆっくりと話し始めた。
「もう、志帆にまで伝わっちゃったか。ほんとうは、知らないで欲しかったんだけどね。こんな俺の姿、志帆に見せたくなかったけど、ちゃんと話した方がいいかな」
私はこくりと頷いて、ぽつぽつと話し始めた彼の話に耳を傾けた。
幸希くんは元々、完治させるのが難しい病気を患っていた。
それでも、様々な対処を施してきたおかげで病気は、ほとんど進行することもなく、健康な日々を送っていたという。
けれど、中学校に入ったタイミングで、持病が悪化し始めてしまったらしい。
小学校までは良かったものの、中学校の慣れない生活に大きな疲労を感じてしまったのが引き金になってしまったのだろうと言われ、「もってあと、二年半だろう」と医者に告げられた。
いきなりのことで、余命なんて言われても実感がわかなかったらしかったが、せめて充実した二年半にしようと、無理ない程度で、転校先でも、勉強や委員会に取り組んでいた。
「そんな時に、志帆に会ってさ。一目惚れだったんだ」
うるんだ瞳で彼は続ける。
「努力家で、一生懸命で頑張り屋な志帆が大好きになって。あぁ、この子と付き合えたら、どんなにいいだろうって。でも、俺は死んじゃうし、ダメダメだし、無理だよなって思ってたんだ。
そしたら、君が言ってくれたんだ。好きですって...俺、めちゃくちゃ嬉しくてさ。正直に、俺も好きだって言っちゃって。でも、それって間違ってたんじゃないかってさ...」
彼の懸命に話す姿を見ながら、私は泣き崩れた。
「間違いじゃないよ。私、すっごく嬉しかったもん。病気の事を言ってくれなかったのは悲しかったけど、私はどんな幸希くんでも大好きだから。」
私は、彼の手を握りしめた。ごめんねとありがとうが混ざって、気持ちがぐちゃぐちゃになってる。
彼も微笑んで、手を握り返してくれた。
その日の夜から、彼は病気で眠り続けるようになった。
すべてを思い出した私は、その場に泣き崩れた。私は、“また”彼の事を忘れていたのだ。
そして、いつ目を覚ますか分からない彼に、何をしても、何も届かないかもしれない彼に、手紙を残すことにした。
本当は、この手紙を書く意味も無いかもしれないけれど。
時間がない。それだけは分かっているから。
『幸希くんへ
実は私も、幸希くんに話していなかったことがありました。
私が最近、お見舞いに来ないのは幸希くんを嫌いになったわけでも、あきれたわけでもありません。今でも幸希くんが大好きです。
でも、私がお見舞いに行けないのは、私の病気のせいです。
私は、“消失性夢中記憶欠損症”と言って、大きなショックを受けた時、稀に発症する病気です。
“消失性夢中記憶欠損症”とは、自分にとって大きなもの、大切なものを失ったことで、その記憶を無くし、夢の中でしかその本当の記憶を思い出せないという病気です。
きっと、現実世界の私は、君のいた日々という大切なものを失って、この病気を発症してしまったのでしょう。
きっと、私は毎回、同じ夢に初めて出会っているんだと思います。
そして、幸希くんという存在と夢の中で初めて出会って、抜け落ちてしまった記憶を取り戻しています。
私は今、夢の中で幸希くんに手紙を書いています。
もしかしたら、この手紙も届かないかもしれないけれど。
現実世界の幸希くんは、もう目を覚まさないかも知れないけど。もし、私と同じように夢を見ているのであれば、この手紙が幸希くんの夢の中の世界に届くことを祈っています。志帆より』
手紙を書き終えて、私は彼の顔を見つめる。
いつまでも変わらない、大好きな彼がそこにいる。
「幸希くん。私が、ここでなんと言おうと、君にはちゃんと届かないのかもしれないけど、私はいつまでも大好きをここで伝え続けるよ」
きっと、明日も。その後もずっと、私は夢の中で。初めて会ったかのように、彼を思い出していくんだろう。現実には持っていけない、この大切なものを、私はここで永遠に繋いでいくんだ。
そろそろ現実の私が。この記憶を無くしてしまった私が朝を迎える。
視界が真っ白に染まってゆく。
私は、消えゆく記憶に涙をのこして...
そこで意識を手放した。
きっとまた今日も...と思って、カレンダーをみる。
今日は、もう金曜日。話さなかったら、明日、明後日と学校は休みだ。
でも、それでいいの?また、聞こえる。
『彼には時間が無いから。はやく気づいて』
あれから一度も“私”とは会ってない。夜明けに少し声が聞こえるぐらいで、前よりぐっすり眠れるようになった。
あの時の夢はきっと、ただの悪い夢だったんだと思ったぐらいだ。
今日も柳井くんは隣にいるだろうか。今日は、少し柳井くんをよく見てみよう。
そしたら、何かに気づけるのかもしれない。
───この時の私は、まだ何も分からなすぎた。
ただただ、廊下の床を見つめている。
教室の中に柳井くんがいるかだけが気にかかって、前を向くのも何故か怖い。
校門をすぎても、昇降口で上履きに履き替えても、周りを見た時に柳井くんがいないだけで、ちょっぴり胸が痛んだ。
別に、そこにいるのが当たり前でもないのに、もしも今日、会うことが出来なかったら、と思うと不安だった。
教室の戸が見えてくる。私は、心を決めて戸に手を掛けて横に引いた。
私の席の隣。空席だったはずの席に座って遠くを見つめる彼が...いない。
息が止まった気がした。胸が張り裂けそうになって、踵を返す。
教室に行くべきだ。けど。けど...柳井くんがいない。ただの遅刻かもしれない。休みではないと信じたい。
気づいたら小さな水滴が頬を伝ってポロポロと手のひらに落ちた。
何やってるんだろう、私。
何をしてたんだろう、私。
馬鹿だなぁって、どうしてって。
そうして、一人突っ立っていた時だった。
そっと、あの嫌いな匂いが鼻をかすめた気がした。
きっと“私”がいる。
夜明けの、あの匂いがする。私は上履きのまま学校を飛び出した。
夜明けの匂い。きっとそれは“私”の匂いだ。
「待って、“私”」
ひたすらに走って“私”を追った。道も分からない。
けれど、追いかけなければいけないと分かった。
だんだん匂いが強くなる。
こっちだ、と心が叫ぶ。
足がもつれそうになっても、私は構わず走った。
そして...より一層、匂いが強くなったとき、私は顔をあげた。
そして、全部分かってしまった。私の前に立てられた大きな白い建物。それは病院だった。
「あぁ、そうか」
“私”はもう、全部知ってたんだ。
“私”は私に全部、教えようとしてたんだ。
涙がボロボロと溢れてきた。私はすべて分かってしまった。
この病院の7階フロア、143号室は彼の病室だった。
私の足は、自然とそこに向かう。
もう何十回も通った場所。
エレベーターに乗って7階まで。部屋は、ナースセンターから見て、右斜め前。
少し重い扉を、横に開けばそこに...
君がいた。
白いベットに、前より痩せた君が。
出会った時より青白くなった顔の君が。
静かに呼吸をして、腕に点滴を繋げて眠っていた。
「やっとまた、全部思い出したよ。幸希くん」
静かに眠る彼。幸希くんは、私の初恋の人であり、彼氏“だった”。
中学校二年生の夏。私は、彼に一目惚れした。彼は、二年生で同じクラスになり生徒会にも一緒のタイミングで入った。彼は、美少年でありながら、成績も優秀。それでも、態度が大きいなんてことは無く、やんちゃで明るいところに惹かれていった。
そして、私は体育祭で彼に告白した。
体育祭を終えたあと、私は体育館裏に柳井くんを呼び出した。体育祭終わりのせいなのか体がいつもよりあつい。
私は、彼の目を見て正直に言った。
「柳井くんが、好きです」
「え、マジで?俺も好きだよ」
聞き間違いかと思った。けど、ちゃんと聞いた。
私は胸がいっぱいになった。
嬉しすぎて泣きそうで、私は思わず、柳井くんの胸に飛び込んだ。
「ありがとう!」
見上げた柳井くんの顔は、あついからかちょっぴり火照って見えた。
─────けれど、幸せはそう長くは続かない。
春休みの前、私は彼にいつかのように体育館裏に呼び出された。
「どうしたの?幸希くん」
夕方の日光をさえぎって、体育館裏は少し薄暗かった。
彼は切なげに顔を歪ませて言った。
「ごめん、俺達別れよう」
「え?」
私はびっくりして、3秒くらい意味を理解できなかった。彼は唇を一直線にむすんで俯いている。
「なんで?私なんかした?」
「いや、そうじゃない」
「じゃあ何で...」
幸希くんが顔を上げた。私は口にしかけた言葉を飲み込んだ。幸希くんは、私の知らない顔をしていた。
少し安心したような、苦しそうな顔で去っていった。
私は、その場に一人残されたまま、しばらく立ちすくんでいた。
そして、春休みのとある日。私は、友達からこんな連絡を受けた。
『柳井くん、うちらの中学校に転校してきた、ちょっと前頃から病気だったんだって。医者から余命二年半って言われてたらしくて...』
私は、そこで振られた理由を悟った。
幸希くんは優しいからきっと。
自分がいなくなって、周りを悲しませるのが嫌だったから、私に別れようと言ったんだ。
私のために...きっと辛いはずなのに。
次の日から、幸希くんは学校に来なくなった。
私は、先生にひっついて、病院の場所を聞き出した。先生も、個人情報だからと言って、なかなか教えてくれなかったけれど、私の粘り強さに根負けしたようで、病院の場所を教えてくれた。
私は、先生に教えてもらった病院に、家にも帰らず直行した。
廊下を歩いていた看護婦さんに幸希くんの病室を尋ねて、面会の許可を得た。
私は病室の戸を開け、彼がいるであろうベットの元に寄った。
「幸希くん?」
真っ白なベッドの上に彼はいた。
彼はベッドに寝っ転がったまま、私を見て驚いた様子だった。
「志帆?何でここにいるの?」
私はその声を聞いた瞬間、安心して涙が溢れてきた。
彼の体には、点滴や、私には分からない難しそうな機器が付いていたけれど、声も顔もすべて幸希くんのままで、当たり前だけれど安心した。
彼は、私の状況を悟ったのか、少し諦めたようにゆっくりと話し始めた。
「もう、志帆にまで伝わっちゃったか。ほんとうは、知らないで欲しかったんだけどね。こんな俺の姿、志帆に見せたくなかったけど、ちゃんと話した方がいいかな」
私はこくりと頷いて、ぽつぽつと話し始めた彼の話に耳を傾けた。
幸希くんは元々、完治させるのが難しい病気を患っていた。
それでも、様々な対処を施してきたおかげで病気は、ほとんど進行することもなく、健康な日々を送っていたという。
けれど、中学校に入ったタイミングで、持病が悪化し始めてしまったらしい。
小学校までは良かったものの、中学校の慣れない生活に大きな疲労を感じてしまったのが引き金になってしまったのだろうと言われ、「もってあと、二年半だろう」と医者に告げられた。
いきなりのことで、余命なんて言われても実感がわかなかったらしかったが、せめて充実した二年半にしようと、無理ない程度で、転校先でも、勉強や委員会に取り組んでいた。
「そんな時に、志帆に会ってさ。一目惚れだったんだ」
うるんだ瞳で彼は続ける。
「努力家で、一生懸命で頑張り屋な志帆が大好きになって。あぁ、この子と付き合えたら、どんなにいいだろうって。でも、俺は死んじゃうし、ダメダメだし、無理だよなって思ってたんだ。
そしたら、君が言ってくれたんだ。好きですって...俺、めちゃくちゃ嬉しくてさ。正直に、俺も好きだって言っちゃって。でも、それって間違ってたんじゃないかってさ...」
彼の懸命に話す姿を見ながら、私は泣き崩れた。
「間違いじゃないよ。私、すっごく嬉しかったもん。病気の事を言ってくれなかったのは悲しかったけど、私はどんな幸希くんでも大好きだから。」
私は、彼の手を握りしめた。ごめんねとありがとうが混ざって、気持ちがぐちゃぐちゃになってる。
彼も微笑んで、手を握り返してくれた。
その日の夜から、彼は病気で眠り続けるようになった。
すべてを思い出した私は、その場に泣き崩れた。私は、“また”彼の事を忘れていたのだ。
そして、いつ目を覚ますか分からない彼に、何をしても、何も届かないかもしれない彼に、手紙を残すことにした。
本当は、この手紙を書く意味も無いかもしれないけれど。
時間がない。それだけは分かっているから。
『幸希くんへ
実は私も、幸希くんに話していなかったことがありました。
私が最近、お見舞いに来ないのは幸希くんを嫌いになったわけでも、あきれたわけでもありません。今でも幸希くんが大好きです。
でも、私がお見舞いに行けないのは、私の病気のせいです。
私は、“消失性夢中記憶欠損症”と言って、大きなショックを受けた時、稀に発症する病気です。
“消失性夢中記憶欠損症”とは、自分にとって大きなもの、大切なものを失ったことで、その記憶を無くし、夢の中でしかその本当の記憶を思い出せないという病気です。
きっと、現実世界の私は、君のいた日々という大切なものを失って、この病気を発症してしまったのでしょう。
きっと、私は毎回、同じ夢に初めて出会っているんだと思います。
そして、幸希くんという存在と夢の中で初めて出会って、抜け落ちてしまった記憶を取り戻しています。
私は今、夢の中で幸希くんに手紙を書いています。
もしかしたら、この手紙も届かないかもしれないけれど。
現実世界の幸希くんは、もう目を覚まさないかも知れないけど。もし、私と同じように夢を見ているのであれば、この手紙が幸希くんの夢の中の世界に届くことを祈っています。志帆より』
手紙を書き終えて、私は彼の顔を見つめる。
いつまでも変わらない、大好きな彼がそこにいる。
「幸希くん。私が、ここでなんと言おうと、君にはちゃんと届かないのかもしれないけど、私はいつまでも大好きをここで伝え続けるよ」
きっと、明日も。その後もずっと、私は夢の中で。初めて会ったかのように、彼を思い出していくんだろう。現実には持っていけない、この大切なものを、私はここで永遠に繋いでいくんだ。
そろそろ現実の私が。この記憶を無くしてしまった私が朝を迎える。
視界が真っ白に染まってゆく。
私は、消えゆく記憶に涙をのこして...
そこで意識を手放した。